北國で、駆けて   作:久保田

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鐘は鳴る

 放牧地の扉を開いた瞬間、風が一段強く吹いた。

 

 それはまるで、季節そのものが茂弘を迎えにきたかのような、秋の奥から差し出された手のようだった。

 

「きゅるるるっ――」

 

 狼星が声を上げた。高く、透きとおった音だった。まるで風と競うように、軽やかに鳴いた。どこか子供のようなその嘶きに、茂弘の唇がゆっくりとほどけていく。

 

 草原の色はすっかり秋になっていた。

 

 枯れかけた草の先に、まだところどころ緑が残っている。背の低い雑草が風に押されて波を描き、陽の光がその上に淡く散っていた。遠くの林からは、名も知らぬ鳥の鳴き声が間遠に聞こえてくる。――まるで、世界が呼吸をしているようだった。

 

 茂弘は、ラジオカセットを牧柵の内側の乾いた地面にそっと置いた。小泉は少し離れて腕を組み、口元に笑みを浮かべながらそれを見ていた。

 

「ほら、狼星。今日はおまえに音楽だ」

 

 茂弘はそうつぶやき、スイッチを入れる。カセットが回転し、磁気の帯が音を送りはじめる。

 

 スピーカーから流れ出たのは、競馬の実況だった。だが、それはただの言葉ではなかった。音そのものが空気を変えた。

 

 ――カツン、カツン、と蹄が砂を打つ音。

 

 ――ざわめく観客の声、微かにこだまする実況。

 

 ――風を切るような鼻息。

 

 音の粒が、空にほどけていく。そのひとつひとつが、放牧地の空気とまじり合い、草の海に沈んでいった。

 

 狼星は、その音にすぐ反応を示した。首をかしげ、耳をぴくぴくと動かしながら、カセットの前にすたすたと近づく。その黒い毛並みが秋の陽を吸って、うっすらと蒸気のように白く光っていた。

 

 まるで、音そのものを鼻先で嗅ごうとするかのように、狼星はラジオに顔を近づけた。息を吹きかけるようにふう、と鼻息を漏らし、静かに前脚を交差させるような仕草を見せた。

 

「なんだ、分かってんのかおまえ」

 

 茂弘は小声で笑いながらそう言ったが、どこか胸の奥がじんわりと温まっていた。

 

 思えば、自分がこの馬に初めて出会ったときから、なにか説明のつかないものが心を満たしていた。狼星は言葉ではなく、風のように、匂いのように、心に染み込んでくる存在だった。

 

 ほかの馬たちは遠巻きに見ていたが、やがてひと頭、またひと頭と近づき、距離を取りながら音に耳を傾けはじめた。

 

 風と、陽光と、音と――すべてがひとつに混ざり合って、風景はゆるやかに時を忘れていた。

 

 茂弘はふと思った。

 

(これは夢だろうか? ……いや、これはきっと、始まりだ)

 

 この放牧地、この季節、この一瞬。

 

 すべてが彼の心に刻み込まれる。何十年経っても、ふとした匂いで、風の音で、この景色がよみがえるだろう。

 

 故郷が過去ではなく、これから背負っていくべき風景として、茂弘の胸に静かに根づいていた。

 

 そしてその中心に、狼星がいた。

 

 狼星は、ラジオの前でしばらくじっとしていた。

 

 耳を立て、尻尾をゆるやかに左右に振りながら、音の粒ひとつひとつを聴いていた。実況の声の高まりに合わせて、わずかに首を振る。彼の黒曜石のような瞳が、茂弘の顔をちらりと見た。

 

 それは「聞いているよ」とでも言いたげな、やわらかな視線だった。

 

 が、そのとき――

 

 突如として、空気の調子が変わった。

 

 風がふわりと向きを変え、放牧地を斜めに抜けていった。栗の木の枝がざわめき、遠くでカラスが短く鳴いた。

 

 狼星が首を上げた。

 

 空を見たわけではない。けれど、彼の身体が何かを感じ取ったようだった。

 

 そして、まるでそこに「何かの呼びかけ」があったかのように、狼星はゆっくりと背を向け、歩き出した。

 

 茂弘は思わず呼びかけかけたが、その声は出なかった。

 

 その月の背中が、草の波のなかへと沈んでいくのを、ただ見つめるだけだった。

 

「……あれもまた、馬の気まぐれだな」

 

 小泉がぽつりとつぶやいた。

 

「気まぐれ、ですかね……」

 

