北國で、駆けて   作:久保田

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4月

 薄曇りの空が、牧場の丘をやわらかく包んでいた。奥羽山脈からの雪解け水はまだ音を立てない1975年3月。まだ肌寒さの残る早朝、出産の厩舎が片隅に、湯気を立てるように産み落とされた仔馬が横たわっていた。先ほどまでの冷えは消え、熱を帯びていた。

 

 母馬キクトモは、大きく腹を波打たせながら、仔の匂いを嗅ぎ、そっと鼻先で濡れた額を舐めていた。その横では茂弘が、震える指先で仔馬の胸にそっと手を置く。「……息、してる。よかった」

 

 彼の背後で、白衣を着た松崎獣医が目を細め、泰造ら牧場主と数人の厩務員たちが安堵の息を漏らしている。暗がりの中、厩舎の小窓から差し込む淡い朝日が、濡れた仔馬の体に銀色の光を投げていた。

 

 やがて、その仔馬──のちの狼星である──が、よろよろと前肢を立ち上げたのは、出産からわずか八分後だった。

 

 「立った……?まだ身体も拭いてないのに……」

 

 誰かが呟いた。

 

 仔馬はまだ濡れたままだ。だが、まるで何かに突き動かされるように、必死で後肢を踏ん張り、ついに四肢すべてで立ち上がると、細い首を振り、くしゃみをした。

 

 「この仔……ただ者じゃないな」

 

 松崎が、誰に向けるでもなく呟いた。

 

 「競走馬になるために、生まれてきたようだ……」

 

 その言葉に、茂弘は無意識に振り返った。松崎の目は鋭く、しかし何かを見つめるように遠くを見ていた。

 

 その瞬間、狼星が、初めて人間の視線をまっすぐに受け止めた。まるで未来を見据えるような、その小さな瞳が、確かに茂弘の胸に焼きついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから数日おきに、松崎獣医の姿が牧場に現れるようになった。診察予定は週に一度のはずだったが、カレンダーには赤鉛筆で「松崎」の文字が、週に三つも四つも刻まれていた。

 

 茂弘が朝、納屋裏の古い水道で顔を洗っていると、乾いたエンジン音が牧場の東から近づいてきた。赤錆びたスバル360が砂利を跳ね上げて停まる。車体の窓から、あの柔らかい帽子の影がのぞく。

 

「またかよ……」

 

 茂弘はぼそりと呟いた。

 

 しかし、スバルから降りた松崎の顔は、心なしか晴れやかだった。獣医の白衣ではなく、薄茶のワークシャツにベージュのスラックスという装い。まるで散歩がてら寄ったかのような、軽やかな足取りで厩舎へと向かっていく。

 

「おはようございます、先生。今日も……?」

 

「ええ、通りがかりにちょっと様子をね」

 

 通りがかり、というには方向が真逆だと誰もが分かっていた。それでも誰も口にはしない。松崎の熱意はすでに「趣味」の域に入りつつあった。

 

 

 

 厩舎に入ると、松崎はすぐに狼星の馬房の前に立った。

 

 仔馬は、まだ腰高で頼りない体躯ながら、日々しっかりとした筋肉がつき始めていた。月毛の馬体は光を浴びるたび艶やかさを増し、黒く縁取られた大きな瞳は、見る者に深い洞察を感じさせた。

 

 松崎は扉越しに手を伸ばし、静かに鼻面を撫でた。狼星はわずかに耳を動かしただけで、逃げる素振りも見せなかった。

 

「やっぱり……こいつは、競走馬になるために生まれてきた」

 

 そう呟く松崎の声は、独り言とも祈りともつかない響きを含んでいた。

 

 その言葉を背後で聞いていた泰造が、腕組みをしながら苦笑した。

 

「随分と気に入ってるようじゃないか、松崎先生。獣医が馬に惚れ込んじゃって、冷静な診察はできるのかい?」

 

「惚れ込むというより、ね……」

 

 松崎は狼星から目を離さず、ゆっくりと言葉を継いだ。

 

「こういう馬は、たまにしか出ない。明らかに、何かを持っている……という感覚。説明できるようなものじゃないけどね」

 

「勘ってやつか」

 

「ええ。獣医として、というより……人間としての、勘です」

 

 狼星は松崎の掌の匂いを嗅ぎ、鼻先で優しく押し返した。仔馬と人間、その間に流れる空気は、どこかしら不思議な調和を帯びていた。

 

 

 

