北國で、駆けて   作:久保田

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共におよすぐ

 窓の外から、夜の名残を帯びた空気が、ひそやかに忍び込んできた。まるで夏の精が、北国の地に別れを告げて去っていく、その最後の吐息のようだった。

 

 葛巻の秋は、まるで約束された儀式のように、ひと晩でやってくる。昨日までの蝉の声も、夜更けの蛙の鳴き交わしも、今朝の空気のなかにはもうなかった。残されているのは、しんと張りつめた冷たさと、土の匂いを混ぜた静寂だった。

 

 茂弘は、ぼんやりと天井を見つめていた。

 

 目覚まし時計の針はまだ四時に届いていない。けれどもう、眠気は身体のどこにも残っていなかった。息を吐くと、かすかに白く煙ったような気がして、彼はそれをもう一度確かめるように息を吐いた。

 

 指先にかかる空気の重みが、季節の境界線をそっとなぞっていく。

 

 ――秋だ。

 

 高校生活最初の秋が、音もなく始まろうとしていた。

 

 そのとき、ガタン、と遠くで物音がした。たぶん、父が台所の裏口から納屋へ向かったのだろう。牛たちの搾乳の準備が、今日も静かに始まっている。馬小屋では、まだ夢と現のあいだにいるような風の精霊たちが、くぐもった声で鳴いているはずだ。

 

 布団からそっと身体を起こし、茂弘は足を床に下ろした。

 

 冷たい。まるで氷の板を踏んだような鋭さが、足裏を走る。ついこの間まで涼しさをくれていた床板が、今朝はまるで別の生き物のように沈黙し、冷たく息を潜めていた。

 

 長袖の上着を羽織る。

 

 袖の奥から、微かに干し草の匂いと、前日の陽だまりの温もりが残っていた。それが急に胸の奥をふるわせる。そこには、どこにも見えないけれど確かにある「昨日」が、折りたたまれていた。

 

 廊下に出ると、家全体がまだ夜の名残をまとっていた。

 

 唯一灯っているのは、台所の小さな蛍光灯だけだった。そこに照らされるように、卓上に新聞紙に包まれた小さな包みが置かれていた。

 

 ゆっくりと開くと、母が握った塩むすびがあらわれた。

 

 海苔も何も巻かれていないが、白い米は固く、崩れる気配もない。ひとつひとつ、掌の形に合わせて、丁寧に握られている。

 

 そっと貼られていた付箋に、黒いペンでひとことだけ書かれていた。

 

「がんばってね。飼葉も替えておいて。」

 

 

 

 丸い字は、いつもと変わらぬ母の手だった。

 

 けれど今朝、その文字はなぜか、遠くから届いた手紙のように思えた。

 

 「がんばってね」――ただそれだけの五文字が、日々の繰り返しを越えて、まるで旅立ちの背を押す祝詞のように胸に響いた。

 

 茂弘は、その場でしばらく立ち尽くした。

 

 塩むすびから立ちのぼる湯気のような静けさの中で、自分のいる場所が、これから変わっていくのだという実感が、じわじわと沁みてきた。

 

 窓の外に目をやると、山の端がうっすらと白みはじめていた。

 

 けれど空気はまだ夜の匂いを残している。四時の空はただ黒いのではなく、深く濃く、どこか青く、冷たい静けさをたたえていた。

 霧が草の上を這い、真綿のように野を包んでいる。北国の朝は、音を立てずにやってくる。

 

 塩むすびを口には含み、心にはしまい、長靴を履いた。

 

 玄関の戸をそっと開けると、外気が音もなく身体にまとわりついてきた。肌に触れるその冷たさは、昨夜よりも確かに強く、鋭かった。

 

 息を吐くと、くっきりと白い。

 

 風はなかったが、すべてが凍る寸前のような、張り詰めた沈黙があった。

 

 霧に濡れた草を踏みしめ、茂弘は厩舎へと歩いていった。

 

 毎朝通るはずの道が、今朝はなぜか、遠くへ続く旅のはじまりのように感じられた。

 

