そんなわけでそよさんがちょろっと出ます。
「歩弥君はさー、部活とかは入ってなかったの?」
月日は移ろい11月。
愛音さんとの付き合いももう一週間以上は経った。
その日は休日。『皆が来るまで暇だから話し相手になって』とメッセージが届き、ライブハウス【RiNG】のカフェスペースに呼び出されて話し相手になっていた。
「入ってなかったですね。生徒会に入ってましたけど、ただの内申点目当てですし」
「高校に行ったら入ろうとも思ってないの?」
「あんま考えてなかったです」
「えー?」
愛音さんはつまらなさそうに文句を言う。
「スポーツとか興味ない?身長高いしいいと思うんだけどなー」
「体育以外でスポーツなんてやったことないんで、あんまり運動神経良くないと思います」
ある理由で割と頻繁にランニングをしているから体力はあると思うけれど。
「そんな風には見えないけど。好きなスポーツとかもないの?」
「別にないですね。スポーツ観戦もしないです」
「えー?私なんてワールドカップとかWBCとかあるたびに臨時でファンになるのに」
「それはただ愛音さんがミーハーなだけです」
そう言いながらまだ湯気の立つ温かいコーヒーを口に含む。
「相変わらず何にも好きじゃないね、歩弥君は」
「偏見です」
「じゃあご趣味は!」
「……ちょっと考えます」
「そこで即答できないから、そう言われてしまうんですよ君は」
分かったような顔で人差し指を立ててドヤる愛音さんに少しイラっとする。
だが、確かにパッと思いつくような趣味がないというのも事実だ。
別にスポーツを毛嫌いしているというわけではない。
事実、ランニングをするのは結構好きなわけだし。体を動かして汗をかくというのは結構気持ちいいものだ。
けれど部活動に入ろうと思ったことは無い。運動部も文化部も同様に、興味を持ったことは無い。
いや少し違うか。興味は多少あったのかもしれない、けどそうすることを選ばなかったんだ。
俺にはそんな自由なんてないとずっと考えていたから。
自分は決して母さんの意に反する人間ではないという印象を与える為に、必死に従順な人格を演じ続ける日々だった。
細かく場所と時間を決めて姉さんとこっそり会うことにして、それを悟られないようにあらゆる手を尽くしてきた。
今では父さんも母さんも、俺がこっそり姉さんと会っているなんてまるで考えてないだろう。
その信頼を得る為だけに全ての時間を費やしてきた。
そのおかげで漸く得た自由、その使い道を今少しずつ考えられるようになったばかりだ。
姉さんと一緒にいる時間を少しでも増やしてあげたい、そんな事ばかり考えて自分はどうするかなんてあまり考えていなかった。
余暇を自分の為だけに使うなんてこと、思えば全然してこなかったな。通りで趣味が浮かばないわけだ。
「なんか好きなこととかないの?」
「……難しいことを聞きますね」
「普通は難しくないってば」
「…………燈と一緒に居るのは好きですよ。ただ散歩するだけでも、一緒に話せるだけでも、傍に居られるだけでほっとします」
その言葉に、何故かカフェのアルバイトの人が反応を示していたような気がした。
愛音さんは仕方ないなという顔で頬をつく。
「歩弥君ってすぐともりんの話するよね」
「そう……ですか?」
「そうだよ。好きな歌の話でもともりんのこと話してたし、ショッピングモールでもともりんの話してたじゃん」
そう言われてみれば確かにそうだと納得するしかない。
自分自身のことは、他人に言って聞かせるようなことは何もない。日常はすべて嘘だらけの偽物で、フラットでいられる時間の方がずっと少ない。
気を抜いていられる時間なんて姉さんの前でだけか、それこそこの人の前くらいだろう。
