北國で、駆けて   作:久保田

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星降る夜を控え

 雪はまだ積もるには早い十二月の昼下がり、牧場の前を走る県道沿いに一人の少年が立っていた。白銀には染まりきらぬが、色を失いかけた大地はどこか脆く、風に吹かれては凍てついた土埃がささやかな音を立てている。風景は岩手の晩秋と初冬が交錯する、そんな曖昧な色合いのなかにあった。

 

 少年――茂弘は、手袋の中に小さな文庫本を差し込んで読んでいた。指先の感覚は徐々に失われていくが、ページをめくる手は止まらない。読んでいるのは、遺伝学についての書だった。学校の教科書よりもずっと難しいが、彼の興味はそこにあった。狼星の脚の異常や筋肉の動き、そうした現象の背景にある「見えない仕組み」に触れたくて、彼は馴染の松崎から借りてきたのだ。

 

 ふと、静寂を切り裂くような音がした。

 

 「キョロロロー……」

 

 目を上げると、赤い頭のアオゲラが一本の枯れかけたナラの木にとまっていた。まるで春先の囀りのようだと茂弘は思った。こんな季節に鳴くのは珍しい。季節の秩序が少しずつ狂っているのかもしれない。自然が示す小さな違和感が、心の奥にわずかなざわめきを残す。

 

 彼の視線が道の先に向けられたとき、黒く輝く大型の車が姿を現した。真新しくみえる遥かなるそれは、周囲の林間風景から明らかに浮いている。小さな車の車体が徐々に近づき、ボンネットにかかる陽の光を跳ね返す。

 

「きっと浅沼さんだ……」

 

 そう呟くと、茂弘はそっと本を閉じ、胸ポケットにしまった。

 

 エンジンの音が近づき、やがて車は牧場前で停まった。タイヤが砂利を踏みしめる音が冷たい空気に響き、ドアが開く音が続く。スーツの上から紺色の外套を羽織った浅沼が、ゆったりと車から降り立った。足元には濃い色のくろい革靴。ドアから見えた車内には長靴が2足あった。彼の背後には、運転席から降りてきた若い女性秘書の姿もあった。ブラウスにロングコートを羽織った彼女は、手に革張りの小さなフォルダーを持っていた。

 

「待たせたね、茂弘くん」

 

 浅沼の声は低く、抑えのきいた口調だったが、どこか医師の面影を残した穏やかさがあった。

 

「いえ、大丈夫です。……ありがとうございます、来てくださって」

 

 茂弘は頭を下げ、しかしそのまなざしは浅沼の隣に立つ秘書へと無意識に移っていた。スーツ姿の彼女が醸し出す空気が、この葛巻の風景にはどこか異質だった。まるで、東京から切り取って貼りつけられたような存在感。

 

「……狼星の様子は?」

 

 浅沼の問いに、茂弘は小さく頷いた。

 

「元気です。脚も、少しずつ良くなっています」

 

 そう答えると、どこか胸の奥がチクリとした。元気だ、と言ったが、それは自分の馬だからではない。浅沼の馬を、ただ預かって世話しているだけ。これまでは特に気にしたことのないその距離感が、急に突きつけられた気がした。

 

 冷たい風が一陣、彼らの間を通り抜けた。アオゲラの声は、いつの間にか消えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ストーブの熱が部屋の隅々に行き届かず、事務所の窓ガラスには薄く白い結露が浮かんでいた。天井の蛍光灯はわずかにちらつき、冬の午後特有の鈍い光が木製のテーブルに静かに降りている。事務所には、灯油と馬毛が混ざった独特の匂いが漂っていた。

 

 茂弘は父・泰造の隣に座り、正面に座るスーツ姿の浅沼を見つめていた。浅沼の隣には、黒髪をきっちり結った若い秘書の女性が、やや緊張した面持ちで浅沼の鞄を膝に抱えて座っていた。

 

 浅沼は小さく頷きながら、場を見渡すように話し始めた。

 

「前回伺った時よりも、ぐっと冬の匂いが濃くなりましたな。――あのとき、狼星を見たのはまだ草の青みが残っていた頃だった」

 

 泰造が、頷きながら笑った。

 

「んだな……あ、いや。そうですね。あの頃は、ちょうど……放牧の切り替え時期でしたから」

 

 茂弘は、静かに浅沼を見つめながら、彼の観察力の鋭さを感じていた。年齢の割にやつれた様子もなく、落ち着いた話し方の奥に、臨床の現場で培ったであろう冷静さと、人を見る目があった。

 

「狼星は順調に育っていますかね?」

 

 浅沼が茂弘に向かって尋ねた。

 

