北國で、駆けて   作:久保田

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雨は降る

 雨上がりの朝、空は澄んでいて、牧場の木々がまだしっとりと濡れていた。風は涼しく、薄く伸びた草がわずかに光っていた。馬たちの嘶きが遠くから聞こえる。

 

 茂弘は、朝の見回りを終えたばかりだった。削蹄2回目から4日が経過し、狼星は相変わらず元気だった。運動の際も、脚元を気にする素振りはまずない。むしろ、歩様は前より自然になったように思える。

 

 その日の午後、松崎獣医がいつものように現れた。車から降りた彼は、妙に無口で、いつもの軽口すら発しない。

 

「狼星、今日も調子いいか?」

 

「ええ、食欲もあるし、運動も問題ありません。削蹄も順調で……」

 

「そっか」

 

 松崎は小さく頷くと、手早く聴診器を狼星の胸に当て診察。そして口を開いた。

 

「じゃあ、いつもの歩様確認、させてもらうか」

 

 茂弘は、狼星の手綱を取り、いつものように小さな放牧場を周回させた。草の上を軽やかに歩く仔馬。その動きには何の不自然さもなかった。

 

 しかし、松崎の顔がわずかに曇るのを、茂弘は見逃さなかった。

 

「……何か、おかしいですか?」

 

「うん、ちょっとね。ちょっと気になる仕草があった」

 

「え?」

 

 松崎は無言でポケットから小さな銀の器具を取り出した。視覚検査用の道具――馬の視線と反応を計測するための器具だ。

 

「これ、目のチェック。少し我慢してな、狼星」

 

 そう言って、松崎は狼星の左目の横で素早く器具を動かした。反応は……微妙に鈍かった。さらに右目でも同じように確認する。今度は反応した。

 

「……こっちは反応がいいな」

 

 次に馬の背後で、細い棒を左右に振る。通常であれば、音がしなくとも、視野に何かが入れば馬は身を硬くするはずだ。しかし狼星は無反応だった。

 

 松崎はゆっくりと道具を片づけた。その顔には、明らかな困惑と戸惑いが浮かんでいた。

 

「……視野が、狭い。しかも、動体視力に著しく問題があるやもしれない」

 

「……どういう、ことです?」

 

「正面のものは捉えられる。でも、左右に動く対象には反応が鈍い。特に左側が極端だ」

 

 茂弘の顔から血の気が引いた。

 

「それって……競走馬としては……」

 

 松崎は黙っていた。言葉を選ぶように口を閉ざし、やがてポツリと呟いた。

 

「ただし……異常なレベルで発達している視覚機能もある」

 

「え?」

 

「立体視能力。――左右の視差を使って、距離感を掴む能力。それが、異常に鋭い」

 

「……どういうことですか?」

 

 松崎は、一歩、狼星に近づいた。そして仔馬の鼻先に指を差し出し、ゆっくりと上下に動かした。狼星の眼は、確かに指の奥行きに反応して追いかけていた。

 

「これはね、飛越の得意な馬が持つ特性に似てる。障害の距離感を瞬時に掴み、身体全体をそれに合わせて動かせる。――だが、競走馬にとって重要なのは動体視力だ」

 

松崎の声は、深く低くなった。

 

「競走馬は、前方を走る馬との距離を瞬時に測り、進路を切り替え、群れの中で自分の位置を維持しなければならない。……でも、狼星にはそれが難しいかもしれない」

 

 茂弘は狼星を見た。人懐っこい眼差しが、何も知らずに彼を見返している。

 

「補う方法は……ないんですか?」

 

「理論上は、騎手との信頼関係や、反復訓練によってカバーできるかもしれない。でも、それは……普通の育成ではまず無理だ」

 

 松崎は帽子を脱ぎ、額を拭った。長い沈黙のあと、ぽつりと言った。

 

「……厳しいよ。正直」

 

 風が、厩舎の隙間を抜けていった。どこか、冷たかった。

 

 茂弘は何も言えなかった。狼星が自分の横に来て、鼻を擦り寄せてきた。

 

 その柔らかい感触に、彼は唇を噛みしめるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜。牧場の詰所は、蛍光灯の仄白い光に照らされていた。

 

 松崎の診断から数時間が経った。だが、あの言葉の重みは、今も茂弘の耳にこびりついて離れなかった。

 

――視野が狭く、動体視力に難がある

――レースでの実用性は低い

――補うには、常軌を逸した努力が必要だ

 

 詰所のテーブルには湯飲みと、まだ手をつけられていない新聞。それを囲むように、厩舎のスタッフ数人が座っていた。小泉の眉間には深い皺が刻まれていた。

 

「……で、松崎先生は、正直に言ってくれたんだな?」

 

 泰造が尋ねると、茂弘は黙って頷いた。

 

「やっぱりな。俺も、ここ数日見てておかしいと思ってたんだよ。動きに、妙な偏りがあるって」

 

