そんなトキに触発されるように先生も徐々にトキのことを意識するようになっていく────、
「おかえりなさい、先生。お待ちしておりました。お風呂を沸かしておりますので、お疲れでしたらどうぞお入りください。お腹がお空きのようでしたら食事の準備もできております。それとも私をご所望でしょうか? 本日は制服にエプロン姿と、殿方の嗜好をくすぐる衣装に身を包んでおりますので、なんなりとご指示ください。ちょうど食べ頃になるようにしっかりと準備しておりますので。大事なことなので、もう一度言います。しっかりと準備しておりますので」
これは────、彼女が彼と結ばれるまでの物語。
気が付けば夏も過ぎていた。まだまだ身体に纏わりつくような暑さは残っているけれど、盛りは少し越したのかもしれない。
────なんて思っていたのだけれども。シャーレから出た瞬間にむわっとした熱気が身体を包み込む。アスファルトに残った昼の残滓がジリジリと身体に負荷を掛けた。強烈な日射しがない分、立っているだけで体力が根こそぎ持っていかれるような暑さではないけれど、これはこれで十分身体にダメージが掛かる。
汗で張り付いたシャツをパタパタと扇ぎながら、疲労に蝕まれた身体を引きずるようにして帰路についた。
シャーレからもさほど離れていない、D.U.地区の少し外れにあるマンション。エントランスを潜るとひんやりとした冷気が私を出迎えてくれる。ホッとひと心地付ける瞬間だ。滑り込ませるようにエレベーターに乗り込み、目的の階数のボタンを押した。軽い電子音とともに僅かな慣性が身体の重みを取り除いてくれる。
鞄から電子キーを取り出して我が家の扉を開ける。誰も待ってくれる人のいない家だけど「ただいま」なんて、返事のこない挨拶を虚空に投げかけて────、
「おかえりなさい、先生。お待ちしておりました。お風呂を沸かしておりますので、お疲れでしたらどうぞお入りください。お腹がお空きのようでしたら食事の準備もできております。それとも私をご所望でしょうか? 本日は制服にエプロン姿と、殿方の嗜好をくすぐる衣装に身を包んでおりますので、なんなりとご指示ください。ちょうど食べ頃になるようにしっかりと準備しておりますので。大事なことなので、もう一度言います。しっかりと準備しておりますので」
思わず扉を閉めそうになって目の前の少女に阻止された。長く伸ばされた綺麗な亜麻色の髪。白いブラウスと紺色のスカートに身を包み、その上からフリル付きのエプロンを装着した少女。スカイブルーのリボンをわざわざエプロンの上に出しているのは何か意味があるのだろうか。
ポーカーフェイスで手に持ったお玉をフリフリと揺らしながら私の顔を凝視するその少女──ミレニアムサイエンススクール所属、秘密組織「C&C」の五番目のエージェント、飛鳥馬トキの姿が私の目に映り込んでいた。
「トキ……また来たの? 私の世話なんてしなくてもいいって──」
彼女が私の家に来るのはこれが初めてのことではなかった。
いくら電子キーを最新のものに変えたとしても私の知らない間に家へと忍び込み、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。「先生」としての業務が忙しい私にとっては家に帰るとすぐにご飯ができているなんて……それこそ夢のような状況なのだけれども。
仮にも生徒にそんなことをさせている──こちらから頼んだわけではなく彼女が勝手にしているのだけれど──なんてことが公になったら世間体もすごく悪い。
「──……やはり私がここにいては……ご迷惑、でしょうか……?」
今度こそは毅然とした態度で彼女の行動をやめさせないと……と思うのだけれど、捨てられた子犬のような表情でしゅーんとするものだからそれ以上は何も言えなくなってしまうのだ。
それがたとえ彼女の思う壺だとしても。先生と呼ばれている以上は、私の生徒にそんな悲しい顔をさせるわけにはいかなかった。