 足音が、霧のなかに小さく、確かに響いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄闇の中、茂弘は木の引き戸に手をかけた。手のひらに触れた鉄製の取っ手は、まるで夜露を含んだ石のように冷たかった。強く押し引きすると、木の扉はきい、と控えめな音を立てて開いた。すぐに、ふわりと鼻先を撫でてくる匂い――干し草と馬体の汗、そして木材が長年吸い込んできた湿り気のようなものが混じった、あの厩舎の匂いが漂ってきた。

 

 中は、まだ明けきらぬ外の光をうっすらと反射しているだけで、厩舎の梁や仕切りの板、馬房の影はすべて墨で塗ったように暗い。天井から吊るされた裸電球が静かにぶらさがっているが、まだ灯りは入れていなかった。足を踏み入れると、敷き詰められた藁がじゅくりと柔らかい音を立て、足音を飲み込んだ。

 

 厩舎は、谷間の空気を宿していた。冷えきった板張りの壁は、朝の気温とともに、まるで呼吸をするかのようにじわじわと湿気を吐き出している。外の気温は5度を切っていただろう。9月とはいえ、ここは岩手の山間だ。昭和50年の秋は早く、ましてや夜通し風が吹いたあとの朝は、冬が喉元まで忍び寄ったように冷たい。

 

 茂弘は、薄明かりのなかをそっと歩いた。馬房ごとに収まっている馬たちは、彼の気配に一瞬だけ耳をそばだてるが、再びまぶたを閉じるか、静かに藁を食む音を再開する。鼻をふごふごと鳴らし、寝返りを打つ者もいる。馬たちはまだ夢と覚醒のあいだにいるのだ。

 

 そのときだった。

 

 静寂を裂いて、ひときわ高く、鋭い嘶きが厩舎の奥から響いた。乾いた木板の壁が、その声をぴんと反響させ、建物全体がわずかに震えたようだった。

 

「……星雲か。」

 

 茂弘は歩みを止め、胸の奥がすうっと冷たくなるのを感じた。けれど、それは不安や驚きではなかった。むしろ、じんわりと胸に灯がともるような感覚だった。仔馬特有のか細い、しかし真っ直ぐな嘶き。そのひと声は、静けさの中にまるで星雲自身の輪郭を描き出すようだった。

 

 声は一度きりだった。だが、それで十分だった。星雲が、そこにいる。生きて、夢から目覚めつつある。それだけで、茂弘の中に小さな確信のようなものが芽生えた。

 

 再び歩き出しながら、彼は無意識に指先を擦った。手の中にある冷たさは、厩舎の気温だけのものではない。朝の光の前に、動物たちの命が目覚める、その最初の気配を受け取ること。それがこの場所で生きてきた自分の日常なのだ。

 

 彼の目は、暗がりの奥――星雲と、キクトモと狼星の馬房へと向けられていた。

 

 

 

 

 厩舎の一番奥、南側の壁際。そこにある一つの馬房は、他より少しだけ広く、天井近くに小さな明かり取りの窓がある。そこから差し込む黎明の光が、木製の壁を斜めに照らしていた。天井の梁には朝露に濡れた蜘蛛の巣が、薄らと光を帯び、まるで厩舎の静寂を織りとめる糸のように張っていた。

 

 その馬房には、今は二頭がいた。母馬の菊友と、その脇に寄り添うようにして眠る仔馬――狼星。

 

「おはよう、キクトモ……狼星。」

 

 茂弘は、声を潜めて囁くように言った。まるで、この空間が眠りの最後の瞬間にあることを壊すまいとするかのように。

 

 キクトモは頭をゆっくりともたげ、微かな鼻音を鳴らした。大きな瞳は、厩舎の薄暗がりの中でもしっかりと茂弘をとらえ、静かに瞬きを繰り返す。鼻先が茂弘の肩に届くと、軽くすり寄ってきた。艶やかな栗毛の体は、夏毛の名残を僅かに残しつつ、すでに秋の毛並みへと移ろいつつあった。

 

