黄泉塚邸は黒煙を上げていた。
黒帯が家電製品や火元を破壊し、そこから発火したか。あるいは一族の者が火属性の魔法で応戦し、結果延焼したか。
いずれにせよ屋敷の各所へ火の手が回ったため、火の粉とともに一酸化炭素が高まり――酸鼻を極める広間からかろうじて逃げ出せても、煙に巻かれ、人々は力尽きていく。
煙で悪化する視界。ノクターンは分かれ道のない袋小路の廊下へ追い詰められていた。
「引導を渡してやる!」
黒男が腕を掲げ、ブラックシャドウを発動する。
ノクターンの背中側にライフル弾が出現するや、音速で接近し――華奢な身体を貫いた。
「殺ったッ! ざまあみろ!」
しかしその瞬間、撃ち抜いたはずのノクターンの姿が陽炎のように消滅する。
「……な、なに――ぐがぁっ!?」
すり抜けた弾丸は軌道上に立っていた黒男の方へ向かい、その肩を穿ち抜いたのだった。
「細道。逃げ場のない突き当たり。精密必殺の罠が仕込まれているのは予想していました」
煙の中から、もう一人――否、虚像ではない、本物のノクターンが歩み出る。
「お、おのれ……! 煙に自分を紛れさせておいたのか! 下らん小細工をッ!」
「魔法の腕では軍配を譲りますが、化かし合いではこちらに分があったようですね……!」
黒男は聞くに堪えない悪態を吐き散らしながら、身を翻す。負傷のため、足取りは鈍い。
逃がすまいと、今度はノクターンが追う側へ回る。
必死に追走していた矢先――いよいよ柱や土台にまで火が回ったのか、建物の倒壊が始まった。頭上で爆発が巻き起こり、天井が崩れ、二人の間へ瓦礫が降り注ぐ。
「くっ……そこだ!」
急激に狭まる視界の先。
逃れんとする黒男の背中が端をよぎり、ノクターンはとっさにナイフを投げつけた。
焼けた木材や瓦の合間を縫うようにナイフが飛来し、吸い込まれるように着弾。
倒れ込む黒男。ノクターンは障害物を器用にかいくぐり、すぐさま駆けつけた。
「……終わりです、父――?」
――違う。論理も感情も何もかも一足飛びに、本能的な違和感に気づく。
数秒後。うつ伏せになっていた黒男の姿が徐々に薄れていき、代わりに現れたのは。
「キョー……タ……?」
背中にナイフが突き刺さり、力なく横たわる、キョータの姿であった。
「あ……ああ……そんな……!」
意趣返しのつもりか。自分が死ぬくらいなら、計画の中核を成す予定だったキョータをも切り捨てるというのか。
それより血が、こんなに。違う。こんなはずではなかった。どうしてここに。
メアからの直前の連絡では、キョータを見つけたという事だったから安心していたのに。
あああ、違う違う。落ち着け。ナイフは適当に投げたから、きっと急所は外れている。
雑多な思考がめまぐるしく駆け巡る中、自身の罪の象徴である刃の柄に視線が移り。
「ナイフ……ナイフを取り除かないと。一気に引き抜いて」
いや、と思い直す。傷口を塞ぐ手立てもないのに、そんな真似をすれば大量出血だ。
基本的な事すら失念している現実を思い知らされ――むしろ冷静さがかすかに戻った。
あいにく、ノクターンは回復魔法を覚えていない。
他に治療のできる魔法一族を捕まえるにしても、この混乱の中では至難を極めるはず。
落ち着け。落ち着け。傷を治す方法。絶対に何かある。思考を止めるな。
「……あった」
それは、死と隣り合わせの極限状況で下った天啓などではなく――悪魔の閃き。
どうしてそんな無茶を思いついてしまったのか、ノクターンには分からない。
だが、やるしかなかった。自分の落とし前は自分でつける。黄泉塚家も、魔法一族ももう手遅れかもしれないが――せめてそれくらいは成し遂げたい。
次期当主の、最後の仕事として。
「キョータ、待っていろ。すぐに助けてやる」
キョータを抱え、駆け出す。
ナイフは綺麗に刺さっているのか、多少揺らしても出血はわずか。
それでも負担がかからないよう、ハンカチで口元を抑えてやりながら走る。
「……ごめ、ん……ご……めん……ぼくの、せい、で……」
か細い息の間から、キョータのうわ言が聞こえた。自身を責めるみたいな言葉。
キョータも計り知れないほど、恐ろしい目に遭って来たのだろう。強く歯噛みする。