「────これからもよろしくね、トキ」
ため息を吐いて首を横に振る。負けを認めた私が顔を上げると「してやったり」みたいな表情でペロリと舌を出してピースサインをする彼女の姿。
さっきまでは伏し目がちで睫毛が長く、落ち込んだ表情も相まって薄幸の美少女といった感じだったのだけれども。最初の頃に感じたクールな印象の彼女は、もうどこにもいなくなっていた。
C&C所属とは言ってもリオの専属だった彼女は、他のメンバーとほとんど顔を合わせることなく過ごしていた。そのせいか「キヴォトスの様々な情報が集まる」「有事の際は迅速に対応が可能」なんてもっともらしい理由に反論できず、彼女が毎日のようにシャーレで過ごすのを許していた。
まるで我が家のようにくつろぐ彼女のことを、半ば諦めながらも「形はどうあれ甘えてくれるようになったのは喜ばしいこと」なんて思っていたのも事実。彼女のやりたいことが見つかればそれを全力で応援しよう、なんて思っていた。
────その考えが甘かったと後悔する瞬間が訪れることを知らずに。
最初の兆候はトキが私にお弁当を作ってきてくれたことだった。
シャーレで過ごす彼女は大抵の場合、お昼も私と一緒に出前の弁当を食べたり、一緒に外に食べに行ったりしていたのだけれども、一度彼女をからかう意味合いも含めて「トキは料理できないの?」なんて発言をしてしまったのだ。
『先生。私はメイドの中のメイドです。料理をするなんて、造作もありませんが?』
『でも、その割にはいつも私と一緒にランチを注文してるよね?』
『ああ、それはその方が楽────もとい、完璧な料理には相応の準備が必要ですから……先生がお望みとあれば、お弁当を作ってくるのもやぶさかではありません』
『え、いいの!? ──……あ、でも無理はしなくていいからね』
どこかムッとした感じで眉根を寄せる彼女に告げた一言。それもどうやら余計なものだったらしく「首を洗って待っていてください」なんて言われてしまった。
その時はそれほど期待をしていなかったのだけれども。翌日、可愛らしい包みを手に下げて、少し照れくさそうにそっぽを向きながらシャーレに訪れた彼女。その背中に回された指には、絆創膏が見え隠れしていた。
そんな彼女の珍しい姿に驚きながら差し出された包みを受け取る。何も言わずに脱兎のごとく、シャーレを後にした彼女を呆然と見送った。
色とりどりの副菜と私の好物が敷き詰められたその弁当は、いつも食べる出前のものよりもすごく美味しかった。後日その気持ちをストレートに彼女に伝えると、「当然の結果です、いぇい。どうですか、先生。これで私に料理ができないなどと妄言を吐くこともなくなるのでは?」なんて早口で言葉を繰り出していた。そんな彼女の耳が、少し赤くなっていることにはあえて言及しなかった。
それからというもの、ことあるごとにトキは私にお弁当を作ってくれた。彼女がシャーレに来るときは手渡しで受け取ったお揃いのお弁当を並んでつつく。
私の好物を食べながら彼女に感想を言っては、照れたようにそっぽを向く様子を秘かに楽しんでいた。
たまに「リクエストを聞きますよ」なんて言ってくれる彼女に甘えてみたりして、翌日にそれを作ってきてくれる彼女には本当に感謝をしている。
とまぁ……ここまでならいい話で終わってよかったのだけれども────、
『先生、これは自信作です。はい、口を開けてください。ええ、「あ~ん」です』
『おや……先ほどの「あ~ん」で私のおかずがひとつ少なくなってしまいました。これは由々しき事態です。迅速にお返しの「あ~ん」を要求します。 ……ふむ。流石は完璧なエージェント、最善の味付けと言ったところでしょうか』
トキの作戦にまんまと乗せられてまるで恋人のようなやり取りをしてしまった。その姿を当番の生徒にたまたま見られてしまい────、
『な!? と、トキ! いつのまにそんな……愛妻弁当なの!? そういうことなの!?』
