北國で、駆けて 作:久保田
夏の入り口がそっと顔を出した、七月初旬の朝。空は一面、低く垂れこめた灰色の雲で覆われていた。太陽はまだ雲の裏に閉じ込められ、光は地表に届かず、牧場は薄く冷たい色調に染まっている。だがその静けさの奥に、確かに季節が動き始める音があった。草の香りの中に混ざる、少し蒸した土の匂い。風は鈍く、しかし熱を帯びていた。
茂弘は、しゃがみ込んで狼星の前脚の蹄を丁寧に拭っていた。水で湿らせた布をゆっくりと巻き付け、指先で泥と草をこそげ落とす。蹄鉄のあたりに小さな傷がないか確かめ、仕上げに乾いた布でやさしく拭く。ひとつひとつの動作は、もはや日課というより、祈りに近かった。
狼星はじっとしている。ほんのときおり、鼻を鳴らし、耳をぴくりと動かす。視野が前方に集中したその眼は、しかし、茂弘の気配を確かに感じ取っている。洗い終えた右前肢を地面に戻すと、狼星は静かに首を上げた。曇天の下、彼の月色の毛並みがしっとりと濡れて、曖昧な輪郭に光を帯びる。
そのとき、牧場の奥から複数の足音が近づいてきた。硬い革靴が乾いた土を踏む音、葉巻に火をつける乾いた音、メモ帳をめくる微かな音。調教師たちと馬主たちがやって来たのだ。
彼らは庭先取引の目利きとして、今日も何頭もの若馬を見定めに来ていた。派手さこそないが、洗練されたスーツの男たちは、視線で馬たちの骨格、筋肉のつき方、歩様を測り、鉛筆で素早く何かを書き留めていく。葉山牧場の人間が案内するたびに、馬の頭を撫でる者もいれば、ただ冷たく見るだけの者もいる。
狼星の前を通りかかったとき、一人の調教師がほんの一瞬、足を止めた。狼星の右側の顔に視線を送る。そしてふいに、左側へとまわり込むと、小さく口の端を歪めて、同業の男にささやいた。
「……眼が利かねぇ馬らしいな。馬体は良さそうなんだが、」
「脚、伸びてきたけど、あの生まれだと後遺症の可能性が……」
「少し痩せた気配もあるな」
それきり、彼らは一瞥を残して通り過ぎた。狼星は小さくいななき、しかしすぐにまた沈黙を取り戻す。静かに、茂弘のほうへ首を戻した。
茂弘はその一部始終を見ていた。いや、聞いていた。立ち上がりもせず、声も出さず、ただ蹄の泥を落とす作業に戻った。
空はまだ曇っていた。風は止まり、湿った空気がシャツにべたりと張り付く。背中の汗が、綿の布を通してじわじわと滲みていく。人々の声も、足音も、煙の匂いも、すべてが遠くなる。目の前にあるのは、ただ狼星の蹄と、彼の脚の温もりだけだった。
この蹄がきちんと乾くころには、また一頭、どこかの馬が売れていくのだろう。だが狼星は――今日も、誰の目にも止まらなかった。
声に出さない思いが、喉の奥で静かに重たく沈殿していた。誰も見ようとしない命に、自分だけが触れている。それは、孤独であると同時に、ある種の誇りでもあった。
「……」
茂弘は何も言わなかった。ただ、狼星の脚をそっと持ち上げ、次の蹄へと布を移した。目の前の馬は、今日もそこにいた。蹄の奥に宿る微かな鼓動とともに。
曇り空の下、時折ざわりと風が牧草の海をなぞっていく。午前の見学が終わり、庭先取引の一団がトラックに乗って去っていく頃、牧場はまた、元の静けさを取り戻しつつあった。
牧場事務所の裏手。白木の長机の上に、記録用紙とインクの滲んだ万年筆が置かれている。脇には獣医用の鞄が無造作に開けられていた。中には聴診器や体温計、手帳に挟まれた複数の診断票――そのどれもが、年季の入った手入れの痕跡をまとっていた。そして、目新しい新品のそれもあった。
松崎は机に腰かけ、狼星の成長記録に目を走らせていた。灰色の外套はいつも通りくたびれており、袖口は牧場の土にうっすら染まっている。だが、目だけは鋭い光を失っていない。筆先を走らせる手を止めることなく、彼はふいに顔を上げた。
「おお、いいタイミングだな」
「書類、持ってきました」
茂弘が封筒を手渡す。その指先にまだ、蹄油の匂いが残っていた。
「ご苦労さん。おお、こりゃ丁寧にまとめたな……へえ、成分分析まで書いたのか。やるじゃないか、進学校の力ってやつか?」
「いや……ただ、いつも松崎さんが『数字で語れ』って言うから」
