◆◇◆◇
精神の血管が圧迫され、幻想の末梢神経への酸素供給が滞り、621の心には比喩的な意味での"痺れ"が走った。
ゆっくりと歩を進めてくる『バーブドワイヤー』の戦気が彼女の心を圧していた。ポーキュパインには621との交戦の意志はないが、戦闘後の猛りがまだ機体の表面にこびりついている。
621はそれを感じ取り、自身の死を強く想起したのだ。
彼女の心は慢性的な不感症に陥っている。彼女の心は完全には死んではいないが、心の働きは酷く鈍い。彼女のダイナミックでシャープな操縦技術は、実の所は精神の鈍化によって恐怖心を感じ辛いが故の業と言ってもよい。
だが、彼女とて自殺願望があるわけではなく、分厚い心の表皮の奥には"まともな生"への願望が滞留している。だからこそ、それを与えてくれると約束したウォルターに付き従っているという部分は大きい。勿論それ以上にウォルターへの恩から来る情愛のようなものも彼女の精神の大きな部分を占めてはいるが。
"まともな生"、そしてウォルターへの想い……621はそれらを失いたくない。つまりは、生きたいという事だ。彼女は死にたくはない、だからポーキュパインを恐れる。彼女をして、"まだ"勝てないと確信させるだけの技量の差が両者には存在した。
だが、彼女は相反する思いもまた抱く。
"生きたい"というのに、"死"の象徴であるポーキュパインに挑みたい、そして、死中に生を見出したいという思い……そんな死中の闘争心が彼女の胸の奥から湧いてくる。
『621、バイタルが乱れているぞ。大丈夫だ、奴は敵ではない。落ち着け』
ウォルターはそう思うが、彼も一抹の不安を拭えないでいる。カーラと繋がりがあるからといって、雇われていたからといって、それで全面的に信じられるかといえば否であった。ハンドラー・ウォルターはそんな
──敵ではない、筈だ。奴はカーラと繋がりがある。しかし621がこれほど強い反応を示すとは。それとはっきり分かる程明確な恐怖心……過去、どれだけ困難なミッションも平然と熟してきたというのに
ウォルターの脳裏に一輪の花が想起された。それは儚く美しく、淡く赤い花だった。花は放っておけばすぐ枯れてしまう。だから水をやらねばならない。しかしただの水では駄目なのだ。闘争の
──闘争の中でしか咲かぬ花か。621も、業が深い。だが俺の業は621のそれとは訳が違う。さぞドス黒く、悪臭を放っている事だろう
ウォルターには大きな目的があり、その為ならばどんな犠牲も払うつもりだった。しかし彼にはそれが正しい事、正義の行いなどとは口が裂けても言えない。なぜならば、視えるからだ。沢山の顔が。血に塗れた顔が。ウォルターが育てた猟犬たちの真っ暗な眼窩が彼を見つめている……
ぐっ、と低く呻き、ウォルターは意識をポーキュパインの方へと戻した。未だ完璧な安全は担保されていない以上、警戒を怠るわけにはいかない。だが今回だけで言うならば、ウォルターの懸念は外れた様だ。友軍識別信号が送られてきた。つまり敵対の意志はないという事だ。
識別信号の送信に続けてポーキュパインから通信が入る。
『カーラ……ボスが言うにはお前たちは敵ではないらしい。だから俺も最初に会った時に退いた。だがこれで二度、敵対している。情報のやり取りが上手くいっていないという事だ。話はそれだけだ、じゃあな』
ABを吹かして遠ざかっていく『バーブドワイヤー』を見送る621とウォルター。
『行ったか。アレと敵対したくはないものだ。だが
621は無言だ。
というより、彼女の声帯は非常に弱っている為、滅多に言葉を発する事はない。だが、黎明のボナ・デア砂丘に佇む『LOADER4』の姿が彼女の意思を雄弁に代弁する。
感覚に鋭い者がもしその時の『LOADER4』を見ていたならば、ある種の幻想的な光景を幻視していたであろう。
『LOADER4』が、いや、621が発する戦意……それがまるで翼の様にその背から広がる、そんな光景を。