『まぁまぁ、ユウカちゃん。落ち着いてください。トキさんがこんなに幸せそうな顔をしているからいいじゃないですか。それよりも、羨ましいならユウカちゃんも先生に作ってあげたらどうですか?』
『いえ、それには及びません。先生の胃袋を掴むのはこのキヴォトス最強のメイドたる私、飛鳥馬トキにお任せください』
と、ひと悶着があったりもしたけれども。それはまた別の機会に話すとしよう。ともあれ、彼女のおかげで普段よりも健康的な日々を送ることができている。
彼女が任務でシャーレにいないときは決まって机の上にお弁当が置かれていた。「毎日作るの大変じゃない?」と聞いても「私は完璧なエージェントですから」と。
流石に申し訳なくて「弁当代くらいは出すよ」と言ってみても「どうしても先生が気にされるというのなら……今度買い物に付き合っていただけませんか? ええ、もちろんプライベートです」と、結局受け取ってもらえることはなかった。
────と、この頃まではトキに感謝しつつ彼女の作るお弁当に大変助けられて
いたのだけれども。それが徐々にエスカレートしていくとは思ってもいなかった。
『ただいま──って、あれ?』
電子ロックの解除音を聞きながら部屋へと入る。出かけるときに消したはずだと思っていた電気が付いていることに違和感を覚えた。
玄関を通り過ぎ、リビングへと入る。壁に取り付けたテレビと、ソファの背面に折り畳んだブランケット、ローテーブルの上に置きっぱなしにしていたアルコールの缶に動かされた形跡はない。
何も変哲のない独身男性が生活する部屋。部屋の端を占拠するプラモデルの箱。新品同然の箱たちが積みあがった一角も荒らされた跡は見られなかった。
────ただ一点、寝室へと続く扉が開け放たれていることを除いて。
ピリッと背筋が粟立った。盗られて困るようなものはあまりないはずだけれども。私が持つ貴重品と言えば、懐にあるこの「大人のカード」と今も手に持っている「シッテムの箱」くらいなもの。
全財産が入っている財布も、持ち歩いている鞄の中にある。この部屋にあるものといえば、ユウカに隠れてこっそりと買い集めたプラモデルやフィギュアくらい。それも決してプレミアがつくようなものでもない。
────危険かもしれません。シッテムの箱からアロナが警告する声を発した。万が一侵入者だった場合、狙いは私自身なのかもしれない。腹部の古傷がピリッと痛んだ。かつてカイザーに拉致されたことも脳裏を過ぎる。
今すぐにでも誰かを呼ぶか。モモトークを飛ばせばすぐに近くにいる生徒が駆け付けてくれるだろう。
──……それでも、仮にもヴェリタスのみんなが構築してくれたセキュリティを突破してまで侵入してくるような存在が相手だ。鉢合わせたらたとえキヴォトスの住人であろうとただでは済まないかもしれない。
私を助けるために生徒たちが傷つくのは私の望むところではなかった。先生とは本来、生徒たちを守る存在であるべきなのだ。決して生徒に守られるべき存在ではないはずだ。
アロナとプラナの制止する声を無視して寝室へと入る。物の少ないがらんとした空間の中心に配置されたベッド。掛け布団がこんもりと不自然に盛り上がっていた。足音を忍ばせておそるおそる布団の端を掴む。意を決して、布団を捲り上げた。
『んん……先生?』
はたして────、
捲られた布団の下には戦闘用の丈の短いメイド服に身を包み、瞼を擦るトキの姿があった。以前にも見たような光景。思考に一瞬の空白が生じる。
布団を剥がされたことで赤ん坊のようにむずかる彼女が布団を求めて身を捩る。ただでさえ短い彼女のスカートが捲れ上がって、その下にある布地が見えてしまいそうになった。
捲れ上がったスカートの奥になにやら黒っぽい、薄いレースのような布が見えたような気がして────慌てて布団を掛け直した。
こわばっていた身体から急激に力が抜けていく。よろめきながらベッドから一歩後ろに下がり、ふらふらとした足が限界を迎えて床に倒れ込んだ。