「じゃあ俺には趣味なんてないし、何かを好きって思えるのは燈だけなんですよ。きっと」
「他人事だなー」
「どうでもいいことじゃないですか。そんなの気にしてる人なんて愛音さんくらいです」
「……う~ん、相変わらず困ったちゃんなんだから」
「何が困るっていうんですか」
「私はもっと歩弥君のこと知りたいってだけ。好きな人の好きなことを知りたいって思うのは普通じゃない?」
「…………変わってますね」
愛音さんの言う知りたい理屈はわかる。
俺もできる限り姉さんのことを理解したいと思っているし、姉さんの好きなことを知ってあげたいと思うから。
だから、変わってるって言ったのは……ただの照れ隠しだ。
まだ関係を持ってひと月も経っていないのに、どうしてこうこの人は臆面もなく好きだとか言えるんだろう。
あのデート以来、愛音さんに恋人扱いされたり好きだとか言われるのはどうにもむず痒く思ってしまう。
相変わらず、この人の事はまだ少し苦手だ。
「じゃあ日常でのこだわりとかある?」
「は?そんなのある人いるんですか?」
「だって歩弥君、所作が丁寧っていうか上品っていうか……とにかくいい感じじゃん?箸の持ち方も綺麗だったし、気にしてそうだなって」
マナーや作法と言ったものは、それはもうずっと昔から嫌になるほど教え込まれた。
立ち方、歩き方、目線、食べ方、飲み方、言葉遣い。
日常的に必要となる常識的な物から、細かな仕草に至るまで徹底的に躾けられてきた。
母さんの好む立ち振る舞いを日常的にする。もうこれだけは、自分で意識して変えるほうが難しいくらいだ。
「……必要なことなので、普段から気を付けているだけですよ」
「もしかして……っていうか薄々気づいてたけど、歩弥君のお家って厳しいの?」
「……ずっと知らないふりをしてるんだと思ってましたけど、本当に母さんのこと知らないんですね」
「普通、人のお母さんの事なんて知らなくない?」
俺はスマホのインターネットブラウザで母の名前を検索する。
それだけでわんさかと写真が出てくる。
「これ、見たことありません?」
「……すっごく見たことある気がする」
「ニュースキャスター『
「あー!?思い出した!」
「それで、この人の父親が元国会議員で現東京都知事の
「え!?この人たち親子だったの!?……ぜ、全然知らなかった……」
「……みんな貴女くらい世間に興味がなかったら楽だったんですけどね」
最近はニュースだとかテレビだとかを見ない人も多いけれど、それでも全国放送のニュースキャスターともなれば知名度は計り知れない。
苗字こそ違うが、今俺の通っている中学でこの家族関係を知らない人はそうは居ない。
「苗字が違うのは芸名ってこと?」
「夫婦別姓なだけで本名です。俺の父が須能なので俺はそのままその苗字を使ってます」
「え~っと……そのお父さんがともりんと歩弥君の血の繋がったお父さんなんだよね?」
「はい。燈は血の繋がった母と一緒に暮らしていて、その再婚した人の名字を使っているので高松です。なので九年前とか再婚する前は立川燈って名前でした」
「……なんか頭がこんがらがってきた。もしかして、二人の家庭ってとても複雑?」
「今更過ぎます」
言わなくてもいいどうでもいい情報も交えたけれど、それが現在の俺と姉さんのそれぞれの家庭の実情だ。
今の姉さんの父親にあたる高松由司さんの事だけはあまり詳しく知らないけれど、姉さんは優しい人だと言っていた。お金のかかりそうなバンド活動も応援してくれているらしいし、少なくとも俺みたいな窮屈な思いはしていないと思う。
「どおりであの時、お金がどうとかお母さんがどうとか言ってたんだ」
「そういうことです」
