北國で、駆けて 作:久保田
風がまだ冷たい1975年の五月初旬。牧場には、朝の光が淡く差し込んでいた。馬たちの吐く白い息が、春と冬の境目を静かに告げていた。
その日の午前、厩舎裏の作業場に、狼星が引かれてきた。削蹄台の横に並べられた削蹄道具が、鉄の光を曇り空の下で鈍く反射していた。
片桐はすでに待っていた。道具箱の蓋を開け、鉄ヤスリと蹄鉄用のナイフを一本ずつ確かめるように並べていく。無言の所作に、長年の癖と規律が滲んでいた。
茂弘は、緊張のあまり無言で狼星の顔を撫でていた。仔馬の身体は成長していたが、まだ幼さが残り、不安を感じると耳がぴたりと伏せられる。
「始めるぞ」
片桐の一言で、作業が始まった。狼星の右前肢を持ち上げ、蹄の裏を確認する。その瞬間だった。
バンッ!
鋭い音を立てて、狼星が後肢で蹴り上げた。驚きと反射で片桐が少し後ずさる。
「……やるな、こいつ」
その声に怒りの色はなかった。ただ、目だけがわずかに細められていた。
狼星は耳を後ろに伏せ、鼻を鳴らして身を引こうとする。呼吸が荒く、目が大きく開いていた。蹄をいじられる恐怖と、自分の足元を取られる不快が、まだ理解できない仔馬の中で混ざり合っている。
だが、次の瞬間。
「……狼星、大丈夫だ」
茂弘の声だった。ゆっくりと、静かに。
彼は狼星の首筋に手を添え、もう一度そっと声を重ねる。
「俺がついてる。だから、平気だ」
仔馬の目が、一瞬だけ茂弘の顔を見た。何かを探るように、確かめるように。
そして、その目から緊張の色がほんの少し抜けた。呼吸が落ち着き、体の力が抜けていく。
「……いいぞ、片桐さん。今なら大丈夫だ」
片桐は無言のまま、再び蹄を取った。今度は、狼星は暴れなかった。
ナイフの刃が乾いた蹄の裏を滑る。削られていく音が、乾いた風に紛れて、牧場に響いていた。
20分後、右前肢の処置が終わる頃には、狼星は静かに立っていた。目を細め、すでに嫌がる様子はなかった。
片桐は立ち上がり、蹄を見下ろした。
「……珍しい仔馬だな」
「はい?」
「普通は最初の削蹄で暴れたら、次も手こずる。こいつ……あんたの声だけで落ち着いた」
その言葉は、滅多に感情を表に出さない片桐にしては、明らかな驚きの色を含んでいた。
「お前にだけは、通じてるらしいな」
そう言って、片桐はゆっくりと工具を拭き始めた。
作業が終わり、狼星はゆっくりと立ち上がり、茂弘の方へ歩いてきた。鼻先で肩を軽く突いてくる。それは、ほんのわずかな信頼のしるしだった。
茂弘はその感触を、何よりも尊く感じた。
――この馬は、ちゃんと聴いてくれている。
そう確信した一日だった。
作業場の片隅に、乾いた風が吹き抜ける。
狼星の削蹄が終わった午後、片桐は道具を拭き終えると、その場にしゃがみ込み、無造作に煙草を取り出した。火をつける仕草も、吸い込む姿勢も、長年の所作で固まっていた。
茂弘は、片桐の隣で静かに座っていた。狼星は、もう厩舎の方へ引かれて戻っている。蹄の音が、地面に心地よく響いていた。
煙の匂いと沈黙の中、片桐がぽつりと呟いた。
「……7日に一度やる」
「え?」
「蹄は、いっぺんに直そうとすると逆効果になる。筋や骨が追いつかん。時間をかけて、少しずつ。こいつの成長に合わせて、形を誘導するんだ」
そう言って、煙を空へ向けて吐く。
「どれくらいかかりますか?」
「……半年、いや、もう少しかかるな。普通の仔馬より、慎重にやる必要がある。性格は素直だが、骨のねじれが少し深い」
