「──え?」
突然の問いかけに光輝は理解が及ばず、思わず聞き返してしまう。
「だから、ナグモだよ。知らない? 近い匂いがするから何か知ってるかと思ったの」
「に、匂い?」
少女の言葉に光輝は思わず自身の肩に鼻を寄せて匂いを嗅いでしまう。
光輝とハジメは同じクラスメイトだけであって特別親しい間柄ではないし、これが龍太郎とかならまだ分かるが、他者の匂いがつくほど光輝はハジメと共に居たわけではない。
「その……俺、臭うのかな」
「はい、全身から不埒な匂いが漂っています」
「不埒な匂いって何!?」
思わず背後に居る女性騎士に訪ねた光輝だったが、彼女からの意味のわからない辛烈な一言に思わずツッコむ。
「誰彼構わず女性を手籠めにしようとするクズが発する臭いのことです。え? 無自覚だったんですか?」
「その本気に取れる反応やめてくれ。俺はそんなんじゃないから」
「近づかないでください。匂いで妊娠させるおつもりですか?」
「しねぇよ!! 何言ってんの!? 大体──」
「ねぇ」
とんでもないことを口走る彼女に、光輝の口調も思わず強くなるが、そんな漫才のようなやり取りは少女の一言で消えてなくなる。
「ナグモって男の子、知らない?」
先ほどと一言一句違わない問いかけ。
だが、その声色には明らかに光輝達に向けた苛立ちが込められていた。
「その……ナグモっていうのは、南雲ハジメのことか?」
これ以上刺激するのは危険だと判断した光輝は探るように言葉を返す。
よく分からないが、とりあえずこの少女は自分と会話をする意思があるようだ。それならまずは少しでも情報を引き出すことに注視する。
「ナグモ、ハジメ? よく分からないけど、ニンゲンの雌がナグモって呼んでたのを聞いた」
「聞いたって……君は南雲と知り合いなのか?」
光輝の脳裏に、もしかして彼女もユエ達と同じくトータスで知り合ったハジメの知り合いなのかという線が浮かぶが、一瞬でその可能性を捨て去る。
少女を視界から外さずに周囲の状況を再び見渡す。今も建物が崩壊する音や誰かの悲鳴が聞こえてくる。
ハジメは自分の身内と定めた者以外が助けを乞うていたとしても、利益がなければ余裕で見捨てるような選択を出来る人間だが、何の理由もなく他者を殺戮するような殺人鬼でもない。
少なくとも、これだけの被害を出しておきながらそれを何とも思っていない様子の少女をハジメやユエ達が身内に引き入れるとは思えなかった。
「知り合い? お互いに知った間柄ということ? それならそう。私はまたナグモに会いたいの」
「それは……理由を聞いても?」
「……ここがね、苦しいの」
理由を問われたベヒモスは、自身の胸をぎゅっと抑えながら答える。
「傷なんてないのに、ズキズキと痛むの。でも、何でかな? 全然嫌じゃないんだ。むしろずっとこうがいい」
熱を帯びた頬を両手で覆い、笑みを浮かべながら胸の奥から溢れ出す感情を口に出す。
この感情の名をベヒモスは知らない。知らない故に、うまく説明ができない。それでも何とか伝えようと言葉を紡ぐ。
「だからね、
だから、何か知ってるなら教えて欲しい。そう続けるベヒモスに光輝は内心『南雲、お前またか』と思いつつも警戒を解くことはせず、ちらりと背後に視線を送る。
(どうする? どうやら今直ぐここで何かをしようとしてるわけじゃないようだ)
(既にとんでもないこと仕出かしてますけどね。ですが、正直好都合でありましょうか)
少し話した感じは見た目通りの戦いとは無縁そうな華奢な少女だ。その角がなければどこかの令嬢と言われても納得するだろう。
だが、内包する力は強大だ。まるで幼い子供が世界を滅ぼす力を手に入れてしまったようなそんなチグハグさ。いつ爆発するかも分からない不発弾が目の前にあるようなものだ。
(怪我人の避難も全く進んでいません。彼女に戦う意思が無いのなら何とか穏便に済ませてください)
(簡単に行ってくれるなぁ。でも、やるしかないか……)
今この場で戦いを始めてしまえば、大勢の人を巻き込む危険がある。
目の前の少女は危険だ。以前までの光輝ならば問答無用で拘束、もしくは無理な説得に走っただろうが、その危険性が分かる程度には光輝も成長していた。
「確かに、俺は南雲のことを知っている」
「ッ! 本当!? ナグモはどこにいるの?」