◆◆◆◆
「……という事だ。じゃあ後はよろしく頼む」
グリッド086のRaDのアジトへ帰投したポーキュパインは手短にそれだけ伝えると、カーラの部屋を出て行った。621との会敵についての文句もなく、非常に事務的に話を終わらせる様子は、カーラにとってはやりやすいがしかし肚で何を考えているか分からない不気味さがある。
『ボス、ラミーはそこまで深くは考えていないと思うぞ』
チャティがカーラの私室に置いてある
「そうかねぇ……? 見るからに仕事人って感じじゃないか。ああいうのは内心で見限ってからの裏切りが早いもんだよ。こっちのミスが規定の回数までは従順なんだ、そして一線を超えると即座に切る」
カーラはそう言うが、口ほどにはポーキュパインを疑っていない。ポーキュパインの人となりが何となく分かってきたからだ。
──多分、デスクワークは全てあたしらがやるもんだと思ってるんだろうね。まあそれならそれでいいが。とにかくウォルターから連絡がこないことにはどうしようもないよ、傭兵支援システム経由で連絡を取ってもいいが、それはチャティが妙に嫌がる
暫時カーラは考え込んだ。
チャティの"傭兵支援システム.オールマインド"嫌いは相当なもので、カーラにもその理由を話そうとしない。というより、理由を聞いてもはっきりした答えが返ってこないのだ。
──『あまりいい気はしない、ボス』
というような答えばかりで、要領を得ない。
──あたしに何か隠し事があるというより、チャティ自身にもよく理由がわかっていないような……まぁ、それならそれでいいさ
案外におおざっぱなところのあるカーラはそんな事を思う。
「それより、あいつはさっさと行っちまったけれど実はもう一つ頼みたい仕事があるんだよ。チャティ、伝えて置いてくれないかい? それにしてもベイラムは何を考えているんだろうね」
『さぁな、ボス。だが俺がハックしたデータでは、"壁越え"に投入されるレッドガンの正規隊員は一人だけだ』
「ベイラム本社はレッドガン……というか、ミシガンに思う所でもあるのかねぇ? G7ハークラーも滅茶苦茶なミッションに投入されて死んだそうじゃないか。ま、いいさ。じゃあチャティ、ポーキュパインに伝えておいておくれよ」
『分かった、ボス』
チャティはそれだけ言い残し、カーラの端末から姿を消した。
──ベイラムはアーキバスにぶつける。両者を損耗させる。少しずつ、少しずつだ。解放戦線をつかって、両者の戦力差を少しずつ調整していく。……ポーキュパインにも、あたしの、いや、あたしたちの計画を明かすべき時が来たかねぇ……でも、もし道が違える様なら、その時は……
カーラの瞳が妖しく輝く。
◆◆◆◆
『ラミー、今時間はある……いや、後でいい。済んだら呼べ。余り時間はかけないでくれ、じゃあな』
チャティはポーキュパインの部屋の端末に姿を現し、すぐに消えた。急ぎの用件なのは間違いないが、優秀なAIである所のチャティは、"こういう時"に無理に中断させても碌な事にならない事を理解している。
ポーキュパインの部屋は薄暗く、肌色が激しく踊り、あられもない声が響いていた。
・
・
・
"ラミー"という男はツラは良い。その良いツラでラリ散らして壁や床を舐め回したり、しょうもないAC操縦技術を披露したりする。カーラが彼を拾ったのはそのギャップを面白がったのと、最低限の番犬の代わりくらいはつとめられると見込んだからだ。
そんな彼だが、ツラはよくてもRaDでは全くモテなかった。アリーナは最下級ランクだし、重度の薬物中毒者だし、たまに空気と話し出す彼を男として気に入る女はいない。
勿論薬物中毒者の女もいるから、中毒者と中毒者でお似合いなんじゃないかと思うかもしれないが、ラミーほどに馬鹿みたいにラリってる男はおらず、薬物中毒女達の大半は1日の時間の多くをシラフで過ごしていた。
