北國で、駆けて 作:久保田
朝の空は、夏と秋がせめぎ合うように、まだ青さの残る雲がゆっくりと流れていた。
八戸高校では秋の始業式を迎え、生徒たちは制服の襟を正しながら校舎へ吸い込まれていく。木造の校舎がまだ残る一角では、湿った木の匂いがうっすらと漂い、蝉の声がかすかに響いていた。
茂弘は、その朝も、誰にも告げずに一人机に向かっていた。夏の終わりに滝本先生と交わしたあの会話――「行ってみたい」「自分がどれだけ無知か、知りたい」――それは、今も静かに胸の奥に火を灯している。
だが、教室では誰にもそのことを話せなかった。隣席の男子は相変わらず部活の話をし、前の席の女子は模試の結果に一喜一憂している。茂弘はその背中を見ながら、ふと、教科書の余白に走り書きした単語に目を落とした。
Departure――出発。だがその意味は、彼にとってまだ「断絶」に近かった。
校舎の北端、階段脇の空きスペース。夏休み中に何度か手紙をやり取りしていた海部と、始業式の帰りにようやく再会した。
「やっぱり、お前が行くって聞いたとき、驚いたよ」と海部は口を開いた。「でも、妙に納得もした」
茂弘は、しばらく黙っていた。足元には、赤茶けた校庭の砂が乾いて舞っていた。
「今でも迷ってるよ。なんで俺なんかが、って。でも……先生が言ってくれたんだ。知りたいと思う気持ちは、もう始まってるって」
海部は、にっと笑った。
「じゃあもう、止まれないな」
どこか、夕立前の風のような静かな緊張が、二人の間に流れていた。
風の匂いが、変わった。
八月の末日。朝のうちは蒸し暑かった空気が、午後になるにつれどこか透き通りはじめていた。木々の葉が、音もなく細かく揺れ、空の青は色を淡め、遠くの空に筋雲が広がっている。雲の流れる高さと速さが、夏の終わりを告げていた。
蝉の声はまだ絶えず、校舎の石垣に貼りつくように鳴いていたが、耳を澄ませば、その奥で微かに、コオロギの声が混じっていた。生まれたばかりの秋が、どこかから静かにしのび寄ってきていた。
八戸高校の講堂には、始業式を終えた生徒たちの声が残響のように漂っていたのは覚えている。窓から差し込む午後の光が、薄い埃をきらきらと照らし、整然と並んだ机と椅子の上に、夏と秋の間の影を落としていた。
海部と別れて廊下を出て、茂弘は校舎の渡り廊下をひとりで歩いた。遠くで何人かの同級生が談笑している。話題は部活か、模試か、それとも夏に誰と会ったとか、誰と会えなかったとか。茂弘は、自然にその輪には入らなかった。そういうことを「しない」人間なのだと、もうずっと前から自分で知っていた。
職員室の扉をノックすると、すぐに担任の青葉聡が顔を上げた。三十九歳、公民科の教師。真面目な眼鏡の奥に、どこか常に「判断」を宿す視線を持っている人だった。
「……留学の件で、少しだけお時間いただけますか」
青葉は一瞬、手にしていた赤ペンを止めた。けれど、それは意外ではなく、あらかじめ知っていたことを確認するような反応だった。
「君のことは、夏の間に教頭からも話は聞いている。――準備は、進んでいるかい?」
茂弘は、静かにうなずいた。
「英語の試験も通って、必要な書類は滝本先生と進めてます。あとは……校としての承認が必要で」
「もちろんだ。校長も承知している。八戸高校としては、君の進路を全面的に支援するよ」
そう言ったとき、青葉はふと、眼鏡の奥のまなざしを柔らかくした。
「ただ、……遠くへ行くってことは、想像以上に、自分の足元が見えてくるものだよ」
それが、教師としての経験に基づいた助言であると、茂弘はすぐに理解した。だが、それはあくまで誰かの言葉であって、自分の実感ではなかった。
「……わかっています」
そのまま軽く頭を下げて、職員室を出た。
「あ、そうそう。こういうことはいくら恩師とはいえ、外の人とはもうやるなよ」