「……なんか全然想像してなかったかも。ともりんのお家行ったことあるけど普通の家庭って感じだったし、歩弥君もそういう感じだと思ってた」
「残念ながら」
「苦労してそうだね」
「それはもう」
「すっごい実感籠ってる」
母さん自身の性格もそうだが、この人の家柄というものにも随分苦労させられた。政界と太い繋がりを持つ家系なうえ、あの人自身が将来政治家を志している。
マナーなんかがその最たるものだったが、人間関係もそれに負けず劣らず面倒だった。
吹聴しなくともすぐにその家族関係の噂は広まり、何もしなくとも色眼鏡で見られる日々。
仲良くしてくれていた人たちが距離を取るようになったり、逆に話したこともないような上級生が馴れ馴れしく話しかけてきたり、やけに親身に家族の話を聞いてくる先生だったり、三者三様あれど俺をただの子供だと接する人はいなかった。
あしらい方や距離感を掴む前の小学生時代は、それだけで苦心したものだ。
今ではそういう目にも慣れたが、おかげで深い仲になるような友達もいない。俺自身が関わって欲しくないと思っているのもそうだが、特殊な家庭事情だと遠慮をしようという空気がどうしても生まれてしまっている。アリスの世話のせいで付き合いが悪かったのも原因の一つだろう。
学校での俺は生真面目なクラス委員長で、試験期間のたびに勉強に付き合ってとクラスメイトに声を掛けられるだけの仲だ。
俺も、それくらいで丁度いいと思っている。
「そっか……ともりんの事だけじゃなくて、そういう家族関係で大変さもあったんだ」
「……別にこれは俺だけに関係ある話なんで、愛音さんが気にすることじゃないですよ」
この人に家族のことまで話してしまったのは軽率だったかな?
そう思いながら、冷めて温くなった残り少ないコーヒーを飲み干す。
丁度そのタイミングだった。
「あ、そよりん!こっちこっち~」
愛音さんが俺の後ろ側にいる人物に手を振る。
振り返れば、そこにはクリーム色の髪色の上品そうな女の人が小さく手を振り返していた。
姉さんとも愛音さんともまた違う空気感の人だったが、その人には少し見覚えがあった。
一年前姉さんが所属していたCRYCHICにも居たギター(ベース?)の人だ。
「じゃあ、俺はこれくらいで」
「えー?帰っちゃうの?」
「元よりバンドメンバーが来るまでの暇つぶしって話だったでしょう」
「そうだけど、ともりんに会っていかなくていいの?」
「……俺が居ると、気を遣って迷惑でしょうから」
姉さんに会いたい気持ちはあったが、友達との時間を邪魔したくない。
せっかく姉さんが夢中になれて、大事にしている居場所に俺はという不純物は不要だ。
それにバンドメンバーに俺と姉さんの関係を聞かれても面倒だし、愛音さんが何を言うか分かったものじゃない。
そうして俺は伝票を持って立ち上がる。
そよりんと呼ばれていた女の人と目が合い、互いに会釈を交わす。
俺が一方的に顔を知っているだけの相手、当然話したこともないし関りを持ったこともない。
彼女からすれば友達の友達くらいの微妙な距離感だ。そんな相手に友達を交えて話したいと彼方も思わないだろう。
「いつも愛音さんがお世話になっています」
「あ、いえいえ。ご丁寧にどうも」
「どういう会話!?」
「では、失礼します」
会計を終えて店を後にする。
そよりんさん、優しそうな人だったな。ああいう人が一人でもいるなら姉さんも安心できるだろう。
……でもなんか、その呼び名には妙に既視感がある気がする。
結局、家に帰りつくまでその既視感は思い出せないままだった。
==============================================================================