今、この凄惨な屋敷で何人が生き延びているのか。メアはどこへ行ったのか。みんなは。
「……もう、何も分からん。……だが、キョータだけは、救ってみせる……!」
途上、頻繁に黒帯の襲撃を受けた。他に襲う相手がいなくなってしまったのか、数が多く、対処しきれない。キョータを抱えているため満足に動けないのではなおさらだ。
斬られ、裂かれ、血みどろになりながらも辿り着いたのは――父との戦闘中、立ち回る上で自然と離れてしまっていた、あの書斎。
父の姿はない。炎こそ回っていないものの、室温は非常に熱く、あまり時間はない。
陽の憑光はまだ、部屋の中央で浮遊したままだった。
ただし、表面の黒点は見当たらず、全体的により赤々とした色へ変化しており――極彩色の光輝とともに感じ取れる魔力のうねりも、先刻と比べ異常なまでに膨張していた。
「たっぷり食べたもんな……満腹か?」
反比例して体温が低下しつつあるキョータを抱いたまま近寄ると、陽の憑光はやおら、緩慢にだがその高度を下げ、こちらへ近づいて来る。
黒帯が現れる気配はない。生唾を呑み、その場でしっかりと踏ん張り、待ち受ける。
陽の憑光はキョータの真上でしばし、静止したかと思うと――ややあって再び沈み込み、混ざり合うみたいにキョータの体内へ溶け込んでいった。
それまで感じていた無限の威圧感が、嘘みたいに消失する。
腕の中のキョータに、特に異変はない。傷もそのままで、確実に死へ近づきつつあった。
「これで……遺産の所有者は、キョータ――という事で……いいんだな?」
キョータにというより、陽の憑光へ問いかけるが、もちろん返事はないし、期待してもいない。とはいえ、今はその可能性に賭けるしかなかった。
「第一段階は、通過……問題はここからだ」
血を流し過ぎて重く、反応も遅い足を引きずりながら、奥に配置された鏡へ移動する。
「やはり、魔力を感じる。……この鏡が、父上が用意した、異界への入り口に、違いない」
しゃがみ込むつもりだったが、膝から力が抜け、半身がくずおれた。
「くっ! うぅ……はぁ……はっ……」
キョータを鏡へ押し付ける格好となってしまうも、覚悟していた衝撃は来ない。
なんとノクターンの上半身ごと、抱えたキョータが鏡の中へ入り込んでいたのだ。
「正直、不安だったが……まったく、父上もいい仕事をする」
してやったりと口元をほころばせながら、いまだ外へ突き出ていたキョータの両足も、ほとんど押し込むようにして、鏡へ放り込む。
その拍子にノクターンも一緒に完全に入ってしまったが、そこでもう、限界だった。
「頼む……上手くいってくれ……!」
かすむ目で見つめるノクターンの前で、キョータの背中からナイフがひとりでに抜けて。
――開いた傷口から出血する事はなく、肉が塞がり、閉じ、再生を始めたのだった。
「やった……やった、ぞ……! 成功、だ……!」
陽の憑光を取り込んだキョータは、異界の核たる資格を持つ。
他ならぬ父が、そのような構造に仕立て上げたのだから。
もしも核が傷つくような事があれば、せっかくの世界を揺るがしかねない。
ゆえに異界内では、物体が自動修復するような機構が働くのではないか、と読んだのだ。
「そうか……まだ食い足りないか。……持っていけ。キョータの回復が早まるのならな」
ノクターンは自身の身体が、指先から少しずつ消えていくのを眺めながら自嘲する。
「我はきっと、恨まれるだろうな……」
父のプランは破綻したが、半分は成功したと言ってよい。
これからキョータの身に、何が降りかかるのかなど、予測しようもない。
「ずっと一緒に、いられたら良かったんだが……すまないな」
ノクターンは意識が消える最後の一瞬まで、安らかな寝息を立てるキョータの髪を、撫でつけていた。
目が覚めると、夜空一面に、煌々とした紅色の満月が広がっていた。
「え……?」
呆然と声を漏らしながら身を起こす。反射的に両手で身体をまさぐるが、あれだけズタズタにされたというのに、傷がなくなっている。
それどころか、衣服にも汚れ一つない。まるであんな惨劇自体、なかった事のよう。
というか、ここはどこなのか。