大きく息を吐き出す。ヘッドドレスとシニヨンを外し、長く綺麗な髪を敷き布団にしてすやすやと眠るトキ。そのあどけない寝顔を見てすっかりと毒気を抜かれてしまった。
『明日は朝から任務が入っていますので……』
その後、不服そうに眉間に皺を寄せる彼女をなんとか起こして事情を聴いた。
曰く、任務のせいでお弁当を届けることもできないため、あらかじめ作ってきたものを届けに来てくれたとのこと。
帰ろうと思ったところで、そろそろ寝る時間だということに気が付いた彼女は、やむを得ず私のベッドで寝ることに決めたらしい。エージェントには任務前の睡眠時間も細かく定められている。
帰ると規定の時間に間に合わないし、一応任務の準備は済ませていたから至って合理的な選択だと判断した──ということらしい。「もう良いですか?」と言って枕に顔を埋めて首を振る彼女にもう一度ため息を吐いて、布団を掛け直した。
──ちなみに「鍵が掛かっていたと思うけれど」と気になっていたことを聞いてみても「私はC&Cのエージェントですから」という答えしか返ってこなかった。後日セキュリティの突破はヒマリが手伝っていたことを知り、チーちゃんと一緒にお説教をしたのだけれども。それはまた別の機会に話すとしよう。
ともかく悪意のある侵入者じゃなくてよかった。静かに寝息を立てる彼女の頭をゆっくりと撫でる。こんな時くらい、お弁当を作らなくてもよかったのに。どこか不器用なところがとんでもなく愛おしかった。
ひとこと、モモトークで連絡を貰えれば……なんて考えたところで、もうトキのお弁当がないお昼ごはんのことを思い出せないことに気が付く。どうやら私にも、そして彼女にも、お弁当が日常の一部に組み込まれていたらしい。
寝室を出てキッチンへと向かう。ファンシーな便せんとともに置かれていた彼女特製のお弁当箱を、悪くならないように冷蔵庫に仕舞う。今から明日の昼ごはんが楽しみになっていた。
『さて、私も寝ようかな』
シャーレでは私が寝ているところにトキが潜り込んできたことはあったけれども、さすがにその逆を私がするのはよくないだろう。たとえここが私の自宅だとしても。
────身体を傷めないといいけど……そんな情けない心配をしながらソファに横になる。あっさりと襲ってきた眠気に身を任せ、微睡みの中へと落ちていった。
それからというもの、トキはシャーレではなく私の自宅に入り浸るようになった。一度きりとはいえ、既成事実を作ってしまったのがよくなかったのだろう。事あるごとに私の自宅を訪れては家事をするようになった彼女曰く────、
『より完璧な補佐をするために必要なことです』
『以前、先生の自室を拝見しましたが、仕事にかまけて私生活が疎かになっているように感じました。完璧なメイドとしてこのような蛮行を許容することはできないと判断します』
半ば押し切られる形で許してしまった。「先生のお力になりたいのです」という真剣なまなざし。そして彼女の指摘に反論することができなかった負い目もあって気が付けば家事の一切を彼女に任せることになってしまっていた。
下着を洗おうとしていたのは、流石に慌てて止めることにはなったのだけれども。
*
「それで、結局どうされますか?」
「──……お風呂で」
「それではこちらへどうぞ。お背中をお流しします」
「い、いや! それはダメだからね!」
一緒に付いてこようとする彼女を必死に押し留めた。先日バスタオル一枚だけを身に纏った彼女が風呂場に突撃してきたからというもの、隙を見ては一緒に入ろうとする彼女には困ったものだ。
ちぇーとくちびるを尖らせてキッチンへと向かう彼女の背中を見送った。きっとこれからご飯を温めてくれるのだろう。
なんだかんだと文句を言いながらも……家に帰ると誰かが出迎えてくれること、何も言わずとも温かいご飯が用意されていることは、本当にありがたいことだった。
だんだんとトキがいる生活に慣れていく恐怖と、彼女がいない生活にはもう戻れないのではないかという不安に苛まれつつも、この快適な生活からは抜け出そうという気が起きないでいた。
