北國で、駆けて   作:久保田

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4月の茂弘

 春の光はまだどこか頼りなく、八戸高校の教室にも、岩手の山間からやってきた茂弘には馴染まぬ匂いがあった。カーテンがわずかに風を含んで揺れるたび、乾いた石灰の粉と新しい教科書の紙の匂いが混ざりあい、どこか遠い世界の気配のように思えた。

 

 4月、まだ雪が残る葛巻の谷を出てから、毎朝の通学は母の運転する軽自動車で一時間。町道から国道を抜け、南部の里山を越える道のりだ。母は市役所勤めで、かつては短歌を詠んでいた人だったが、今では公文書の整理と電話応対に追われる日々を送っていた。それでも、茂弘の進学を誰よりも望み、励まし続けてくれた。

 

「牧場の息子だからって、馬や牛だけの世界で終わらなくていい。あんたの世界はもっと広い」

 

 母のその言葉に背中を押されるように、茂弘は農業高校ではなく、八戸高校への進学を選んだ。腕試しで受けた試験に合格したのは、正直なところ自分でも意外だった。牧場の朝仕事の合間を縫って勉強していたが、成績は決して悪くなかった。けれどこの高校で周囲を見ると、まるで別の星から来た人間たちのように感じる。誰もが勉強に飢えていて、進学と将来の話が当然のように口をついて出る。

 

 教室では、話しかけてくる者もいなかった。いや、誰かが拒んでいるわけでもない。ただ茂弘が、自分から何も発しないからだった。制服の袖口に、藁の繊維が残っていた。それだけで周囲は、彼を他所の人間と無意識に距離を置いたのかもしれない。彼に興味を持つものもいた。しかし、彼の眠りから遠慮が生まれていた。

 

 茂弘は、眠気を堪えながら机に伏せた。昨夜は仔馬の世話で遅くまで起きていた。狼星――今年の三月に生まれた牡馬だ。難産で生まれた牡馬には障害が危惧され、獣医の松崎からは「安楽死も場合により選択肢」とまで言われた。それでもその仔馬に期待しては、育てていこうと決めた。父の泰造は少し苦い顔をしていたが、最終的には頷いた。

 

 授業中も、瞼の裏に浮かぶのは狼星の大きな黒い目だった。足元がたまにふらつくその姿を見ていると、なぜか胸の奥に刺さるものがある。うまく言葉にはならないけれど、「見捨ててはいけない」という感情が、確かにあった。

 

 そんなある日の午後。

 

 春の陽が斜めに差し込む教室で、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 

 生徒たちがノートを閉じ、机の上に教科書を重ね始める中、茂弘もゆっくりと鞄を開け、プリントを押し込もうとした。

 

 そのときだった。

 

「……岩手新報の地方欄、葛巻で馬の出産ラッシュ、だろ?」

 

 淡々とした声だった。

 

 茂弘が顔を上げると、隣の席の男子生徒が、開いたままのノートを手にこちらを見ていた。顔立ちは整っているが、どこか距離を保つような眼差し。その目の奥には、観察する者の冷静さと、感情の奥に揺れる微かな光があった。

 

「……なんで知ってるんだ?」

 

 思わず問い返す。

 

「僕、新聞記事を集めてる。地方欄は特に面白い。人の暮らしの痕跡が、一番濃いから」

 

 その言葉に、茂弘は不意に胸がざわついた。仔馬の誕生が、誰かの記録として残っていたこと。自分とは何の関係もないと思っていたクラスメートが、それを見ていたこと。

 

「……お前、名前は?」

 

「海部。海部智則。君は?」

 

「……葉山、茂弘」

 

 互いの名前を交わしたあと、二人の間に一瞬の沈黙が生まれた。

 

 窓の外には、まだ若い牧草が風に撫でられていた。

 

 茂弘は無意識に、机の縁に指を添え、蹄の形を爪でなぞっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 春の風が街路樹を撫で、八戸の夕暮れがその葉先に金色の光を宿していた。八戸高校の読書室は、校舎の東側にあり、大きな窓から差し込む光が木製の机に柔らかな影を落としている。

 

 海部智則は、その窓際の席に座っていた。手元には分厚いスクラップ帳。新聞の切り抜き、手書きのメモ、鉛筆で描かれた風景。整然と貼られた資料の中に、彼は岩手新報の地方欄を見つけ、指先でなぞった。「葛巻で馬の出産ラッシュ」とだけ記された小さな見出し。茂弘の名前も、小さな写真も、そこにあった。

