北國で、駆けて   作:久保田

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広がる帷と

 夜の帳が牧場に静かに降りるころ、牛舎のあたりにぼうっと灯がともった。冷えはじめた風が、乾いた草と土の匂いを運び、遠くで蹄の音が短く響いて消えた。

 

 茂弘は、灯りの届かぬ部屋の隅で一冊の分厚い本をめくっていた。滝本先生から手渡された、留学という名の、まだ掴みきれぬ未来のかたち。表紙には、英語で『Voices from Abroad』と刻まれていたが、それが何を語っているのか、すぐには読めなかった。

 

 静かに頁を繰りながらも、目はときおり窓の向こうの闇へ向いた。ふと立ち上がると、机の引き出しから封筒と便箋を取り出した。

 

 海部への手紙。それは、自分の中の迷いを、ようやく言葉に変える作業だった。

 

「海部さんへ。

 突然ですが、相談したいことがあります。私の恩師から、アメリカを考えてみないかと言われました。……僕にとっては、それはあまりにも遠く、大きすぎる話です」

 

「でも、正直に言うと、知りたいことが尽きかけています。高校の教科書も、図書館の本も、読み切ってしまったような気がしています。自分でも欲張りすぎだと思うけれど……でも、まだ何かがあるような気がしてならないのです」

 

 その夜、茂弘は手紙を封じたあと、しばらく机に頬杖をついて月を眺めていた。草いきれと、夜の底から湧いてくる虫の声が、迷いをかすかに撫でていた。

 

 

 三日後。郵便受けに、海部からの封筒が届いた。封を切る指先が震える。

 

 便箋には、変わらぬ丁寧な筆致で、こんな言葉が並んでいた。

 

「君のように、知ることに貪欲な心を持つ者が、外の世界を恐れる必要はない。

 世界は、いつだって知らないからこそ豊かなんだ。

 君の学びに、限界などというものはない」

 

 そして、続く一節が、茂弘の心に深く染み入った。

 

「草の根を見て育った者こそ、空の広さを知る権利がある。

 それは、地に足をつけて生きてきた者だけが持つ、まなざしだ。

 だから君が飛ぶなら、迷わず飛びなさい」

 

 茂弘は、便箋をそっと伏せると、まるで何かを抱くように両手でそれを包みこんだ。

 

 

 

 

 

 その晩、馬小屋では父・泰造が馬たちに水をやっていた。茂弘が声をかけると、泰造は長い柄の柄杓を桶に沈めたまま、しばらく黙っていた。

 

「……あのな、一昨々年、菊友を買い付けた日の夜のことだ」

 

 茂弘は、はっとする。

 

「彼女が、ずっと柵の向こうを見てた。あいつ、あんなに鳴かなかったのに、一晩中ずっと立ってたよ」

 

 父の声は、牧場の夜の空気に溶けていった。

 

「……お前は、逆なんだな。ここにいる誰もが、お前が外に出る時期だって、どこかで感じてるんだと思う。母さんも、言葉にしないけど、わかってるよ」

 

 茂弘は、何も言えなかった。ただ、そっと馬のたてがみを撫でた。

 

 夜更け。縁側に腰を下ろすと、空には雲が流れ、月が出ていた。虫の声、遠くの川音、牧草の匂い――どれも知ったものばかり。けれど、それらがまるで別れの支度をしているかのように思えた。

 

「……俺、本当に、行っていいんだろうか」

 

 誰にともなく呟いたその言葉は、風に乗ってゆっくりと夜へ溶けていった。

 

 それに応えるように、厩のほうで一頭の馬が小さく嘶いた。

 

 まるで、背中を押すように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その朝、葛巻の空はひどく澄んでいた。山の輪郭がくっきりと浮かび、蝉の声だけが遠くでか細く鳴いていた。夏の終わりを惜しむように、風が校舎の裏手の樹々を渡り歩いている。

 

 茂弘は、アイロンのかかったシャツに袖を通し、机の上の原稿を見つめていた。何度も書き直した、卒業生講話の草稿。文字は少し不揃いで、ところどころに消し跡が残っている。

 

「話すってのは、本を読むのと違うな」

 

 ぽつりと呟くと、机の隅に置いた「世界の詩選集」が目に入った。滝本先生が貸してくれた、古びた一冊。ページの間から、薄紙に包まれた押し花が落ちた。薄紫のリンドウ。それは、北の地に咲く、寡黙な誇りのように思えた。

 

 体育館。

 

 夏休みの静けさがまだ残る空間に、生徒たちのざわめきが吸い込まれていく。滝本は演台のそばで控え、舞台袖から茂弘を見つめていた。

 

 木の床を踏みしめながら、茂弘が壇上に上がる。

 

 数秒の沈黙のあと、静かに口を開いた。

 

「……こんにちは。卒業して、半年ぶりにここに戻ってきました。懐かしいです」

 

