北國で、駆けて 作:久保田
昼休みの教室には、温もりのようなものが、わずかにたゆたっていた。
十月の北東北は、もう本格的な秋の中盤に差しかかりどこか冬の様相を呈していた。木枯らしの第一陣にはとっくに吹き荒れていて、朝晩の風には芯の冷たさがあり、木造の校舎の隙間をすり抜ける風が、窓のすみに埃を小さく巻き上げる。手洗い場の蛇口からは冷えきった水が勢いよく出て、手を濡らした生徒たちは袖口で素早くぬぐいながら戻ってくる。制服の上から一枚羽織る者もちらほらいた。
教室の窓際、擦りガラス越しに射す秋の日差しは、もう夏のような鋭さはなく、どこか霞がかかったように柔らかかった。空は澄みきり、灰青色の薄雲が静かに流れていた。遠くからはストーブの煙のにおいが風に乗ってくる。それは、誰に言われるでもなく、「もうすぐ冬だ」と教えてくれる北国特有の香りだった。
「昨日の風と共に去りぬ、観たか?」
海部の声が、薄曇りの空気を割るように弾んだ。
「見てねえよ」と茂弘は苦笑しながら答えた。弁当箱を膝にのせ、箸を動かしながら、彼は海部の話に耳を傾けていた。
「お前、観なかったのかよ! もったいねぇなあ、スカーレットっていうのがさ、もう……」
身振り手振りを交えて熱弁を振るう海部の声が、昼休みのざわめきの中に心地よく混じる。映画の筋は、南北戦争で没落していくアメリカ南部の貴族階級と、彼らの誇り高い生活の終焉。スカーレットという女性が、それでも生き残ろうと抗い続ける姿に、海部はなぜか深く感動したらしい。
「南部の馬文化って知ってるか? 昔のアメリカ南部じゃ、競馬も上流階級のたしなみだったんだってさ。映画に出てきたタラの農園にも、立派な馬がいたんだなぁ」
「いたかもな」
茂弘は、空になりかけた弁当箱の隅をつつきながら、ぼんやりと海部の言葉を反芻した。
「で、さ」海部が身を乗り出した。「それが今でも残ってるんだよ。アメリカ競馬、ってやつに。ケンタッキーダービーなんて、まさにあの名残さ。血統、格式、馬主の社交場――まるで舞踏会だ」
「まるで……か」
茂弘は、心の中でその言葉をなぞった。
舞踏会。タラの農園。貴族。格式。そうしたものとは縁遠い、日々の糞掃除と水替えと餌やりの暮らし。だが、ふいに心の底からひとつの映像が浮かび上がった。緑の芝、白い柵、拍手と歓声の渦巻く観客席。その中央を、月毛の若駒――狼星が、まっすぐに走っている。
――京都競馬場。
その言葉が、まるで夢の中の香りのように、ふわりと茂弘の脳裏に広がった。
「なあ、知ってるか? 今年で京都競馬場って、ちょうど五十周年なんだと」
海部の声が続く。「お前のとこの狼星、もし強くなったら、地方競馬から中央に呼ばれることだって、ないわけじゃねえぞ?」
「呼ばれるって……道営の馬だぞ?」
「いや、今は違うんだよ」海部が得意げに指を一本立てた。「招待競走、ってのがあるんだ。中央と地方が競うやつ。始まったの、二年前だったかな。地方のエース格の馬は、中央に呼ばれる。お前、知らなかったのか?」
「……知らなかった」
その瞬間、胸の奥に、ぬくもりのようなものが、ほんの少し差し込んだ気がした。小さな風が、遠い未来の景色を一瞬だけ揺らして見せてくれる――そんな感覚だった。
狼星が、中央の芝を駆ける。その蹄音が観衆の心を打つ。レース後、カメラがその馬名を映し出し、誰かがつぶやく。「これは、道営の星だ」と。
だが次の瞬間、現実の重さが静かに戻ってくる。
浅沼さんの馬は、全部道営だ。父の牧場も、中央との繋がりは薄い。夢を見たところで、それは風に流される木の葉のように、遠ざかっていく。