そう言った後、片桐は一度、煙草を指先で揉み消した。そして、無言のまま茂弘を見た。
「続けるか?」
その問いには、脅しも、揺さぶりもなかった。ただ、純粋な確認だった。ここから先は、責任が伴うということを、あえて言葉にしないだけだった。
茂弘は、目を逸らさなかった。
「……かまいません。やります。俺がやります」
迷いのない声だった。口にした瞬間、自分でも驚くほど胸の奥が静かになっていた。
片桐はそれを聞き、ふっと目を細めた。ほとんど笑いともつかない表情で立ち上がる。
「じゃあ、毎週火曜。午前8時。俺が来る。それまでに馬を整えておけ。泰造に伝えとくんだぞ」
「はい」
短い会話だった。しかし、そこには明確な契りがあった。
その夜、茂弘は厩舎に戻った。
ランプの灯りの下、狼星はゆっくりと藁の上に伏せていた。母馬のキクトモは隣の馬房で静かに呼吸をしている。最初はキクトモと狼星は同じ馬房にいた。しかし、狼星は夜更かしが好きで、キクトモが寝ていてもお構い無しに動き回るから、いつの間にか馬房を分けるようになった。
茂弘は、狼星の前にしゃがみ込む。仔馬は舌を出して目を細めたが、やがて首を伸ばし、茂弘の膝にそっと鼻先を置いた。
蹄の矯正は、道のりが長い。
育てる意味を問われ、非難される日もあるだろう。
けれど、確かに今ここに――信じていい何かが、ある。
「お前と、やってみるよ」
そう、小さく呟いた。
狼星はまるでその声に応えるように、小さく鼻を鳴らした。
それは、牧場の片隅に生まれた、静かな約束だった。
1975年4月半ば、皐月賞明けの朝。南部の空は曇天で、北からの風が肌を刺すほどに冷たかった。
中央には、恐ろしい馬が現れたものだと思った。いつしかそのような、速い逃げ馬を育てたいと思いながら、茂弘はほうきを手に取った。
馬房の掃除を終えたあと、狼星の様子を見に行った。仔馬は元気そのものだった。蹄のバランスはまだ不完全だが、脚を軽く引いて歩く動きにも、僅かながら芯が見えてきた。
「おお、いいねえ」
背後から声がした。
振り返ると、松崎獣医が外套を羽織って笑っていた。今日は診療日ではないはずだが、彼は直近1ヶ月ほど、そうした区切りを無視して牧場に現れる。
「蹄、形になってきてるじゃないか」
「はい、片桐さんのおかげです」
「もちろん、もちろん。あの人はな、旧御料の削蹄班でもトップだった。俺が研修で見に行ったときも、あの人だけ異質だったんだ」
茂弘は軽く笑って頷いた。だが、松崎の目は、次の瞬間には狼星へと注がれていた。視線は真剣そのもので、まるで学者が研究対象を観察するような――あるいは、もっと個人的な何かをそこに見ているかのようだった。
「脚の筋肉がいい。腱も締まってる。何より、反応が鋭い。俺は信じてるよ、この馬。多少の外見上の問題は、乗り越えられる」
松崎はそう言って、軽く口笛を吹いた。狼星がぴくりと耳を動かし、音の方に顔を向ける。
「ほらな? 音への反応がいい。多少視覚に難があるってなっても、補える要素はいくつもある。騎手が鞭以外での合図を送れるし、かなり期待できる」
「本当に……レース、出られるでしょうか」
狼星の鼻を弄くる松崎を見据え、尋ねた。
茂弘の声は、どこか頼りなく震えていた。
「もちろんだとも。――だが、それを決めるのはこの仔自身さ。俺たちはその可能性を潰さないように準備する、それだけだ」
よだれにまみれた松崎はそれだけ言って、厩舎を去った。
その夜。
