北國で、駆けて 作:久保田
深夜、難産の末に生まれた1頭の仔馬。牧場主である父は息子の茂弘に、仔馬へ幼名をつけるように言い渡した。
春のはずだった。だが、岩手・葛巻の朝はまだ冬の爪痕を残していた。薄く霜の張ったアスファルトを、自転車のタイヤが静かに軋む音だけが響く。空気は冷たく、吸い込むたびに鼻腔がきしんだ。地面にはまだ白く凍った土の匂いが残り、朝霧が薄く漂っていた。
葉山茂弘は、首に巻いた薄手のマフラーを押さえながら、手袋越しの指先をかじかませたままペダルを踏んだ。背嚢の上にぶら下がった給食袋が、小刻みに揺れている。
角を曲がると、クラスメイトの山下が前方から手を振った。「おはよう、また夜更かし?」と笑いながら言う。
「んー……ちょっとな」
茂弘は笑顔を返すが、その目は少し曇っている。身体だけが春へと向かっていた。
校門前では、早く来すぎた女子たちが白い息を吐きながら雑談していた。制服の裾には霜が残っている。その傍らを通りすぎようとしたとき、教頭先生が校門のそばで立ち、通学する生徒たちに声かけをしていた。
茂弘と視線が交わる。その一瞬、先生の眉がわずかに動いた。目の奥にある、名状しがたいものを見たような表情。声が止まりかけたが、挨拶をして次の瞬間、何もなかったように背を向ける。
教室の窓辺に、まだ冬の名残を残した光が薄く射し込んでいた。外では凍てついた地面が陽に緩み、遠くの丘からは早春の風が細い笛のように吹き抜けてくる。
その空気の中、教室は静かだった。壁にかけられた大時計が、誰にも意識されぬまま、律儀に時を刻んでいた。
黒板には大きな字で、白墨の筆致がしっとりと残っている。
――結廬在人境 而無車馬喧
――廬を結ぶは人境にありて、しかも車馬の喧しさ無し
それは陶淵明の「飲酒」の一節だった。滝本先生がゆっくりと詩の解釈を始める。その声はまるで山の小道を歩くように、たゆたっていた。
「……廬は粗末な庵、つまり人里にありながら、そこには俗世の喧騒がない。自然の中に、心の安らぎを見出す。それが陶淵明の隠逸の思想です……」
その説明は、教室という四角い器の中で、小さな波紋のように広がっていった。しかし、茂弘の心には、それが静かすぎて逆に染みこんできた。
教科書のページは、指先でめくるたびに乾いた音を立てた。冷たい空気の中で、茂弘の指先は赤くなっていて、鉛筆の軸を握る手に力が入らない。
板書を書き写すことに、意味を見失っていた。詩の言葉が、ただの漢字の連なりではなく、妙に現実の自分の心と重なるのが不思議だった。
――人の中に生きながらも、誰にも属さず、静かな庵にただひとり。
――そんな場所が、本当にあったら。
夢のようなそのイメージが、次第に視界をぼやかしていく。ふと、肩が落ちる。まぶたが重くなり、鉛筆が紙の上に傾いた。
小さな居眠りだった。
だが、その一瞬に見たものは、現実よりも鮮やかだった。広い野に一頭の仔馬が立っている。夜の帳が降りた草原。風はなく、空には一つの星だけが強く瞬いていた。仔馬の息は白く、静かに茂弘の方へ向かっていた。
「……」
「――葉山」
柔らかくも芯のある声が、現実へと引き戻した。滝本先生だった。
黒板の前から、彼女が静かにこちらを見ている。その眼差しは、叱責のそれではなかった。むしろ、何かを感じ取ろうとする視線。眠りの奥で見ていた風景を、彼女は見透かしたかのようだった。
「……ごめんなさい、少し……」
「寒いからね。眠気も、しかたないわ」
先生はそう言って、何気なく教室の奥を見渡した。春の始まりと冬の名残が交錯する季節――彼女の声は、その狭間を歩くように柔らかだった。
ふと、ノートの片隅を見て茂弘ははっとする。
そこには無意識に書いたらしい文字が、斜めに並んでいた。