下校の坂道は、空の広さがよく見える。
葉山の台地から市街を見下ろすと、駅前に向かって緩やかにひらけた町並みと、川筋が霞むように横たわっていた。校門を出て、駅とは反対側の坂を下りてゆく。自転車のハンドルを握りながら、母の務める職場傍まで走る。茂弘は心のなかで、ふと旋律を思い出していた。
志をはたして いつの日にか帰ろうかと思ったことは幾度か。ここ八戸でなにができるのか。ついぞ、外への興味を得ることができた。
そう口ずさんだわけではない。けれど、その言葉が、どこか空の色と、蝉の声と、夕暮れの風の感触と、重なっていた。
何かが、終わっていく。何かが、もう戻らない。そんな予感が胸に差し込む。
一方、滝本は自宅で机上に広げた資料の山を前に、黙々と作業を進めていた。アメリカの高校のカリキュラム資料、留学生向けガイドブック、そしてI-20発行申請用のフォーム。古いファイルから取り出した英文成績証明書のひな形には、タイプライターで一文字ずつ、慎重に名前を打ち込んだ。
「ミズーリ州立大学付属高校……ここの授業は、むしろ君にはちょうどいいかもしれない」
土曜日の午後、久々に学校を訪ねてきた茂弘に、滝本は一枚の資料を手渡した。
「ここの世界史の先生は、ナポレオン戦争を3ヶ月かけてやるそうだ。哲学や地理もある。……いいだろう?」
「はい。でも……大丈夫なんでしょうか。英語、ついていけますかね」
「心配なら、新聞の英語記事を音読するといいよ。……語学は技術だ。だけど、心の耳を澄ますってことは、誰にも教えられない」
その頃、彼らのやり取りを知らぬ町では、茂弘の母・澄代が郵便局へ出向き、I-20発行に必要な健康診断証明書や住民票を取り寄せ、少しずつ書類を揃えていた。
小さな郵便局の窓口で、赤い印が押された封筒をそっと差し出すと、局員の女性が言った。
「……海外行かれるんですか?」
「ええ、うちの子が。アメリカの学校に……」
そう答えた自分の声が、少し震えていたことに気づいた。だが、その後に口元が自然とほころぶのを、澄代自身も止めることはできなかった。
数日後の放課後。滝本先生宛に、一通のエアメールが葛巻中学校に届いた。淡いベージュの封筒に、丁寧な筆致で記された宛名。
滝本はその場で封を開けた。
I would be honored to welcome Takimoto’s student. Please proceed.
――J.D. Foster教授の直筆。力強くも、どこか詩のような響きがある文面だった。
それを見た瞬間、滝本は静かに目を閉じ、長い時をまたいだ橋が架かったような心地に包まれた。
夕暮れ、窓の外では、狼星が小さくいななきながら、放牧地の端をゆっくり歩いていた。草はすっかり秋の色を帯びている。
自室に戻った茂弘は、日記帳を開いて、そっと書いた。
「進みながら、迷っている。だけど、それでもいいのだと思う」
風が、また一つ、彼の心の扉をノックした。
牧場に戻ると、夕方の給餌に合わせて、厩舎は湿った草と馬の息づかいで満ちていた。
狼星は、今日も静かに待っていた。毛並みは薄い月毛、まだ全体にふわりとした産毛が残っていて、白さが強かった。額にはひとかたまりの白い斑があり、それが茂弘には、まるで地図のように思えた。どこかへ向かう予兆のような、印だ。
「……ただいま、狼星」
馬房の戸を開けると、狼星は鼻を寄せ、茂弘の胸元に額を擦りつけた。その温かさに、なんともいえない安心があった。
水を汲み、身体を洗い、松崎獣医から教わったように、関節や目の白目、蹄の裏を丁寧に見る。どこかに熱がないか、皮膚に湿疹がないか、息づかいが荒くないか。
「――きょうも、元気だな」
ぽつりとそう語りかけると、狼星はまるで理解したように尾をふった。