それでも――。
「いつか、行けたらいいな」声には出さず、茂弘は心の中で、そう呟いた。
窓の外では、風が一枚、黄葉したポプラの葉を舞い上げ、そして落とした。
陽が西の山に隠れかけた午後六時すぎ。
北国の秋は足が速い。茂弘を乗せた母の軽自動車が葉山牧場の坂道を駆け下りて帰宅するころには、空はすでに茜と鼠色のグラデーションを帯びていた。制服のままでは寒さが沁みる。家に入るなり、母に軽く御礼して「ただいま」と言うと、脱兎のごとく階段を駆け上がり、作業着に着替えてまた外へ飛び出していった。
「着替えたと思ったら、また馬小屋かい」
背後で母の呆れ声が聞こえたが、もう気にならない。風呂やごはんは後回し。まずは彼らのところに行かなくては。
厩舎の引き戸を開けた瞬間、ほんのりと干し草と糞の混ざった香りが鼻をかすめた。湿った土の匂い、そして馴染み深い馬たちの吐息。冷え込みつつある空気に、この匂いはどこか落ち着きをくれる。
「よーし、ただいま」
声をかけると、馬たちのうち何頭かが、のんびりと首をこちらに向けた。だが――
「……おい、やめろっ!」
狼星の姿を見た途端、茂弘の声が跳ね上がった。
月毛の小さな体が、星雲の馬房の仕切り柵に前肢をかけ、口先で隣のバケツをガンガンと揺らしているではないか。ガラン、ゴン、カラン――音が響くたびに、星雲がびくついたり、首を振ったりしている。
「コラ、狼星っ!」
茂弘が駆け寄ると、狼星は素知らぬ顔で前肢をおろし、しれっと後ろを向いた。
「お前なあ……今度は星雲に怒られるぞ?」
茂弘がしゃがみ込んで馬房の扉越しに顔をのぞきこむと、狼星はまるで「バレたか」とでも言いたげに耳をちょいと伏せ、くるりとこちらを振り向く。いたずらっ子の目をしていた。
その横では、星雲が「まったくもう……」とでも言いたげに鼻息を漏らし、さらに茂弘の袖口をチョンと甘噛みしてきた。
「お、おい。ごめんって、な? あいつ、最近調子に乗ってきててさ……」
茂弘は苦笑しながら袖をそっと引き抜くと、星雲の額を撫でた。その指先が、温かくて柔らかい。
「狼星、こっち来い。飯の時間だぞ」
ふたたび狼星に声をかけると、まるで聞いていなかったふりをして、柵の隅でわざと背を向ける。
「……そうきたか」
茂弘は、軽く咳払いを一つして、馬房に掛かるボードへ目をやった。案の定、餌の交換がまだだった。先にそっちを済ませようと、彼は飼葉倉庫へ向かった。
倉庫に入ると、扉の向こうからガラゴロと物音がする。中には、ハゲ頭がきらりと光る田口の姿があった。馬ではなく、牛用の飼料ロールをトラックから下ろしていたところだった。
「あれ? 茂弘じゃねえか。学校は?」
「もう帰ってきました。田口さん、そっちは牛のほうですか?」
「んだ。こっちのロールはデカくて重てぇのさ。おめぇの馬用はあっちの棚な」
「ありがとうございます。じゃあ、運んできますね」
「あいよ。……って、お前、顔に藁ついてんぞ」
「え?」
「狼星にやられたか?」
田口のちゃかしに、茂弘は顔を指でぬぐいながら苦笑いした。
「まあ、そんなところです」
飼葉を両手に持って戻ると、狼星はまた星雲のバケツの方へ鼻先を伸ばしかけていた。
「だーめっ」
茂弘がきっぱりと声をかけると、狼星はぴたりと動きを止め、首をすくめた。
「お前、なんだか最近知恵がついてきたなあ。まったく……」
馬房の扉を開け、飼葉を静かに中の桶へ移すと、ようやく狼星は茂弘の方へと歩み寄ってきた。ぬくもりのある鼻面を、茂弘の胸にすりつける。
「……よしよし、悪さするくらい元気ってことで、許してやる」