 小泉が言った。腕を組んだまま、目を閉じてうつむく。だが、その言葉に責めるような棘はなかった。ただ、冷静でいようとする男の自問自答がにじんでいた。

 

「……このまま育てて、どうする? 蹄の問題に視覚異常。育成費もタダじゃない。言っちゃ悪いが、今後の見込みは……薄い」

 

 スタッフの一人がぽつりと呟いた。

 

「見込みってもんじゃない。もう、アウトだろ。牧場の金を何に使うか、考えなきゃ」

 

 それを聞いて、茂弘は顔を伏せた。言い返せなかった。返す言葉が、見つからなかった。

 

 だが、その沈黙の中で、意外な人物が動いた。

 

 小泉だった。ゆっくりと腕をほどき、湯飲みを手に取った。少し冷めた茶を一口飲み、重い声で呟く。

 

「……なあ。俺、馬を見限るのって、何より嫌いなんだ」

 

 全員が目を向けた。

 

「俺がこの牧場でやってるのは、金のためじゃねぇ。……いや、金も必要だ。でもそれ以上に、この馬は化けるかもしれねぇっていう瞬間のために、朝5時から動いてんだよ」

 

 その声には、激情ではない。蓄積された年月から滲み出る“重み”があった。

 

「狼星は、確かに難ありだ。でもな、削蹄も進んでる。脚は治ってきてる。そんで……あの目、見たか?」

 

 小泉はゆっくりと茂弘を見た。

 

「お前が一番、わかってんだろ? あいつはこっちを見てる。生きる気力が、あの眼にはある」

 

 誰も、何も言えなかった。

 

「俺はな、不確定な馬に手を出すのは本当は反対だ。牧場ってのは、数字で動く。でも……牧場は夢を食う場所でもある。そうじゃなきゃ、誰がこの寒空の中で、厩肥と格闘して生きてるんだよ」

 

 泰造が、目を細めて小泉を見ていた。

 

「小泉、お前……」

 

「言いたいことは言った。……最終判断は親方の仕事だ」

 

 そう言って、小泉は湯飲みを手に取った。無言のまま、詰所の端、湯沸かし器の方へ出て行った。

 

空気は冷たかったが、窓から差し込む月が静かに床を照らしていた。

 

小泉は、湯飲みにお湯を注ぎ、窓外に広がる夜の空を見上げながら呟いた。

 

「……あの仔馬。何かを背負って生まれてきた気がするんだよな」

 

その言葉は、誰にも届かなかったが――風が、それを草原の彼方へと運んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 厩舎の灯りは落ち、月だけが静かに屋根を照らしていた。

 

 真夜中、誰もいない飼葉舎に、茂弘の足音だけが響いていた。手には古びた懐中電灯。薄暗い光を頼りに、彼は狼星の馬房の前に立つ。

 

「起きてるか?」

 

 声をかけると、乾いた藁の上で眠っていた仔馬が、もぞもぞと身を起こした。ゆっくりと頭を上げ、茂弘をじっと見た。

 

 ――ああ、やっぱり。こいつ、目で話す。

 

 その視線には、怯えも迷いもなかった。夜の静けさを溶かすように、狼星が小さく鼻を鳴らした。

 

「……視野が狭いってさ。動くものを追えないって。……普通なら、競走馬にはなれねぇってよ」

 

 茂弘は独り言のように言った。誰にも聞かせる必要のない弱音だった。

 

「だけど、俺には……お前が諦めてないように見えるんだ」

 

 彼は馬房の扉に手をかけ、音を立てないように中に入った。そして、ゆっくりと膝をつき、狼星と目の高さを合わせる。

 

「なんで、お前だけ……って、何度も思ったよ。生まれた時から特別だった。だけどそれは強いからじゃない。何かを乗り越えるために、生まれてきた気がするんだよな」

 

 狼星は小さく頭を傾けた。その大きな目が、月光を反射して、まるで言葉を持っているかのように輝いていた。

 

「……お前、本当に走れるのか?」

 

 その問いに、狼星は答えなかった。ただ、真っすぐに茂弘を見つめ続けた。

 

 そして、ふいに、小さく鳴いた。

 

 ひとつ、短く、しかし澄んだ音だった。

 

 それはまるで、「俺はここにいる」と告げるような――そんな強さを持っていた。

 

 茂弘の胸に、こみ上げるものがあった。

 

 彼は狼星の鼻面に手を添え、そっと撫でる。

 

「……わかったよ。俺がやる。お前が前を向いてる限り、俺は……絶対に、見捨てねぇ」

 

 こぼれた涙が頬を伝った。それは、情けなさでも、哀しみでもなく――希望という名の痛みだった。

 

 夜の厩舎に、春の冷たい風が吹き込んだ。

 