「そりゃあ言うさ。人の評価は曖昧でも、数字は嘘つかん」
彼は柄にもなく哄笑するとそう言って、松崎は椅子をぎしりと軋ませながら背もたれに寄りかかり、手帳をぱたりと閉じた。
「削蹄、良く効いてる。あの脚の形なら、もう心配ねぇな。やっぱり片桐さんは大したもんだよ。旧御料の削蹄班でも頭一つ抜けてた。俺が研修で千葉に行ったときも、あの人だけ、馬じゃなくて時間を削ってるようだったよ」
茂弘はわずかに笑った。
だが、松崎の顔からはすぐに笑みが消えた。彼の視線は、遠く厩舎のほうへ――ちょうど水桶に首を突っ込んでいる狼星の背中へと移っていた。瞳の奥に、いつもの学者のような鋭さが戻る。
「……脚の筋肉、文句なし。腱もよく締まってる。背筋の通り方も、悪くねえ。何より、反応がいい。音を、よく拾ってる」
小さく口笛を鳴らす。鋭くも優しいその音に、狼星がぴくりと耳を動かし、首をわずかにかしげて反応した。
「な? ほら。こういうのが大事なんだ。視野にハンデがあったって、補える能力があればどうとでもなる。人間の目はな、つい欠けてるものにばっかり注目しちまう。でも、俺は残ってるものを見たい」
茂弘は、黙ったまま、狼星を見た。その眼は、調教師たちの冷ややかな一瞥を受けた馬とは思えないほど、凛としていた。
「……でも、買う人がいないんです」
そう絞り出した声は、小さく、乾いていた。
「売れなきゃ、レースにも……」
松崎は鼻を鳴らした。
「そりゃそうだ。だがな、茂弘。馬主ってのは、馬を見るより先に、目を見るんだよ」
「目……ですか」
「そう。お前の目が信じてるかどうかを見てるんだ。脚だとか血統だとか、最終的には全部、判断材料に過ぎねぇ。でも、この馬に賭けたいって本気で思ってる奴が傍にいると、不思議と空気が変わる」
言いながら、松崎はまた手帳を開き、狼星の記録の続きを書き込み始めた。ペン先が紙をこする音が、しばし静けさの中に響く。
「お前は……どうなんだ?」
「……俺は、この馬が好きです。育てたい。できれば、走ってるところを見たいです」
松崎は書く手を止めずに頷いた。
「なら、それで十分さ。あとは、この仔が“走りたい”と思える準備を、俺たちが整えてやるだけだ」
彼の声は、いつものように少し鼻にかかった調子だったが、そこには迷いがなかった。
「だからこそ俺は――こうして決まった診療日なんか無視して来るんだよ。この仔の時間は、お役所仕事じゃ測れねえからな」
茂弘は、少しだけ目を伏せて笑った。
その笑みの裏には、不安も、孤独もまだ確かにあった。けれど同時に、「信じてくれる誰かがここにいる」という、ひと筋のぬくもりもまた、はっきりとあった。
風が止んでいた。
午前と午後の境界が曖昧な曇天の下、広い放牧地の空は、乾ききらぬ灰色の布のように垂れ込めている。
空の色を映したような、濃い泥を含んだ土の上に、蹄の痕が幾重にも重なり、茂弘の手元には布と、泥を吸った爪先の匂いだけが残った。
しんとした空気の中、蹄を手入れされたばかりの狼星が、まばたきを一つする。仔馬特有の未熟なまなざしが茂弘を見返し、鼻先をぬらしたまま、前脚を軽く踏みかえた。
──遠くの山の輪郭が、やけに近く感じる。空気が重い。
曇った空のもとでは、牧柵も人も、すべての輪郭がどこか鈍い。
風の代わりに、雲の影がゆっくりと地表を移ろう。
そのときだった。
土の匂いにまじって、わずかに違う気配が漂った。
──煙草の残り香。だがそれだけではない。上質な革の匂い、そして、ほのかに漂う消毒液のような鋭さ。
それは、牧場の空気には属さない匂いだった。
気づけば、足音がひとつ、静かに近づいてきていた。柔らかく、間隔のそろった革靴の音。
振り向くと、牧柵の外側からひとりの男が、まっすぐこちらへ歩いていた。
長身の男は、軽くジャケットを肩にかけ、片手をポケットに差し入れていた。スーツの生地は湿気を弾いてなお清潔で、歩幅には無理がない。
五十代半ばか、それより少し上──だが、疲れのない顔には、長く人の体を診てきた者の静かな自信が滲んでいた。
狼星をひと目見て、男は軽く片手を上げた。
「…相変わらず丁寧だね、茂弘くん」