その手が狼星の頬を撫で、首元をくすぐるようにさすると、狼星は気持ちよさそうに目を細めた。
厩舎の奥からは、他の馬たちがそれぞれの夜の準備を始めるように、干し草を咀嚼するくぐもった音がゆっくりと響き出した。
「今日もお疲れさん、狼星」
小さくそう囁くと、狼星は一度だけ、小さな嘶きを上げた。
まるで、「お前もな」と返すかのように。
翌日の昼、ストーブの上のやかんが、「カン、カン……」と微かに鳴っていた。冷え込みは昼を過ぎても和らぐ気配はなく、牧場全体がすでに冬の手前に片足を踏み入れているようだった。窓のすき間から入り込む風が、カーテンの裾をじわりと膨らませては引っ込める。1975年の十月、葛巻の風はもう冗談を言わない。
茂弘は分厚い作業着のまま、休憩室の座布団の上に胡座をかいていた。小さなちゃぶ台の上には、母が握ってくれた焼き鮭入りのおにぎりが二つ。まだアルミホイルに包まれたままだったが、ひとつ手に取って頬張ると、冷めていてもどこかあたたかかった。
「おい茂弘、お前の母ちゃんの握り方って、なんであんなに固ぇんだ?」
向かいに座る古参の厩務員・小泉が、真空ポットの味噌汁をすすりながら言った。頭に巻いた手ぬぐいの端から、白髪がちらりとのぞいている。
「んー……朝、全力で握ってるからじゃないかな。たぶん、俺の勉強より力入れてますよ」
「ははっ、それは母親の本気ってやつだな。こりゃ一本取られた」
そう言って笑う小泉の湯呑みから、ほんのりと湯気が立ちのぼる。寒さの中で、ふっと和らぐ時間だった。
だがその和やかな空気を裂くように、外から「ブロロロ……」とエンジンの音が近づいてきた。砂利道を踏みしめながら、車が無遠慮に牧場の脇に滑り込んでくる。
「……来たな」
小泉が湯呑みを置き、耳をそばだてた。
間もなく、木の引き戸がガラッと勢いよく開いた。
「お邪魔するよ」
姿を現したのは、診療かばんを片手にした獣医・松崎だった。背は高くないが足取りは軽く、どこか無意味に胸を張っている。あまりに堂々とした登場に、何があったのかと一瞬みな視線を止めた。
「おう、松崎先生。寒い中ご苦労さん。今日は何の診療だ?」
「定期のワクチンだよ。泰造からきてなかったか?まあ、それだけじゃないんだがな」
松崎が笑いながら、ちらりと後ろを振り返った。その直後、今度は少し重たげに引き戸が開いた。
「……先生、これ、すごく重いんですけど」
ラジカセらしき機材を両手で抱えて現れたのは、獣医助手の姉帯だった。つなぎ姿に無駄のない所作、二十代後半で、普段は冷静そのものの女性だが、今だけはその表情にうっすらと怒気が混じっていた。
「いやー助かった助かった。出張のついでに仕入れてきたんだ。ついに手に入ったからな、スタジオ1980!」
「ついでって……それ、目的だったでしょ」
姉帯の皮肉もどこ吹く風、松崎は得意満面にラジカセをテーブルに置いた。銀色のパネルがやけに主張していて、ちゃぶ台の上では浮き上がって見えた。
「スタジオ……1980?」茂弘が思わず訊ねる。
「そう、ソニー製だ。ただのラジカセじゃない。これはハイ・ファイ――高音質の時代の先駆けだぞ。音の深みが違う。これで馬の反応を見てみたくてな」
「馬に……ですか?」
小泉が苦笑しながら湯呑みに口をつけた。
「最近な、音に対する反応で仔馬の感覚発達を見る研究があるらしい。俺も勉強がてら、試してみようと思ってな」
松崎はそう言って、ラジカセのカセット挿入口を押し開けた。操作音も妙に重厚で、その手際にどこか陶酔の色が混じっている。
カチリ、とスイッチを押すと――