『コーラルドラッグは他の薬に比べて体がボロボロになったりしませんけど、別に薬に頼らなければならないほど悲観的な環境じゃないですし。コーラルドラッグは嗜む程度です』
などと言うのはRaDの女性エンジニア、エリザである。彼女はカーラがRaDに入った時につれてきた者達の一人で、生え抜きのドーザーというわけではない。カーラ直属の部下といってもいいだろう。
こういった女達は当然感性もまともである者が多く……勿論、一部分野ではカーラのような技術的変態性を見せるが、ともかくも中毒者特有のぶっ壊れ方はしておらず、だからこそ
なぜならばポーキュパインは強く、そしてツラがいいからだ。こんな荒れ果てた世界、殺伐とした環境では強いという事に計り知れない価値が生まれる。勿論ツラもいい事にこした事はない。
──それに、この人って男なのに乱暴じゃないのよね。静かすぎるけど、紳士的だし。いきなり暴れたりしないし
そんな事を思うのは、先述したエリザであった。
この辺りはポーキュパインからしてみれば心外であろうが、ある意味では仕方がない事だった。
良くも悪くもこの時代、この世界の男というのは癖がありすぎる。ましてやドーザーの男などは人間ではなく有害鳥獣の類だといっても過言ではないので、エリザが"男というのは大抵が粗暴で低能な暴れ猿のようなものだ"などと考えてしまうのも無理はない。
ちなみに、馴れ初めと言っていいのか、二人がこうなった経緯は単純だ。
ジャンカー・コヨーテによる何度目かのアジト襲撃を完璧に防ぎきり、ほぼ無傷で門番としての役割を果たしたポーキュパインだが、エリザは彼の操縦技術にほれ込み、AC『バーブドワイヤー』の内装系のアセンブルのちょっとした手伝いをした。エリザも優れたエンジニアなのだ。
それで話が弾み、時には糞不味い飯を共にし、たまにコーラル・カクテルをわずかに嗜んで、それで……という次第である。
だが二人は正式に交際しているというわけではない。いわゆるセックスフレンドという間柄であった。そして、そんな相手がもう何人かいる……それが今のポーキュパインの状況だ。
ラミー、と掠れた声で自身を呼ぶのを、ポーキュパインはどこか他人事の様に聞いていた。
彼の感覚は以前の世界の"強化人間"のそれを取り戻しており、意識を集中させればエリザがどの様に喘ぎ、呻き、悦ぶのかが手に取るように分かる。
──『相手が何を一番してほしいのか、どうしてほしいのかが分かれば、何を一番されたくないのかも分かるものだ。抱くにせよ、抱かれるにせよ、そこから学べる事がいくらでもある。人間性という薪を闘争本能の炎にくべろ。炎が大きくなればなるほど、お前たちは強くなる』
かつてポーキュパインは弟子にその様に嘯いたが、これは間違ってはいない。あくまで"レイヴン"としては、だが。
──今はどうにも、そうは思えない。俺の中のラミーの残滓がそうさせたか
ポーキュパインは僅かに笑い、エリザを強く抱きしめて精を吐き出した。
事後、ポーキュパインはエリザの白い肌を撫でながら無機質な天井を眺めていた。片腕はエリザの後頭部の下にある。
「ラミー? どうして笑ったの? 気持ちよかった?」
いたずらが成功したかのような笑みを浮かべるエリザを見て、ポーキュパインは浅く頷いた。気持ちよかったことは事実だが、何よりも自分の感性がどこか馬鹿みたいで面白かったのである。
戦いで疲れた精神と肉体を女体で癒したいという俗な想い、そしてセックスですら闘争の糧にしようとする"レイヴン"としての闘争本能。
ポーキュパインの精神世界でその二つが妙にカチ合い、絡まり合っている。その様をポーキュパインは俯瞰的に眺めていた。
これらはそれぞれ個別に見れば滑稽でも何でもない筈なのに、二つを同時に視るとどうにも滑稽に見える。シリアスな劇の最中にコメディアンが乱入してきたような。
かつてのポーキュパインは戦鬼といっても過言ではないほど、闘争に全身と全霊を支配されていた。だが今はどうだろうか。