 生徒たちの目がこちらを向く。まだ幼さの残る視線と、大人びた無関心のあいだにあるような、揺らぐ関心。その気配の中で、茂弘は言葉を選ぶように続けた。

 

「八戸高校に進んで、一番驚いたのは……知らないことがこんなにあるのか、ということでした。教科書、参考書、図書館の棚。読むものが尽きなくて、毎日が宝探しみたいだったんです」

 

 くすっと笑う声が、どこかから洩れた。

 

「でも、半年くらいで、宝が底をつきかけました。何だか、同じ景色の中を歩いているような感覚になって。……もっと先を見たくなったんです」

 

 会場が静まる。茂弘は、原稿を持たずに語り始めていた。

 

「そこで滝本先生、ほら、国語の先生ですよ。その先生に、アメリカを考えてみないかって言われました。正直、びっくりしました。俺なんかが行っていいのか、って。でも……知りたいことがある限り、動いてみるしかないと思ったんです」

 

 しばしの沈黙。会場の空気がわずかに変わる。

 

「進学しない道、都会に出ない道を皆さんは選ぶのではないかと。しかし、道、これはたくさんあると思います。私はこうするべきって言いたいわけじゃありません。選択肢を決めつけてしまったら、未来が狭くなる気がして。自分の心に耳をすませば、きっとまだ見ぬ道が聞こえてくると思うんです」

 

 茂弘の声は、少しだけ熱を帯びていた。

 

「田舎に生まれても、世界は遠くにあるわけじゃない。……目を開けば、いつだってそこにある。そう、思っています」

 

 講話が終わったあと、生徒たちは一斉に拍手した。どこかに戸惑いも混じるような、しかし確かな敬意のこもった拍手だった。

 

 滝本は最後列から、穏やかにそれを見守っていた。

 

 カーディガンの袖の隙間から、手にしていた一冊の本――『世界の詩選集』のページが、ひらりと風に揺れた。

 

 そこに記された、ひとつの詩句。

 

「風が渡る場所で、種はひそやかに芽吹く。

 そして誰にも知られず、空を知る」

 

 滝本は、そっとそれを読み返し、目を伏せた。

 そのまなざしは、未来という名の曠野を、静かに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 講話の日から数日が過ぎても、葛巻の空気はまだ夏を抱いていた。だがその抱擁は、どこか名残惜しく、もうすぐ手を離すような、そんな儚さがあった。

 

 蝉の声が、かすれながらもまだ生きている。静まり返った葛巻中学校の校舎に、その声は乾いた木の廊下をすべり、吹き抜けの窓から職員室にまで届いていた。

 

 滝本は、一人、国語科職員室の机に向かっていた。窓辺には、夏休み中にもかかわらず、開かれたままの生徒名簿や指導記録、そして何冊かの参考図書が積まれている。机の端には古びた、赤と青の縁取りのある封筒。エアメールの文字が日に焼けて薄くなっていた。

 

 それはかつて、彼自身がアメリカから受け取った便りだった。手紙の主は、ミズーリ州にある大学の教授――J.D.フォスター。今ではもう少し白髪が増えているかもしれない、と滝本はふと想像した。

 

 静かに扉が開いた。

 

「……失礼します」

 

 その声で、滝本は顔を上げた。茂弘だった。作業着、ツナギはきちんと着こなされていて、少し汗をにじませていた。息が浅く、表情は決意とためらいの狭間に揺れていた。

 

 滝本は微笑を浮かべ、眼鏡を外して机に置いた。

 

「どうしたの?」

 

 茂弘は何かを言おうとしたが、すぐには口を開けなかった。滝本が静かに水差しからコップへ水を注ぎ、差し出す。その一呼吸が、少年の中の波立つものを鎮めてくれたようだった。

 

 そして――ようやく、声が出た。

 

「……俺、留学、してみたいと思います」

 

 一瞬、風が吹き込んできて、紙の端がめくれた。滝本はその風に目を細めながら、ゆっくりと茂弘を見つめた。

 

「……そうか」

 

 その声は、どこか遠くを見つめるように柔らかかった。

 

「君が、何かを知りたいって、もし本当に思っているのなら――推薦するよ」

 

 言葉が落ちた瞬間、蝉の声が遠ざかり、雷鳴が遥か遠く、山の向こうで低く鳴った。

 

 茂弘は、机の上のエアメール封筒に視線を落としながら、静かに言った。

 

「……俺、自分がどれくらい無知かを知りたいんです」

 

 その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが音を立てて割れた気がした。長い間、しっくいのように塗り固められていた常識や当たり前が崩れ落ち、眼前に現れた世界は、急に狭すぎる檻のように感じられた。

 

 滝本はゆっくりと立ち上がり、棚の中から一冊のノートを取り出した。

 

