北國で、駆けて   作:久保田

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幼駒はこの世に生を受く

 受話器を筐体に戻すと、カツンと小さな音を立てて泰造の坊っちゃんの声が途切れた。緊急の知らせに、胸の奥が不穏に波打つ。ついにキクトモが出産にこぎつけたはいいが、その経過は予想以上に厳しく、母子ともに予断を許さぬ状況のようだった。電話越しに聞こえた坊の切羽詰まった声が耳にこびりついて離れない。偶然丁度今ここにいてよかった。

 

 時刻は午前1時過ぎ。外は深夜の静寂に包まれ、細かな雪が街灯の下で白く舞っていた。積雪はあるが幸い人通りがないため、路面は踏み荒らされず整っている。急げば15分。だが、15分あれば命の火は容易く消えうる。それを考えると、指先が自然と早く動き出す。けれども身体は冬の夜気にこわばり、肺は凍てついたように冷え、思うように動かない。焦燥感が背を走り抜けた。

 

 診療カバンに器具を詰め込む。岩手大学を出て40年余、幾多の修羅場を踏んできたこのしわがれた手が、それでも震えることがあるのだ。特に今回は、海外で研究職に就いている旧友の伝手で手に入れた最新の蘇生装置を初めて実地投入するだろう場でもある。牧場という過酷な現場で、無事に使えるとよいが――。

 

 廊下へ出ると、木造の長屋のような診療所には灯りがまばらに灯っていた。外の降雪の気配が、床板越しにじんわりと伝わってくる。重たい足取りで助手・姉帯の部屋の扉を開ける。紙と文献が山積みされた書斎は、まるで誰かの記憶が物質化したようだった。足の踏み場を確保しながら彼女の肩に手を添えると、姉帯は半分眠ったままの状態で鞄を手に取った。

 

 「どうしましたか……先生」

 

 かすれ声で問いかけてくる彼女に、要点だけを告げる。「キクトモの仔が酸欠の疑いだ。坊が呼吸を試みるだろうが、かなり危うい」そう伝えると、姉帯は短く頷き、鞄を机に置いたまま部屋を飛び出していった。

 

 私は彼女の忘れた鞄を拾い、勝手口から外に出る。吹きつける風に顔をしかめた。冷気が肺にまで刺さる。夜の雪は、まるで世界を静かに殺していくような静寂と冷たさをまとっていた。

 

 既に車のエンジンはかかっていた。運転席には姉帯が座り、前方を見つめている。催促され、私は後部座席に乗り込んだ。

 

 「泰造さんの牧場ですね」

 

 「ええ。雪で視界が悪いが、急いでくれ」

 

 道路に出た車は、ヘッドライトで白く霞む雪の闇を切り裂きながら進む。私は後部座席の小机で、心肺蘇生に必要な器具の準備を始めた。牛革のカバンを開き、灯りをあてる。鼻腔チューブ、携帯心拍計、AED。どれも高価なもので、欧州の研究施設を通じて取り寄せた最新モデルだ。獣医療においても、命の瀬戸際で必要とされるのは“正確さ”だ。

 

 「この雪じゃ、普段の道も使えないかも……」

 

 「いや、今日は組合が除雪に入ると聞いていた。大丈夫だ」

 

 助手との短い会話の中で、幼駒の容体を思い返す。足胞が赤いというのは、分娩前に胎盤が剥がれた可能性がある。低酸素状態。最悪の場合、心停止。私の脳内で、対処手順が次々と走っていく。

 

 やがて、車は山あいの鬱屈とした地下水の染み出るトンネルへ入った。車内の灯りに照らされる。

 

 「もう熊の冬眠明けになるような時期だったか」

 

 「もう熊を見たんですか、先生」

 

 「ああ、熊がいたよ。丁度この車の前方さね。森に入っていって いるから大丈夫ではあるだろうけど。この時期とは何かね」

 

 姉帯はラジオから流れる道路交通情報に気を取られ、前方斜め上に見えた熊の輪郭には気づかなかったらしい。

 

 「この時期に……先生、さすがに目ざといですね」

 

 私は軽く頷いたが、脳裏は既に牧場に向いていた。あと数分。外気がさらに冷え込み、息が白く濃くなる。

 

 「あと4分で着きます。降りる準備を」

 

 私は頷き、机に広げた器具を一つ一つ鞄に収めていく。「CPRが必要なら、鼻腔からチューブを入れる。合図したら頼む」

 

 「坊さんは……対応できそうですか?」

 

 「彼だけが信頼できる。泰造は押す力が弱すぎる。訓練不足だ」

 

 助手は「了解」と返し、車が牧場の敷地に入った。

 

 外は銀世界。厩舎の奥に一つだけ灯る光が、希望であれと願わずにはいられなかった。私道の入口で懐中電灯を振る厩務員が現れ、姉帯がそれに従い車を止める。

 

 扉を開けると、夜気が容赦なく肌を刺す。私は鞄を持ち、白く染まる息を振り切るように歩き出した。

 

 「状況を!」

 

 「生まれた仔はまだ息をしていなくて、坊っちゃんが人工呼吸をして、社長が胸を押しているんですけどなかなかどうしてか呼吸してくれません」

 

 状況は緊急を要していた。助手と彼を連れて馬房へ急ぐと中には口対鼻呼吸法を採る坊と、胸を圧迫する泰造がいた。彼らは私に気づくと幾分か表情が和らいだが、すぐに緊張感のある面持ちに戻った。

 

「胸の圧迫は私がしよう。姉帯、私の鞄からチューブを取り出して気道を確保させろ」

 

 その顔に浮かぶのは、祈るような必死の表情だった。突然の乱入者にキクトモは少しばかり驚いたようだった。鼻先をこちらに向け、ヒクヒクとしている。よく見る姿だったからだろうかキクトモら直ぐにこちらへの興味を失い、目の前の我が仔に目を戻した。

 

 「泰造、代われ。姉帯、チューブ」

 

 一分間に100回以上圧迫しなければならない上に、過剰に押してしまわないようにするという作業は久々にやってみると思ったよりも大変だった。まだ、この幼駒は熱を持っている。まだ彼、あるいは彼女には生き残る権利があるのだ。私はなんとかして命を紡ぎきってみせようと思った。

 

 助手の姉帯が坊と変わり、急いでチューブを鼻に挿入する。チューブの先にあるゴムを押し、空気を肺に送る。何度か繰り返しているとこの幼駒が先程よりも温まってきて、遂に目を覚ました。

 

 「呼吸が始まりました」

 数度、胸が震えた。静かだった馬房の空気が、ふっと変わる。姉帯の声に、場の空気が弾けた。幼駒が目を開け、小さく鼻を鳴らした。仔馬から離れると、母馬のキクトモが首を伸ばし、仔の顔を優しく舐める。

 

 馬房は希望に満ちたが、未だ山場は過ぎたばかりである。外の雪は激しさを増し、馬房を揺らす。ここまで時間がかかったのだからこの幼駒が負ってしまった影響は尋常でないだろう。それでも、ここまでしぶとく生き延びた幼駒には普通でない力があるはずだ。

 

 「この馬は走る。きっと力強く走る。私がそう思ったのだから必ずや走ってくれる」

 

 そうつぶやくと、隣りに居た坊は少し鳩に豆鉄砲を打ったような顔を私に向けた。幼駒の目は生き残ろうと必死になっていて、足掻いている目のように私には感じられた。そのとき、幼駒の顔が偶然、こちらに向いた。その時、私の瞳に映った幼駒の目が、そうであると返事をする目のように感じられたのは、あながち間違いではないのかもしれない。

 

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