「はい。……最初は脚の不安がありましたが、今は安定しています。成長は早い方だと思います。気性も……だいぶ落ち着いてきました」

 

「それは安心 〱。君が日々世話をしているからこそでしょう」

 

「いえ……僕だけの力ではありません。牧場のみんなの協力があってこそです」

 

 浅沼は口元をわずかに緩めて微笑んだ。その態度は威圧感とは対極にありながら、どこか試すような静けさを湛えていた。

 

「実は、狼星を含めて、あの時は複数の馬を購入したんだね。彼はその中でも、一番癖があるとお前の父さんに言われた馬だったよ。だからこそ、なおさら私は気になったのよ。なぜ、君たちの牧場がこの馬を育てようとしていたのか」

 

 泰造が、浅く咳払いをした。菊友と共に見た狼星との出会いを思い出したのか、浅沼は何かをかみしめた顔で瞑目した。

 

「正直に言えは……この仔だけは、うちで育てなきゃ、少しばかり不憫だと思ったんです。血統も、見た目も、脚の不安もあって……でも、妙に惹かれるもんでな」

 

「感情と判断は両立する――それが、現場を知っている者の選び方でしょうね」

 

 浅沼は言葉の余韻を残しながら、狼星の血統書の写しを秘書から受け取って捲った。いくつかの写真とメモを確認した後、顔を上げた。

 

「ところで、もう一頭。私が購入した仔馬の一頭――黒鹿毛の牝馬がいるはずです。まだ直接は会っていませんが、調子はいかがですか?」

 

「狼星と一緒に放牧さ出してますよ。狼星と同じ牧区に。……見にいかれますか?」

 

 泰造がすぐに提案し、浅沼は即座に頷いた。

 

「ぜひ。せっかくここまで来たのですから、すべての子の様子を見ておきたい」

 

「では……私が運転しますので…。ああ、いえ、なかんずく山の方ですが、すぐだべ……あ、やあ、すぐです」

 

 事務所の中に、ほんのりと笑いが広がった。

 

 茂弘は椅子を引いて立ち上がると、胸の奥で小さく息を吐いた。浅沼が言った「癖がある」という言葉が、どこか自分にも重なる気がした。自分もまた、不器用で、うまく周囲に馴染めず、それでも何かに引き寄せられるように馬に関わっている。

 

 自分を見ているのか、馬を見ているのか――その境界が曖昧になっていることに、茂弘はまだ気づいていなかった。

 

 事務所を出ると、外の空気はますます冷えていた。空は重く、雪を孕んだ雲が南から流れてくる。放牧地までは車で十五分ほどの道のりだ。

 

 風が吹き、赤茶けた枯れ葉が一枚、茂弘の足元をかすめて舞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後の陽はすでに山の端へと傾き、葛巻の空には冬特有の青灰色の静けさが滲んでいた。町を離れ、車はゆるやかな坂を登る。背後には低く曇った空が雪をはらむような重さを見せ、風はすべての音をかすかに凍らせながら、車体の脇をすり抜けていった。

 

 ハンドルを握るのは茂弘の父・泰造だった。作業着に厚手のジャンパーを重ね、口元には薄く霜焼けの跡が浮かんでいた。助手席に座る浅沼は、濃紺の外套に身を包み、車窓の外に広がる冬の風景を無言で眺めている。後部座席では、茂弘と秘書が並んで座っていた。窓の向こうに見える杉林は、葉にうっすらと霜を宿し、まるで冬の気配を纏った幻影のようだった。

 

「……今年の冬は、早いですね」

 

 秘書がふと口にすると、泰造が肩を揺らして笑った。

 

「そうだな、ここのところの冷え込みが一段と厳しいんでさ。馬たちのの膝も鳴きはしませんがね」

 しかし、すぐに思い出したように声を改める。

 

「……いや、寒さが急に強くなってきたようで。馬たちにも堪えるでしょうな」

 

 言葉を選びながらも、泰造の語り口には方言がにじみ出ていた。茂弘は、そんな父の声にどこか安堵を感じながらも、後部座席からフロントガラス越しの空を見上げた。雪はまだ降っていないが、空気には確かにその予兆が含まれていた。雲の底は厚く、陽光はすでに冬のそれで、冷たく淡い。

 

 浅沼は、静かに目を細めて外を見ていた。

 

「札幌の冬は、こういう空にならない。乾いていて……もっと澄んでいる。でも、内地の雪国の冬は……空そのものが地面に引き寄せられているようで…。重たいですね」

 

