北國で、駆けて   作:久保田

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深草色は褪せて

 窓硝子に薄く霜がおりていた。

 

 朝陽はまだ山の稜線を越えきらず、葛巻の盆地は一面、灰がかった淡い金色の光に包まれていた。凍てついた大地の呼吸がうっすらと白い靄をまとい、畑の上に立ち上がってはゆっくりと風に消えていく。遠く、馬の嘶く声が木霜(こしも)に吸われて、ほとんど霞のように茂弘の耳に届いてきた。

 

 二階の部屋。畳敷きの床の上に、分厚い文献とノートを広げ、茂弘は机に向かっていた。

 

 教科書はすでに閉じられ、ページの端に置かれたままになっている。代わりに机の中央に鎮座しているのは、松崎獣医が貸してくれた洋書からの翻訳資料だった。

 

 一つは「品川日出男らによる環状DNA発見」に関する報告書。1966年、大腸菌のDNA構造が円環状であることを収めたという論文と、それに対する追実験等に関するものだった。

 

 もう一つは、「遺伝子暗号の解読」に関するコールド・スプリング・ハーバー会議の記録。mRNAとコドン、これによるトリプレットの連続。三文字の塩基がどのようにしてタンパク質へと変換されるか──言語のような、いやそれ以上に明瞭で、しかし底知れぬほどの神秘を感じさせる文字列が、ぎっしりと記されていた。

 

「……こんなに小さな世界で、こんなに厳密な秩序があるなんて」

 

 茂弘は鉛筆をくるくると回しながら、呟いた。紙の上の図表を目で追いながら、脳裏では牛や馬の腸内に生きる無数の菌や、春に生まれた仔馬・狼星の成長を支える細胞の働きを思った。自分の掌の皮膚の下に広がる、目には見えない精緻な世界。それはまるで、機械の部品のようでありながら、どこか音楽の譜面のような有機的な律動を持っていた。

 

 ──けれど。

 

 茂弘の心には、どこか引っかかる感覚もあった。

 

 科学の進歩は眩しく、果てがないように見えた。だがそれと同時に、それはまるで、古い世界を一枚ずつ剥がしていく作業のようにも感じられた。

 

「牛の乳搾りだって、昔は全部手でやってたのに……。今は、機械がやる時代になろうとしているようなんだよな……」

 

 松崎獣医が先日、朝に言っていた言葉を思い出す。東独で搾乳機が数年前に発表されたらしく、欧州では徐々に導入されるのも、時間の問題だった。人の手から離れていく「暮らし」。そこに、豊かさとは別の、どこか寂しさのようなものがあった。

 

 窓の外では、朝の斜陽がようやく稜線を越え、雪囲いの始まった家々の屋根に鈍く反射していた。かつて、馬と人とがともに働いていたこの土地にも、時代の波は着実に押し寄せている。大人たちは、それを「進歩」と呼び、子どもたちはその背中を見て育った。

 

 けれど、茂弘の心は、はっきりと割れていた。

 

 一方には、科学の知識を追い求める知的興奮。

 

 他方には、馬の体温、乳搾りの手の感触、土の匂いとともにある日々の安心。

 

 そのどちらかだけでは、生きていけない気がしていた。

 

 「僕は、どこへ向かってるんだろう……」

 

 ふと視線を上げると、窓の外を一羽のカケスが横切った。

 

 白と青の羽が、冷えきった朝の光のなかで一瞬だけ光り、すぐに森へと吸い込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後四時。北東北の秋は、陽の傾きが早く、影の輪郭が昼過ぎから濃くなる。冷たさを帯びた風が、木の葉をかすめ、路地裏の軒下を撫でるころ――居酒屋「たかや」の引き戸を、泰造が勢いよく開けた。

 

 曇ったガラスの向こうにあった外の光が、古い木目のカウンターや、黄ばんだ障子の紙を通して店内に差し込む。店内の空気は外気の冷たさとは裏腹に、煮込みの湯気や炭火の名残でどこか湿り気を帯び、遠い薪の匂いが混じっていた。

 

 茂弘は父の背に従い、無言で靴を脱いだ。畳に足を置くと、いくらか湿った冷たさが、くるぶしから染みてくる。まだ足袋の必要はないが、確実に冬の気配は忍び寄っていた。

 

 既に数人の地元の男たちが集まっていた。座卓の上には、瓶ビールや煮物、薄茶色の漬物皿が並び、紙のコースターがうっすらと湿気を吸って波打っている。店内の奥からは、湯気とともに笑い声が立ち上り、北国特有のなまりが、空気の上をたゆたっていた。

 

「茂弘、ほら、あっちの席行ってこい。子どもらも来てるから」

 

 父の声は、どこか気安さと照れの混ざった響きを帯びていた。

 

