ポーキュパイン異聞   作:埴輪庭

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第22話:水面を滑る刃、あるいは亡霊の残響

 §§§

 

 低く垂れ込めた雷雲の下、荒れ狂う洋上を鈍色の影が矢のように疾走していた。ポーキュパインの駆る『バーブドワイヤー』である。

 

 機体は荒れ狂う波頭すれすれを滑走していた。一定高度の水平飛翔を捨て、海面や波間に漂う浮体構造物を小刻みに蹴り、最小限の跳躍と接地を極めて短い周期で反復している。

 

 脚部ダンパーが接地反力を受け止め、圧縮行程から伸長行程へ移行する反発の頂点に合わせてブースターの短パルス点火を同調させる。重力加速度と接地反力をそのまま水平方向の推進力へと変換し、ジェネレーターに負荷をかけることなく最高巡航速度を維持し続ける走法だ。

 

 推進剤を垂れ流して空を飛ぶのは三流のやることだ。かつて地下世界レイヤードにおいて、限られたエネルギーで地平の彼方まで走り抜けるために編み出された合理の極致であった。

 

 断続的な高圧噴射音を刻み、規則正しい推進の律動が冷たい海風を切り裂く。

 

『……気味の悪い飛び方をするねぇ』

 

 通信回線の向こうで、カーラが呆れたような笑声を漏らした。

 

『トビウオの真似かい? だが驚いたよ。ブースターの熱だれが一切起きてない。浮遊機動の三分の一のエネルギーで、巡航速度を二割も上回ってるじゃないか』

 

「無駄に推力を吹かすから熱が籠もるのさ。地面の跳ね返りを利用すれば、機械の寿命は倍に延びる」

 

 ポーキュパインは操縦桿の親指をわずかに緩め、海面に突き出た洋上警戒ブイのレーザーセンサーをひらりと飛び越えた。

 

 視線の先、水平線を塞ぐようにして巨大な建造物がそびえ立っている。

 

 ウォッチポイント・デルタ。

 

 旧時代にコーラルを汲み上げるために建造された巨大洋上施設である。その基部を取り囲む外郭プラットフォームから、激しい砲火の明滅と重低音が響いてきていた。

 

「始まっているな」

 

『ええ。ウォルターの猟犬が正面から風穴を開けたところだよ。……急ぎな。第一世代の亡霊は、若い娘を解体するのが大好物らしいからね』

 

「そう焦るな。あの猟犬が本当に生き残る器なら、そう簡単に首を折られたりはしないさ」

 

 ポーキュパインは低く笑い、荒波を蹴ってさらに速度を上げた。

 

 ◆◆◆

 

 金属が削り合わされる悲鳴と火花が、洋上プラットフォームの冷たい鉄床を焼き焦がす。

 

 C4-621の視界は、激しい衝撃アラートの赤光で塗り潰されていた。

 

 正面、数十メートルの距離。くすんだ暗緑色の装甲を纏った無骨な二脚AC──スッラの駆る『エンタングル』が、冷酷に右腕の重バズーカを構え直している。

 

『──ハンドラー・ウォルター、懲りない男だ』

 

 外部スピーカーから響くスッラの声は、感情を完全に切除された機械のように冷徹であった。

 

『犬を何匹殺せば気が済む。……617、619、620。あいつらの骨はこの海の底で赤錆びたぞ。次はお前か、新しい首輪』

 

『乗るな、621! 奴の言葉に耳を貸すな!』

 

 通信機からウォルターの怒声が響く。だが、621の耳朶を打つのは自らの荒い呼吸と、頭蓋の奥で軋むインプラントの痛打だけであった。

 

 脳幹に焼き付けられた旧世代の手術痕が、警報音と同期して激しい熱を放つ。死んでいった先代のハウンズたち──赤熱する装甲の中で焼き尽くされた者たちの断末魔が、網膜の裏側に焼きついて離れない。

 

 圧倒的な技量差がもたらす重圧が、逃れようのない死の予感となって621の全身を縛り付けていた。

 

 スッラの右肩から放たれたプラズマミサイルが、青白い放電の球体を帯びて頭上から降り注ぐ。同時に左肩の特殊ミサイルが空中で蛇行しながら、幾何学的な爆導索の軌跡を描いて621の退路を封殺した。