 その言葉に、茂弘もまた思いを重ねた。冬の岩手は、ただ冷たいだけではない。空気の粒子が大地と同じ重さを持ち、空もまた、沈黙の中で圧し掛かってくるような深さがあった。自然そのものが、目に見えない力を持って人の心を包み込んでくるのだ。

 

 道の両脇は、もはや白く霜に覆われ、枯れ草の上に陽の光が斜めに差し込んでいる。その光の中を、野鳥の影が幾度か横切った。遠くの斜面には放牧地がうっすらと見えはじめていた。灰褐色の草地に、数頭の仔馬の影が見える。

 

「もうすぐ着きます」

 

 泰造が前を見据えたまま、ぽつりと呟いた。

 

「今の時期は放牧も短いども、こごの仔馬たちは寒さにこそもめっぽう強いんです。……ま、狼星は別格かもしれませんがね」

 

 その名を聞いた瞬間、茂弘の胸に、ひとすじの熱が灯った。狼星。あの月毛の仔馬。彼が春からずっと見守り、育て、語りかけてきた命。冬の風が頬を打つたび、その温もりが逆説的に思い出される。あの馬の鼻面の柔らかさ、目の奥に宿る人を信じようとするまなざし。それらは、今もこの胸に確かに生きている。

 

「見えてきたな」

 

 浅沼が前方を指した。

 

 林の切れ間から、柵で囲われた放牧地が開けていた。風は一層冷たく、空は薄く鋼色に染まっている。車は、轍に残る氷を踏みながら、静かに減速していった。

 

 茂弘は、呼吸を整えた。冬の景色の中へと、これから自分が踏み出していくことを感じていた。かつて科学書の中で出会った未来は、遠くで輝く夢のようだった。しかし、いま目の前にあるのは、冷たく現実的な自然であり、そこに生きる命だった。

 

 彼はその世界に、足を踏み入れようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 車が止まったのは、放牧地を囲む古びた木柵の傍だった。冬枯れた草原の一角、ところどころ土が凍り、霜の白が浮かぶその地面の上に、陽は斜めから射し込み、光と影の織りなす静謐な図絵を描いていた。

 

 ドアが開く。最初に降りたのは茂弘だった。吐く息が白く立ちのぼり、その輪郭が風に散らされる。すぐに、ぴしりと張り詰めた冷気が頬を打つ。しかし、その冷たさは彼にとって、なじみ深い慰めのようでもあった。冬の葛巻の空気は、時に言葉よりもまっすぐに心を洗い落とす。

 

 彼が柵の近くに歩を進めると、草地の向こうに馬たちの影が見えた。褐色や栗毛、芦毛の仔馬たちが、枯れ草の中でゆったりと首を振り、ひづめを曳いて歩いていた。そのいくつかは、仔馬らしい細身の体を母代わりの繁殖牝馬の腹に寄せ、体温をもらうように寄り添っている。

 

 しかし、その中にあって、ひときわ早く彼に気づいたものがいた。車の音で感づいたのだろう。

 

 月毛――狼星だ。

 

 柵の向こうから、まっすぐに顔を出す。風にたなびく白銀のたてがみが、午後の陽に淡く光り、瞳はまるで人間のような深い感情をたたえている。

 

 「……狼星」

 

 その名を茂弘がそっと口にしたとき、仔馬はひとつ耳を動かし、柵に鼻面を近づけてきた。

 

 茂弘はそっとその額に手を伸ばした。冷たい鼻面が彼の掌にふれる。まだ幼い、柔らかな温もり。ひとのぬくもりとは違う、自然の深みと無垢を感じさせる命の震えだった。

 

 「いや、やはりいい馬だな」

 

 浅沼が言いながら、柵のそばまでやってきた。重そうな外套の裾が草をかすめる。

 

 茂弘がわずかに後ずさると、浅沼はゆっくりと手を伸ばし、狼星の頬を撫でた。狼星は驚きもせず、むしろその手を受け入れるように、ぬるりと舌を出して浅沼の手の甲を舐めた。

 

「……信じられない。ここまで人に懐くとは。買ってよかったと思わせてくれるな」

 

 浅沼の声には、政治家としての公的な響きではなく、ひとりの馬主としての、飾らぬ感動が滲んでいた。

 

 そのとき、少し離れたところで、やや小柄な黒鹿毛の仔馬が秘書の髪にじゃれついているのが見えた。秘書の髪は、絹のような光沢を帯びた黒で、仔馬はそれを楽しげに口でくわえ、くいと引っ張っている。

 

 「この子は……」

 

 茂弘が訊ねると、浅沼が答える。

 