「――じゃあ、準備を始めようか。君が扉を開くなら、僕は鍵のありかを教えるだけね」

 

 

 

 

 

 その日の夕刻、牧場の見晴台では、空が赤く燃えはじめていた。

 

 茂弘は一人、木の柵にもたれ、遠くの丘を眺めていた。風が草を揺らし、狼星のたてがみも、それにあわせて揺れていた。

 

 胸の奥が不思議な熱さに包まれていた。怖さ、期待、そして言いようのない寂しさ。だが、それを「不安」とは言いたくなかった。

 

 行ってみたい―その思いが、生まれて初めて心の中心に立った。

 

 山の端に日が沈み、夜が静かに近づいていた。だが、その夜の向こうには、確かに何かが広がっている。

 

 ――世界。まだ知らない広さと深さと、そして何より、自分自身のこと。

 

 茂弘は、そっと胸の前で両手を握った。

 

 風が、またひとつ、夏を運び去っていった。

 

 

 

 

 

 その週末、滝本先生は自宅の離れにある書庫に入っていた。薄暗い木張りの床に、古びた本棚がずらりと並び、窓辺にはホコリの積もったタイプライターが置かれている。

 

 机の引き出しから、そっと取り出したのは、未記入の推薦書式の束だった。どの用紙にも年月が経った紙のにおいが染み込んでいた。実際に使われることはなかったが、「いつか、きっと」と思いながら保管してきたものだった。

 

 書斎の窓を開けると、外では遠くから牧草を刈る音がかすかに届く。夏の終わりの草いきれが入り込み、インクリボンのかすれた匂いと交わった。

 

 タイプライターのキーを、滝本は一音ずつ、確かめるように打ち始めた。

 

 To Professor J.D. Foster, Missouri State University...

 

 その文面は、15年前の自分が異国で受けた恩を、今度は生徒へ手渡すためのものであった。タイプのインクリボンが途中でかすれ、滝本は一度指を止めた。

 

 しかし、それもまた時の重なりの証のようで、彼は微笑し、またゆっくりと打ち進めた。

 

「この手紙、15年前にも書いたの。……今度は、君のためにね」

 

 

 

 

 一方、茂弘は、夕食後の台所で母・澄代に向かって、留学のことを切り出していた。父には言えていたが、どこか恥ずかしく、母には言えていなかった。

 

 炊事がひと段落したあとの、湯気がまだほのかに残る食卓。その湯気に紛れるように、彼の言葉も最初は小さく、頼りなかった。

 

「……アメリカに、行ってみたい。勉強しに」

 

 母は、味噌椀を拭いていた手を止めて、茂弘の顔を見た。その瞳には、驚きと、そして少しの寂しさがあった。けれど、返ってきた言葉は、彼の想像とはまるで違った。

 

「……あんた、らしいね」

 

 そう言って、皿を水に浸した。その言葉には戸惑いも寂しさもあったが、それ以上に、遠くまで伸びる草原のような受容があった。

 

 

 数日後の午前。晴れ渡った空の下、赤と青の縁取りがついた封筒を持ち、茂弘は郵便局の前に立っていた。当檜は青々と茂り、間隙の光は頬に差し込んだ。

 

 遠く林間を通り抜ける風が、シャツの背中をふわりと撫でる。ポストの前に立つと、何度も宛名を見返す。

 

 To Professor J.D. Foster, Missouri State University, USA

 

 その文字は、手がわずかに震えているためか、少し曲がっていた。

 

 投函口に封筒を差し込むと、そのまま吸い込まれるように、封筒は見えなくなった。

 

  赤と青の縁取りがされた航空便の封筒が、ポストの投入口に吸い込まれた瞬間、

 

  何かが、もう戻らないことを実感した。

 

 誰にも言わなかったが、あのとき彼の中にあったのは「希望」ではなかった。「退路の消失」に似た感覚だった。だが、なぜか、背筋がまっすぐに伸びていた。

 

 

 

 

 

 その夜、牧場の裏にある小高い丘に登り、月明かりの下、見晴台でひとり座っていた。

 

 下の牧草地では、狼星が、まるで何かを感じ取るように立ち止まり、こちらを見上げていた。風がすっと吹き、夏草がさざ波のように広がる。

 

 この土地を離れても、自分の根はここにある。

 

 そう思えたのは、そこに自分の帰る音があるからだった。蹄の音、乾いた風、あの草の香り。すべてが、体に染み付いていた。

 

 だが今は、知らない風に吹かれてみたい。それが冷たくても、強すぎても――その先を、自分の目で見てみたいのだ。

 

 見晴台から見下ろす町には、少しずつ灯がともっていた。その灯の一つひとつが、どこか名残惜しく、温かかった。

 

 茂弘は、そっとつぶやいた。

 

「……俺、やっぱり行くんだな」

 

 風がまた吹いた。夏の名残を乗せて。

 

 

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