 その横に、まだ眠っていた狼星が、ぴくりと片耳を動かした。小さな鼻が藁の中からぬっと持ち上がり、次いで、少し大きくなった蹄がばたんと音を立てて伸びる。

 

「もう、起きる時間だぞ。」

 

 茂弘は馬房の扉を静かに開け、しゃがみ込んで狼星の額を撫でた。生え始めたばかりのたてがみは柔らかく、指の腹に細かな温もりが伝わってくる。仔馬特有の丸みを帯びた額、その下にある澄んだ瞳。その瞳に、ふと、朝の光が差し込んで、きらりと光った。

 

 狼星は、のそりと起き上がる。すらりとした脚はまだ細く、少しよろけながらも母のもとに歩み寄る。キクトモがその鼻先を優しく舐めると、仔馬はくすぐったそうに首を振った。

 

 生後五ヶ月。離乳の時期はもうすぐだった。だが狼星は、まだ母の温もりを本能で欲していた。馬たちは、草原に育つ樹木のように、季節の巡りとともに関係を変化させる。それでも、このわずか数ヶ月の時間だけは、親子が濃密に交わる貴重な季節なのだ。

 

「……でかくなったな。」

 

 茂弘は、立ち上がりながら狼星の背をさすった。春先に生まれたときは、掌で肋骨の動きがわかるほどにか細い命だった。だが今は、毛並みはしっかりと厚く、脚も心なしか太くなっている。蹄の先を覗き込めば、土の上を踏みしめた跡が確かにそこに刻まれていた。

 

 思えば――。

 

 あの夜、母馬キクトモが深夜の分娩を迎えたとき。全ての作業を終えた後、厩舎の灯りを落としながら茂弘は、かすかに生まれた仔馬の呼吸の音を聴いた。細く、小さく、それでも確かに、生きようとする音だった。

 

 茂弘は馬房の壁に掛けられたブラシを取り、キクトモの背にそっと当てる。母馬はそれを受け入れるように、微かに鼻を鳴らした。その横で、狼星も小さくくしゃみをしながら、脚を伸ばして背伸びをした。

 

「もうすぐ、お前も自分の脚で歩いてかなきゃな。」

 

 呟くように言いながら、茂弘は再び狼星の額を撫でた。その柔らかさとぬくもりが、指先から胸の奥へとしみ込んでゆくようだった。

 

 飼葉桶の縁に手をかけ、茂弘は腰を落として、手早く古い飼葉をかき出した。昨日の夕方に詰められた草は、すでにしっとりと湿っており、ところどころに狼星の小さな歯型が見えた。まだ離乳前のこの時期、飼葉を食べる量は限られているが、興味をもって口にするようになっただけでも、順調な成長の証だ。

 

「いい傾向だな……」

 

 口元で独りごちてから、茂弘は倉庫から持ってきたばかりの、一番草のロールを慎重にほどいて、ふわりと桶に詰めた。手のひらにわずかに残る草の油分と、鼻をくすぐる青草の匂い。夜露に濡れていた草は、まだ冷たさを含んでいたが、それでも朝の空気のなかでは、それがどこか生命の気配のように感じられた。

 

 キクトモが鼻先を伸ばし、最初のひと束を音を立てて食み始める。狼星もつられるように桶に首を突っ込み、口に合わないのか、少し噛んでからぺっと吐き出した。だが、それもまた成長の一幕であることを茂弘は知っている。まだ幼い歯には、やわらかい青草でも扱いが難しいのだ。

 

「焦らなくていいさ。お前のペースで食べていけばいい」

 

 茂弘は狼星の背をそっと撫でた。仔馬は振り返り、小さく鼻を鳴らす。ふと、その目が茂弘の瞳とまっすぐに交差した。まだ言葉もない動物の、その無垢な眼差しには、妙なほど深い奥行きがあった。まるで、なにかを知っているような――あるいは、これから知ろうとしているような。

 

 その眼差しを受け止めながら、茂弘の胸の奥に、微かな疼きのようなものが走った。

 

 ――この仔を置いて、自分は海を渡るのか。

 