 その晩、松崎は居酒屋「福寿」――町のはずれにある、焼き魚と芋焼酎が主の店――で、茂弘と差し向かいで呑んでいた。掛け時計の針はまだ6時を回ったばかりである。

 

「茂弘くん、君はどうだ? あの仔に、何か感じるかい?」

 

「正直、わかりません。いや、むしろ、わからないから気になるんです」

 

「ほう?」

 

「他の仔と、何かが違う。でも、違いがなんなのか、自分には言葉にできない……それが悔しいんです」

 

 松崎はゆっくりと焼酎を口に含み、しばし目を細めていた。

 

「それでいい。わからないものを、わかろうとすることが……一番、育てるってことに近いんだ」

 

「……育てる」

 

「そう。この馬は、走れるかどうか、今はまだ誰にも分からない。でも――」

 

 松崎は盃を置き、茂弘をじっと見た。

 

「走りたい、と思って生まれてきた。それだけは、確かだ」

 

 

 

 

 

 

 それから数日がたった。朝露がまだ土を湿らせていた四月の中旬。牧場の空気は静かで、風に乗って早春の青草の匂いが運ばれていた。

 

 茂弘は、飼葉を母馬たちに与える準備に追われていた。さらに、彼女らを晴れた日には一頭ずつ短時間、放牧する用意も大変だった。ロープをつけて外に連れ出し、足場や風、音に慣れさせる。

 

 その日、キクトモと狼星も順番が回ってきた。

 

 茂弘は手綱を軽く握り、厩舎のわきの放牧場まで、ゆっくりと導いた。何度も放牧しているが、仔馬は何度も躊躇う。だが、やがて目を細めるようにして陽光に顔を向け、小さく鼻を鳴らした。

 

「気持ちいいか? 外の匂いは」

 

 そう声をかけながら、茂弘は無意識に歩様を観察していた。仔馬の脚運び、首の角度、耳の動き――ほんの些細な動作も、馬産を志す者にとっては重要な言葉になる。

 

 そのときだった。

 

 ほんの一瞬、前肢の着地が――揃わなかった。

 

 茂弘は眉を寄せ、目を細めた。狼星の歩みは軽快そのものだったが、右前脚が左よりわずかに内側に入り込むような、微細な捻れがあった。

 

「……おい、お前」

 

 立ち止まらせて、茂弘は膝を折り、前肢の蹄を確認する。泥がうっすらついているが、形自体には異常は見えない。

 

「気のせいか……いや……」

 

 ちょうどそこに、例のスバル360が音を立てて近づいてきた。音が止まると、遠くに背広姿の松崎が助手席から降りた様子が見えた。タオルを首にかけたまま歩いてきた。

 

「おはよう、また早いですね」

「ちょうど通りがかりでな。……それより、どうした?」

 

「先生、ちょっと見てほしいんです。前脚の運びに、妙な癖があるような……」

 

 狼星を放牧地の中央に立たせ、二人で見守る中、再び茂弘が引き馬で小さく歩かせる。

 

 仔馬の脚は軽やかに前へ出る。しかし――やはり、右前が微かに内へ寄る。

 

 松崎は無言のまま、片膝を地につき、狼星の右前肢を慎重に触診した。関節、靱帯、屈腱――どこも腫れや熱感はない。

 

「ふむ……これは……狭踏肢勢の傾向があるな」

 

「狭踏……?」

 

「前脚がやや内向きに出る構造だ。成長と共に修正可能な範囲だが、放っておくと歩様に悪影響が出る可能性がある。最悪、屈腱炎や球節炎の引き金になる」

 

 松崎は立ち上がり、厳しい目で仔馬を見た。

 

「骨格の問題というより、蹄の角度と筋力のバランスが微妙にズレている。これを矯正できるかどうかは……削蹄次第だ」

 

「削蹄……」

 

 その言葉に、遠くでロールをほぐしていた泰造が背後から歩み寄った。

 

「だったら、あいつを呼ぶしかないな」

 

「……片桐のことか?」

 

「ああ。今どき、御料牧場出の削蹄師なんて珍しいが、泰造のネットワークなら呼べるかもしれない」

 

 茂弘はその名に聞き覚えがなかったが、松崎の顔がわずかに引き締まるのを見逃さなかった。

 

「こいつは、ただの仔馬じゃない。削蹄で将来が変わる。だったら……一流に任せるべきだ」

 

 

 

 風が牧場を吹き抜け、遠くの杉林をさわさわと揺らした。

 