その日は休日だったが、家に母さんは居なかった。
去年までアリスが幼いこともあってか家にいることも多かったが、最近は世話を俺と父さんに任せて本腰を入れて仕事に復帰をしている。
あの人が家に居ないというのは、俺にとってはありがたい限りだ。
家事は大抵の場合、俺と父さんが分担して行っている。
父さんも仕事のある平日は俺が担当して、休日は父さんが行うことが多い。
今日は休日、日曜日。そういう面倒ごとから解放されて、一人でゆっくりと湯船につかっていた。
「上がりましたよ。……って、寝てるし」
お風呂から上がり、そろそろ夕飯もできたころ合いだろうとリビングに向かったのだが、その料理を担当しているはずの父はソファで眠りこけていた。
つけっぱなしだったテレビの電源を消し、父さんの体に毛布を掛ける。
リビングに繋がるキッチンからはいい匂いが漂ってきている。恐らくある程度の準備を終えて、俺が風呂から出てくるのを待っていたんだろう。
今日は長風呂だったせいかな?無理に起こすことは無いか。
そう思い、自室に戻ろうかと考えた時――ふと気づく、
「アリス?」
アリスの姿が見えない。
一人で二階の自室に上がってるとは考えにくい。
まだ一人でお風呂には入れないから、ご飯の前に父さんと風呂に入る段取りのはずだ。
ともすれば、父さんと一緒にこのリビングに居るのが自然。テレビでアニメを流していたのもそれを裏付けている。
嫌な予感がして、俺は慌ててキッチンに向かった。
案の定、その予感は的中する。
俺の背丈よりも高い立派な食器棚の扉が開いている。
その食器棚の前には子供用の椅子に、いくつもの雑誌が積み上げられて足場にされ、その上にアリスがつま先立ちで立っていた。
「何やって……!」
思わず声を掛けてしまった俺に気づき、アリスがこちらを向く。
その両手には皿を持っていた。この家の家財、母さんの財産の一つ。
それを持ったまま、バランスを崩す。
一瞬がスローモーションに感じる。
何かを考える暇もなく、俺は咄嗟に体が動いた。
鈍い痛みの後、物が砕ける音がした。
「……っ」
「お兄ちゃん?」
滑り込むようにして飛び込んだ俺の腕の中には、一人の子供がすっぽりと収まっていた。
アリスがバランスを崩して椅子が動いたのが原因か、手に持っていた皿以外にも食器棚から皿が降ってきていくつか体にあたった。
ゆっくりと後ろを振り向けば、無残にも割れた残骸が散らばっている。
「ど、どうしたっ!」
一足遅く、事の元凶が起きだしてキッチンまでやってきた。
「大丈夫か?すまん、うとうとしてしまってて……」
初手が言い訳。この人らしい。
苛立ちが積もる。
最悪だ。あの人の留守にこんな失態。
あの時アリスが持っていた皿、あれは母さんのお気に入りだ。あれも割れてしまっただろうか?
普段ならばこんなことは起きないはずだ。
アリスが勝手に開けないように棚には鍵がしてあるからだ。
原因は明らか。食事当番の父さんが面倒がって鍵を閉め忘れたことと、アリスから目を離して寝てしまったことだ。
「ど、どうする?取り合えず片付けか?あ、そうだ怪我は?ああ……どうしよう、こういう時に馨子さんが居てくれたら……」
この人の焦った姿を見ていると、本当に嫌な気分になる。
胸の奥からありったけの嫌悪を吐き出したくなる。
いつもそうだ。アンタはいつも、選択を間違える。してはいけないことをしてしまい、取り返しがつかなくなった後で助けを求めて、自分では何も決められない。
たったの一度も、
……なんでそんなとこばかり似てしまったんだろう。
「父さんは掃除機を持ってきてください。俺が破片を片付けます」
全部お前のせいだ。
そう言えたら、どれだけよかっただろう?