*****
【SIDE:TOKI】
先生から渡された合鍵を使って部屋へと入る。本人を除くと唯一私だけが持つ、先生のプライベート空間へと続くオーパーツ。
しん、と静まり返った空間に慣れた動きで足を踏み入れた。時計に目をやると、彼が帰宅するにはまだ余裕があることが伺える。代わり映えしないメイド服の裾を掴んだ。
『先生ってば、私たちの制服姿に見惚れてたんだよね。珍しいねーって』
以前、アスナ先輩とカリン先輩が嬉しそうに言っていたことを思い出した。ふむ、ギャップ萌え……というものでしょうか。メイド服やバニースーツの方がよっぽど露出度も高いのだけれども、それに目が慣れてしまうと新鮮さもなくなるのだろう。
────完璧なエージェントたるもの、常にご主人様の目を喜ばせるのも任務の重要なファクターでしょう。それに先生も、この間のお出かけの時に私の制服姿を穴が開きそうなくらい視姦されていましたし、きっとお好きなのでしょう。
ぱさり、と乾いた音を立ててメイド服が床へと落ちた。身を包むのは淡い水色の布地だけ。彼の部屋で──なんて考えるとなんだか倒錯的な気分になりそうだった。
ぶるぶると首を振って持ってきていた制服に袖を通す。リオ様の専属だった頃は着る機会もなく、ほとんど新品同然の白いブラウス。メイド服の時は、きっちりと上まで止めていたボタンをひとつ、ふたつ、と外した。
────これくらいが良いでしょうか。
女子学生らしい気崩しはアスナ先輩直伝。ともすればだらしのない印象を与えるような気もしますが、これが普段とは違うギャップを生んでくれるとのこと。
リボンも胸元に乗っかるようにぶら下げて、フリフリのエプロンドレスを上から装着する。以前ヒマリ部長に見せて頂いた「若奥様」のような恰好に、自然と頬が緩んでしまうのを感じた。
──さて、今日もミッションをこなしていきましょう。おや、これは……先生、また洗濯物を散らかしていますね。ふむ、少しだけ……良いでしょうか。誘われるままに先生の抜け殻にダイブする。時間はいつの間にか過ぎてしまっていた。
*
────きっかけは些細なことでした。
いつものように先生にお弁当を作ったところで、早朝からの任務をすっかり失念していたことに気が付いた。こんな時くらいお弁当を渡さなくてもいいだろう──なんて、そんな考えが浮かばない自分にも驚いてしまう。
ヒマリ部長の手を借りて先生の自室へと侵入し、お弁当を届けたところで本来の目的は果たしていた。
先生の自室は想像していたよりもごちゃごちゃとしていて、部屋の隅にうず高く積み上げられた未開封のプラモデルやフィギュアの箱、脱ぎ散らかされた着替えが散乱している。
その反面、設備の整ったシステムキッチンは、使われた形跡が見当たらない程に小綺麗なものだった。リビングから見える扉は、おそらく先生の寝室へと続くもの。
『眠かったら、どこでも寝ちゃうの?』
他でもないシャーレの休憩室で、先生から言われた言葉がフラッシュバックする。あの時は答えの出なかった問いが、今でも心の奥に棘の如く突き刺さっていた。
金属製の蝶番が鈍く軋む。明かりのついていない寝室は、リビングとは正反対に殺風景だった。
音も立てずに身体を滑り込ませる。部屋の中心に鎮座する大きめのベッドを目に入った。吸い寄せられるように布団を捲り、身体を横たえる。シャーレの休憩室にあるベッドでも感じた安堵が身体を包み込んだ。
────ああ、と。指をくちびるに当てる。わずかに開いたその隙間から細くて深い吐息が漏れ出した。
肩と身体の力が抜けて筋肉が弛緩する。傍にある枕に顔を埋めてゆっくりと息を吸い込んだ。痺れるような電流が全身を駆け巡る。
──そう……その瞬間、確かに気が付いてしまったのです。
先生のベッドは何故か安心できて、私自身のものよりも熟睡できてしまうことに。まるで先生に包まれているかのような安心感。ベッドに染みついた先生の残り香が私を蕩けさせる。