 茂弘は目を細めた。

 

 だが、その言葉はどこかで違うと感じていた。狼星の歩き方には、まるで何かを確かめるような、静かな意思があった。

 

 彼は知っている――風が、音が、草の匂いが、自分の未来と繋がっていることを。

 

 この放牧地は、ただの牧場ではない。

 

 いくつもの命が生まれ、別れ、育ち、夢を見た地だった。狼星の足跡は、その土に、新しい物語を刻もうとしているようだった。

 

 カセットの音は、まだ鳴り続けていた。

 

 実況の声は熱を帯びて高まり、レースの終盤にさしかかっていた。馬の名前が呼ばれ、蹄の音が強くなる――だが、それを聞く馬の姿はもう遠くにあった。

 

「行っちまったな」

 

 小泉の声に、茂弘はうなずいた。

 

 けれど、その胸の奥には不思議な温かさがあった。

 

 馬は音を聞き、風を感じ、そしてまた自分の歩む道を選んだのだ。

 

(きっと、いつか――)

 

 茂弘は、狼星の背中に向かって静かに言葉を送った。

 

(おまえは、風の中を走るんだろうな。

 人の歓声と、太陽の熱と、あの実況の音の中を――)

 

 秋の空は澄みわたり、雲はゆっくりと流れていた。

 

 狼星の姿はやがて草のむこうに消え、風だけが残った。

 

 そしてラジオは、最後の実況の言葉を告げて、静かに音を止めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の余韻がまだ色濃く残る、日曜の朝だった。

 

 葛巻の秋は短く、そして静かだった。空は抜けるように青く、山の端にはすでに薄氷をまとった木々がじっとしている。馬房の外の白樺の林からは、ひやりとした風がすっと抜けてきて、茂弘の首筋を撫でていった。霜の降りた地面はぎし、と音を立てるたび、まるで眠っていた大地が小さく呻いているかのように感じられた。

 

 茂弘は、毛糸の手袋をはめたまま、長柄の箒で馬房前の通路を掃いていた。まだ陽の当たらないその通路は、昨夜の風で舞い込んだカラマツの葉や栗の殻が溜まり、蹄の跡と混ざって小さな模様を描いている。

 

 どの馬房からも、馬たちが鼻を鳴らす音や、藁をかむ静かな音がする。温かく、ゆるやかな命の音。それらはかすかに、けれど確かにこの小さな世界の鼓動のように茂弘の耳に届いていた。

 

 ──仔馬たちは、昨日よりもまた少し、背が伸びているように見えた。

 

 そんなことを思った瞬間、自分の胸の奥にふとした虚しさが滲んできた。

 

(馬は……毎日、ちゃんと育っているのに。俺は、どうなんだろう)

 

 茂弘は高校一年生になっていた。地域で進学した数少ない生徒のひとりだった。中学の同級生の多くは地元で就職したり、大都市部の職場へと出ていった。

 

「そっちのほうが正解だったのかもしれないな……」

 

 思わずそうつぶやいた自分に、自分で驚く。

 

 何が正解なのかは分からない。ただ、日々繰り返される朝の掃除、搾乳、餌やり──そのルーティンの中で、自分がどこに向かっているのかがわからなくなる瞬間が、近頃とても増えた。

 

 でも、だからと言ってこの土地が嫌いなわけではない。

 

 風のにおい、牛や馬のあたたかな体温、乾いた枯葉の音、そして、見上げればいつも変わらない、でこぼこの山稜線。

 

「好きなんだ、ここが」

 

 胸の奥では、はっきりとそう思っている。だけどその「好き」が、足りないような気がする。好きだけでは生きていけない、そういう話を最近よく耳にするから。

 

「なあ狼星、お前は……どうしてそんなに堂々としていられるんだ?」

 

 すぐ後ろの馬房から顔を覗かせた狼星は、茂弘の呼びかけにぴくりと耳を動かし、鼻先をくいっと持ち上げた。その姿は風の中でもぶれず、どこか悠然として見えた。

 

 脚の不良を乗り越えて、いまや群れの中でも一目置かれる存在になりつつある狼星。茂弘の手で育て、見守ってきた馬だ。その成長は、自分の手の感覚にまだ残っている──けれど、不思議と、それは自分の成長には思えなかった。

 

「育てたのは僕達のはずなのに、なんでこんなに遠く感じるんだろうな……」

 

 掃除を終えた箒を壁に立てかけ、茂弘は冷えた手袋を脱いだ。手のひらは赤く、ひび割れた箇所が沁みる。指のあいだには、乾いた藁の粉が残っていた。

 

