北國で、駆けて   作:久保田

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変更のお断り
 茂弘の留学は9月段階ではまだしていないことにしました。
 一ヶ月で留学するのは現実味がないからです。


別れ、そして旅立ち

 夜明け前、空はまだ蒼い絹のように薄く、風が空をなでていた。

 

 放牧地の草原には朝露が降りていた。葉の一枚一枚に小さな玉のような雫が宿り、太陽のかけらのようにきらめいている。牧柵の柱にも、冷えた夜を乗り越えたしずくが一滴、ぽとりと落ちた。

 

 夜のあいだ、月色の若駒はほとんど眠らなかった。

 

 だが今、東の山際に光が差し、薄紅の雲がたなびくころ、狼星はゆっくりと動き出した。

 

 足元に広がる青草はまだ濡れており、噛めばしっとりとした味が広がる。

 

 だが、狼星はそれを避けることなく、まっすぐ群れの中央へ向かって歩いていく。

 

 保母馬カンナは、すでに他の仔馬を守るように立っており、星雲たちも落ち着きを取り戻していた。

 

 狼星は、そこに加わった。

 

 初めて、自分から。

 

 誰にも促されずに、誰にも導かれずに。

 

 青草に首を下ろし、一口かみしめた。

 

 それは、単なる食事ではない。この土地に、自らの足で立つという決意だった。

 

 そのとき。

 

 ふと、放牧地の東側――はるか向こうの牧柵の外、朝靄の向こうに、一頭の栗毛の牝馬の姿が見えた。

 

 菊友である。

 

 昨日、柵の向こうへと連れ出された、狼星の母。

 

 彼女は遠い放牧地で、他の牝馬とともに草を食んでいた。

 

 特にこちらに気づく様子もなく、ただ静かに朝の光を浴びている。

 

 その立ち姿は、かつての優しさそのままに、気高さすら感じさせた。

 

 狼星の足が、止まった。

 

 彼は、顔を上げ、じっと母の方角を見つめる。

 

 次の瞬間、吸い寄せられるように、柵のそばへと歩いていく。

 

 露に濡れた草を踏みながら、まっすぐに――まるで、なにかを確かめるかのように。

 

 そして、柵に鼻面を寄せた。

 

 そこから先には行けないと知っていても、彼はそれ以上の言葉を求めていた。

 

 菊友は、遠い。声も届かぬほどに。

 

 それでも、狼星は一度、鼻を鳴らした。

 

 音はかすかで、風にすぐ攫われていった。

 

 そして、返事はなかった。

 

 だが、それでよかった。

 

 狼星は静かにその場を離れ、再び青草のなかへ戻った。

 

 もう、柵の外ばかりを見つめはしない。

 

 青草の中へ、群れの中へ――そして、彼自身の未来の中へ。

 

 少し離れて見守っていた小泉が、腕を組んだままぽつりとつぶやく。

 

「……あいつ、行ったな」

 

「どこにですか」田口が訊く。

 

 

 

「向こう側だよ」

 

「母ちゃんじゃなく、自分の居場所へさ。……立派だ、あれは」

 

 陽はすでに高くなり、放牧地は金色の光で満たされていた。

 

 草はまたゆれ、露は消え、駒たちの姿が朝の空に染まっていく。

 

 その中心にいるのは、狼星。

 

 まだ小さな身体だが、その背には、母に別れを告げた若駒だけが持つ、まっすぐな重さがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 山間を包むような緩やかな空気が、夏の終わりの陽にゆるんでいた。

 

 葉山牧場の放牧地――その一角に、金色の草を噛む若駒たちの影が揺れている。

 

 車のドアが静かに閉まる音がした。

 

 遠くから一人の青年が、砂利道を踏みしめてやってくる。背筋の伸びた、その姿。

 

 茂弘だった。

 

 北海道へ旅立った彼が、目的を終えてで葛巻に帰ってきたのは、まるで風のいたずらのようだった。

 