「……ここには居ない」
「それくらい知ってる。己はどこに居るか聞いてるの!」
「そうじゃないんだ。この世界とは違う場所。俺達の故郷、地球に居るんだ」
「チキュウ?」
知らないとしらばっくれる手も考えたが、すぐに止めた。
目の前の少女はハジメの居場所を聞き出す為だけにこれだけの被害を出すような存在だ。ここまで来て何も情報が得られないと知ればどんな行動に出るか分からない。
僅かな逡巡の後、光輝はハジメの居場所を明かすことに決めた。
異世界の存在がトータスに生きる者にとっては知ってて当たり前の情報であることも、結論を出した一因にもなっていた。
「ふーん? こことは違う次元にある世界……」
「ああ、俺達は元々そちら出身の人間なんだ」
「じゃあさ、どうやったらそのチキュウとやらに行けるの?」
「行くことは……出来ない」
「……え?」
首を傾げるベヒモスに光輝は恐る恐る事情を話す。
異世界の扉はハジメにしか開けられないこと。
ハジメが居なければ地球と連絡を取る手段もないこと。
次ハジメがトータスに来るのは約3ヶ月後だということ。
「3ヶ月……」
「……」
ぽつりと呟くベヒモスの姿に、光輝は体が強張るのを感じた。
もし、これで暴れ出すようならもう戦うという選択肢しかない。
「3ヶ月……って何だ……? どのくらいだ……?」
ベヒモスの呟きは小さく、光輝には届かなかったが、その姿に無意識に体が強張る。
(不意打ちで仕留める、のは流石に楽観的すぎるか。せめて王都の外まで誘導できれば……)
そんな光輝の決意は……
「……まあいいや。居ないなら仕方ない。待つしかないか」
あっさりと杞憂に終わった。
「え? えっ、と……待って、くれるのか?」
「だって今は居ないんでしょ? なら待つよ」
「え、あ、ああ。そ、そうだけど……」
なんだろう。あまりの聞き分けの良さにこちらを油断させるための罠かとも危惧しそうになるが、ベヒモスの「残念だなぁ」と呑気に呟く姿からは本心で言っているようにしか思えない。
「何とか、なった……みたいだな」
「マジですか。正直私はもう駄目かと思っていました」
「俺もだよ。それより、今すぐ王宮向かって情報をリリィに届けてくれ。俺はここであいつを監視してるから」
「それが妥当でありますね。直ぐに王国騎士団も連れてきますので、それまで無茶はしないでくださいよ?」
「もちろんだ……あっと、そうだ」
何かを思い出したように光輝は視線を女性騎士からベヒモスに戻す。
「そういえば君、名前は?」
「……名前?」
「ちょっと、何でそんなことを聞くんでありますか?」
「いや、名無しのままじゃ不便かなって。説明するにもあったほうが便利だろ」
「それは……確かに」
突然名を聞かれたことに首を傾げるベヒモスを尻目に、少し慌てた様子で女性騎士が光輝に問いただす。しかし光輝の考えにも一理あると思ったのか、納得した様子で視線を向ける。
「ふむ……名前。人間が個を識別する為に付ける個体名のことか」
「いや、そこまで大層なものではないけど……」
「生憎と己に個体名は存在しない。けれど、お前達が勝手に付けた名ならある」
「は? ちょっと待ってくれ。そもそも君は一体何者──」
「──ベヒモス。それが
「…………は?」
一瞬、何と言われたのか分からなかった。それほどまでの衝撃。
”ベヒモス”。その名を忘れたことなどない。
ある意味ハジメの人生の転換期と言える事件。それを生み出すきっかけとなった存在。
そして、クラスメイト達が初めて死の恐怖に怯えることになった最強の敵。
結局ハジメと共に奈落へと消えてから一度も姿を見ることはなかったが、それ以上の相手と何度戦おうとも、初めて命をかけて戦った相手のことを光輝は鮮明に覚えていた。
そう、はっきりと覚えているのだ。
体長は優に10mを越え、鋭い爪と牙を持ち、頭部を守るような兜に炎を撒き散らす凶悪な大角。
とてもじゃないが、たとえ角があると言えども、目の前の少女とは全くの別物だ。
混乱する光輝達を前に、ベヒモスはぐっと体を伸ばすと笑みを浮かべて振り返った。
「じゃあ、ナグモが来るまではニンゲンを殺して待ってることにするよ」
そう告げる少女は、まるで散歩でもしにいくかのような気軽さで光輝達に背を向けて歩き出した。