 

 そのとき、読書室の扉がゆっくりと開いた。制服の袖にまだわずかに藁の繊維をつけた少年が、そっと入ってきた。茂弘だった。彼は人目を避けるように、静かに資料棚に歩み寄り、『南部馬事通信』の古びた冊子を引き抜いた。

 

 智則は、ふとした好奇心に背中を押されるように、彼の隣に静かに座った。茂弘は驚いたように目を上げたが、すぐに目を伏せた。

 

「その記事……俺切り抜いてた」

 

 智則はスクラップ帳を開き、同じ記事を見せた。

 

 茂弘は少し目を見張ったが、声は出さなかった。しばらくの沈黙が、二人の間を満たした。

 

「……他人の馬なんかに、どうしてそんなに」

 

 ようやく茂弘が口を開いた。声は低く、どこか突き放すような響きがあった。

 

 智則はそれに即答せず、少し間を置いてから呟くように言った。

 

「それ、人から無関心の馬だったか?」

 

 茂弘の手が、ページの端で止まった。その言葉が、自分のどこか深いところに触れたのを感じた。

 

「……別に、世話するのが好きなだけだ」

 

 言い訳のように呟いた茂弘の指先には、擦れた絆創膏が貼られていた。馬の世話中に負った小さな傷だろう。

 

 智則は黙っていた。だがその目には、明らかに言葉以上の何かを受け止めようとする意志があった。

 

 その沈黙は、不器用な少年たちの最初の共感だった。

 

 読書室を出たとき、夕陽は校庭の端に沈もうとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教室の時計の針が、十時半のあたりを指していた。二時間目の国語が終わり、教室内はざわめきの渦中にあった。木製の机をこする椅子の音、窓際の生徒が春の風に誘われてカーテンを弄る音。天井の蛍光灯が時折、微かな唸りを上げていた。

 

 茂弘は教科書を閉じ、筆箱の横に折り畳んだノートを置いたまま、虚ろな目で黒板を見ていた。

 

 その日、授業では「生命の倫理と社会的価値」というテーマを持った評論文が扱われていた。執筆者は当時としてはまだ目新しい生命倫理の研究者で、視覚障害を持った牛の安楽死に関する欧州の事例を紹介し、「人間の管理下にある動物の価値とは何か」を問うていた。

 

 教師は特に感情を込めることもなく読み進め、「これは社会問題の一環であり、進学に役立つ文章構成の訓練になる」と述べた。だが茂弘の胸に、その言葉はどこか刺のように引っかかっていた。

 

──「価値って、なんだ?」

 

 後ろの列、窓際の席でノートをめくっていた智則が、ふと顔を上げて、茂弘の机のほうを見やった。

 

「……君さ」

 

 その低く整った声は、教室のざわめきから一歩外れた静けさを纏っていた。

 

「さっきの話、気になったのか?」

 

 茂弘は少し身じろぎしたが、すぐには答えず、机の端を指でなぞっていた。

 

「……まあな」

 

「動物の価値ってさ。社会は使えるかどうかでしか見てないよな」

 

 智則の目は、何かを突き止めようとするように茂弘を見つめていた。

 

「新聞でも、テレビでも、競走馬の価値って言葉、しょっちゅう出てくる。速ければ価値がある、走れなければ淘汰される。そういう前提の社会構造なんだ」

 

 茂弘はゆっくりと頷いた。

 

「でも、俺が世話してる馬──狼星って名前の仔馬、あいつ、脚が弱い。障碍持ちなんだ」

 

「それでも?」

 

「……それでも、生きてる。ただそれだけじゃダメなのかって、思うんだ」

 

 智則は目を細めて、ポケットから小さなスクラップ帳を取り出した。中には、牧場のニュース記事、全国の馬産地のコラム、さらには子ども向けの動物特集の切り抜きまで、丁寧に糊付けされていた。

 

「君がその馬をどう見てるのか、気になってた」

 

「なんで?」

 

「僕は記録する人間だから。言葉にならない価値ってものを、どうやって記録すればいいのか──ずっと探してる」

 

 二人の間にしばし沈黙が流れた。だがそれは、疎外の空白ではなく、言葉の余韻を互いに反芻するような、静かな共鳴の時間だった。

 

 教室の隅、中学校以来のクラスメートたる山田が、牛乳パックを手にふと声をかけてきた。まさか山田も八戸に来るとは思わなかったが、山田も試験に受かっていた。

 

