「どうした、メア?」
シーラはその時、メアから唐突にかかって来た電話に出ていた。
この短時間で二度目の通信。しかもメールではなく通話とは。
「先ほど報告した通り、こちらは制圧した。まだ何かあるのか……?」
不測の事態が起きたのかと、内心で気を引き締め直しながら問いかける。
だが普段――それどころかこうした戦闘中ですら、焦燥など滅多に見せないメアが、ひきつった口調で伝えた内容に、シーラもまた血相を変えた。
「な、なんだと!? ノクターン様が、どうしたと……っ?」
『早く来て下さい! このままじゃ――』
途中で、メアの声が聞こえなくなる。
代わりに、どくん、どくん、と――自分自身の鼓動の音が、いやに大きく響いていた。
気づけば、スマホを落としている。腕に力が入らない。緩慢に、胸元を見下ろすと。
「が、ぁ、っは……!」
口から吐き出された鮮血が、胸から生えた水の刃へ降りかかり、赤く染めた。
「ヒヒヒヒ……! ヒャハハハハハ……ッ!」
理性の感じられない狂笑が、背後で上がる。
折れそうになる下肢へ力を込めて前進し、無理に刃を引き抜きながら振り向き。
立っていたのは、倒したはずの安田であった。
先ほどまでは存在しなかったはずの、濁った黒色の粒子を総身へ纏わりつかせた上、顔中にびっしりと血管を浮き立たせ、白目をむき、およそ平常には見えない。
先ほどの戦闘で壊れた裏魔法の代わりに、分身が握っていた水の剣を片手だけに把持してはいるものの、構えらしい構えすら取らず、だらりと腕を垂らしたまま舌を出している。
そのような状態にも関わらず、別人かと見まがうほどに魔力が増していた。
シーラと同じか、超えているかも知れない。人間としての限界すら跳び越えている。
『どうしたんですか!? こんな時に放置プレイとか笑えませんって! シーラさん――』
転瞬。メアの呼びかけに応じる余力を完全に喪失した。
爆発的に速度が引き上げられた刺突が、シーラの右肩を貫いていたからだ。
肉塊。
そう評して何ら違和感がないほど、まがりなりにも厳粛たる仁王の姿を取っていたはずのそいつは、大きく様相を変えていた。
どこが頭部なのか四肢なのか、判別がつかないほどに黒いもやが寄り集まっては分かたれ、また再結合し――無秩序な、不定形のスライムじみた気色の悪さをたたえている。
「殺す! 殺すぅ! あんな目に遭わせやがってぇ! ゴースト如きが!」
そいつの側に立った僧侶が、折れた錫杖をしきりに振り回し、口角から唾液を垂らしてわめきたてた。
その姿は安田と同じく、黒い粒子に覆われ、全身に血管が浮いている。
イズルへの憎悪によって激情があおられ、これまでのダメージによって切れ端同然になった衣装もあいまり、狂態だけなら安田以上だ。
「人様に恨み言吐くしか能のねぇ貧相なガキがぁ! 生きてる人に迷惑かけるなよぉぉ!」
もはや読経の所作すら忘れたように、血がにじむまで皮膚をかきむしり怒号する僧侶。
だがその狂乱ぶりに比例して魔力は膨れ上がり、仁王の質量と力強さは見る間に増す。
イズルは歯を食いしばりながら、仁王の両腕だっただろう肥大化した部位に捕らわれた、ヤクモとサギリを見つめるしかできない。
自身の魔力も体力も、とうに尽きている。ヤクモらの電力も同様で、そいつが力を込めるほど――嫌な音を立てて二体の身体は圧潰し、破片がむなしく降り注ぐ――。
「駆除してやる! このえらーいお坊さんが! 感謝して死ね!」
僧侶が野卑な雑言を吐き散らし、呼応した仁王がさらに力を加えようとした矢先。
「すいませぇーん……」
場違いなほどに控えめな呼びかけとともに、僧侶の背中に銃口が突き付けられる。
「あのぉ……ちょっと、動かないでもらえますぅ……?」
その硬質かつ冷たい感触に、さしもの僧侶も僅かに正気を取り戻したらしく、両腕を突き上げた滑稽な格好のまま動きを止めた。
メア、とイズルが声を上げる。拳銃を突き付けていたのは、幽鬼よろしく現れたメアだ。
イズル達のように、隠し通路を迂回して来たのだろう。僧侶は我を失い、イズルをいたぶるのに夢中であった。背後を取るのはさして難しくなかったはず。
「――ばぁんッ!」
「ひぃっ……!」
「なーんちゃって……冗談ですって。でも暴れられたら、驚きで指が跳ねちゃうかも……」
しっかり脅しをかけてから、おもむろに要求を伝える。
「とりあえず、怖いですし……その変なのの解除、してもらえますぅ……?」
「ぐ……ち、畜生にも劣る卑劣な悪霊めが! 二対一で襲うなんて地獄へ落ちますよ!?」
僧侶は抗議しながらも、錫杖を乱雑に振り回す。
すると仁王は、いよいよ形そのものを失って萎み――錫杖へ吸い込まれ、消えていく。
「よくできましたねぇ。これはご褒美ですっ」
どむっ、と鈍い音を立てて、メアの蹴りが僧侶の股ぐらを打ち抜いた。
僧侶は口から泡を噴き、内股になりながら股間を抑えてうずくまる。
「えへへぇ、なんちゃって」
メアが銃を上へ向けて引き金を引けば、銃口から噴射したのはちろちろとした水。
