001
「人間を――やめる?」
緑谷くんの発した声は震えていた。
言っている意味がわからない、と。
困惑した表情で妹を見上げている。
「はい! やめちゃいましょうよ人間なんて!」
「ご、こめん渡我さん。僕には……君の言っていることが、よく、わからなくて……」
そりゃそうだ。人間なんて、やめようと思ってやめられるものでなければ、そもそもやめるとかやめないとか、そういうものじゃないのだから。
人と人の間に生まれた僕らは何処まで行っても、行き着いても、人間である――普通なら。
「さっくり言うと『人間をやめる=吸血鬼になる』ぐらいの意味合いです、ディオ様風味。でも、そうだねぇ。出久くんには、もうちょっと知っておいてほしいかも」
被身子ちゃんはゆっくり立ち上がり、緑谷くんへ笑顔を向けた。
凄惨な笑みを。
心からの、笑みを。
ようやく起き上がれた緑谷くんは妹を見て、顔から血の気が失せていたけれど、泣きそうな顔をしていたけれど、逃げ出したりはしなかった。単に、腰が抜けて立てなかっただけかもしれないが。
「じゃあ、ホワイトボードで説明するね!」
「ホ、ホワイトボード!? どこから!?」
今ここで出来立てほやほやとはいえ、公共の道路にホワイトボードを設置するような輩がいるようだ。
というか、僕の妹なのだが。
吸血鬼の力を使ってまでやることか?
「トガが直接人から血を吸うと、まず、その人の“個性”を喰らいます」
ホワイトボードに人らしき何かが描かれ、近くに食べられている何かが描きつけられた。
うわ……僕の妹絵心なさすぎ……?
ホワイトボードを使わない方が伝わりそう。
「“個性”が残っているのなら、ご飯を食べてぐっすりと寝れば“個性”も元に戻ります。でも、“個性”を喰らい尽くして、それでもなお、血を啜り続けると――」
人らしき何かの顔らしき部分に尖った何かが追記される。
「その人は吸血鬼になります」
おそらく牙。
「つまり――“個性”を『吸血鬼』に変える?」
「んー、変えるというより私の“個性”を渡す、の方がより正確です。チウチウしてる途中でその人の“個性”は一度なくなっちゃいますもん」
「じゃあ、もし……もしも、“無個性”の人から直接血を吸ったら……」
「あっという間になりますねぇ、吸血鬼に」
緑谷くんの言葉に答えながら妹らしき何かをホワイトボードに描き、そこから矢印を人らしき何かに伸ばし終えると、被身子ちゃんはペンの蓋を閉めて振り返った。
「信じられない、って顔をしています」
「! そんな、ことは……ある、けど……」
「少なくとも目の前に実例が一人いるんですけどね。あとは、騙されたと思ってチウチウされてみます? なーんて、言ってみたい気持ちもありますけどぉ……」
ゆるゆると頬を緩めていた妹が、ペンを指先でくるりと回して、静かに居住まいを正す。
「よぉーく考えてください。それで嘘だと断じるのもヨシ。吸血鬼になんてなりたくないと断るもヨシ。トガは出久くんがもっと同じになってほしいけど、嫌がる君に強要はしないのです」
出久くんの傍にしゃがみこみ、視線を合わせて、また微笑んだ。
「私はもう、十分に嬉しかったから。心がぴょんぴょん弾んでいるの。『ヒーロー探し』なんて、見つかっても見つからなくても、どっちでもいいと思っていたけど、やっぱり見つかると、こんなにも嬉しいものなんだね」
「……僕は、ヒーローじゃないよ」
「ヒーローですよ、トガにとっては」
ホワイトボードを霧散させる。橙色の陽光に、紅色の霧が溶けていく。
「どうして出久くんはヘドロの人に立ち向かおうとしたの? 自分ならなんとかできるから? 誰もやらなくて、自分がやらないといけないから?」
「あれはただ……考える前に身体が動いただけで、僕は何も、できなくて……」
「うん、だからきっと、できるとかできないとかじゃなくて、心の中の欲求が君を動かした。やらなくちゃ、じゃなくて、したいから、した。そんな君の姿を見て、トガは救われたのです」
緑谷くんの頬に両手を添えて、顔を覗き込む。
「だって、周りの人が何と言おうと、そういう風にしか生きられない。同じですね、私たち」
彼はもう、血色が戻っていて、泣きそうな顔もしていなくて、真っ直ぐに僕の妹を見つめていた。
「私は、出久くんともっと同じになりたいですし、このままの出久くんでいたら何処かで野垂れ死にそうですし」
「酷い言い草だ」
「将来ヒーローになれなくてもサポートアイテムを開発している会社の営業とかになって手にしたアイテム片手にヴィジランテ活動とか始めそうですけど」
「面と向かって将来違法行為しそうと言われたの僕初めてだよ」
失礼極まりないことを言い放った妹はクスクスと喉を鳴らし、「ごめんねぇ」と謝った。
「それでも、吸血鬼になるかどうかは、出久くんが決めてください。どちらでもよいのです、どっちを選んでも君のことが好きです。ただ、一度なったら戻せません。渡した“個性”を私は食べられませんから。そうして、吸血鬼になったところで、力を使わないなら血を飲む必要もありませんけど、人間をやめるのは本当ですから」
そこで一度口をつぐみ、押し黙って、それから、億劫そうに口を開き直す。
「将来、とっても後悔するかも。吸血鬼でいることは間違いだ、なんて、自殺したくなるくらい」
「……渡我さんは、後悔したの?」
