北國で、駆けて 作:久保田
十二月の半ば、八戸の空は朝から低く垂れこめ、鉛色の雲が校舎の屋根を押し潰すように覆っていた。
自習室の古びた木枠の窓は、北西から吹きすさぶ風と、粉をまき散らすような雪に絶えず打たれていた。ときおり、屋根に積もった雪の塊がずるりと滑り落ち、「バサッ」と重い音を立てて地面に砕ける。その度に、窓硝子がかすかに震え、白い息が室内の空気を曇らせた。
室内は広いのに、ほとんど人影がない。長机と椅子はきちんと並べられているが、その整然とした静けさがかえって寒さを増すようだった。外の吹雪がなければ、ここは時間さえ止まっているかのようだ。聞こえるのは、二本の鉛筆が紙を擦る微かな音と、窓の外で雪が舞い踊るざわめきだけ。
茂弘は、机に背を丸めて鉛筆を走らせていた。留学先のミネソタで彼を受け入れるJ.D. Foster教授から送られた課題――それは数学と英語を中心とする、広大な海のような問題集だった。日本の中学を卒業した程度の基礎から、大学の教養課程に匹敵する数式までが、ひとつの冊子に同居している。数学は関数や幾何を越えて、数列の極限や複素数平面の問題が並び、英語はTOEFLの成績を踏まえ、アメリカの大学生向けの論文や哲学的エッセイまで与えられていた。ページの上には、雪原に点々とつけられた動物の足跡のように、整然とした数式や単語の列が続く。
その隣で、海部が数Ⅱの問題に向かっていた。教科書の問題は、等比数列や微分の基本定理が中心で、難易度は高校二年生にふさわしい。しかし、ふと隣のノートを覗き込むと、そこに広がるのは見慣れぬ記号と、長く絡み合った証明の列。さらに英語のページには、辞書を引く前に諦めたくなるような未知の単語が、雪片のようにびっしりと降り積もっていた。
海部は、半ば感心し、半ば遠くを見つめるような気持ちで、静かに息を吐いた。外の雪はますます勢いを増し、窓の向こうは白一色に溶けていく。その中で、二人の鉛筆は、まるで吹雪の中を進む二頭の馬のように、異なる速度と道筋で、けれど同じ静かな午後を歩んでいた。
静かな時が、雪の中で熟した林檎のように重く、甘やかに沈殿していた。鉛筆の先から流れ出る音だけが、自習室の空気を細く震わせている。
その静けさを割るように、海部がふっと鉛筆を置いた。ギシッ、と椅子の木が軋み、背を伸ばすようにゆるやかに立ち上がる。その動きは、雪の上に降り立った鳥がふいに羽ばたく瞬間にも似ていた。
彼は窓際へと歩み寄り、両の腕を大きく天へ伸ばした。窓の外は、果てしない白の海がうねっている。吹雪が校庭を呑み込み、遠くの松林さえも薄墨の影となってかすんでいた。
「調子は?」
茂弘が顔を上げ、鉛筆を握ったまま問いかける。
「そこそこ」
海部は肩越しに答え、口元だけで笑った。その笑みは暖炉の火のように一瞬だけあたたかく、すぐに外気へ溶けた。
ふと、海部の視線が茂弘のノートへと落ちた。そこには、紙面いっぱいに繊細な曲線を描く数式、そして黒々とした未知の英単語が並び、まるで吹雪の中に立つ異国の標識のように、彼の目には遠く、難解に映った。
「繰り返しになるけどさ…」
海部はゆっくり言葉を探すように口を開いた。「おまえの数学、もう高校の範囲なんてとうに越えてるよな。大学の教養レベルっていうか… それに英語なんて、俺にはもう雪の結晶の模様にしか見えない」
その声音の奥には、二つの感情が細い糸で絡み合っていた。ひとつは、友人の努力と才能への純粋な敬意。もうひとつは、吹雪の向こうへ歩き出す背中を見送るときの、胸の奥が少しだけ締めつけられるような寂しさ。
窓の外、雪はなおも絶え間なく降り続き、二人の間の沈黙に、白い粒をひとつずつ積み重ねていった。
窓際に立つ海部は、吹雪の向こうに視線を投げたまま、言葉を探すように短く息を吐いた。
「なあ、茂弘。なんでそんな、飢えたみたいに勉強すんだ?」
不意の問いだったが、責める響きはなく、むしろ雪の向こうを覗き込むような真剣さがあった。
茂弘は鉛筆を止め、舞い上がった黒鉛の粉が机の上にゆっくり降りるのを見た。
「海部はどう思う? 人はなんで学ぶんだろう」
海部は鼻を鳴らして笑った。
「だから聞いてんだよ」
「いや、おまえ自身の答えを」
その言い方に、海部は少し眉を動かした。
窓に映る自分の顔をじっと見つめる。外では雪が何千もの矢みたいにガラスを叩いていた。
「俺は……必要だからだろ。受験があるし、点を取らなきゃ大学も行けない」
「その先は?」
「大学出て、仕事して……普通に暮らす。そういうもんだろ」
「それで満足か?」
視線が床に落ちた。沈黙の中で、暖房の低い唸りと、どこかで雪庇が崩れる鈍い音が重なった。
茂弘は、少しだけ声を落とした。
「葛巻にいた頃は、世界なんて山と川と牧場と村の人たちだけだと思ってた。でも、本や新聞や外国のラジオを通して、その外側にもっと広い世界があるって知ったんだ。知らなかった場所を知るたび、地図が少しずつ広がっていく……真っ白な紙に、大陸が描き足されていくみたいに」
海部は椅子に戻り、肘を机についた。
「でも、終わりはないだろ。学んでも学んでも、知らないことが出てくる」
「だから面白いんだ」