この仔馬は、茂弘にとって「もうひとつの自分」だった。どこかへ行くことを宿命づけられ、誰も見たことのない道を走る。まだ未熟で、か弱いその身体の奥に、確かな炎がある。
――選ばれた者だけが持つ、静かな光。
その夜、風呂上がりに黒電話のダイヤルを回す。ジー……ジー……という回転の感触が、なぜか茂弘には懐かしく思えた。番号は、松崎獣医の診療所。
「今日も、元気でした。呼吸も、蹄も、問題なしです」
淡々と伝えると、松崎は「うむ」と低くうなずくような声で答えた。
「おまえ、あの馬に、自分を重ねすぎるなよ」
ふいにそう言われ、しばらく言葉が出なかった。
「……はい。でも、どうしても、重ねちゃうんです」
「それも、馬の器量だな」
電話を切ると、台所から母が、包丁で切る大根の音を立てていた。
次の日の夕刻、学校からの帰り道。厩舎の前で、懐かしい人物が背を向けてトラックに荷物を積んでいた。
「……片桐さん!」
振り返ったのは、かつて葉山牧場の削蹄を担っていた職人、片桐だった。
「よぉ、茂弘。おまえ、少し背ぇ伸びたな」
久々に交わした言葉が、それだった。片桐は中央競馬でアラブ種の調教師のもとで勤めており、オープン馬も任されていると聞くようになっており、葉山に顔を出すのは一ヶ月以上ぶりだった。
「狼星の蹄、見てもらえますか」
片桐は無言で馬房に入ると、膝を落として蹄を撫でた。
「……悪くねぇ。骨格も素直だ。こいつはやはり、まっすぐ育つ馬だ」
そして、ぽつりとつぶやく。
「アラブのやつらはな、のほほんとだが、粘り強い。だが、この馬は……風に耐える。北国で生まれたからな」
片桐の目は、かすかに笑っていた。
「蹄ってのは、道を記憶するんだよ。どんな地面を踏んできたか、どんな坂を越えたか。それが形に残る。……おまえの足も、きっと同じだろ」
トラックのドアが閉まる音がして、片桐は最後に狼星の額を一度だけ叩いた。
「じゃあな。あとはおまえらの番だ」
そう言って、夕陽のほうへ去っていった。背中に長く影が伸びていた。
厩舎の裏手で立ち止まると、山際に日が沈んでいくのが見えた。赤く、そして金色に。
いつの日にか――。そのとき、風景はどう変わっているのだろう。
いや、自分自身の目が変わっているのかもしれない。
そう思ったとき、遠くで風が梢を渡る音がした。
その音は、まるで誰かの声のように、茂弘の背中を押していた。
狼星に向き合うとき、茂弘の中には、言葉にできないものがあふれていた。
それは愛情とも、憧れとも、使命感とも、すべてに似ていて、どれとも違った。
――ただ、確かだったのは、この仔馬が、茂弘の「帰ってくる場所」だということだった。
馬房の戸を開けると、狼星は小さくいななき、ゆっくりと茂弘に近づいた。
そのまま額を寄せてくる。ふわりとした額の毛を、指の腹でそっと撫でる。
「……ただいま」
その言葉が、狼星にとって意味を持つかは分からない。
けれど、言わずにはいられない――そういう存在だった。
撫でるたびに、指先にはわずかな温もりが残った。産毛の下に、心臓の音がかすかに響いている。
生まれて半年にも満たない命。けれど、そのなかに宿る静かな光は、どこか永遠に近いものだった。
「きみは、ここで育って、走って、……そして、どこかへ行くんだよな」
呟きながら、茂弘は狼星の首筋に手をまわす。汗ばんだ夏毛の下、ほのかに脈打つ感触。
それを感じるたびに、言いようのない不安と、強い決意とが交錯する。
――いずれ、自分はいなくなる。
けれど、この馬は、残って、走りつづける。
それが、どれほど切なく、誇らしいことか。
狼星の鼻先に指を伸ばすと、仔馬はくんくんと嗅ぎ、ぺろりと舐めた。
そのしぐさが、茂弘を微笑ませる。けれどその笑みの奥には、ほんの少し、寂しさが滲んでいた。
「いつかきみが、大きなレースに立つとき……」
そう言いかけて、茂弘は言葉を止めた。