 だが、その風の中に、茂弘の心は静かに燃えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄曇りの夕方、牧場の休憩室にはいつになく緊張感が漂っていた。薪ストーブの火はすでに落ち、かすかに木の焦げる残り香が漂っている。昔に作られた檜造りの床の上に並ぶ折り畳み椅子に、十名ほどの厩務員がまばらに腰掛けていた。黙したまま煙草をくゆらす者、コーヒー缶を指先でいじる者、腕組みして目を閉じる者——それぞれが、これから告げられる話の重さを察していた。

 

 やや遅れて、泰造が戸を開けて入ってきた。顔に疲れの色を浮かべながらも、その目には揺るがぬ決意が宿っている。すでに控えるのは、若き茂弘と、視線を伏せたままの小泉。泰造は皆の顔を一人一人見渡すと、静かに口を開いた。

 

「今日は……狼星の今後について、話をせにゃならん。みんな、時間を取ってくれてありがとう。」

 

 その名前が出た瞬間、室内の空気が微かにざわついた。狼星。あの、立ち上がるのが早かった仔馬。だが今や、前脚に問題を抱え、さらに視覚にも異常があるという。

 

「松崎先生の診断では、あの仔は立体視に優れてる一方で、動くものを見る力が弱いらしい。競馬での走りには、かなりの工夫が必要になる。つまり、時間も、手間も、金もかかるということだ」

 

 泰造はそこで一度言葉を切り、机の端に置いた麦茶を手に取った。飲みはせずに、それをただ見つめながら続けた。

 

「だが、見捨てるには……あの馬、ちょっと変わってる。茂弘はずっと面倒を見ててな、今日、あいつが自分で言いたいことがあるらしい」

 

 茂弘が一歩前に出ようとしたそのとき、口火を切ったのは小泉だった。いつもは寡黙な男が、珍しく声を張った。

 

「……泰造さん。ああいった手前なんですが、時間も金もかかるって話です。うちはそもそも余裕なんてない牧場ですよ。そこに脚に問題があるだけでなく、今度は目も……となると、正直言って、やってられません」

 

 一瞬の沈黙。だがその語調に、冷笑ではなく、本気で牧場を思う情熱がにじんでいた。

 

「脚の矯正には片桐さんが来てくれてるとはいえ、そんなに何頭にも付きっきりなんてできません。しかも、狼星の父親はヒカルタカイ——いま、リーディング百位にも届かない馬です」

 

 誰かが小さく頷く音がした。もう一人の年配厩務員、田口が口を挟む。

 

「母父もニューモアナだったな? たしかに馬体は悪くないが、血統的に飛び抜けたところは何もないだろう。ヒカルタカイの父方にいたハクリョウと、ニューモアナが兄弟筋って話もあると? 要するにアウトブリードでもない。競馬界じゃいま流行りの血統から外れてる。買う人間、いるのか?」

 

 誰かが低くうなった。泰造は反論もせず、ただ静かに耳を傾けていた。彼らがただの愚痴ではなく、牧場の生計を憂いていることを知っていたからだ。

 

「今年はチャイナロックの仔が一頭いるだろう? しかも、母父がシンザン。あれは期待馬ですよ。なら、そっちに飼葉代も、作業時間も回すべきだ」

 

「狼星に金を使えば、その分だけ期待馬にしわ寄せがいく。それでいいんですか?」

 

 幾人もの視線が泰造に注がれる。厳しい現実、限られた資源。日高の大牧場ならともかく、ここ葉山牧場では、何かを得れば何かを捨てねばならない。そういう宿命だった。

 

 しばらく沈黙が続いた後、茂弘が立ち上がった。

 

「……俺が全部やります」

 

 静まり返る室内。彼の声は小さく、だが確かに届いた。

 

「掃除も、飼い葉の配分も、削蹄の補助も……全部、自分でやります。俺が一番、あの仔といる時間が長い。だから、誰にも手間をかけさせません。牧場のお金も使わせません。どうにかして、教わりながらでも、やりますから……どうか、もう少し、あの馬にチャンスをください」

 

 茂弘の声は、震えていた。だがその瞳は、どこまでも真っ直ぐだった。

 

 静寂が数秒、空気のように流れた。

 

 泰造は、深く息を吐いた。そして、まるで老いた木が風にしなるような動作で、立ち上がる。

 

「……それだけ言えるなら、口出しはせん。好きにせい。だが、お前が言ったように、誰にも迷惑はかけるな。それが条件だ」

 

 小泉は、茂弘を見つめた。その視線の中には、怒りも、諦めもなかった。ただ、かつて自分がまだ若かったころの面影を見るような、わずかな期待と、痛みがあった。

 

 彼は何も言わず、黙って席を立ち、缶コーヒーの空きをゴミ箱に放り投げて出ていった。

 

 誰も、追わなかった。

 

 だがその背中に、誰もが何かを託していた。

 

 会議は静かに終わった。だが、葉山牧場の片隅で、確かに新しい歯車が、音を立てて回り始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

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