――おおかみ
――ほし
ひらがなで、まるで子供のように走り書きされたその二つの言葉は、今しがたの夢の景色に、確かにあったはずのものだった。
彼はそっと指でなぞる。名もなき何かが、自分の内に生まれつつある。けれどそれが何かは、まだ言葉にならない。
滝本先生は、それを見ていた。何も言わず、ただ目を細めた。
――山気日夕佳 飛鳥相與還
――山気 日夕に佳く、飛鳥 相與に還る
黒板に書かれたその詩句が、教室の静けさの中で光るように見えた。
どこにも属さず、しかし確かにこの世界の一部であること。その気配が、茂弘のまぶたの奥に、まだほのかに残っていた。
チャイムが鳴り、校内が少しずつ静かになっていく。職員室の前、ガラス越しに見える夕陽が、机の上の書類をオレンジ色に染めていた。
「ちょっと話せる?」
滝本が、短くそう言うと、手渡されたノートの表紙を軽く指で叩いた。
茂弘は、しばらく口を開けずに立っていたが、ぽつりと漏らした。
「昨夜、家の馬がな…」
言いかけて、首を振る。「いや、ただの寝不足です」
滝本は目を細め、「そう。無理はしないでねとだけ言って、静かに職員室のドアを閉めた。
図書館の入口は、ひっそりとした時間の流れに包まれていた。誰もいないカウンター。茶色く艶を失った木の書架。蛍光灯が微かに唸りながらちらついている。
茂弘は、一冊ずつ丁寧に漢和辞典をめくっていた。「狼」「星」。その組み合わせが、妙に耳に残って離れなかった。
狼星。ろうせい。響きが胸に刺さるようだった。
古文書を開くと、筆文字の一節に目が留まった。
「名のない命は、風とともに消える」
その一文が、ページの中でひときわ強く光って見えた。
ふと開いた兵士名簿の一ページ、「無名戦士」の項目。その下に名前のない空欄が並び、胸がぎゅっと締め付けられる。
図書館の時計は、針の音さえ吸い込むように静かに回っていた。夕闇が窓の外に溶けはじめ、擦りガラス越しの陽は赤く褪せている。室内には微かに紙と埃の混じった匂いが漂い、蛍光灯の光は少しずつ弱くなって、時折ちらついた。
その隅で、茂弘は机にかじりつくようにして、古びた本らを見比べていた。ノートには「狼」「星」「命」といった文字が、筆圧の濃淡もまちまちに刻まれている。紙の上に浮かんでは消える言葉たちは、まだ名前にならぬ、形のない祈りのようだった。
ふいに、背後から控えめな足音が響いた。戸の開閉音はなかった。気づくと、木棚の影から滝本先生が現れていた。手には数冊の書籍と、紙の挟まれたバインダーを抱えていた。薄いトレンチコートの襟が首元に緩く立ち上がっていて、長い髪が肩にかかっている。いつもの教室とは違う、すこし戸惑ったような、けれど穏やかな表情だった。
「……こんなところにいたのね」
先生は笑顔のようなものを浮かべようとしながらも、それはどこか照れ隠しに似ていた。彼女の声は、図書館の沈黙を破らぬよう低く抑えられ、それでいて耳に柔らかく届く。
茂弘は驚きと、どこかばつの悪さが混じったような面持ちで振り返った。
「……滝本先生。えっと、なんで……?」
どぎまぎと声を出しながら、茂弘はそっと椅子から立ち上がった。背筋を伸ばすのが妙にぎこちなく、両手をポケットに入れるのも、また不自然だった。
先生は数歩近づき、机の上のノートに目を落とした。無造作に書き散らされた言葉の群れに、目が静かにとまる。
「さっき、職員室から見えたの。図書室の灯りがついていて……。まっすぐ帰らないと思ったのよ。どうしてだか、わかった気がして」
彼女は本を抱えたまま、ひと息ついて言葉を継いだ。
「……授業の準備に資料を探しに来たの。本当よ。でも、あなたの姿が見えたら、つい……声をかけたくなった」