茂弘の口元がわずかに緩んだ。
「カントって哲学者が言ってた。人間の理性は、自分の限界を押し広げようとするって。勉強は、その線を少しでも遠くに動かすための道具なんだ。ミネソタに行けば、もっと知らない世界に会える。怖いけど……楽しみでもある」
海部は外を見た。白一色の景色は、空と大地の境界を飲み込み、ただ溶け合っていた。
「……限界線を遠くへ、か」
その声には、納得とも羨ましさともつかない響きが混ざっていた。
ちょうどそのとき、吹雪がやみ、雲間から冬の陽が差した。霜を透かした光が、机の紙と鉛筆を淡く照らす。
二人の間に言葉はなかったが、雪上の足跡のように、確かな感触だけが残った。
1975年の師走、灰色の冬空が低く垂れこめる八戸の牧場。放牧地の遠くまで白く覆う雪の絨毯は、寒風に揺られながらも凛と静まり返っていた。霜を含んだ空気は鋭く冷たく、呼吸を吐くたびに白い蒸気が凍りつくかのように舞い上がる。
茂弘は薄く凍った地面の上に置かれた木製のほうきとちりとりを手に、ゆっくりと馬房の中を掃き清めていた。かすかな干し草の匂いと、冬の冷気が入り混じった空間に、落ち着いた静寂が満ちている。足元の藁の中には、先週放たれた仔馬たちの足跡がまだうっすらと残り、その痕跡はまるで時間の流れを刻むようにそこにあった。
甲高くはなく、低く鈍いキン、キンとかすかに凍りついた木材が軋む音が、冷たい空気の中で細く響く。遠くの屋根から、重そうな雪の塊がバサッと音を立てて落ち、地面に散らばった小さな雪煙が舞い上がる。
その時、門の方から足音が近づいてくる。厚手のコートをまとった松崎獣医が、白く染まった草地を踏みしめてゆっくりと歩いてきた。冷たい風に頬を赤く染めながらも、その歩みは確かで、日常の一部として牧場に溶け込んでいるように見えた。
茂弘は顔を上げ、凛とした冬の空気の中で、松崎の姿を迎えた。互いに言葉を交わす前から、冬の厳しさと牧場の営みがふたりの間に静かに流れていた。
冬の冷気が静かに辺りを包み込む牧場の門扉を、重厚なコートに身を包んだ松崎獣医がゆっくりと歩み寄ってきた。彼の足元から雪を踏みしめる音が「ギュッ」と凍てついた空気を切り裂くように響き、その一歩一歩がこの静寂に確かな存在感を刻んでいる。
松崎は春先の忙しい季節には週の半分以上、この広大な牧場に顔を出していた。けれども夏になると、訪れる頻度は少し減った。そんな中でも、彼の視線は常に狼星という名の馬に向けられている。長い付き合いの中で培われた信頼が、その気遣いに現れているのだ。
茂弘は馬房の掃除を一時止め、声をかけた。
「今日は牛を見に来たって聞いてますけど。」
松崎は肩越しに静かに応じた。
「そう、牛を見てから寄った」
言葉は短く、しかし確かな温もりを含んでいる。彼らの間に流れるのは、言葉以上の理解だった。冬の曇天の下、凛とした空気に包まれながら、二人は一瞬だけ目を交わした。
松崎の目は再び狼星の馬房へと向けられ、その姿はまるで時間を超えて、何度もここを訪れてきた証のように自然であった。茂弘はそんな彼の存在に、自分が守るべき命の重さを改めて感じていた。
冬の薄氷のように澄んだ空気の中、放牧地からの冷たい風が静かに馬房の隙間を抜けていく。雪に反射した柔らかな光は、まだ朝の柔和さを残しながらも、冬の厳しさを滲ませていた。茂弘の手元で干し草がかすかに舞い、木の壁に張りついた霜が淡く輝く。
松崎はゆっくりと馬房の床にしゃがみ込み、冬の冷気をはらんだ空気の中でも迷いなく、落ちていた狼星のボロを拾い上げた。その動作はまるで長年の経験が身体に刻まれたかのように滑らかで、細やかな手の感覚でボロの色合いと形状を確かめる。
「この冷たい空気に触れてもなお、生きているものの気配を感じるな…」
松崎の内心には、冷え切った牧場に宿る命の静かな強さが沁みていた。彼の視線はただ単に獣医としての職務を越え、ここに生きる生き物たちへの深い敬意と共鳴していた。
一方の茂弘は、その横顔を見つめながら、幼い頃から慣れ親しんだこの冬の景色に、松崎の存在がどれほどこの土地の生態と営みに寄り添っているかを思い巡らせていた。冷たく張り詰めた空気の中に、どこかほのかな温もりを覚え、これまでの教えがただの理論でなく、実際の命の営みの中で確かに息づいていることを、胸の奥でじわりと実感した。
周囲の木々は裸枝を風に揺らし、地面は氷を含んで堅く凍りついている。
「これを見てみな、茂弘。馬の健康はここからも分かるものだ」と彼は言う。
ボロはきれいに三つに割れており、湿り気も適度だ。茂弘は自信を持って答えた。
「水分量もちょうど良く、悪くないと思います」
松崎はしばらく観察した後、真剣な目で茂弘に問いかけた。
「馬がボロを食べてしまうことがあるが、原因は何だろう?」
茂弘は間髪入れずに答えた。
「ミネラル不足を本能的に感じ取っているからです」
その答えに、松崎は満足げに微笑み、春先に片桐と共に教えたことがしっかりと茂弘の中に根付いていることを実感した。そして、他の馬のボロも見て回ろうと、静かに馬房を後にした。
寒風がまた吹き抜け、冬の厳しいながらも生命の営みを支える時間が静かに流れていった。