「いいえ。そういう子を知ってるだけです。私は、吸血鬼になったことを後悔したことはありません」
被身子ちゃんは夕日で長く伸びた自分の影を指先でなぞると、首を傾げて緑谷くんに尋ねた。
「さぁ――君は、どうしたい? ゆっくり、考えてくださいね」
002
人間、或いは人という言葉の意味について、妹が軽々に『人間をやめる』などと嘯くものだから、僕は事あるごとに考えさせられる。
人間。
人と人の間に生まれるもの。
人という漢字は支え合っているだとか、人は一人では生きていけないだとか、社会的存在として、そういう生き物だと語られる。
どこまでも。
未完成な。
弱々しい生き物。
弱くて弱くて仕方ない。それでも生きていかなくちゃいけないから、弱さを誇るしかないのだ。絆だとか、友情だとか、後付けのように努力と勝利をくっつけて、人間讃歌をでっち上げる。
社会から外れたところで、人は人なのに。
人として正しいなんて、人として間違っているなんて、そんなものどこにもないのに。
人間じゃないと言われたって、何にもならないのに。
とまぁ、お化けの戯言はさておき、緑谷くんに関する話の続きをしよう。つまりはそう、『人は変わる』という話。
たっ、たっ、たっ、たたた、たっ、たっ、たっ。一段とばしで階段を駆け上がり、踊り場で小刻みにステップを踏んで方向転換。更に駆け上がった先には、扉の体を成していない鉄の板が錆びれて朽ち果てていた。
人の気配が微塵もない廃墟ビル。その屋上へ飛び込んで、右、左、上を確認する。しかし、そこには誰もいない。
「あなたの後ろに這い寄る
後ろから聞こえてきた名状しがたい台詞に振り返れば、妹がいた。彼女は振りかぶった刀を思い切り、振り抜く。緑谷くんが咄嗟に転がって避けたため、視界がぐるりと廻る。
「渡我さん渡我さん渡我さん!! 流石に日本刀はッ、危ないんじゃないかな!?」
「大丈夫です! 切れ味は落としてますから!」
「あ、刃を潰してあるの?」
「いいえ、普通に切れます! ざっくりです!」
「…………そっかぁ!!」
反論を諦めた緑谷くんを心の中で応援しつつ、鏡越しじゃない妹を観察する。剣道の心得なんてあるはずがないド素人にも拘らず、手慣れた手つきで刀を取り回していた。
一閃。
刃に光が反射したと思ったら、肩口から腰までざっくりと斬られている。妹の嘘みたいな言葉が嘘ではないことに、緑谷くんは頬を引き攣らせていた。ぱたた、と血液が滴るものの、傷口は早送りじみた速度で目に見えて再生する。歯を食いしばって痛みに耐え、涙を零しながらも目の前の悪者を捕らえようと手を伸ばした。
悪者はニッコリと笑って緑谷くんの手を取り、思い切りぶん投げる。あ、と思う頃には実家のような視線の高さに戻っていて、緑谷くんがビルの屋上から落ちていくのが見えた。
「なぁ被身子ちゃん」
「なんです鬼いちゃん」
「なんで落とした?」
「んー、例えば片手に卵を握っていて、手を放したら卵は落ちて割れちゃうなぁと思いながら手を放したくなるときがあるじゃあないですか」
「ねぇよんなもん!」
「あーりーまーすー」
「大体落とした後どうするんだよ?」
「世の儚さに思いを馳せます」
「お前が落としたんだろ! お前が!」
ゆっくりと歩いて地上を覗き込めば、アスファルトに真っ赤な鮮血の花が咲いている。トマトを叩きつけたような飛び散り具合。しかしトマトそのものは残っておらず、少し待っていれば、ひたむきな足音が聞こえてきた。
たっ、たっ、たっ、たたた、たっ、たっ、たっ。
段々と大きくなるその音に耳を傾けながら、口元が弧を描いて、ゆらりと刀を構え直す。
さて。
このあと緑谷くんは膾切りにされるわけだが、問題はない。あるけどない。問題しかない。
ともあれ、変わったこと其の一。
緑谷出久は“個性”を得た。
その代わり、“無個性”という――こう言うと皮肉に聞こえるかもしれないが――個性を失った。
ついでに、変わったこと其の二。
今まで妹に憑いてまわる他なかった僕だが、緑谷くんにも憑くことができるようになった。とはいえ、妹との結びつきのほうが強いのか、妹が緑谷くんに直接触れると自動で妹のもとへ戻るようだ。
さらには、変わったこと其の三。
渡我被身子が緑谷出久の家庭教師になった、というのは大袈裟な表現だが、親身な先輩くらいにはなっている。だから、趣味だけで緑谷くんを虐めているわけではなく、ヒーロー科受験に必要な訓練ということらしい。
「まー、出久くんなら私が何もしなくてもヒーローのままだとは思いますけど」
だから殆ど趣味ですけどね、とは本人の弁。
「でもほら、よく言うでしょう?」
ホッチキスやらカッターナイフやらを手の中で遊ばせながら、彼女はこう言った。
「備えがあれば嬉しいねぇ、って」
憂いなし、だ。
「火憐だぜ!」
「月火だよー」
「一本でも人参!」
「一人でも人間!」
「つまり人参は人間なのか?」
「そうだよ人間は人参なの」
「じゃあ人間は考える人参ってことなんだな!」
「人参は考えないから人参なんだねー」
「予告編クイズ!」
「クイズー」
「前回投稿日から7ヶ月が経ちました!」
「ラッキーセブン!」
「次回投稿までどれくらいかかるんだこのやろー!」
「また書いてないから分からないやつだろうなー!」
「次回『いずくヒーロー 下』」
「考えない人間は人参なのかなぁ」
「人間でしょ」