北國で、駆けて 作:久保田
夕暮れの気配が牧場の隅々にまで染み渡る頃、茂弘はひとり、厩舎へと戻っていた。会議室から戻る道すがら、ふと手袋を握る指先に力が入りすぎていることに気づいた。空にはわずかな薄紅が残り、それも静かに群青へと溶けていく。風は乾いていたが、どこか土と草の匂いを運んでいた。
馬房の奥。淡く灯された電球の下、月毛の仔馬がすやすやと眠っていた。狼星。その名に託された想いを、茂弘は胸の奥で反芻する。夜空にひとつだけ輝く星。孤独に、だが確かに光を放ち、誰の背中も追わず、自らの道を走る星。
彼の前脚には丁寧に巻かれた包帯。視線はまだ定まらない。けれど、目を閉じたその顔はどこか満ち足りて見えた。茂弘は、無意識に、その名を呼んだ。
「……狼星」
その声は空気に吸い込まれるように、馬房の静寂へと溶けていった。
背後で足音がした。振り向くと、白衣の上からヤッケを羽織った松崎が、缶コーヒー片手に立っていた。彼は無言で馬房を覗き込むと、少しだけ目尻を緩めた。
「ずいぶん……落ち着いた顔してるじゃないか、こいつ」
「はい。前脚のが抜けてから、あまり気を悪くしなくなって……」
茂弘がそう答えると、松崎は黙って馬の目元を覗き込んだ。蝋のように澄んだ白い眼球。そこに、かすかに揺れる光を読み取ろうとするかのように、彼はじっと見つめた。
「……本来、こういう馬は淘汰される。それが今の競馬界の仕組みだ。血統、見栄え、素質。全部そろってなきゃ、買い手もつかない。繁殖価値もない」
彼の言葉は冷たくもあったが、どこか懐かしむような響きを帯びていた。
「俺も昔はな、それが間違ってると思ってたよ。どんな馬にもチャンスがあるはずだって、声を上げたこともあった。でも……現実はそう甘くなかった。理想は、論文の中でなら生きられる。でも現場は……」
松崎は缶コーヒーを口に運び、小さく肩をすくめる。
「それでもな、こいつには何かある。俺も最初はただの興味本位だった。あんな難産から短時間での立ち上がりなんて、滅多に見られない。臨床例としては格好の対象だった」
「でも、ずっと見てるうちに思ったんだ……こいつ、どこか、人間臭い。最初は直感だったが、目で追えなくても、耳や鼻を頼りにしてる。感覚を補おうとしてる」
茂弘は頷いた。狼星は人の足音に敏感で、声のトーンに反応を示す。どこか、会話を理解しようとしているような瞳だった。
「弱さを受け入れて、それでも前に進もうとしてる……そういう生き物には、やっぱり、惹かれるもんなんだよ」
不意に、もうひとつの足音が加わった。重く、確かな歩幅で、蹄鉄のような響き。入口に現れたのは、削蹄師の片桐だった。無骨な手には、削蹄用の工具箱。
「随分と……情けない会議だったな」
彼は苦い顔で笑ったが、その目は狼星をまっすぐに見ていた。まるで、己が鍛えてきた蹄の成長を見届ける親のように。
「だが、お前の言葉には筋が通ってた。道理じゃない。意地だ。俺も若い頃、そうやって周りから煙たがられた。だから、放っておけんのさ」
彼は馬房の柵に手をかけ、かつて削蹄の際に見たあの目線で、仔馬の蹄をじっと見つめる。
「……昔な、俺にも弟子がいた。筋は悪くなかった。だが潰れた。挫折ってのは、一瞬なんだ。立たせるのは難しいが、倒れるのは簡単だ。だからこそ、俺は教える。お前に」
茂弘の心に、重く、あたたかい火が灯る。
「お前が俺の削った蹄で立ってる。それが、どれだけ奇跡かわかってんのか」
その言葉に、茂弘は不覚にも目頭が熱くなった。狼星は、ただ静かに身じろぎし、眠りを続けていた。
「俺もやるよ。途中で投げ出すなんて、俺の流儀に反する。削蹄に関しては、今まで通り俺が見る。必要があれば技術も教える。あとは、お前が覚えろ」
「……ありがとうございます、片桐さん」