 父・泰造が港からの車中で話していた言葉――「狼星、離乳済んだぞ」という一言が、今も胸に残っていた。

 

 まだ早朝の冷気が残る空気のなか、茂弘は放牧地の柵に近づく。

 

 いつものように、深く息を吸った。

 

 牛舎の方から干草の匂いが流れてくる。

 

 空はどこまでも高く、白い雲がゆっくりと北へと流れていた。

 

 ふと、視線の先に、それはいた。

 

 青草のなか、若駒たちの中心で、ひときわ静かに草を噛む月色の馬体。

 

 ――狼星だ。

 

 母・菊友の面影をそのままに残しながらも、背中の線は伸び、目の奥には今までになかった重さが宿っていた。

 

 茂弘はしばらく、言葉もなく、ただその姿を見つめていた。

 

 放牧地の柵越しに風が吹き、薄く湿った土の匂いが立ちのぼる。

 

 そのとき、狼星がゆっくりと顔を上げた。

 

 一瞬、ためらうような素振りを見せたあと、

 

 彼はまっすぐに、柵のほうへと歩いてきた。

 

 他の仔馬が振り返る中で、ただ一頭、まっすぐ。

 

 迷いのない、静かな歩みで。

 

 そして――柵のすぐそばで立ち止まり、茂弘の前にその長い顔を寄せた。

 

 茂弘は、そっと、ポケットから細く束ねた青草を取り出した。

 

 無言のまま、鼻先へ差し出す。

 

 狼星はそれを、まるでいつもそうしていたかのように、やさしく受け取った。

 

 その瞬間だった。

 

 狼星がぐい、と顔を寄せ、茂弘の胸にそっと鼻面を押し当てた。

 

 言葉ではなかった。

 

 声でもなかった。

 

 ただそこにあったのは、かすかなぬくもりと、ひとつの約束。

 

 ――もう、大丈夫だよ。

 

 ――ここが、俺の場所なんだ。

 

 茂弘は、何も言えなかった。

 

 ただ、掌を広げ、狼星の額を撫でた。

 

 月の毛並みはやわらかく、まるで春先の雪を思わせる手触りだった。

 

 遠く、菊友がいる放牧地がかすかに見えた。

 

 もう、狼星はそちらを振り返ることはなかった。

 

 彼の目は、前を向いていた。

 

 仲間の中にいることを、選び取っていた。

 

 風がまた吹いた。

 

 木々の葉が擦れ、牛舎の向こうで一頭の牛が低く鳴いた。

 

 空は、昔と何も変わらない、葛巻の空。

 

 丘は、緑と金を混ぜた色で揺れ、ふるさとの匂いに包まれていた。

 

 茂弘はふと、自分もまた帰る場所を持っていることに、静かに気づいた。

 

 ――あの馬がここにいる。

 

 それだけで、心がまっすぐになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 岩手・葛巻の夏は、昼でもどこか翳りを含んでいる。山々の重なりは青とも緑ともつかず、あたりに漂うのは、乾いた干し草と牛舎のぬくもりの匂い。風が吹けば、裏山のくぬぎ林がざわりと鳴き、遠くに続く馬の嘶きが、深い谷を渡って帰ってくる。

 

 葉山牧場は、まるで大きな掌のような土地にひらいている。牛がのそりと立ち、仔馬が牧柵越しに首を伸ばす。馬屋の奥では、離乳を控える若駒たちが、不安げに干草を踏みしめていた。土間のあちこちに撒かれた水が、熱を抑えるように煙を立てていた。

 

 その朝、茂弘は牧草の束を運んでいた。肩に背負った藁縄の感触と、背筋に落ちる汗が、夏の真ん中を告げていた。

 

「茂弘、電話だってよ。学校の先生だってさ」

 

 牛舎から出てきた母の声が、逆光の中に揺れた。額に手をかざして見上げると、母は麦わら帽子のつばを押さえていた。息を切らしながら、茂弘は脚絆を脱いで、納屋裏の黒電話のもとへ向かう。