少しだけ──そう思いつつ、重くなってきた瞼に抵抗することなく目を閉じた。
目を醒ましたら先生が帰ってきていて、無防備な寝顔を見られてしまったけれど。以前は感じなかった羞恥を覚えて枕に顔を埋めて顔を隠した自分がいることに少し驚きながら、あの時の答えをなんとなく理解してしまった。
『──……先生』
だから……早朝に目が覚めて、ソファで眠る先生をベッドまでお連れした後に。まだ任務まで時間があることを言い訳にして、彼に抱き着いてからもう一度夢の中へと旅立ったのも、どうしようもないことに違いない。
彼から感じた柔らかい人肌のぬくもりも、すぐ近くで漂うお気に入りの匂いも、今だけはすべて私一人のものだった。
────そろそろ時間ですね。
規則正しい寝息を立てる先生はまだ夢の中にいる。エラーを起こしたかのように心臓が不規則な音を立て、胸の奥から感情があふれ出した。
その勢いのままにくちびるを落とす。触れるだけのあどけないもの。それでも、私にとっての初めては……なめらかな熱いキスだった。大人である先生にとってはきっと児戯のようなものだけれども、ただそれだけで私の心は満たされてしまう。
くちびると離して額と額を合わせる。名残惜しむように這い出たベッドの外は、いつもよりも冷たくて凍えてしまいそうだった。
*
────少しの間トリップしていたようですね。
先生の抜け殻から顔を上げ、鏡で少々身だしなみを整える。完璧に家事をこなすメイドといえど、先生の自宅にはこのようなトラップが至るところに存在している。それを上手く回避しながら──時折こうやって堪能しながら、彼の帰りを待つ。
食事を用意して、お風呂も溜めて、部屋の掃除も洗濯も済ませて。そして当然、私自身も一度綺麗に身を清めて身支度を済ませる。万にひとつの確率かもしれないけれど、いつだって隅々まで準備万端にしておくのだ。
ベッドメイクもいつも以上にしっかりとしておいた。今日はいつもと違う服装で、いつもよりも間違いが起きる可能性が高いはずなのだから。
時折、こんな遠回りでいいのだろうか────なんて思う時もあるけれど、私が先生に対して自分の感情を露わにしてしまったとして、今までと同じように接してくれるのだろうか。そんな想いがあと一歩を踏みとどまらせている。
今はただ、甘えていたかった。初めて抱いたこの感情をもう少しだけ大切に育てたい。彼が私に同じだけの感情を返してくれると確信を得られるまでは。臆病者な私だけれども、本当に慕っているからこそ、もう少しだけ甘えさせてほしかった。
────あわよくば。私の精いっぱいのアピールで先生から迫って頂けるような事態が起きないものか────と、そんな淡い期待を胸に秘めて。
玄関の方から電子キーの解除音が聞こえてきた。素早く、そして優雅にお疲れの先生を出迎えるために足を踏み出す。
「おかえりなさい、先生。お待ちしておりました。お風呂を沸かしておりますので、お疲れでしたらどうぞお入りください。お腹がお空きのようでしたら食事の準備もできております。それとも私をご所望でしょうか? 本日は制服にエプロン姿と、殿方の嗜好をくすぐる衣装に身を包んでおりますので、なんなりとご指示ください。ちょうど食べ頃になるようにしっかりと準備しておりますので。大事なことなので、もう一度言います。しっかりと準備しておりますので」
それがC&Cの名に恥じない、完全無欠のメイドとしての矜持なのだから。
9/16(土)メモリアルルミナスにて頒布する先生×飛鳥馬トキ本「家に帰るとトキがいる」の冒頭部分となります。
A6(文庫サイズ)、120ページ。本文はすべて書き下ろしです。
当日はC-19「ゆめがたりのさと」にてお待ちしております。
尚、後日電子版を検討しておりますので、追ってご連絡いたします。
■委託情報
メロンブックス様
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