 ふと、馬房の奥から陽が差し込んできた。天窓から斜めに落ちてきた光の帯が、藁の山を照らし、その上で狼星の耳がかすかに動くのが見えた。

 

 ――変わっていないように見えて、世界は少しずつ動いている。

 

 茂弘はそのことを、馬の影の揺れの中に見つけたような気がした。

 

 その時、遠くでトラックの音が聞こえた。小屋のほうから父・泰造の声が響いてくる。

 

「おーい、そろそろ搾るぞー!」

 

 日曜日の搾乳作業が始まる。

 

 手搾りの桶の中に落ちる乳の音と、牛の鼻息と、父の話し声と。

また、当たり前のように朝が進んでいく。

 

 でも茂弘は、ほんの少しだけ、自分の中に風向きの変化を感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 牛舎に入ると、草の匂いと発酵した牛糞のにおいが混じった、冬の入り口特有の湿った空気が広がっていた。搾乳用の木製スツールを片手に、茂弘は一頭のホルスタインの脇に腰を下ろした。

 

「この子は昨日より乳が張ってるな……」

 

 そうつぶやきながら、冷たい乳頭に指をかけ、リズムよく手を動かしていく。しゅぽん、しゅぽん、という音が桶に響く。その音に、牛がのんびりと鼻を鳴らす。

 

 隣で同じように作業していた父の泰造が、牛の背中越しに声をかけてきた。

 

「最近の学校はどうだ? アメリカから便りでもあったか」

 

「うん、いい感じ」

 

「そっか…。八戸はどうだ。ここと違って都会だろう。何か感じるか」

 

 その問いに、茂弘は手を止めかけた。

 

「……あるよ。正直、こっちにいたら、いろんなことが遅れてるって感じることもあるし。みんな、どんどん先に進んでるような気がする。テレビで見る街の光や、動いてる経済に、自分だけが置いてかれてるっていうか……」

 

 牛が鼻で吐息を漏らし、柔らかな湯気が夜明けの光に白く溶けた。

 

「けど、嫌いじゃないんだ。この風とか、匂いとか。馬や牛と一緒にいると、落ち着く。でも、それだけで……これから先、大丈夫なんかなって」

 

 泰造は少し黙って、手を止め、茂弘の方を見た。帽子のひさしの下から、じっと息子の目を見つめる。

 

「昔な……俺の親父、お前のじいさんが言ってた。『土地っちゅうのは、ただの場所じゃない。命が回ってるつながりなんだ』と」

 

泰造は桶の中を覗きこみ、搾乳の音を再開させた。

 

「今の国のやり方は、土地を金を生む道具としてしか見てない。農村に工業を導入すべきだの、宅地造成を止めるべきだの……やりようは立派だが、あれは土地の魂を切り売りするようなもんだ」

 

「でも、農家が儲からなきゃ、やってけないじゃん……」

 

「それは確かにそうだ。でもな、金が先にあって、土地がその次って順番じゃ、やがて命の順番が狂う。人は、自然と並んで生きてるんだ。土地も馬も牛も、そして人間も、互いのいのちを抱えている。そう思える心がなきゃ、地域は壊れていく。わかるか?」

 

 茂弘は、桶に落ちる白い乳の音に耳を傾けながら、黙ってうなずいた。

 

 しばらくの沈黙のあと、泰造がやわらかい声で続けた。

 

「なあ茂弘、お前の中で好きだけど不安だて気持ち、俺にもあったさ。お前ぐらいのとき、農業に未来なんかあるか、勉強して市ヶ谷に行くって思ってたな。でもな、結局、人が生きるってのは、誰かと、どこかで、何を信じるかってことなんだ。俺はこの土地を、信じてる。そして、できればお前にも、そうであってほしいと思ってる」

 

 そのとき、牛の背から小さな羽虫がひとつ、ふわりと飛び立ち、朝の光の中を泳ぐように揺れながら消えていった。

 

 茂弘は搾りかけた乳の桶を見つめ、ふとした瞬間に、自分の手が父のそれに似てきていることに気づいた。

 

(自信なんて、すぐには持てないけど……でも、少しだけ分かった気がする)

 

 自分が、どこに立っているのか。どこへ向かいたいのか。

 

 まだ輪郭はぼやけているけれど、目の前の牛のぬくもりが、それを少しずつ形づくってくれているように思えた。

 