柔らかな声。だが、どこか芯のある響き。
「蹄の艶だけで、馬の気配が変わる。いい目をしてる」
そして、ふっと微笑むと、空をちらりと見上げる。
「人の足の血流も、そんなふうに見えたら楽なんだがな」
まるで、冗談のように──しかしどこか本気のように。
茂弘は、わずかに戸惑いながら立ち上がり、帽子のつばに手を当てた。
「あの……こんにちは、大島さん。……盛岡に?」
「うん、昼までは。急患がいてね。術後の状態が安定したから、顔を出せた」
空気の重さにさえ左右されないような声音で、大島は淡々と応じた。
「札幌に戻る前に、ここの馬の顔を見ないと、落ち着かないんだよ。もう、習慣みたいなものだ」
曇天の空の下、風は動かない。
代わりに、遠くでトラクターの微かな振動音が、土を伝って耳に届いた。
「それに──泰造から、連絡が来てね」
大島はくすりと笑った。「今年は顔を出すのが遅いなって」
「……あの人にそう言われると、逆らえないんだ。長い付き合いだからね」
その声には、歳月を超えた信頼と、譲れぬ筋のようなものが感じられた。
男の視線が、ふと狼星へと移る。膝を折って、泥を気にせずしゃがみ込み、仔馬の前脚にそっと手を添えた。
狼星はわずかに身を引きかけたが、逃げることはしなかった。
むしろ、まなざしを受け入れるように、大島の顔をじっと見ていた。
「なるほど……左後肢の腱、かなり柔らかいな。よく世話してる」
指の先で筋をなぞるように触れながら、大島はそう言った。
「この月齢にしては脚が長い。……ただ、まだ心と身体が噛み合ってない」
「仔馬の鼓動ってのは、体の外に漏れるんだよ。脚先からな」
風がふわりと一度だけ吹いた。遠くの木々がざわりと揺れ、頭上の雲が僅かに崩れる。
茂弘は、黙ってその言葉を聞いていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「……ぼく、この子が走るところを見たいんです。速くなくても、最後まで」
それを聞いて、大島は、狼星ではなく茂弘を見た。
そして、ゆっくりと口元に微笑を浮かべた。
「それが言えるなら、君は十分に馬を見る目を持ってる」
立ち上がって背中の泥を払いながら、淡く肩をすくめた。
「ただな、私は……あまり当歳馬を買わんのだ。時間をかけられない」
茂弘が言葉を探す間もなく、大島はさらりと言い添えた。
「医者のくせに、待つのが苦手でね」
それは、どこか苦味を含んだ笑いだった。
歳をとったから、ではない。責任があるのだ。命を診る者として、時に待てない現場に身を置くことの覚悟が、そこに滲んでいた。
ふいに、大島が茂弘をまっすぐ見た。
「……きみ、血を見たことはあるか?」
唐突な問いに、茂弘は一瞬まばたきし、眉をしかめる。
「え……」
「いや、ただの医者の癖さ」
大島は肩をすくめた。「人も馬も、何を信じてるかは、目の奥に出る。若い目には、ときどきドキリとさせられるんだ」
診るという行為。
それが、肉体だけでなく信じているものまでも読む行為であることを、大島は簡単に言った。
曇天の下、牧柵の向こうでは、別の仔馬が遠くでひと鳴きした。
大島は再び狼星へ手を伸ばし、首筋を軽く撫でる。仔馬の呼吸が少し深くなり、足元で草が揺れた。
「道営で走らせる子は、毎年ここで見てる。……葉山でなきゃダメなんだ」
「泰造が選ぶ血統と気性は、数年単位で育っている。……すぐに買える馬じゃないよ」
その言葉には、時間をかけることのできる者たちへの、静かな敬意があった。
「じゃあ、この子も……来年は?」
茂弘の問いに、大島は少しだけ目を細める。
「さあな」
少し視線を宙に上げて、曇り空を見つめた。
「だが、名前は覚えておくよ。……狼星、だったか」
その響きを噛みしめるように口にして、大島は言う。
「夜の空に走る者には、医者も競馬も関係ない」
ジャケットを肩にかけ直し、背を向けながら、一度だけ振り返った。
「また来るよ。次に会うときは、少し育ってるかな」
革靴の足音が、湿った地面に吸い込まれてゆく。
その背中を見送りながら、茂弘は、自分の胸の内に生まれた言葉にならない鼓動を、じっと感じていた。