「は? ちょ、待て!?」
「何? まだ何かあるの?」
「今なんて……? 人間を、殺す?」
「うん……ああ、安心して。お前はナグモのこと教えてくれたから見逃してあげる。もちろん番いの子も」
この際、女性騎士のことを自分の番いと思われていることはどうでもいい。ベヒモスは光輝が自分も殺されるのではないかと心配で止めたと勘違いしたようだが。無論光輝が気にしていることはそこではない。
「何でだ!? さっきは南雲が来るまで待つって言ってたじゃないか!!」
「うん。だからニンゲン殺して待ってようかなって」
「何でそんなことをするんだ!! ここにいる人達が君に何かしたのか!?」
「……お前、変なこと言うね」
光輝は大きな勘違いをしていた。
ベヒモスは人ではない。それはとっくに気付いていたはずだ。
それなのに、あまりにも理性的で話が通じるベヒモスの姿を見て、無意識に忘れてしまっていた。
「
ベヒモスは迷宮の枷から外れたイレギュラーな存在だ。それでも魔物であることに変わりはない。
彼女にとって人間を殺すことは息を吸うのと同様、特別意味が必要なものではなかった。
「やらせるか!!」
聖剣を構えた光輝を中心に眩い光が溢れ出す。
「ここは俺が受け持つ! 貴女はこのことをすぐにリリィに伝えてくれ!!」
「ですが……!」
「早く行けッ!!?」
「ッ!?」
普段の光輝からは見られない気迫に、女性騎士は僅かに躊躇したもののすぐに王宮に向けて走る。
「もしかして、私と殺る気? 止めておいたほうがいいよ? お前弱いもん」
「……かもな。だけど、俺も引くわけにはいかないんだ」
「やっぱりニンゲンの考えてることはよく分からない」
聖剣を構える光輝に対し、ベヒモスはだらんと脱力したまま構えることもしない。
舐められている。その事実に光輝が僅かに眉を潜めた瞬間、
「ぐうっ!!」
背後から感じた殺気。光輝は反射的に聖剣を背後に回した瞬間、とてつもない衝撃と共に吹き飛ばされた。
「……」
態勢を立て直した光輝がすぐに視線を向けた先では、片足を上げているベヒモスの姿。そこでようやく自分が蹴り飛ばされたことに気付いた。
(最初と同じだ……! 全く見えなかった!!)
光輝がちらりと視線をベヒモスがいた場所に向ける。そこの地面は陥没し、クモの巣状にひび割れている。
最初に近づかれた時と同じだ。何か特殊な技能や魔法を使われたわけではない。純粋な身体スペックのみ。ただそれだけで光輝の背後をとった。
さらに聖剣越しに伝わる衝撃。もし生身で喰らっていたら、最悪胴を貫かれていた可能性もある。
ハジメが居ない今、光輝がベヒモスを何とかしなくてはならない。だが、この一回の攻防で光輝の勝利が万が一にもないことを、他の誰でもない光輝自身が悟ってしまった。
「……ねぇ」
震えながらも立ち上がり、聖剣を再び構える光輝にベヒモスが声をかける。
「何のつもり?」
その表情が、声色が、彼女がこれ以上無い程不機嫌であることを示していた。
「己を舐めてるの?」
「は? 俺はそんなつもりは……」
「殺意が全く籠もっていない」
「ッ!?」
その指摘に、光輝はびくりと肩を震わす。
「弱いくせ」
ベヒモスに光輝の事情は分からない。
「勝てないって知ってるくせに」
それはオルクス大迷宮で感じ続けた苛立ち。
「威勢が良いのは最初だけ。どいつもこいつも最後には尻尾を巻いて逃げ出すばかり」
ただ、光輝の態度はこれ以上無いほどベヒモスの逆鱗に触れてしまった。
「殺る気が無いのなら、最初から己が前に立ち塞がるなッ!!!」
ベヒモスが一歩前に踏み出す。
その瞬間、ベヒモスの右腕は光輝の眼前にまで迫っていた。
その光景を光輝はまるで人ごとのように見つめる。
(ああ、結局俺じゃ駄目だったんだな)
迫りくる死を前に、光輝は自嘲する。
(怖い、なぁ……)
初めて明確に感じる死の気配に、光輝の心に氷塊が落ちる。
自分がなんとかしなくてはならない。そう決意した。だが、そこに相手を殺してでもという意思は存在していなかった。意図的に排除していた。
相手が格上であると知っても、多くの人々に危険が迫っているとしても。
光輝はには、人間そっくりな見た目のベヒモスを殺すという選択肢を
だが、
──本当にこれでいいのか?