 そう思うと、胸のなかにわずかな軋みが生まれた。狼星が新しい草に顔をうずめる様を見ながら、その小さな背中に託された未来の重みが、ふと現実味を帯びてきた。

 

 茂弘は馬房の外に出て、扉をそっと閉めた。鍵をかけず、音が立たないように静かに――。その瞬間、厩舎の奥のほうで、別の一頭が大きく鼻を鳴らし、続いて一回だけ、ひときわ高く嘶く声が上がった。まだ朝の光が射しきらぬ空気のなかで、それはどこか不思議な余韻を残した。

 

「朝一番の合図、か……」

 

 茂弘は思わず小さく笑った。厩舎の時間は、時計よりも音と気配で進むのだ。誰かの足音、風の向き、嘶きの高さ――それがすべて、今ここにある命の時間を刻んでいる。

 

 手の甲で額の汗を拭い、茂弘は肩にかけた作業着の上着を直した。冷え切った朝の空気は、まだ指先をしびれさせるが、それもすぐに太陽が融かしてゆくだろう。家のほうからは、母の作る朝の味噌汁の香りが、風に乗ってかすかに流れてきた。

 

 時間は五時半を少し回ったころだった。そろそろ作務衣に着替え、昼へ向けての準備を始めねばならない。今日は獣医が来る日なのだ。心のページをめくりながらも、きっと狼星の姿が脳裏をかすめるのだろうと、茂弘は思った。

 

 馬房に背を向けたその瞬間も、彼の心は、まだあの仔のやわらかな鼻先に、そっと触れていた。

 

 

 

 

 

 

 その後、朝食を食べた。特になんてことはない日で、何かあるとすれば狼星の馬体を洗うとき、手袋を狼星に噛みとられてしまい小泉さんに茶化されたことくらいだろう。松崎獣医はあいも変わらず狼星に夢中で、今日も正午、熱心に狼星の馬体を診ていた。

 

 夕闇がゆっくりと色を染めてゆく頃、茂弘は家の縁側に腰掛け、濡れた髪から滴る水を肩に落とした。湯気の立つ風呂から上がったばかりで、肌にはまだほのかな温もりが残っている。外では、日没を告げる虫の声が盛んに響き渡り、遠くの林檎畑からは秋の果実の香りがふわりと漂った。

 

 風呂場の鏡に映った自分の顔を見つめる。細い眉の下、眠そうに伏せた瞳。試験勉強の重みを知る年頃だが、その胸の奥には、まだ本気での勉強はなく、今朝の厩舎での時間がくっきりと刻まれていた。

 

「狼星、元気だったな……」

 

 ふと呟くと、茂弘は居間の電話機に手を伸ばした。風呂に入る前、ハゲ頭の田口さんと牧場に近寄ってきた鹿を追い払った後、一緒に狼星を見た。その時の狼星について、松崎獣医への連絡は、いつものように手短で済ませるつもりだった。しかし、話し始めると自然と声は弾み、獣医の丁寧な問いかけに応じながら、仔馬の体調や皮膚の状態、離乳前の体のケアについて細かく相談を進めた。

 

「飼葉の変え方も教わったし、蹄の形も確認してもらったよ。離乳は九月からだって言われているけど、慎重に見ていくよ」

 

 電話の向こうからは、落ち着いた松崎獣医の声が返ってきた。

 

「茂弘くん、その調子でよく気を配っているね。仔馬は繊細だからね。何か変わったことがあったら、すぐ連絡しておいで」

 

 会話を終えると、茂弘はふうっと息をついた。外の空はすっかり暗くなり、星が一つ、二つと顔をのぞかせている。ひんやりした秋の夜風が、縁側のカーテンを揺らした。

 

 そっと、口元に手を寄せる。今朝から一日、狼星のことが頭から離れない。厩舎の冷たい空気、朝の飼葉の匂い、そして、あの小さな嘶きの響き……。

 

「お前の成長を、見守っているからな」

 

 静かな家の中で、茂弘の声は風に溶けていった。

 

 

 

 

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