「さあ、直線コース! 先頭はただ一人! 先頭はカブラヤオー! 悠々一人旅!」
鮮烈な競馬実況が、室内に響いた。予想以上の臨場感に、三人とも眉を上げる。
「うわ……これ、すごいな……」
茂弘がぽつりと言う。
「うちの森山オールウェーブが泣いちまうわ……」
小泉が悔しそうに呟くと、姉帯が小声で「それ、相当古いですよね」と突っ込んだ。
実況の声が止み、しばしの沈黙が流れた。
茂弘は、ふと狼星の朝の嘶きを思い出した。
あの一声。静寂の中に響いた、小さくてまっすぐな命の証し。
「……先生。狼星にも聴かせてみていいですか?」
「ん? ああ、構わんぞ。音量だけ気をつけろよ。驚かせちゃいかんからな」
茂弘は立ち上がり、ラジカセの持ち手をそっとつかんだ。
「持ってくの? ほんとに?」姉帯が眉をひそめた。
「壊しませんって。ちゃんと大事に使います」
ラジカセを胸に抱えたまま、茂弘は休憩室を出た。ドアの外から差し込む冷たい風が、頬を軽く撫でていった。
その背中を見送りながら、姉帯は小さく呟いた。
「……絶対、壊すわね」
牧場の空は、あいまいな色で広がっていた。
青とも灰ともつかない、秋特有のぼやけた光に包まれて、すべての輪郭が柔らかくなっている。陽は雲間に隠れがちで、風が吹くたびに肌寒さが首筋からしのび寄ってくる。
茂弘は、ラジオカセットを抱えるようにして休憩室を出た。手にしているそれは思いのほかずっしりとしていて、肩にかけるには重すぎた。まだ肩も腰も若い彼だが、その重みに、なんとなく「責任」じみたものを感じる。
放牧地までは、厩舎の横手を回り、砂利道を抜けていく。足もとには踏みしめられた枯れ草と、朝のうちに薄く降った露がまだ残っていた。踏みしめるたび、キュッ、キュッと乾いた音が足裏から伝わってくる。
茂弘の横を歩く小泉は、煙草を片手にくわえながら、ちらちらとラジオカセットを見ていた。
「まったく、いまどきの獣医は道具からして違うな。音が違う、音が。まるでレコードだよ、ありゃ」
「松崎さん、張り切ってましたよね。姉帯さんは重そうにしてましたけど……」
「ははは、あの子、目が死んでたな」
冗談めかした小泉の声に、ふたりして笑った。寒い空気の中に小さな笑い声がほどけ、どこかへ吸い込まれていった。
牧柵が見えてくる。そこから先は、放牧地――馬たちが自由に過ごす広々とした空間。風にそよぐ雑草の穂、土のにおい、蹄の刻んだ泥の小径。そこに入ると、世界は一段と静けさを増す。
ラジオカセットの重みを持ち直しながら、茂弘は小さく息を吐いた。
(……こんなふうに、音を聞かせて何になるのか。だけど、あいつに届くものがあれば)
心のどこかで、茂弘は狼星の未来を思っていた。
遠く競馬場を駆ける夢――それが自分の手のひらから離れてしまうものであっても、今はただ、目の前にいる命と、確かに通じ合えるものを信じたかった。
「そろそろ、見えてきたな」
小泉の声に顔を上げると、放牧地の柵の奥に、数頭の馬たちが見えた。淡い午後の光を背に、ひときわ白く映える一頭がいた。
狼星だった。
彼の姿を目にしたとたん、茂弘の心にひとすじのあたたかいものが灯った。秋の冷たい風のなか、ひとときだけ胸の奥がふわりとゆるむ。
そのどこか白い毛並みと、遠くからでも伝わってくるあどけなさ――それは、ただの馬ではなく、確かに彼の時間と心を映す、かけがえのない存在だった。
「よし、狼星――今日はいい音を聞かせてやるぞ」
そう声に出すと、不思議と胸の奥がすっと軽くなった。
ラジオカセットをしっかりと抱えなおし、茂弘はゆっくりと放牧地の扉を押し開いた。