宿舎傍、囲炉裏部屋の煙草の煙が、薄く漂っていた。
「……また来てたのか? 松崎さん」
古参厩務員の小泉が、コーヒーをすすりながら誰にともなく呟いた。その手に刻まれた思いは、彼の実直さを示していた。
「週に何回見に来てるんだ? あの馬だけ」
「趣味らしいぜ、完全に。あの人、昔から一匹狼っぽいとこあったってさ」
若い厩務員の一人、田所が苦笑しながら言った。
しかし、小泉は顔をしかめた。
「趣味で馬育てて、それで経費がどんどん消えていったら、どうするつもりだ? あの馬、金になんのか?」
しばらく沈黙が流れた。
「……いや、俺も、あの仔馬が悪いってわけじゃない。でもな、ああいう特別扱いってのは、牧場全体の空気を悪くするんだよ。みんなが頑張って育ててるのに、あいつだけ手間暇かけられて、結果出なかったら誰が責任取る?」
誰も何も言わなかった。
その沈黙の中、コーヒーの機械が、鈍く湯を沸かす音だけが響いていた。
その夜、茂弘は狼星の寝顔を見ながら、背筋が重く冷えたような感覚を抱えていた。
蹄は片桐が削ってくれる。診療も松崎が見てくれる。泰造は静観してくれている。――だが、自分は本当に、この仔馬を育てられているのだろうか。
彼の頭には、小泉の言葉が繰り返しこだました。
「本当に見る価値あると思ってるのか?」
答えは、まだなかった。
しかし、狼星の呼吸は穏やかで、静かだった。まるで、何かを信じて眠っているようだった。
翌朝の空は、昨日よりも少しだけ明るかった。
厩舎の裏手では、まだ朝霧がうっすらと地面を覆っており、木々の葉先には冷たい露が残っていた。季節が春と梅雨の間で揺れ動いている。
茂弘は、狼星の手綱を軽く持って、馬場の隅で歩様を確認していた。削蹄の効果はわずかにだが現れ始めている。前肢の軸が、日を追うごとに正中へ寄ってきていた。
「……悪くない」
ぽつりと呟いたときだった。後ろから、重く、しかし静かな足音が近づいてきた。
「……ちょっと、話がある」
振り返ると、小泉だった。いつもの作業服姿のまま、頭のはちまきも外さずに帽子をかぶっている。手には頭絡を握っていたが、金具は外れている。
「はい」
茂弘は緊張しながら答えた。小泉がまっすぐ自分に声をかけてくることは、ほとんどなかった。
「お前、あの馬に本気で賭ける気か?」
小泉は狼星を一瞥し、まっすぐ茂弘を見た。その目は冷たくも鋭くもなく、ただ真剣だった。
「俺はな……この牧場が好きだ。泰造さんにも育ててもらったし、馬も、人も、ここで生きてきた」
声が少し震えていた。
「だからこそ、言う。――資金も、人手も、限られてる。あの馬に時間と金をかけるってことは、他の馬を諦めるってことだ」
茂弘は何も言えず、狼星のたてがみをなぞるように撫でていた。
「俺だって、奇跡を信じたくないわけじゃねえ。だけど、現実は数字と時間でできてる。競走馬の世界で、成績が出せなきゃ、ただの草食動物だ」
言い放ったあと、小泉は一拍置き、深く息を吐いた。
「だけどな……あの目、してるんだよ、あの仔馬」
「目、ですか」
「ああ。――諦めてない目だ。生まれつき弱い仔馬ってのは、だいたいどっかで目を閉じちまうんだ。人間を見なくなる。未来を見なくなる。でも、あいつは違う」
それは、まるで自分自身に言い聞かせるような口ぶりだった。
「お前が、真剣にやるって言うなら……俺は口は出さねえ。ただし、ふらふらしてるようなら、俺が止める。牧場のためにな」