意識こそ鮮明なものの、いまだ状況を呑み込めず、周囲へ目を走らせる。
手前側には市街地。奥側には校庭が広がっていた。コンクリート造りの地面や手すり、金網フェンスを確認する限り――ノクターンがいるのは、学校の屋上なのだろうか。
不意に、近くで人の声がした。一人や二人ではない。控えめながらも、話し声である。
「ねぇ、ここ、どこ……?」
「あんたこそ、誰よ……」
己の居場所はどうやら貯水タンクの裏側らしく、話し声の主達には気づかれていない風。
息をひそめ、角際から半身だけを覗き込ませて窺う。
そこにいたのは、見慣れた面々だった。イズル、イツハ、シーラ、それにメア。
ただ――どうにも様子がおかしい。知らぬ仲でもないというのに、お互いを警戒しているみたいに距離を取り、よそよそしく、探り合う会話を続けているのだ。
「名前以外、何も覚えていないんだ。教えてくれ。私はどうして、ここにいる……」
「あんたも、なの? 私も同じ……。ねえ、これって、記憶喪失ってやつじゃない?」
話し合っているのはもっぱら三人ほどで、メアはフェンスの外側に立ち、黙りこくって下方を見つめている。
「ね、ねえ。そこのあんた。そこにいたら……危ないんじゃない?」
イツハに声をかけられても、まったく反応を寄越さない。
「もうやだよ……!」
懸命にせき止めていたものが決壊したみたいに、イズルがしゃくりあげた。
「ここ、どこなの? みんな誰なの……っ? どこに帰ったらいいの……? 何も、何も思い出せないよ……!」
「あ、あんただけじゃないわよ、困ってるのは! あたしだって、なんで足、動かないのよ……っ」
追随するように、気丈だったイツハの声にも涙が混じり、さめざめと手で顔を覆う。
「誰か……誰か、助けてよぉ……!」
嗚咽に引っ張り出されるみたいに、ノクターンの全身を貫くような思いが迸る。
そういえば。そういえば。自分にも――会いたい誰かが、いたのではないか。
どうしてか、顔も名前もぼやけてしまっているが、とても大切な人だったはずなのだ。
「だ、誰だ……? お、思い出せん……!」
その時、ぼんやりと佇んでいるだけだったメアが、ぽつりと無感情に、一言だけ発する。
「……みんなひどい顔っスね。鏡でも見たらどうっスか」
――鏡。キーワードを境に再び熱い何かが、落雷めいて記憶の深奥を駆け抜ける。
「鏡……そうだ、鏡だ……っ」
懐から手鏡を取り出す。慌てふためきながら開くと。
「キョータ……」
自然に、その名が口を突いて出る。安堵のあまり、笑みがこぼれた。
鏡に映っていたのは、上半身だけだけれど、間違いなくキョータだ。無事だったのだ。
「どうした、キョータ……? なぜ何も言ってくれない。感動の再会なのだぞ」
けれど、キョータは。虚ろな眼差しでこちらを見返し――いや、目線を正面に向けているだけで、恐らくその瞳に、ノクターンは映し出されていない。
それほどに、キョータからはあらゆる感情が抜け落ちていた。ノクターンが右手に纏う無などより、遥かにぽっかりと開いた虚ろそのもの。
「キョータ……なあ、答えてくれ。キョータ……!」
すがるように呼びかけを続けるが、キョータは無言のまま。
ただ、そこにいる。そこにいるだけの役目を、果たしている。
ついに、背後で慟哭が上がった。
「すべて……すべて、終わってしまったのだな」
みんな、泣いている。不安のまま、身も世もなく、喪失と悲嘆だけに包まれて。
「だが、それでも……我はこうして、生きている。生きている、はずだ……」
――生きながらえて、しまった。
「……分かったよ。キョータ」
ノクターンはしばし瞑目し――鏡を閉じた。
「絶対に……取り戻す。お前の心を。みんなの記憶を。だから……待っていてくれ」
目を開ける。もう決意は固まっていた。後は歩き出すだけだ。
「――ファーハハハ! 泣きむせぶ必要など、まったくないぞ!」
ノクターンは雄々しくマントをなびかせ、四人の前へ姿を現す。
「我が名はノクターン・グリオンタード! 諸君らは闇に選ばれし者! この聖地を邪悪から守り、世界を安寧へ導くために! 今ここに、六人の英雄が集ったのだ――!」