 

 受話器を取ると、乾いたパチパチという雑音の向こうに、やわらかい声があった。

 

「もしもし、滝本です。葛巻中学校の……あの、覚えていますか?」

 

 その声は、風の音と溶け合うようだった。耳に触れた瞬間、ふっと教室の匂いがよみがえる。薄墨色の木の机、窓からの光、そして国語の時間に朗読された詩の響き。

 

「もちろんです。先生……どうされたんですか?」

 

「実は、お願いがありまして。今度の終戦記念日を挟んで、生徒向けに卒業生講話を予定しているんです。……高校に行かない子たちも多くて。未来が見えづらい子に、話してやってもらえませんか? あなただから、響くと思うんです」

 

 茂弘は、ほんの少し黙った。自分が人前で語るなど、考えたこともなかった。しかし、滝本の声は、遠くの木立を吹き抜ける風のように、決して押しつけがましくはなかった。

 

「俺で、いいんでしょうか」

 

「ええ。……君には、言葉がある。言葉に耳を澄ませる力がある。そういう人は、少ないんです」

 

 言葉。それは、この小さな牧場にはほとんど存在しない、見えない光の粒のようなものだった。

 

 電話を切ると、遠くの山の向こうから、汽車の汽笛が聴こえた。かつて毎日通学に使っていた、八戸行きの朝の列車。あの音の向こうに、いくつの知らない町があるのだろうか。

 

 牛舎の裏に戻ると、父の声がした。

 

「どうした? 学校からなんて」

 

「先生が、話をしてくれって。後輩たちに」

 

 泰造は一瞬、口の端を上げた。馬を見つめたまま、小さくうなずく。

 

「……お前があそこで何を話すにしてもな、それは馬と同じだ。自分の脚で立ったものしか、伝わらねぇ」

 

 その日、陽が傾く頃、牧場に金色の風が吹いた。遠く、夕暮れの雲がゆっくりと流れ、馬のたてがみが陽に透ける。

 

 あの詩を聞いたとき、故郷はどこか遠いものだと思っていた。しかし今は違う。今、目の前の丘が、馬が、空が、まぎれもなくそのふるさとだった。

 

 夕焼けの中、牧柵の向こうで狼星がひとつ、たてがみを風になびかせていた。茂弘と同じように、あの仔馬もまた、どこかを目指して立っているのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 八月の陽が、ようやく優しくなりはじめたころだった。木々の葉は色濃く茂り、蝉の声はやや細くなり、夏の終わりを告げる合図が町を包んでいた。

 

 茂弘は葛巻中学校の坂道をゆっくりと上っていた。かつて毎朝通った坂道。今は草がやや伸び、夏の風があぜ道を揺らしている。足元に咲いた白い花を一つ一つ踏まぬように歩くその姿は、どこか懐かしい記憶のなかの自分をたどっているようだった。

 

 木造校舎の玄関には、薄く陽焼けした「ようこそ 卒業生講話へ」という手書きの紙が貼られていた。ガラス戸を開けると、靴箱のにおいと、湿り気を含んだ木の匂いが鼻をついた。昔と何も変わっていない。変わったのは、自分の背丈と、胸の奥に積もった時間だけだった。

 

 職員室に向かうと、開け放たれた窓から風が抜け、風鈴の音が遠くかすかに鳴っていた。

 

「いらっしゃい、茂弘くん」

 

 振り向くと、そこに滝本先生が立っていた。

 

 ――亜麻色のおさげ髪。

 ――枯草色の薄手のカーディガン。

 ――日焼けしたノートを小脇に抱え、まるで誰かの詩を守るように歩いてくる。

 

 その姿は、中学生の頃とほとんど変わっていなかった。教科書の行間に宿るような静けさを、今もそのまま纏っていた。

 

「どうぞ、こっちへ。久しぶりに、旧図書室に行きましょう」

 