 茂弘は視線をそっと投げる。店の片隅、ガラスの灯りが届きにくい小さな卓に、数人の若者たちが座っていた。自分と同世代ではない。ひとりは年上の女性、もうひとりは年下の少年。

 

 その構図が、不思議と自分を「どこにも属さぬ存在」に感じさせた。

 

「……久しぶりだね、茂弘くん」

 

 その声は、さながら夕映えの中に咲く薄紅の花のようだった。

 

 田中幸子。茂弘より二歳年上、十八歳。かつて彼が憧れた相手――子どもである自分が、初めて「異性」という言葉に意味を見出した相手。

 

 彼女の容姿は、記憶の中のそれとは変わっていた。

 

 亜麻色の長い髪は、昔は風にほどけていたが、今は後ろで静かに束ねられ、生成りのワンピースに分厚いウールのカーディガンを羽織っていた。その装いは、どこか野の草のような素朴さと、神秘的な柔らかさを同居させていた。頬には紅潮がわずかに差し、健康さと静かな覚悟が滲んでいる。

 

 普段は夫の稔など大人に混じって酒を飲んでいるが、今日はこちらにいた。

 

「お酒、飲まないんですか?」

 

 そう尋ねた茂弘の声は、自分でもわかるほど、どこか頼りなかった。目の前の空のコップを指先でなぞりながら訊ねると、幸子は微かに笑い、お腹にそっと手を添えた。

 

「妊娠してるから……六週目」

 

 その言葉は、まるで春の雪解け水のように、柔らかく、しかし冷たく茂弘の胸の奥へと沁みていった。

 

 傍らで秀樹が「すごいなぁ!」と素直に感嘆の声を上げている。幸子は満ち足りたように微笑み、お腹を撫でる仕草には、既に母のような優しさが宿っていた。

 

 茂弘の中で、「自分を中心として回っていた世界」の感覚が、音もなく、崩れ落ちていった。まるで、重力を失った天球が軋みながら回転を止めるような、無音の衝撃。

 

 あの日、陽だまりの中で木の実を投げ合っていた頃の幸子は、もうここにはいなかった。彼の知らぬ時間の中で、別の誰かと結びつき、新たな命を宿している。その現実は、彼が一度も触れることのできなかった温もりを、目の前でゆるやかに確定させていた。

 

 ふと、大人たちの座敷から、「稔」の名前が耳に届いた。

 

 ──稔。幸子の夫。

 

 泰造の声が混じる。「稔はようやったな、若ぇのに」「これで田中の家も安泰だ」

 

 炭火の匂いと一緒に、その言葉が染み入るように、茂弘の胸に沁みこんでくる。あの頃、自分たちが声を上げて笑っていた場所は、今や「別の時代」の人々のものとなりつつある。

 

 その移ろいは、大きな音も波紋も立てず、ただ静かに、不可逆に、進んでいく。

 

 幸子と秀樹や…の会話の横で、茂弘は無言のまま、割れた漆塗りの茶碗に水を注いだ。茶碗の内側には、かすかな傷が走っている。それはまるで、彼自身の心の裂け目を映すようだった。

 

 冷たい水が喉を伝うたびに、身体の奥底で何かが震えた。それは、未来がこちらを見つめているような、言いようのない予感だった。

 

 

「変わらなければならない」――その声は、誰に言われるでもなく、体の中から響いていた。

 

 幸子の腹の中の命は、新しい時代の証。

 

 農のかたち、家族の在り方、共同体の構造、それらすべてが変わっていこうとしている。

 

 それでも、今この居酒屋には、まだ旧い時代の笑い声が残っていた。父や母の世代が築いた制度。それは瓦のように時を重ね、軋みながらもなお生きている。しかし、誰の目にも、それがゆっくりと時代の片隅に押しやられていることは明らかだった。

 

 そのどちらにも、今の自分は完全には属していない。

 

「……なんか、みんな、大人になっちまったな」

 

 その言葉は誰にも届かず、ただ座敷の欄間にぶつかり、音もなく消えていった。まるで、過去に放たれた石が、どこにも着地せず、空に吸い込まれていくように。

 

 午後五時半。空気は確かに変わり始めていた。障子の隙間から吹き込む風は、山の影を運んでくる。炬燵の上にかけられた毛布は毛羽立ち、少し心許ない。

 

 茂弘は、その下で、冷えた手をこすり合わせた。ふと視線を上げると、柱時計が「カン」と音を立てる。

 

 その響きは、遠くの時代の声のように、耳の奥に残った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後七時過ぎ。居酒屋「たかや」の暖簾が寒風にたなびき、扉が再び開いた。

 