 

『終わりだ』

 

 スッラの右腕で特殊バズーカ『JVLN ALPHA』が火を噴き、巨大な炸薬弾頭が大気を引き裂いて目前へと迫る。

 

 ──推進軸の外へ。

 

 極限の恐怖の底で、621の指が反射的に操縦桿を弾いた。

 

 壁の上であの異形の傭兵から叩き込まれた通り、相手の射線に正対することなく直角の軌道を切り裂く。

 

 クイックブーストの爆発的な推力が、LOADER4の機体を真横へと弾き飛ばした。

 

 バズーカの弾頭が紙一重で装甲をかすめ、背後の防壁へ直撃してプラットフォームを激震させる。プラズマの放電が外装を焦がすが、直撃の直撃弾だけは辛うじて免れていた。

 

『……ほう』

 

 スッラが低く呟いた。

 

『ただの壊れかけの猟犬ではないな。だが──』

 

 エンタングルの脚部が地を蹴り、驚異的な反応速度で間合いを詰めてくる。左腕のパルスガンから放たれる高周波エネルギー球が、豪雨のように621を包み込んだ。

 

 装甲表面が激しい熱で溶解して白煙を上げ、機体の姿勢制御システムが限界を告げる警告音を立てる。

 

 動けない。621の機体がバランスを崩して膝をついた。

 

 その隙を見逃すスッラではなかった。エンタングルが猛烈な前進推力を伴って肉薄し、重装甲の爪先を621の胸部へと叩き込んでくる。

 

 数千トンの質量が突進の勢いのまま激突し、暴力的な衝撃がLOADER4の機体を粉砕せんばかりに吹き飛ばした。

 

 鉄床を削りながら横転した機体から激しい火花が散り、左腕のパルスブレードの励起回路に激しいノイズが走る。

 

『これで4匹目だ、ウォルター』

 

 スッラは無慈悲に歩み寄り、バズーカの巨大な砲口を621のコックピットブロックへと突きつけた。

 

『貴様の夢は、いつも犬の死骸の上にしか咲かん』

 

『621、跳べ! 退避しろ!』

 

 ウォルターの悲痛な叫びが通信機から響く。

 

 だが、推進器の再始動シークエンスは間に合わない。照準器が赤く点滅し、死のカウントダウンがゼロを告げようとしていた。

 

 しかし──。

 

 スッラがトリガーを引く、そのコンマ数秒前の筋肉の微動──機体フレームのわずかな沈み込みを、621の感覚器官が捉える。

 

 ──上へ逃げちゃだめ。

 

 621は機体の姿勢制御を強制解除し、自重でプラットフォームの鉄床へ機体を滑り込ませた。

 

 頭上を通過していったバズーカが猛烈な爆風を撒き散らし、背後の防壁を粉砕する。

 

 至近距離で炸裂した熱波を全身に浴びながら、621は床面を蹴って前方へ滑り込むようにアサルトブーストを全開点火する。

 

『何ッ!?』

 

 スッラに初めて明らかな動揺が走る。

 

 621は退かなかった。相手の最も危険な間合い、バズーカの死角である懐の最深部へと、全質量を乗せて突進した。死中に活を見出すのではない。死中の活を選び取る──そんな戦闘スタイルを、621は見ている。だから真似をしたのだ。

 

 青白い推進炎を引いたLOADER4の右脚が、エンタングルの膝関節ブロックへと深々と突き刺さる。カウンター気味にブーストキックが決まると、金属の破断音が夜気を裂き、スッラの巨大な機体が大きくバランスを崩した。

 

『小賢しい真似を……!』

 

 スッラが即座にパルスアーマーを展開する。青緑色の強固なエネルギー障壁が機体全体を覆い、あらゆる実弾と衝撃を弾き返そうとする。

 

 だが、621はすでに左腕のパルスブレードを限界まで励起させていた。

 

 装甲を正面から叩く愚は冒さない。

 

 教えられた通り、旋回軸の隙間──関節フレームの継ぎ目へ、磁気プラズマの蒼刃をねじ込む。

 

 パルスアーマーの表面でプラズマが激しく炸裂し、初撃の衝撃波が青緑色の障壁を大きく歪ませた。

 