その口調には、どこか教師らしからぬ揺らぎがあった。けれど、それは責任感や義務ではなく、もっと素朴な、人としての共感からくるものだった。
茂弘は目を伏せた。言葉にならない気持ちが、喉の奥に引っかかる。
「……なんで、そんなに……俺のこと、気にするんですか」
先生は微笑んだが、それは即答の笑みではなく、考えるように目を細めた。長い睫毛が影を作る。
「教師ってね、わかる瞬間を待つ人なの。言葉にできない思いがあっても、それを見過ごさないこと……それが、わたしの役目。そう信じてる」
「……」
「だれにも見えないものがある。それを見ようとすることから、名が生まれるのよ。名前って、そういうもの」
図書館の中でただ一つ、世界と繋がっているのは彼女の声だった。書架の間に影が濃くなり、空気は冷え始めていた。
「この子の名は……」
先生は、懐から古びた紙片を取り出した。いつのものかわからぬ、誰かのメモだった。名前は書かれていなかった。だが、その断片の中にこそ、命を呼びかけようとする意志があった。
茂弘はそっと手を伸ばし、それを受け取った。紙は乾いて、少し脆くなっていた。
「……名がある限り、その命は消えない。私が昔、ある人に言われた言葉よ」
その言葉は、静かに胸の奥に落ちた。暖かくもあり、切なくもあった。命とは何か、名前とは何か――その問いの深さが、夕闇とともに重なってゆく。
遠く、時計の針がひとつ、音を立てた。
図書館の空気は昼よりさらに静かになっていた。時間が午後から夜へと傾きかける頃、窓の外には橙色の光が斜めに差し込んで、書架の影を長くしていた。
茂弘は、一冊の古い詩集を閉じた。背表紙が擦れたその本の上に、そっと手を置く。
「……狼星って、どこから来たの?」
静かながら、どこか気恥ずかしげな調子で。先生は目を細めて、書架の隙間から茂弘を見つめている。
「なんとなく、です」
茂弘は、視線をそらしながら答えた。けれど、心の奥では確かにわかっていた。
あの仔馬には、名が必要だった。それもただの音ではなく、自分自身の中の、ある確信に触れるような名が。
「……夜に見たんです。仔馬と、星を。一番明るい、まるでシリウス。なんか、呼ばれてるみたいで」
「呼ばれてる?」
「はい。自分のことを知ってるみたいな……向こうからこっちを、見てるっていうか……」
「それ、導かれてるってことよ」
滝本はそう言ってから、少しだけ考えるような間をおいた。
「言い方を変えるとね……あなたは記号の錨に触れたの」
茂弘は目を瞬いた。
「……きごうの、いかり?」
先生は小さく笑って、少しだけ頬を染めた。自分の言葉が説明にならなかったことを、すぐに悟ったのだろう。
「つまりね、名前っていうのは――ふらふらしてる心を、ここだって留めてくれる重しみたいなものなのよ。風で流されそうになるとき、自分が何者かを引き留めてくれる」
「……ああ。うん、ちょっと、わかります」
「その仔馬は、そういう存在だったんでしょ。あなたを見つけて、名を欲しがって、でも同時に……あなたの迷いを見つけたの」
茂弘は小さくうなずいた。
「夜だったのに、怖くなかった。あいつは、道を知ってるって、思ったんです。あいつの目が、言ってました。お前が見ろ、って」
「……それが名前をつけるってこと。あなたが見つけたことを、形にすることなのよ」
滝本先生はそっと資料を机の上に置いた。封筒の端が少し折れていたのを、きれいに直す。その指先の動きが妙に丁寧で、茂弘はその静けさに見入ってしまった。
「狼星っていう名には、どんな意味が込められてるの?」
しばらく沈黙があった。
茂弘は机の上で指を重ね、考える。
「……夜でも迷わずにいられる強さ、です。遠くにいても、そこにあるって信じられる。見上げれば、ちゃんと光ってる」