 狼星はその音にぴくりと耳を動かし、ゆっくりと茂弘のほうを振り返った。大きな瞳には、不思議な静けさと、どこか問いかけるような色が浮かんでいた。狼星は何か気になることがあると鼻をフガフガさせる癖がある。またに今、彼の鼻はフガフガしていた。

 

「お前……自分の脚のこと、わかってるのか?」

 

 茂弘は、ただ静かにそう呟いた。

 

 その瞬間だけ、春の空がすうっと青さを増したように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 春の風が少しずつ緑を濃くしていく四月下旬、北国の牧場にも新芽が目立ちはじめていた。だが、馬房の中は相変わらず乾いた藁とボロの匂いが漂い、時間だけが変わらず流れていた。

 

 狼星は日に日に身体を大きくしていたが、右前肢の歩様は微妙なままだった。茂弘は毎朝の放牧時にその癖を気にしつつ、何か決定的な変化を待ち続けていた。

 

 そんなある午後。厩舎事務所に入った泰造が、黒電話の受話器をがちゃりと下ろして声を張った。

 

「……片桐、来るぞ」

 

 茂弘と松崎が顔を上げた。

 

「例の……?」

 

「ああ、御料牧場にいた削蹄師だ。今は北海道を転々としてるらしいが、昔からの付き合いで頼み込んだ」

 

「来るって、いつです?」

 

「明後日の昼。汽車で最寄りの駅まで来るそうだ。迎えは頼むぞ、茂弘。葉山をつけておくから、車で行くんだ」

 

 茂弘は頷いたが、その名――片桐という響きに、胸の奥がざわつくのを感じた。何も知らないはずなのに、名前に含まれた職人の空気が肌に触れるような、妙な緊張感があった。

 

 

 

 二日後、正午過ぎ。

 

 古びたディーゼル汽車が汽笛を鳴らして、盛岡駅に滑り込んだ。つい昨年から改装が行われており、仮駅舎でのことだった。茂弘は厩務員の葉山とジープで乗りつけていた。

 

 列車のドアが開き、人影がゆっくりと降り立った。

 

 グレーの作業服に、片手には黒い削蹄箱。背は低く、髪は七三に分けられ、年齢は五十代の前半と見えたが、どこか近寄り難い沈黙をまとっていた。

 

「片桐さん……ですか?」

 

 男はゆっくりと顔を上げた。鋭く、しかし濁りのない目で茂弘を見た。

 

「あんたが茂弘くんか」

 

「はい。牧場で、狼星の……」

 

「名前はいい。蹄を見れば、わかる」

 

 その無愛想な一言に、茂弘は思わず背筋を正した。

 

 

 

 ジープの荷台に削蹄箱を積み、黙々と牧場へ戻る途中、会話らしい会話はなかった。道すがら、片桐は車窓から山や畑の景色を一瞥するだけだった。

 

「ここの土は軽いな。蹄が崩れやすい」

 

 それが、唯一の感想だった。

 

 

 

 牧場に着いた後、狼星の馬房へ案内すると、片桐はすぐさま柵の内に入り、何の挨拶もなく仔馬の足元を見た。

 

 狼星は人見知りする気配もなく、静かに立っていた。むしろ、興味深そうに片桐の肩越しから鼻を伸ばしてくる。

 

 片桐は腰を屈め、前肢の蹄をひとつひとつ、手で包み込むようにして確認する。

 

 しばしの沈黙のあと、低い声で呟いた。

 

「……狂ってないな」

 

「え?」

 

「芯はズレてねぇ。削れば出る蹄だ」

 

 松崎が驚いたように息をのんだ。「つまり、矯正で強く……?」

 

 片桐は頷かず、ただ立ち上がって言った。

 

「1週間後に始める。道具を送らせろ。蹄の土台が出来てからじゃないと、削る意味はない」

 

 そのまま歩き出した背中に、茂弘は小さく頭を下げた。

 

 この人は、言葉より手で語るタイプだな。

 

 そう直感し、少しだけ気が楽になった。

 

 

 

 その夜、居間で泰造が煙草をくゆらせながら呟いた。今ではもう馬のいない曲り家。かつて大きな友人のいたところに置かれた鐙を見つめ、彼は煙で輪を作った。

 

「……あいつが『狂ってない』って言ったんなら、本物だ。下手な言葉より信用できる」

 

 茂弘は、夜の風に吹かれながら黙って頷いた。狼星の未来は、一本の蹄から始まる――そんな重みが、心に落ちていった。

 

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