「……あのさ。俺、家で犬飼ってるんだけど、片脚怪我してて。じいちゃんは殺してもいいって言ったけど、どうしてもできなかった。なんとなく、ちょっと分かるよ、そういう気持ち」

 

 茂弘は驚いたように山田を見たが、すぐに微かに笑って、目を伏せた。

 

 チャイムが鳴る。次の授業の教科書を出しながら、智則が呟いた。

 

「……論では勝ったけれど。でも、君の言葉には、血が通ってる」

 

 その一言が、茂弘の胸に静かに沁みていった。

 

 狼星を思う夜明けの匂い、泥にまみれた手、震える命に添えた毛布の感触。

 

 それらが彼の言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山間の空に、まだ雪を被った多々良の峰が白く浮かんでいた。4月とはいえ、葛巻の朝は冷え込みが厳しい。だが、午後になると日差しがぐっと和らぎ、斜面の笹や牧草が春の輪郭を露わにする。

 

 智則は、後部座席からじっと窓の外を見ていた。

 

 選挙のあと。統一地方選挙で父・海部誠一郎は再選を果たし、今はその「お礼参り」と称して、支持者や後援会員を巡る日々が続いている。今日は北上高地の山間部、葛巻を回っていた。

 

 「ここの公民館で話すんだが、お前も降りな」と、前席から父が声をかけた。

 

「少し、近くを歩いてくる」

 

 智則は応え、父が軽く頷くと、父の車を離れた。ここまでの父の演説にくっついてきたから、父も許してくれた。

 

 舗装された県道から外れ、小道を進むと、ふと鼻腔をかすめたのは、土と藁と、何か湿った毛の匂い。風が軽くなり、土埃が巻き上がった先に、古びた木造の馬房が見えた。

 

 そのすぐ近く、作業帽を後ろに被った一人の少年が、マツダの軽トラを走らせていた。

 

──茂弘だった。

 

 茂弘もこちらに気づき、一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに視線を前方へ戻した。

 

 軽トラを止めると降りて、こちらに近づいてきた。

 

「……こんなとこで、何してんだ?」

 

「父のお礼参りに付き合って。君の家の近くだって聞いたから、歩いてたら……牧場、見えた」

 

茂弘は無言で頷いた。

 

「ところで、未成年なのに軽トラを運転してるのか?」

 

 かなり衝撃的な光景だった。未成年が、車を運転していた。暴走族くらいでしか見たことがない光景は、都会に慣れた智則には想像の埒外だった。

 

「ここは家の私道だからな。さすがに公道ではしない」

 

 軽トラに乗せてもらい、彼が手塩にかける狼星が放されているという放牧地へと連れて行ってもらった。

 

 智則はそのまま木柵に手をかけ、奥を覗いた。奥にいたのは、一頭の細身の仔馬と大きな馬。大きな馬の性は分からなかったが、おそらく母なのだろう。泥が付着した前肢、薄いベージュ色の毛並み。月毛と呼ばれるそれはまるで粘土のようだった。

 

「……狼星?」

 

 智則が静かに問いかける。

 

「そう。いつも話してるやつ。ちょうどあの新聞のときの──」

 

 言葉を切った茂弘の目には、一瞬のためらいと、誇りと、悲しみが交錯していた。牧場の情景スケッチが描かれていた。古びた木造の馬小屋、雪解けのぬかるみ、遠くに煙る山々。

 

「匂いは、載せられなかったけどな」

 

 智則はそう言って微笑んだ。

 

 茂弘もふ、と鼻で笑った。

 

「新聞じゃ、この匂いは伝わらないな。堆肥の山の横に、仔馬の寝藁の匂いが混ざってる」

 

「でも、それが現実だ。今、僕が見てる狼星の姿だ」

 

 狼星は、ゆっくりと近づいてきた。だが、突然、柵の向こうから犬が吠えた。牧場の番犬・シロだ。智則の姿を見て警戒している。

 

 そのとき──

 

 茂弘がゆっくりと、犬に手を差し出した。無言のまま。静かに、静かに。

 

 吠え声が止み、犬は耳を伏せ、茂弘の足元に身を伏せた。

 

 その光景を、智則はじっと見ていた。言葉ではない、理解の形。 

 関係の深さを言葉にせず伝える姿勢。

 

「……これは、取材じゃないな」

 

 智則は、胸の中でそっと呟いた。

 

──これは、誰かを記すことではなく、共に歩くということだ。

 