 跳ね返る反動を機体の姿勢制御バーニアで力尽くでねじ伏せ、息継ぎの間隙すら与えず、621は二撃目の横薙ぎを振り抜いた。

 

 至近距離で多重反射を繰り返した高周波の定在波が臨界点を突破し、青緑色の光膜がガラスのように粉々に砕け散る。過負荷によってエンタングルの姿勢制御システムが完全に沈黙し、無防備な上体が宙に晒された。

 

『貴様……どこでそれを学んだ……!』

 

 スッラの驚愕の叫びが通信回線を震わせる。

 

 621は答えなかった。ただ、右手のライフルを相手のコックピットの装甲の割れ目へと突き刺し、残弾のすべてを叩き込んだ。

 

 鉛の弾丸が装甲の奥深くを貫通し、返す刃で振り抜かれたパルスブレードがエンタングルの胴体を深々と両断した。連鎖する内部誘爆が暗緑色の機体を瞬時に飲み込み、巨大な火柱が夜空を焦がしていく。

 

『ハンドラー・ウォルター……』

 

 黒煙の向こうから、スッラの途切れ途切れの声が漏れる。

 

『ウォッチポイントは……やめておけ。貴様らには……』

 

 言葉は爆発の轟音にかき消され、エンタングルは膝から崩れ落ちてプラットフォームの冷たい鉄床の上で沈黙した。

 

 風の音だけを残し、プラットフォームに重苦しい静寂が戻る。

 

 黒煙を吹き上げるLOADER4の機内で、621は激しい息を吐きながら操縦桿を握りしめていた。全身の筋肉が痙攣し、脳幹のインプラントが冷たい痛覚を残して拍動している。

 

 勝ったのだ。自らの力で、先代のハウンズたちを屠った怪物を打ち倒した。

 

『……スッラの撃破を確認』

 

 通信機から、ウォルターの絞り出すような声が聞こえた。いつもの冷然とした声の中に、隠しきれない震えが混じっている。

 

『よくやった、621。お前は……私の誇りだ』

 

 肩で呼吸を整えながら、621は燃え盛る残骸を見つめていた。

 

『だが、まだ仕事は終わっていない。奥のシャフトへ進め。……管制室の制御装置を破壊するんだ』

 

 621は小さく頷き、傷ついた機体を軋ませながら前進を開始した。

 

 ◆◆◆

 

 ウォッチポイント・デルタの深部。

 

 外殻を貫く長大な連絡橋を渡り、621は巨大なコーラル汲み上げシャフトの直下へと到達した。

 

 中央にそびえ立つのは、旧時代のコーラル制御中枢である。幾何学的な配管とコンデンサが複雑に絡み合い、赤錆びた円柱構造物の中で鈍い真紅の光が脈動していた。

 

『あれが目標だ。……621、破壊しろ』

 

 ウォルターの低い指示を受け、621はライフルを構え直した。

 

 銃口を制御装置の中枢ブロックへと向け、ためらいなくトリガーを引く。

 

 炸薬弾が中枢フレームを撃ち抜き、防護隔壁が粉々に砕け散った。

 

 その瞬間──世界が変色した。

 

 鼓膜を刺すような高周波の共鳴音が響き渡り、破壊された制御装置の亀裂から血のように鮮烈な真紅の奔流が吹き荒れた。汲み上げられていた膨大なコーラルが逆流を始めたのだ。

 

 制御を失ったエネルギーが狂気的な密度で圧縮され、空間そのものを歪めるような大爆縮がプラットフォームを丸ごと飲み込んでいく。

 

『なっ……!? コーラルの逆流だと……!?』

 

 ウォルターの驚愕の叫びが、激しい電磁ノイズにかき消された。

 

 視界が真っ赤に脱色される。

 

 機体ごと奔流に押し流され、621の意識は底知れぬ暗黒の深淵へと急降下していった。

 

 思考がほどけていく。自分の名前も、肉体の輪郭も、すべてが紅蓮の海へと溶け出していく感覚があった。

 

 そして──。

 

 ・

 ・

 ・

 

『……聞こえていますか、レイヴン』

 

 頭蓋の奥底で、澄んだ声が響いた。

 