「わ、分かった。掃除機持ってくるな」
「欠片が遠くまで飛んでるかもしれないから、踏まないように気を付けて」
下らない。なんで俺がこんなものの後始末をしないといけないんだ。
心と体が嚙み合わず、まるで異なる動きを果たす。
「アリス、怪我は無い?」
「アリスね、パパ疲れてるみたいだったから、アリスがカレーをよそってあげようって……」
「うん、そっか。アリスはいい子だね。でもこの棚には触っちゃダメって言われてただろ?アリスが怪我すると、父さんも母さんも悲しむ」
お前なんかどうでもいい。
思ってもいない事ばかりが口から吐き出される、まるでそうプログラムされた合成音声の様に。
片腕でアリスを抱き留め、もう片腕を床に着き慎重に力を入れて起き上がる。
腰を強く打ったせいだろう、鈍い痛みを伝えてくる。とはいえ、不幸中の幸いかそれ以上の痛みはあまり感じない。
スリッパをはいた足で足元に散らばった破片を端に除けながら歩き、リビングのソファにアリスを下す。
「ここで大人しく待っててね、すぐ綺麗にするから」
「……お兄ちゃんはおこらないの?」
今ここで、この子供を叱り飛ばすべきだったんだろう。
痛くなければ覚えはしない。二度とこんなくだらないことをするべきではないと、こいつの記憶に恐怖を刻み付けておくべきだ。――あの人が俺にしたように。
「……ちゃんと、綺麗になるまで大人しくできたらね」
そう言って頭を撫でて、その場を離れる。
俺も父さんと同じだ。いざっていう時に、いつも選択を間違える。
今さっき、アリスを庇わずに皿が割れないように努めるべきだった。どうせ大した高さじゃない、怪我ができてもたんこぶ程度だったろう。
そう今なら判断できるのに、いざ問題に直面すると正しい決断ができなくなる。
あの時……母さんと父さんどちらを選ぶべきだったかもそうだ。俺はいつも間違った選択ばかりしてしまう。
愛音さんと居る時とまるで逆だな。
思うままに振舞えない。ありのままをひた隠し、耳障りの良い嘘ばかりが口から吐き出される。
なんて気色の悪い道化だろうか。――でも、それが本当の俺だ。俺のよく知る自分の姿だ。
まだ割れていないように見える皿から慎重に触れて観察し、使えるものとそうでないものに選り分ける。
大きな破片はビニール袋の中に入れて、後でガムテープなんかで包んでしまおう。
「っ……つー……最悪」
また選択を間違えた。
面倒くさがって手袋をつけなかった報いだ。
切れた指先に応急処置の為に大量のティッシュで包み、一先ず目に付く欠片を全てビニール袋に詰め込む。
「掃除機持ってきたぞ!」
「助かります。大体片づけたけど、まだ大きな破片も残ってるかもしれませんから気を付けて」
「分かった。ん、お前その指……!」
「ちょっと切っただけです。俺のことはいいんで、掃除機で後の小さい破片をお願いします」
血が滲むティッシュを押さえながら、リビングを後にする。
この家には痛みで血を流しているときに絆創膏を貼ってくれる人はいない。
「救急箱どこだったっけ」
風呂上がりで血行が良くなっている上に、皮膚がふやけていたせいか一向に血が止まる気配はない。
最悪に最悪は重なるものだ。
俺は溜息を吐きながら記憶を頼りに救急箱を探した。
==============================================================================
今日は最悪の休日だった。
折角家事をしなくていい日だったのに、普段よりずっと面倒なことをさせられた。
その日の夕飯のカレーの味も全く覚えていない。父さんが謝ってばかりいて、鬱陶しかったことだけ覚えている。
「……最悪」
ご飯を食べているときからその違和感に気づいていたが、案の定眼鏡のフレームが少し歪んでしまっている。
恐らくアリスを庇う時にぶつけてしまったせいだろう。
予備は一つあったはずだけど、またもう一つ買ってこないといけないな。
「余計な出費」
歪んだ眼鏡を机に放り、キャビネットに仕舞われていた予備の眼鏡ケースを取り出した。
ケースの中に入れてはいたがレンズには少し埃がついていたので、ティッシュで軽く拭う。
そうしているといやでも自分の人差し指が目に入る。
その指には可愛らしくデフォルメされたジンベエザメが印刷された絆創膏が巻かれていた。
結局、あれから救急箱は見つからなかったので仕方なしに姉さんから貰って大事にファイリングしていたコレクションを一つ使ってしまったのだった。
傷口の真上に居るジンベエザメには赤黒い血が滲み、痛々しい姿になってしまっている。
使われず劣化していくのもよくないかもしれないけれど、勿体なかったかなという思いも拭えない。
「……いつまで、俺はこうなんだろう」
こんな日がいつまで続くのだろうと想像してしまう。
いつか一人でお金を稼いで、この家の人間の支えなんて必要とせずに生きていくにはどれくらいの時間が必要なんだろう?