「礼は、要らん。ただ、あの仔に『逃げ場』を与えるな。育てるってのは、優しさだけじゃねえ」
いつの間にか日が落ちた。牧場の夜は、風が音もなく草を揺らし、空には星々がまたたいていた。厩舎の明かりの下、仔馬の眠る馬房を背に、茂弘、松崎、片桐の三人は黙って缶コーヒーを片手に並んでいた。
しばらくの沈黙のあと、茂弘がふと、ぽつりと口を開いた。
「……あの名前、『狼星』って、実は授業中に見た夢がきっかけだったんです。居眠りしてて……仔馬と、夜空にひとつだけ強く光る星が見えたんです。目が覚めたあと、気づいたらノートに『おおかみ』と『ほし』って書いてました」
松崎が少しだけ眉を上げる。
「それで狼星か。……シリウスとは、変わった組み合わせだな」
「ええ。でも、後でどこか腑に落ちたんです。狼って、群れを離れても一匹で生きる強さがある。星は、どんな夜でも見失わない光……。それを合わせたら、孤独の中でも、道を見失わない存在になる気がして」
片桐が、口の端を少しだけ持ち上げた。
「面白ぇな。名前ってのは、祈りみたいなもんだな」
「はい。名前をつけるって、存在を認めて、消えないようにしてやることなんだと、最近ようやくわかってきました。名のない命は、風に溶けるみたいに、いつか誰にも思い出されずに消えてしまう気がして……」
松崎は黙って頷いた。そして、厩舎の奥で寝息を立てる仔馬に視線を向けながら言った。
「それは……君自身にも言えることなんじゃないか? 狼星って名前は、あの仔馬だけじゃなく、君自身をも照らす星だよ。心の中にある、まだ名前のない願いや迷い……それに光を当てるための、君自身の言葉なんじゃないか」
その言葉に、茂弘は息を呑んだ。どこかでずっと感じていたことを、はっきり言葉にされた気がした。
片桐が、そっと工具箱の縁を指でなぞりながら続ける。
「名を与えるってのは、覚悟だ。逃げ場を与えないことでもある。名前をつけた以上、見届けなきゃならねぇ。いいか? それは育てる側にも、名前を受けた側にも同じ責任がのしかかる」
「……はい」
茂弘の声は、少しだけ震えていた。
「でも、あの名前を口にするたびに、自分がどこへ向かうべきか、見えてくる気がするんです。僕の先生が昔、名前っていうのは、ふらふらしてる心を、ここだ、って留めてくれる重しだって言ってました。それが、今ようやく意味としてわかるようになったんです」
松崎が、煙草に火をつけかけてやめた。静かに夜空、外を仰いだまま、呟く。
「ならば、『狼星』ってのは……君の祈りそのものだな。名前ってのは、希望を言葉にしたものだから」
そして、三人の間に、また静かな沈黙が戻った。だがそれは、何かを共有したあとの、満ち足りた沈黙だった。
夜空には、雲間からひとつだけ、凛とした光を放つ星がまたたいていた。
松崎は、少しだけ目を伏せた。どこか、自分の過去を思い出しているような表情だった。
「そうか……なら、なおさら、簡単には終われないな」
彼は白衣のポケットから手帳を取り出し、スケジュールを確認しながら言った。
「体調管理の面は俺が見る。消化状態、行動パターン、目の反応も全部記録してやる。茂弘、君には基礎から教える。覚悟しとけ」
片桐もまた、まっすぐに言った。
「俺からもみっちり叩き込むぞ。削蹄も、蹄鉄の選び方も、真剣にやれ。俺のやり方は古臭いが、間違っちゃいねぇ」
言葉の間に沈黙が落ちた。しかし、その沈黙の中に、三人の覚悟が確かにあった。
その夜、牧場の片隅で、狼星育成計画——小さな、だが情熱に満ちた「異端者」たちの挑戦が、音もなく幕を開けた。
静寂の中、仔馬の呼吸だけが聞こえていた。それはまるで、新たな鼓動を刻みはじめた心臓のようだった。
外では風が凪ぎ、雲間に一つ、星がまたたいていた。
まるで、狼の名を持つ仔馬の行く先を照らすかのように。