 鼓膜を揺らす物理的な音響を介さず、脳幹のインプラントへ直接染み込んでくるような、どこまでも清らかな少女の波形。

 

『私には見えます。あなたの意志……くすぶる火が』

 

 温もりも冷たさもない純粋な意志の光が、散逸しかけていた621の自我を繋ぎ止める。

 

『あなたには私の「交信」が届いているのですね。私はルビコニアンのエア。……目覚めてください。あなたの自己意識が、コーラルの流れに散逸する、その前に』

 

 ハッと息を呑み、621の意識が現実世界へと浮上した。

 

 激しいエラーログが明滅する中、機体は床面に倒れ込み、コックピットの計器類が警告音を上げながら再起動を繰り返している。

 

 生きている。自分は、まだここにいる。

 

『……よかった。意識を取り戻されたのですね』

 

 安堵の混じったエアの声が、再び脳内に響いた。

 

 だが、安らぎは刹那すら続かなかった。

 

 突如として、嵐の大気全体を揺るがすような巨大な重低音と、耳を劈くサイレンが鳴り響いたのだ。

 

『──警告! レイヴン、上空から巨大な熱源反応が急速接近しています!』

 

 エアが鋭い警告を発した。

 

 雲海を両断した銀色の巨影が、重力と大気を狂わせながらプラットフォームの頭上へ滞空した。

 

 巨大な円環状の自律飛行ユニットを背負い、全身に無数のミサイルポッドとパルスキャノンを搭載した怪物。

 

 惑星封鎖機構特務無人機『AAP07 バルテウス』である。

 

 その全身から展開された巨大なパルスシールドが、夜気を青白く発光させている。

 

『退避しろ、621! その機体状況では戦えん!』

 

 回線が復旧したウォルターの怒声が響くが、退路はすでに高熱の電磁障壁によって塞がれていた。

 

 頭上で、バルテウスの円環ユニットから無数のハッチが一斉に展開する。

 

 白煙の筋が夜空を網の目のように埋め尽くし、数百発に及ぶマイクロミサイルの豪雨が逃げ場のないプラットフォームへ向けて一斉に降り注いだ。

 

 見渡す限りを埋め尽くす弾幕の中、621は歯を食いしばり、損傷した推進器を限界まで吹かした。

 

 ミサイルが足元と頭上、装甲の真横を薙ぎ払うように炸裂する。爆風と衝撃波が機体を叩き、削り残された装甲を容赦なく剥ぎ取っていく。

 

『敵のパルスアーマーが強固すぎます! 実弾の威力が減衰されています!』

 

 脳内で響くエアの分析を聞きながら621は隙を突いてライフルを撃ち込み、跳躍からパルスブレードを振り抜く。しかし刃はバルテウスの巨大な青白いシールドの表面を滑り、微かに火花を散らすことしかできない。

 

 硬すぎる。削りきれない。

 

 バルテウスが不気味な推進音と共に急旋回し、散弾キャノンと重バズーカを至近距離から撃ち込んできた。

 

 回避が間に合わない。

 

 装甲が悲鳴を上げて視界が激しく揺動し、直撃の衝撃波によってLOADER4の姿勢制御システムが強制停止に追い込まれる。

 

 機体の全機能が麻痺してその場に崩れ落ちる中、機体耐久値の低下を告げる警報音がけたたましく鳴り響いた。リペアキットの残量も底をつきかけている。

 

 バルテウスの円環ユニットは冷酷に次の殲滅シークエンスへと移行し、機体下部から展開された巨大な火炎放射ノズルに紅蓮の劫火がチャージされ始める。ゼロ距離からあの炎を浴びれば、装甲ごとコックピットがドロドロに溶解することは明白であった。

 

『レイヴン……! 逃げて……っ! せっかくあなたを見つけたと言うのに、こんな所で──ッ』

 

 エアの悲痛な叫び。

 

 硬直した四肢は動かず、迫り来る死の光景がスローモーションのように網膜へ焼きついていく。

 

 やられる。ここまでなのか。

 

 炎の奔流が解き放たれようとした、まさにその刹那であった。

 

『──犬らしく犬死にするか、それとも噛みついてみせるか』

 

 ノイズの狭間に酷薄な声が響く。

 

『選べ、猟犬』

 

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