 外では、馬房から狼星のいななきが聞こえた。

 

 まるで「おい、遅れてるぞ」と言わんばかりに。

 

「はいはい、あとで行くってば……」

 

 そう言って絞る力を強めると、父がニヤリと笑った。

 

「お前、狼星には敵わねえな」

 

「うん、あいつ、俺より大人かもな」

 

 そんなやりとりに、牛舎の空気が少しだけあたたかくなる。

 

 朝の光が濃くなり、搾乳の音がまた、のどかに響き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後、陽が傾きはじめる頃、秋の風が一段と冷たくなってきた。茂弘は馬房の前で、すでにハミをつけて用意していた狼星を曳いて、ゆっくりと放牧地の裏手にある診療スペースへ向かっていた。

 

 風に揺れる狼星のたてがみ。長く伸びた睫毛の下で黒曜石のような瞳が、茂弘をちらちらと見る。脚の具合も以前よりはだいぶ良くなっていた。かつては少しの段差にも躊躇していたのに、今はまっすぐに踏みしめて歩いている。

 

「お前は、ちゃんと前に進んでるな……」

 

 ふとこぼれたその言葉に、狼星が鼻を鳴らした。まるで「当たり前だろ」と言わんばかりに。

 

 診療スペースには、ちょうど松崎獣医の車が横づけされていた。荷台には金属のケースと医療器具が積まれ、助手の姉帯がカルテらしき紙束を小脇に抱えて立っている。

 

「おお、来たな」

 

 松崎が襟を立てながら振り向いた。相変わらず無精ひげまじりの笑顔で、どこか年齢不詳な風貌だ。

 

 狼星は茂弘の横をすり抜けるようにして松崎の方へ近寄った。そして、ためらいもなく松崎の顔をぺろりと舐めた。

 

「おいおい、診る前から口づけとは熱烈だな」

 

「だいぶ懐いてきましたよね、先生」

 

「まあな。お前さんの顔がそっくりだからだよ。似てるぞ、お前とこいつ。頑固で不器用で、でも妙に愛嬌がある」

 

 茂弘は照れたように笑い、手綱をゆるめる。狼星は診療台の前で止まり、静かに鼻を鳴らした。

 

 松崎は丁寧に狼星の前肢を持ち上げ、関節を押し、筋の伸縮を確認していく。

 

「うん、いい感じだ。前の沈みもほとんどないし、筋の張りも自然だ」

 

 松崎がそう言いながら狼星の鼻筋を押すと、狼星はうっとりと目を細めた。どこか嬉しそうにも見える。

 

 ふと、茂弘は言葉を探すように視線を落とし、小声でつぶやいた。

 

「先生……俺って、ちゃんと成長できてるんですかね」

 

 松崎は手を止めた。医者の目ではなく、大人としての眼差しで茂弘を見つめた。

 

「なんだ、また難しいことを考えてる顔してるな」

 

「最近、狼星とか仔馬たちの成長を見てるとさ、自分だけ止まってるような気がして……焦るんです。周りはどんどん変わってくのに、自分だけ、置いてかれてるような……」

 

 松崎はしばらく黙っていたが、やがて軽く笑って首を振った。

 

「成長ってのはな、見えないところでじわじわ進んでるもんさ。たとえば、土の中で根を張るようにな。葉っぱが出るのはその後でいい。今は根を伸ばしてる時期だ。焦って引っ張ったら、根がちぎれて枯れちまう」

 

 その言葉に、茂弘は思わず黙り込んだ。

 

「それにな……お前、今日だってちゃんと狼星の脚を見てたろ? ほんのちょっとの違和感を感じ取った。そういう目が育ってるってことだ。自分じゃ気づかない変化が、一番大切なんだよ」

 

 狼星が横からふいに顔を寄せ、茂弘の頬をぺろりと舐めた。冷たくて、ぬるい感触に、茂弘は思わず顔をしかめて笑った。

 

「……こいつ、タイミング見てやってんのか?」

 

「かもしれんぞ。馬の方が人間より、よほど鋭いからな」

 

 夕方の光が診療スペースに斜めに差し込み、狼星の体に赤銅色の光を帯びさせた。秋風が、どこか懐かしい草の匂いを連れてきて、空を渡っていく。

 

 その風の中で、茂弘は少しだけ肩の力を抜いた。

 

(焦らなくても……いいのかもしれない)

 

 そう思えたのは、狼星と松崎の言葉、そして何より、ここに流れる時間のおかげだった。

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