 夜の葛巻の風は、秋というにはあまりにも鋭く、すでに冬の匂いを帯びていた。道の端には、まだ雪ではないものの、朝の霜が再び凍りはじめ、街灯の光に青白く光っている。

 

 泰造は酔いに身を任せ、ほろほろとした笑顔を浮かべたまま助手席に体を沈めた。鼻から洩れる小さないびきに、茂弘は車のドアを静かに閉め、後部座席に乗り込んだ。

 

 母がハンドルを握っていた。夜の道路を照らすヘッドライトが、道路脇の枯れ草をなぞるように光を走らせる。

 

 沈黙が数分つづいた。車内には、ラジオもかかっていない。静けさは、温度と同じく、冷え切っていた。

 

「……狼星とは、うまくやってるの?」

 

 その声は、ブレーキを踏んだわけでもないのに、不意に茂弘の胸に揺れを生んだ。

 

 母の声は普段より少し低く、柔らかかった。後ろを振り向くことなく、ただ前を見つめたまま、問いを投げかけた。

 

「……ああ。前より落ち着いてきたよ。足も、だいぶ強くなったって松崎さんが」

 

 母はふっと小さく笑ったようだったが、それ以上の言葉はなかった。

 

 しばらく車は、町の外れを通り抜け、畜舎の灯りが遠くに見えはじめた。

 

「お母さん」

 

 茂弘は、唐突に言葉を発した。自分でも、それが何を意味しているのか、まだ定かではなかった。

 

「……どうして、人は変わっていくのかな」

 

 母は、わずかにウィンカーを鳴らしながら、次の交差点でゆっくりと左折した。方向を変えるたびに、車内のわずかな光が茂弘の顔を照らした。

 

「人が変わらなかったら、生きていけないもの」

 

 その言葉は、優しさでも慰めでもなく、ただ静かな現実としてそこにあった。

 

「でもさ……。なんか、周りばっかり変わっていって、自分だけが置いていかれてる気がするんだ」

 

 母は答えなかった。答えのない問いだとわかっていたのかもしれない。あるいは、母もまた同じ感覚を、人生のどこかで抱えたことがあったのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 車が家の前に着いた頃、月が雲の切れ間から顔を出していた。冷たい夜空の下、母は運転席のドアを開けて外に出た。泰造を起こさぬように、そっと手を貸す。

 

 茂弘は、自分の部屋の窓に目をやった。あの机の上には、今日も文献のコピーが積まれている。「環状DNA」「mRNA」「遺伝子暗号表」……ページをめくるたびに、世界が一つずつ「未知」を失っていくような感覚。

 

 だが、それでも人は前に進む。命が続く限り、変わってゆく。

 そうだ。幸子の中にも新しい命が芽吹き、狼星は脚の弱さを克服し、父は老い、母は静かにそれを支えている。

 

 そして、気づかぬうちに──自分もまた、変わっているのだ。

 

 

 

 家の玄関前。冷えた地面に母の足音が静かに響く。

 

「……お父さんの靴、持ってあげてくれる?」

 

 そう言って母は、玄関の灯りの下で茂弘に振り返った。

 

 その笑顔は、どこか懐かしいようで、けれど少しだけ遠くにあるようにも見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 初雪は、いつも不意に訪れる。

 

 それは空から降ってくるというよりも、大地が静かに呼び寄せるようにして降りてくる。

 

 11月も終わりに近づいたある朝、茂弘が目を覚ますと、窓の外は真っ白に沈んでいた。

 

 小さな冷気の粒が、窓枠のガラスに張りつき、幾何学模様を描いている。吐く息は白く、指先はかじかんで動きにくい。だが、その冷たさはどこか清らかで、体の芯に眠っていたものを目覚めさせるようでもあった。

 

「……降ったんだな」

 

 茂弘は、ひとり言のように呟いて、薄手のフリースを羽織った。馬房へ向かう足元には、昨夜の霜とは違う、柔らかく音のない雪が積もっている。

 

 厩舎の扉を開けると、馬たちはすでに目を覚ましていた。吐く息が馬房内を白く煙らせ、藁の香りが湿った空気と混ざり合って鼻に届く。

 

「おはよう、狼星」

 

 茂弘が声をかけると、奥の馬房から狼星がゆっくりと首を伸ばした。その毛並みは、夏の陽差しのもとで見たときとは違い、ふっくらと厚く、冬毛がやさしく光を反射していた。

 

「寒いの、苦手じゃなかったっけ?」

 

 返事のように、狼星は一度鼻を鳴らし、柵越しに茂弘の肩へと顔を寄せてきた。温かな鼻先がフリースに触れた瞬間、冷えていた茂弘の体にじわりと熱が伝わる。

 

「……ありがとな」

 

 その言葉に、狼星は小さく鳴いた。まるで、「お前もがんばれよ」と言っているかのように。

 

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