「実銃とよく似てるでしょ? と、それより――イズルさん、大丈夫ですか……?」
メアが振り向くと――イズルは横たわる二体の側にしゃがみ込み、うなだれていた。
「イズルさん……」
ドライグは隠し通路から堂々と踏み出し、廊下に倒れているノクターンを見据えていた。
とっさにトランプの魔法で防護し、直撃こそ免れたノクターンだったが、怒りに燃えたドライグの砲撃はその身を薙ぎ、意識を刈り取るのに十分な威力を誇っていたのである。
「グハハハ……ハハハハハ!! 思い知ったか、小娘めがッ!」
喘鳴混じりに馬鹿笑いするドライグには、他二人と同じく黒い粒子が漂い、増強された魔力が烈火の如く立ち上る。
鎧の大部分は傷つき、ひび割れ、歪んでいた。籠手も左手側が砕け、宙ぶらりんになった残骸がくっつき、むきだしの右手の横で揺れている。
しかもエレベーターから脱出するためとはいえ、閉所であれほどの魔法を放出したのだ。
いかに耐火性能を備えていようと、表面は焼け焦げ――右手のみならずドラゴンの顎に収まった顔にさえ、軽度の火傷を負ってはいた。
だというのに、そんな痛みすら感知していないみたいに歪みきった形相もあいまり、壮絶なまでの狂気をふりまいている。
力なく伸びたノクターンの指先が、かすかに床を掻く。
意識は朧だが、この危機的状況に際し、無意識に身体が逃れようと動いたのだ。
「まだ息があるな? ならば今度こそ、トドメを刺してくれるわ!」
しかし条件反射的だけの動作はドライグから目撃され、さらなる窮地を招いてしまう。
ドライグが左に残った籠手を向ける。開かれた竜の口腔に、魔力が集中していく。
――三つ首ドライグは、今夜訪れたゴーストスレイヤーズの中で、恐らく最強である。
だからこそ、ノクターンとメアのみで対応したのだ。他の六不思議ではきっと手に余る。
事実、これまでの攻勢とて、実際にはしのぐのがやっと。
ケタ外れの戦力を話術と詐術で誤魔化し、のらりくらりと避け、弱らせて倒す。
ノクターンの得意とする戦術であったし、途中までは上手くいっていたのだ。
――今のノクターンに、ドライグの炎を防ぐ術はない。
高まる熱量と焦りに反し、まるで身体は言う事を聞いてくれず、意識が落ちていく。
「死ねえぇぇぇ!」
竜の炎が、巨大な火球と化して発射される。
――寸前だった。
ドライグの腕が直角に曲がり、校庭側の窓へ矛先が変わる。
放たれし破壊の赤は校舎の壁を貫き、風穴を開けて外へ飛び出していく。
「外した……ッ? な、なにが……」
ドライグの動揺をよそに、ノクターンはさっきよりも、少しだけ前へ進む。
いや、違う。ノクターン自身はまったく動いていない。這う姿勢すらもうできないのに。
にも関わらず、床に血痕を残し、身体だけが引きずられるみたいに移動している。
この異様な情景に、ドライグは戸惑った。
でもそれも束の間。彼の視界の端にふと、人影が映る。
――鏡だ。なぜかあちこちの校舎に張り付けてある鏡の一つに、少年の姿が見えた。
少年が鏡の中のノクターンを引っ張ると、こちらでも同じように引きずられていく。
「い、一体なんだというのだ!?」
トリックか、魔法か。いくつかの仮説がよぎるも。
今、奴は――奴らはどうにかして、離れようとしている。逃げようとしている。
小癪な。その事実一つで、ドライグの怒りへ油を注ぐには十分であった。
全て焼き尽くすのみ。ドライグは再び構える。
途端、少年がちらりとこちらを振り返り、腕を振るうような動作をした。
同時に、ドライグの両脇の壁に貼られていた鏡が動き出し――素早く挟み込んで来る。
「な……っ」
瞬きした直後。ドライグは、己一人しかいない奇妙な白い空間へ飛ばされていた。
どちらを向いても姿見のような鏡が、何枚も何十枚も何百枚、鏡合わせで立っている。
それを覗き込むドライグの姿も、何人も何十人も何百人もいて、覗き返していて。
鏡がドライグが何人も何十枚もドライグも鏡がドライグも何百人もどこまでもずっと。
ドライグは恐怖が入り混じった雄叫びを張り上げ、目に付く鏡という鏡を竜の炎で破壊してのける。
気づくと、元の廊下のど真ん中に戻っていた。
「げ、幻覚か……!? ちょこざいな!」
今度こそ仕留めようと、床に残った血痕を辿って向き直り――唖然とする。
なんとノクターンの身体は、その半分ほどが鏡に呑み込まれていたのだ。
鏡へ引き込んでいるのは、あの謎の少年。鏡の中にはノクターンの上体が映り込んでおり、ドライグがあっけにとられている間に下半身までもが入り込んでゆく。
「おのれ……!」
何が起きているか知らないが、二人の行動の果てにあるのは、紛れもなく逃走。
がむしゃらに腕を掲げ、炎弾を発射。
寸前でノクターンの身体が全て消え、炎は鏡を通り過ぎ、廊下の奥で爆裂するのみ。
急いで後を追うが、鏡そのものは熱量によって溶け落ち――もちろん二人の姿はどこにもなかった。
そこかしこでくすぶる炎の残滓とともに、静まり返った廊下で、苛立ち紛れの怒号が上がる――。