「同じ時に買った牝馬だ。少し神経質だが、こうして見ると甘えん坊のようだな。ああして他人に懐くとは思わなかった」

 

 秘書が苦笑しながら馬の鼻先を軽く払うと、仔馬はいたずらがばれた子供のように、一歩あとずさり、首をかしげた。

 

 空にはわずかな雲が流れ、日差しが一瞬だけ陰った。すると、放牧地全体が少しだけ静まり返ったように感じられた。風がまた吹く。乾いた草の香り、土のにおい、そして馬たちの温もりを含んだ呼気の匂いが入り混じる。

 

 茂弘は、ふと足元を見た。凍った地面に、彼と狼星の足跡が並んでいた。これまで歩んできた日々。そして、これから進む日々。科学への探究、そしてこの北国の自然との関わり。その二つが、いま彼のなかで交差していた。

 

 旧い世界は、確かに失われていく。でも……ここにいる命たちは、まだ変わらずに息をしている。

 

 その思いを胸に、茂弘は柵の内側を歩く狼星を、ただ黙って見つめていた。

 

 

 

 

 

 帰宅して間もなく、日が完全に落ちた。

 

 灯りを落とした自室は、雪を映す窓の白みにかすかに照らされている。茂弘は机に突っ伏すようにして、放牧地での情景を思い出していた。

 

 狼星の、あの黒曜石のような瞳。

 

 柵の向こうでこちらを見つめていた静かな気配。

 

 そして、浅沼の差し出した手を迷わず舐めた、信頼のような仕草。

 

 ――あれは、何だったのだろう。

 

 言葉にはできない感覚が、胸の奥でまだ蠢いている。

 

 彼は静かに立ち上がり、窓辺に近づいた。外は風が止み、森の奥に雪が降り積もる気配だけが、しんと世界を包んでいる。街灯の光が雪を薄く照らし、木々の枝が白く輪郭を帯びていた。

 

 浅沼の言葉が、ふと胸のなかで蘇る。

 

「命を数式に変えることは、時に命を奪う行為にすらなる。」

 

 自分が読み耽ってきた科学の本。どれも魅力的で、新しい世界の扉を開く鍵のように思えていた。だが、それと同時に、その扉の向こうにあるものが、いまの彼には見えなくなっているようにも思えた。

 

 狼星の温もりは、あれらの文献のどこにも載っていない。

 

 命の手触りも、視線のぬくもりも。

 

 科学が記述する「生命」と、自分が触れた「いのち」は、どこかで重なり合いながらも、決して完全に一致しないのではないか――そんな疑念が、茂弘の胸をゆっくりと満たしていく。

 

「……僕は、何を目指してるんだろう。」

 

 言葉にした瞬間、己の問いがあまりにも広大で、答えのない深淵のように感じられた。科学者になる。それは夢であり、志であった。だが、その奥に何を見たいのか、誰のためにそれを行うのか――まだ、その輪郭は曖昧だった。

 

 彼の視線が、窓の外の白い大地に落ちる。

 

 雪は静かに、均等に積もっていく。人の思いも、時間の流れも、等しく覆い隠すように。

 

 外では、誰かが遠くの道を歩いているのか、雪を踏む音がかすかに聞こえた。この時間は小泉だろう。きっとホールクロップを運んでいるのだ。

 

 きし、きし、と。

 

 世界のどこかで、誰かが歩んでいる。ひとつの足跡が、夜の静けさを破りながら刻まれていく。

 

 その音に耳を澄ませながら、茂弘は思った。

 

 自分もまた、歩かねばならない。科学か、感情か、命の理か、ぬくもりか。何を選ぶかはわからない。だが、止まっていては、何も見えない。

 

 彼はそっと机に戻り、一冊の本を開いた。そこには、分子式とともに描かれた環状DNAの電子顕微鏡写真があった。

 

 その写真を見つめながらも、彼の意識は、狼星の黒い眼差しと、幸子の微笑、浅沼の言葉、母の背中、父の方言交じりの会話――それらの断片を行き来していた。

 

 世界は、静かに崩れ、静かに生まれ変わっていく。

 

 科学技術が進めば進むほど、人は何かを喪い、それでも何かを得ていく。

 

 茂弘は、その狭間に立っていた。16歳という、最も脆く、最も鋭い感受性をもって。

 

 雪は、音もなく降り続いていた。

 

 




第5話より引用 
「1975年4月半ば、皐月賞明けの朝。南部の空は曇天で、北からの風が肌を刺すほどに冷たかった。
 中央には、恐ろしい馬が現れたものだと思った。いつしかそのような、速い逃げ馬を育てたいと思いながら、茂弘はほうきを手に取った。」
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