小泉の言葉は厳しかったが、その奥には、長年この地で馬と共に生きてきた者の矜持が滲んでいた。
茂弘は、狼星の首元に顔を埋めたまま、小さくうなずいた。
「……まだ、わかりません。でも、あの仔が――俺に何か、伝えようとしてる気がして」
「それなら、お前がまず決めろ。この仔と、どこまで行くのか」
小泉はそう言って、頭絡に鳴らしながらに厩舎の方へ戻っていった。鉄粉の代わりに、吐いた息だけが白く宙に浮かんだ。
その晩、茂弘は寝床につかず、厩舎の隅に座って狼星を見つめていた。
「小泉さん、怒ってるわけじゃなかったんだな……」
狼星は目を細めて、うとうとしていた。鼻先を小さく動かし、時おり小さな寝息を立てていた。
「……でも、だからこそ怖いんだよ。あの人の信頼を裏切るのが」
言葉に出すと、胸がじわりと熱くなった。
「俺がやる。ちゃんとやる。だから――お前も、負けるなよ」
狼星は、まるで応えるように一度だけ、短く鼻を鳴らした。
茂弘はそれを、肯定と受け取った。
午後、風は湿り気を帯び始めていた。牧場の空には薄く雲がかかり、遠く奥羽山脈の稜線がぼんやりと霞んでいる。
削蹄の2回目の日、片桐はいつものようにトラックで現れた。黒っぽい作業ズボンに、よれた白シャツ。寡黙なその姿は、風景の一部のように馴染んでいた。
狼星は、前回よりも明らかに落ち着いていた。鼻先を軽く震わせながらも、嫌がる素振りは見せず、片桐の指示に素直に応じていた。
「よし……左前脚、持つぞ」
茂弘が声をかけると、狼星はほんの少し身を預けるように脚を上げた。
「……ほう」
片桐の口から、小さな感嘆が漏れた。
鋭い鑿を使い、蹄の外側をわずかに削っていく。その手つきは正確で、無駄がなかった。削るたび、薄く白い粉が舞い、蹄の芯のなかから新しい形が浮かび上がっていく。
「この仔、素直だな」
片桐がぽつりと言った。
「最初は暴れてましたけど……慣れてくれたのかもしれません」
茂弘が言うと、片桐は顔を上げずに答えた。
「いや……違うな。お前にだけ、応えてるんだ」
「え……」
「蹄ってのは、馬の嘘が出る場所だ。ごまかせねえ。気に入らねえ奴が触れば、たとえ百戦錬磨でも馬は暴れる」
「じゃあ……」
「こいつは、お前のことを――信じてる」
言い終わると、片桐は静かに鑿を置いた。
茂弘は、何かが胸に込み上げてくるのを感じた。
狼星の眼が、じっと自分を見ていた。まるで、次の言葉を待っているかのように。
「……ありがとう、狼星」
無意識のうちに言葉が出ていた。
片桐は立ち上がり、狼星の足を一通り見渡した。
「予想よりも、形が素直だ。骨の配列も悪くない。矯正は可能だな」
「本当ですか……?」
「ああ。ただし――時間はかかる。最低でも半年、いや一年だな」
片桐は帽子をかぶり直し、背を向けた。
「一週間後、また来る。それまでに、この仔の食いと運動、記録しとけ。些細なことでも、全部だ」
「はい!」
茂弘の声は、風に乗って厩舎の奥まで響いた。
大声を出してしまい慌てるが、狼星は鼻にとまった虫を見つめていた。周りに馬がいないことを確認すると少しホッとした。
夕暮れが迫る牧場に、静けさが戻っていた。風に揺れる草の匂いが、ほんのりと湿気を帯びて漂っていた。
茂弘は狼星の額に額を寄せた。
「……こいつ、応えてくれてるんですかね」
そうつぶやいたとき、背後からぽつりと声が返ってきた。
「……ああ。多分な」
振り向くと、片桐が少しだけ口の端を上げていた。
それは、まるで職人の照れくさい肯定だった。