心の奥底から誰かが光輝に問いかける。
──選ばなかった結果がどうなったのか、身を持って経験しただろう。
守ると口にするだけで、何の覚悟もなかったかつての自分。
そのせいで幼馴染と親友に剣を向けてしまった。彼らをこの手で殺しかけてしまった。愚かな自分。
──また、同じ過ちを繰り返すのか?
嫌だ。
誰かを傷つけるのは嫌だ。
誰かの命を奪うのは嫌だ
それでも、誰かを失うのはもっと嫌だ。
何よりも、
だから俺は……
「──ッッッ!!!??」
キラリと輝く眩い閃光。一筋の銀閃がベヒモスを一直線にすり抜けた。
「……」
ベヒモスは光輝を貫くはずだった自らの右腕を見つめる。
そこにあるのは真っ白な絹肌に伸びる一筋の赤い線。
ブシュッ、という小さな破裂音と共に鮮血が垂れる。
しかしそれも一瞬。即座に肉が盛り上がり傷一つ無い素肌が姿を現す。
背後には聖剣を杖代わりにし、息絶え絶えの様子の光輝の姿があった。
光輝自身、今自分が何をしたのか分かっていなかった。ただ自分をもう一度受け入れてくれた大切な人達との約束を破ることだけはしたくない一身で体が動いていた。
「はあ、はあ、はあ……」
だが、その代償は重く、魔力も体力もまだ十分に残っているにも関わらず、呼吸一つ整えるのに時間を要する程の疲労感が襲いかかる。
「……思い出した」
そんな隙だらけの光輝を追撃すること無く、ベヒモスは過去の記憶を思い起こす。
「確かお前も居たね、あの場所に」
「あの、場所……?」
「己が己であることを確立させた日。ナグモと共に深層へと落ちたあの日」
「ッ!? まさかお前は!?」
ハジメがオルクス大迷宮で奈落へと落ちたことを知っている者は大勢いる。だが、ベヒモスと共に落下したことを知っているのはクラスメイトを除けば王国騎士団だけだ。
ただし、あくまで人間だけに限れば、の話だが。
「あの時のベヒモスなのか……!?」
確かに少女は自身がベヒモスであると語っていた。
別に信じていなかったわけではない。だが、改めて突きつけられるとその衝撃は計り知れない。何よりも、同一個体だなんて誰か想像するだろうか。
「お前も中々面白い。もしかしてチキュウとやらはお前やナグモのような存在が沢山いるの?」
「は?」
「興味が出た。ナグモに頼めば己も連れて行ってもらえるかな?」
それまでの不機嫌な雰囲気はどこへやら、今度はまだ見ぬ世界への期待に心を踊らせるが、光輝からすればたまったものではない。
なぜ恐竜のような恐ろしい見た目だったベヒモスがこのような少女の姿をしているのかという疑問は絶えないが、今のベヒモスを地球に行かせるわけにはいかない。
ユエやシア達とは話が違う。光輝にはこの少女が最低限の常識や自制心を持てるとは思えなかった。
とはいえ、下手に刺激も出来ない。先程は奇跡的にどうにかなったが、次同じことをやれと言われても多分出来ない。呼吸は既に落ち着いてきたが、勝ち目がない状況なのは変わらない。
どうしたらいいんだ、そんな光輝の思考は第三者の介入によって遮られた。
『見つけました、勇者様。どうか我が愛しき世界をお救いください』
この場に似つかわしくない声。その声はどこでもない、二人のはるか上空から降り注いだ。
突然の事態にベヒモスと光輝は仲良くキョトンと固まる。直後、見たことのない文様で出来た魔法陣が光輝の元に出現した。
「これはまさかっ!?」
「ん?」
自身の身に起こっていることを察した光輝の表情に焦りが浮かぶ。
そんな光輝の心情など知ったことかと言わんばかりに魔法陣の輝きは増していき、カッと周囲を閃光が覆った。
「──ッ!」
あまりの光量にベヒモスも思わず手で顔を覆う。
爆ぜた光が収まると、そこに居たはずの光輝の姿は影も形も無くなっていた。
「……」
突然の事態に、流石のベヒモスもしばらく呆然と佇み……
「あ゙……?」
ぶちっ、と何かが切れる音がした。
物語の裏で【ありふれアフターⅡ 光輝編ハジメの援護無しver】が始まりますが、勇者なのできっと乗り越えてくれることでしょう。