 二人は廊下を歩いた。床板の鳴る音、窓から入る青い光、そして、遠くの教室から漏れる子どもたちの笑い声――どれもが「帰ってきた」と告げていた。

 

 旧図書室は、今はほとんど使われていない。木棚には古い文学全集がずらりと並び、埃の香りと紙の香りが空間を埋めていた。窓辺に机を一つ、滝本先生が案内する。

 

「ここ、覚えていますか? あなたが『高瀬舟』を読みながら泣いていた場所」

 

 茂弘は、思わず笑った。あのとき、登場人物の沈黙が胸にしみて、言葉にならない思いを紙に書きつけた日のことを思い出す。

 

「八戸高校の生活、どうですか?」

 

 先生の問いに、茂弘は机に肘をついて、少し首をかしげた。

 

「面白いですよ。教科書も参考書も、山のようにあって……。どれも読みたくなる。でも……」

 

 ふと、窓の外を見やった。

 

 青く茂った草の向こうに、知らない町が広がっているような気がした。

 

「最近、読む本がなくなってきた気がするんです。……というか、どれを読んでも、心の奥がふるえないんです。前は、本をめくるたびに誰かがいた気がするんですけど」

 

 滝本先生は、静かにうなずいた。

 

「それはきっと、あなたの目が変わったからね。本の中にいる人じゃなくて、自分が、誰かになろうとしている」

 

 棚の隙間から差し込む陽が、古い文庫の背を照らしていた。

 

「私も、そんなふうに思った時期があったわ。大学の頃……ある先生に出会ったの」

 

 とつとつと語るその声は、遠い過去から届いた手紙のようだった。

 

「その人は、詩の言葉に居場所を見つけた人だった。いつも静かで、でも火種を隠し持っているような眼差しで……私はその人に出会って、初めて世界の広さを知った気がしたの」

 

 茂弘は、ことばを飲み込むように聞いていた。

 

「その先生、今もアメリカの東部にいるの。ちょっと古い学校だけど、文献が豊富で……何より、学問の森が広い。君のような人間にこそ、ふさわしい環境があると思うの」

 

「アメリカ、ですか……?」

 

 その言葉を口にしたとき、自分の声が少し震えていることに気づいた。

 

 八戸が初めての都会で、盛岡すら行ったことがないのに。

 

 けれどその一方で、どこか胸の奥で、長いあいだ眠っていた何かが、そっと身を起こすのを感じていた。

 

「……俺、どうしても遠くに行きたかったわけじゃないと思います。でも……」

 

 茂弘は、机の端に置かれた古い万年筆を見つめた。

 

「ここじゃないどこかに、言葉が続いてる気がするんです」

 

 先生は微笑んだ。それは、生徒の言葉を“肯定”する微笑みだった。

 

「君が、あの馬たちに囲まれて育ったのと同じように、どこで学ぶかは、とても大切。葛巻で育ったことも、誇るべき根っこ。だけど、もっと広い風を感じていいと思うんです」

 

 沈黙が流れた。けれどそれは重苦しいものではなかった。

 

 言葉が降るのを待つ、静かな風のような間だった。

 

「……父にも、話してみます。海部さんにも」

 

「はい。焦らなくていい。これは“きっかけ”の話。……どんな木も、風がなければ、空を目指そうとはしないから」

 

 その瞬間、どこかで蝉が声を上げた。旧図書室の風景が、淡い絵のようににじんだ。

 

 滝本先生は、古びたノートの一枚を破り、何かをさらさらと書いた。

 

「これが、その学校の名前。もしも本気になったら、手紙を書いてあげる」

 

 その紙片を受け取りながら、茂弘は、まるでそれが一枚の切符であるかのように、大切にポケットへ入れた。

 

 木の匂いが、ひときわ深くなる。

 

 かつての自分が息をひそめていた教室で、茂弘はまた、次の旅の扉を見つけようとしていた。

 

 

 

 

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