「君の狼星ノート、見せてくれる?」

 

「え……?」

 

「いつも話していただろう。少し、見たくなったんだ」

 

 茂弘は一瞬戸惑ったが、軽トラに置いていた薄いノートを持ってきた。表紙に鉛筆で小さく狼星と書かれていた。

 

 ページをめくると、体重の変化、哺乳の記録、松崎獣医の所見──すべてが簡潔に記されていた。だが、どのページにも、感情らしいものはなかった。

 

「君の感想は、どこにもないんだな」

 

「……獣医の先生や厩務員の言葉を写してるだけだ」

 

「じゃあ、ここに余白を作ろう。誰がどう思ってるのか、付箋を貼ってさ。あとで君が何を感じたかも、少しだけ書けばいい」

 

 茂弘はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと頷いた。

 

「……智則、お前って、変わってるな」

 

「よく言われる」

 

 二人の笑い声が、牧場の風の中に、ほんの少しだけ混じった。

 

──この記録は、もう誰かの馬の記録じゃない。

 

 それは、自分たちがなにに向き合っているのかを記すための言葉だった。

 

その日から、「狼星ノート」の余白には、茂弘の小さな付箋が増えていった。

 

「今日、久しぶり鼻を鳴らした。甘えた声だった」

 

「足元が少ししっかりしてきた。父は嬉しそうだった」

 

「夜明けの光が、馬房の隅に差し込んでいた。あの瞬間を、誰かに伝えたいと思った」

 

智則と茂弘の物語は、まだ始まったばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 四月の終わり、早朝の八戸駅に冷たい風が吹き抜ける。改札口をくぐる通学の列からかなり外れたところに、茂弘の姿があった。制服の下にうっすらと藁くずが付いている。早朝の牧場作業を終えて、母の運転する車で送られてきた直後だった。

 

 八戸高校の昇降口をくぐると、微かにチョークの匂いが漂う。けれど、教室では別の空気が支配していた。

 

「……また馬の話か」

 

 誰かが休み時間に呟いた。誰か、というより、「皆」であるような空気の濃度。進学校に集まるのは、官僚、法曹、教師を目指す者たち。畜産や牧場は地元にとどまる人間の象徴だった。決して口にはしないが、雰囲気はあった。

 

 ある昼休み、社会科の資料プリントをめぐって智則と茂弘がふいに向き合った。

 

 資料は明治期の開拓政策と、馬の軍用価値の記録。だが、それを読んだ智則がぽつりと呟いた。

 

「社会って、結果でしか生き物を評価しないよな」

 

 茂弘は一瞬だけ顔を上げ、慎重に答えた。

 

「……でも、僕は狼星に結果を求めてない。ただ、生きててくれたら、それで」

 

 智則は、その答えに反射的に言葉を返していた。

 

「でも、それじゃ君が報われない。記録に残すなら、誰が見ない価値を、証明しなきゃ意味がない」

 

 その言葉に、茂弘は小さく笑った。

 

「それなら、僕が示すよ。誰も注目しないなら、僕がちゃんと示す」

 

 言い切った瞬間、茂弘の目に、これまでにない輪郭が宿っていた。逃げるように語っていた馬のことを、初めて「責任ある主体」として口にした、その響き。

 

 沈黙の後、智則は小さく頷いた。

 

「……それなら、僕が伝える。君が残すことを、僕の言葉で届けるよ」

 

 その日の帰り道、葛巻からの県道を下る母の車の中で、茂弘は窓の外に目をやりながら呟いた。

 

「狼星がいなかったら、たぶん僕、八戸に通うのがいやになってたと思う。なんか、見失ってたのかも」

 

母は運転しながらちらりと息子を見たが、何も言わなかった。ただ、小さくアクセルを踏み、坂道を静かに下った。

 

その夜、狼星ノートの余白に、新しいコメントがあった。

 

「今日、蹄を石にぶつけた。でもすぐに立ち直った。弱い子だと思ってたけど、たぶん、弱いまま強くなってるんだと思う」

 

 

 茂弘の筆跡だった。言葉の表情は、まだ固い。けれど、その一語一語は、蹄の音のように確かだった。

 

 智則はその夜、自宅の机で、自作のスクラップ帳を開き、一枚の写真を貼り付けた。

 

──4月29日。牧場の空。狼星が、はじめて柵の外へとくぐった日。

 

写真の下に、鉛筆でこう記した。

 

「まだ、何も始まっていない。でも、この日を始まりと呼ぶことにする」

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