――そのとき、自分は、きっとこの馬場にはいない。
未来に見える景色は、いつも、いまこの瞬間の光景を切り離していく。
そして、それでも、人は歩いてゆく。
茂弘は蹄の形を確かめるように、狼星の足元にしゃがみ込んだ。柔らかな脚をやさしく持ち上げ、角度を見て、蹄底に異変がないか指先でなぞる。
この小さな蹄が、やがて大地を蹴り、観衆の歓声を背負って走る日が来る。
そのとき、きっと狼星は――ひとりで立つのだ。
立って、走って、勝ち負けを超えて、ただその血と呼吸で、証を刻む。
「おまえは……俺よりも、ずっと遠くまで行く」
茂弘は、ふいにそんな言葉を漏らしながら、狼星の胸元に顔をうずめた。
仔馬は、小さく鼻を鳴らし、茂弘の髪にふっと息を吹きかけた。
その温かさが、胸の奥まで沁みてくる。
ずっと見ていたい、けれど、見届けられないかもしれない。
それでも信じている。この仔馬は、誰よりも誠実に、誰よりもまっすぐに、生きてゆく。
別れは、未来のなかにある。だが、だからこそ、このいまが輝く。
最後にもう一度、額に手をあてた。狼星はその手に静かに頬を預けた。
それはまるで、言葉のかわりにすべてを伝えてくれるような、沈黙の応答だった。
……そのときだった。
馬房の外から、乾いた草のこすれる音が、そっと耳をくすぐった。
視線を上げれば、宵闇に溶けかけた丘の端に、ひとつの影が立っていた。
「……菊友」
茂弘は低くつぶやいた。
灰がかった栗毛の艶やかな馬体が、夕暮れの光を浴びて静かに揺れていた。
それはまるで、野に咲く花が、風の気配にそっと顔を向けるような気配だった。
菊友は、狼星の母馬だった。
今年、はじめての仔を産み、その身体にはまだ若い母の緊張と、どこか頼りなさが同居していた。
それでも、母としての誇りのようなものが、その歩みにはあった。
茂弘が腰を上げると、菊友は小さく鼻を鳴らし、しずしずと歩を進めた。
その仕草は、懐かしさの結晶のようだった。
――そういえば。
あの日、狼星が生まれた深夜も、こんなふうに風が鳴っていた。
薄く霧のかかった馬屋のなかで、菊友は黙って産み、黙って立ち、黙って仔を舐めていた。
あのとき、茂弘は、言葉では言い尽くせぬものを見た気がした。
「はじまり」というものが、こうも静かに訪れるのだと知った。
「おまえも、心配だったか……」
そう語りかけると、菊友は鼻先を茂弘の肩に触れた。
まるで、母親の代わりに「ありがとう」と告げに来たかのようだった。
狼星はまだ、その小さな身体をふらつかせながら、母のほうを見つめていた。
そして、ゆっくりと歩み寄り、菊友の首もとに鼻先をうずめた。
「そうだな……ちゃんと、甘えてやれ」
茂弘は、狼星の背に手を伸ばした。
その毛並みはまだ子どもの柔らかさを残していたが、どこか芯のような熱を孕んでいた。
その奥底で、微かに鼓動が脈打っているのが、指先から伝わってくる。
菊友の眼差しは、黙して語るように、ただ茂弘と狼星を見つめていた。
その黒曜石のような瞳には、畜生を超えた、どこか人間に似た深い憂いがあった。
茂弘はふと、牧場の南端――かつて豚舎があったという古い林のほうを振り返った。
あの小高い丘の向こうに、冬がやってくるのは、もうじきだ。
「……俺がいなくても、ちゃんと育ってくれよ。頼むな、菊友」
そう囁くと、菊友はゆっくりと目を閉じ、静かに鼻息を漏らした。
その音は、まるで「わかっている」と告げるように、茂弘の胸の奥に染みていった。
そして彼はもう一度、狼星の頬を撫でた。
その命の温かさを、きちんと、指先で記憶しておこうと思った。
風がひとすじ、草原を渡った。
それは、母から子へ、子から空へと引き継がれてゆく、目には見えない祈りのようだった。
――この地には、言葉を持たぬ約束がある。
茂弘はそう思いながら、そっと馬房の扉を閉めた。