滝本は静かに微笑んだ。
「……それが、願いの比喩」
また難しい言葉だった。が、すぐに先生は付け加えた。
「つまり、名前っていうのはね、希望を言葉にしたもの。名づけることで、心の中に灯をともすの。見えないものに、形を与える。それが、祈りでもある」
「祈り……」
「ええ。名前をつけるって、つまりは祈ってるのよ。生きて、とか、ここにいて、って」
その言葉を聞いて、茂弘の胸の奥が、静かに熱を帯びた。何かが固まるでもなく、ただそこに、小さく確かな灯が灯る感覚。
「……じゃあ、狼星は、僕の祈りなんだ」
「そう。いい名前よ」
図書館の隅の古びた時計が、カチ、と音を立てた。誰もいない空間に、それは静かな鐘のように響いた。
その瞬間、窓の外の光が消えかけ、図書館の中は真の静寂に包まれた。
茂弘は、そっと目を閉じた。
「狼星――ちゃんと届くといいな」
「届くわ。きっとね」
先生の声は、そのとき、春の夜風のようにやさしかった。
夕闇は、葛巻の山間を静かに染めていた。雪は溶けきらぬまま田の縁に残り、湿った土の匂いがひそやかに立ち上る。空には、かすかに紫がかった藍色が広がっていた。
風は冷たいが、春の匂いを含んでいる。風が抜けると、山の木々が低く囁き、その音はまるで言葉のように茂弘の耳に届いた。
家の裏手、厩舎の扉には、かすれた木のきしむ音がした。茂弘がゆっくりと引き戸を開けると、藁の香りと共に、微かに体温を含んだ湿気が流れ出た。
中はうす暗かった。裸電球が一つだけ、天井の梁からぶら下がっている。電球の周りを、飛び疲れた虫が何度も何度も旋回していた。
「……ただいま」
声は自然に漏れた。返事はない。ただ、奥からわずかに鼻を鳴らす音が聞こえる。
藁を踏みしめながら進むと、仔馬がいた。薄い栗毛に、夕陽の残照がうっすらとかかっている。小さな耳がピクリと動き、茂弘の足音に反応するように、身体がすこしだけ向きを変えた。
茂弘はその前に膝をついた。藁がかさ、と音を立てた。仔馬はしばらく黙って彼を見ていたが、やがて前足を一歩踏み出した。
その目に、茂弘は自分の姿を見た。弱さも、願いも、不安も。だけど、それらをまるごと包むような、深い光があった。
「おまえの名前……決まったよ」
息を吸い込む。藁の匂い、馬の体温、かすかな汗のにおい。あらゆる感覚が、一点に集まる。
「狼星」
そう呼んだ瞬間、空気がわずかに震えたように思えた。仔馬がぴくりと反応し、首を少し傾げる。その動きは、まるでその名を受け止めるために、自分の輪郭を整えているかのようだった。
「狼星……」
もう一度つぶやく。すると、仔馬が一歩近づき、茂弘の胸元に鼻先を寄せた。ふっと、吐息がかかる。温かくて、少し湿ったその感触に、茂弘の喉がひとりでに鳴った。
目の奥が熱い。
ふいに背後で足音がした。振り返ると、父・泰造が厩舎の入り口に立っていた。無言のまま、懐中電灯を手に、息を白くしながら。
泰造は数秒、何も言わずにふたり――少年と仔馬――を見ていた。灯りは顔ではなく、地面のわずか先を照らしていた。やがて、泰造は小さく目を細めた。
「……それでいい」
その言葉は、肯定とも、赦しとも、誇りともつかない。けれど、そこには間違いなく、何かを託す父の声があった。
それを聞いた瞬間、茂弘の目から、一滴だけ涙がこぼれた。
仔馬はその音に耳を立てたが、すぐにまた鼻を寄せてきた。茂弘はその額にそっと手を添える。
外では、夜が完全に訪れていた。山の端から、いくつもの星が姿を現し始める。さっきまで一つだった星たちは、もう群れとなって空を渡っている。
この夜のどこかに、自分が呼んだ名前が響いている――茂弘には、そう信じられた。