──もしかしたら、今の方が俺は生きていると言えるのかもしれない。俺の精神の受け皿となったラミーには悪いが、な
「エリザ、まだへばっちゃいないだろう? チャティにはもう少し待ってもらおう」
ポーキュパインがそういうと、エリザは無言で頷いた。その頬はやや赤い。
「次はもう少し長めにね。さっきは少し早かったわよ」
ポーキュパインはエリザの言葉を無視した。
彼は一撃の重さではなく、手数で勝負するタイプなのだ。
・
・
・
『終わったか、ラミー。ボスからの伝言を伝える。ルビコン解放戦線からの依頼だ。資源採掘艦の護衛は失敗したも同然だが、あれは仕方がないとあちらも考えているようだ。ベイラムが壁越えを目論んでいる。これを妨害しろという事だ。だが一つ注文がある』
注文ね、とポーキュパインは汗が滲む上半身もそのままに、水を一杯、大きく飲み下した。
「注文とやら解放戦線からか? それとも……」
『ボスからだ』
ポーキュパインは軽く二度頷き、先を促す。
『ベイラムはおそらくレッドガンを投入してくる。だが、殺すな、との事だ。ボスはベイラムに余りここで消耗してほしくないと言っている』
「アーキバスにぶつけたいのか?」
ポーキュパインは問うが、答えは返ってこない。
チャティは確証の無い事は余り言いたがらないのだ。
しかし否定の言葉もない事がチャティの内心を示していた。
「まあ、分かった。機体をみておいてくれ」
§§§§
「どういう事だミシガン!!」
作戦室へ怒鳴り込んできたG5イグアスの剣幕を見て、レッドガン総長G1ミシガンは内心で大きくため息をついた。
彼はイグアスの行動を完璧に予想しており、しかしミシガンにしては珍しく自身の予想が外れてくれるように、という
「どうして俺が外されるんだ! ヴォルタだけで壁越えだと!? MT部隊も一線級どころか、格落ちの機体ばかりじゃねえか! ……まさか、ミシガン……てめぇ、ヴォルタを始末……」
とイグアスが言った所で言葉が途切れる。
というより、イグアスの頬にミシガンの硬く、大きな拳が叩きつけられたからだ。
唾液と血が宙に舞い、イグアスは後方へ大きく吹き飛んだ。
「感謝しろ、それ以上見くびられると貴様をただでは済ませられなくなる。五体満足でいさせてやる為に殴ったのだ。だが貴様の気持ちも分からないでもない。だから一つだけ教えてやる。俺が"壁越え"の作戦を立てるならば、イグアス、貴様がどれ程役立たずでも外しはしない。そう、迂闊にも独立傭兵に作戦を口走る程間抜けだったとしてもだ」
イグアスはそれを聞き、俯いて唇を噛んだ。
彼は粗暴なチンピラだが、馬鹿なチンピラではない。
"俺が作戦を立てるなら"というミシガンの言葉で大方の所を悟ったのだ。
「ベイラム……本社か……?」
イグアスの問いにミシガンは答えない。
しかしその無言は雄弁に肯定を示していた。
イグアスの表情が歪む。
「くそったれがァ……」
イグアスが低い声で唸る。
脳裏に暗然とした光景が想起される。
血で染まったヴォルタが斃れ付して動かない、そんな光景だ。
友人が死に向かいつつあるのを甘んじて受け入れるのか?
会社のお偉いさんがそうしろと言うから?
イグアスは俯き、自問自答をし、その瞳が剣呑な光を帯びていく。
そんなイグアスをミシガンは厳然と見下ろしていた。
イグアスの中の何かとても大切な均衡が不可逆的に崩れるその瞬間、ミシガンが左手を上げた。
同時に、イグアスの首に注射器の針がさしこまれる。
彼の背後に隊員が回り込んでいたのだ。
イグアスの目は大きく見開かれ、すぐに力をうしなって崩れ落ちる。だが、体が床に叩きつけられる前にミシガンが支えた。
「……自制もできんか、役立たずめ……と言いたい所だが」
──役立たずなのは、俺か。……作戦は失敗しても構わん、死ぬなよ、ヴォルタ……
レッドガン総長、G1"歩く地獄"ミシガン。
常ならば彼の瞳には鬼獣の様な凄みが宿っている。
しかし、今はそれがない。