少なくとも高校を卒業するまでは無理だろう。
そのあとすぐに就職をして……そんな選択許されるだろうか?高校は自由に選ばせてくれたが、大学はどうだ?進学を強要されるのだろうか?
何も学びたいものなんてないのに、あの人に言われるがままに進学して……その先はどうだ?政治家にでもなるのか?
考えれば考えるほど、重たい暗雲ばかりが立ち込める。
これから先、俺は本当に自由を得られるのだろうか?
……何はともあれ金は必要だ。高校に上がればバイトを始めたい。が、これも両親の承諾無しにはできないだろう。
ああ、なんて窮屈な世界なんだ。
無意識のうちに俺の手の平にはスマホが握られていた。
姉さんへのメッセージを開き『会いたい』とだけ打ち、手が止まる。
また姉さんに会いたい。あの温もりに触れて、また何もかも忘れてしまいたい。
コンコン
控えめなノックの音に肩が跳ねる。
「どうぞ」とだけ答え、メッセージに送りかけた文字を削除する。
「……お兄ちゃん」
不安そうな表情のアリスが小さく開けた扉の隙間からその顔を覗かせる。
そのノックの音から誰かはわかっていた。
「まだ寝てなかったのか、明日から幼稚園だろ」
また絵本を読んで欲しいのだろうか?
俺じゃなくて父さんに頼めばいいだろうに。
大きく息を吐きながら立ち上がり眼鏡を掛けなおし、本棚から適当に絵本を見繕う。
アリスはそんな俺の気を引くようにズボンを引っ張る。その表情は不満げだ。
鬱陶しい。
そう思いながら腰をかがめ、アリスと目線を合わせる。
無理に何かを聞き出すことはしない。無意味だと知ってるからだ。
その手を握ってやり、何かを言い出すのを待つ。
「……今日はごめんなさい」
「別に俺は怒ってないよ」
「うん……」
まだその表情は不満げだ。
嫌いだ。本当に鬱陶しい。俺に何も与えず、ただ蝕んでいくだけの存在。
その思いは表に出されることは無く、静かにアリスの言葉を待つ。
「あのね……お皿のことでケンカしないで」
「……喧嘩なんてしてないよ」
「悪いのはアリスだから、パパをしからないであげて」
「……ッ」
今にも泣いてしまいそうな声でそう訴えてくる。
嫌な記憶が脳裏によぎる。
あの時俺もそう言えていれば、何か変わっていたんだろうか。
ああクソ……本当に忌々しいばかりだ。
「大丈夫、俺は怒ってないし喧嘩もしてないよ。ちゃんと父さんと仲直りしてる」
「ほんとう?」
「本当だよ。でも、母さんには後で一緒に謝ろうな」
「うん、うん!」
そう言いながら俺の首に抱きついてくる。
アリスの顔が触れる肩の周りに湿り気を感じる。きっと泣いているんだろう。
俺はいつの間にかその背を撫でていた。その小さな体は、思わず手の平が汗ばんでしまいそうなくらいに熱かった。
暫くして落ち着いたのか俺の首から手を離す。
「あのね、それでお兄ちゃんにお願いがあるの」
俺の目を真っすぐに見つめて言う。
「いっしょにお皿買いにいこ」
大きな宝石のような光を湛えた飴色の瞳が、俺の姿を捉えて映し出す。
本当に最悪だ。
まるで心臓が鷲掴みにされたような思いだった。
心の底から憎いと思う。
こんなにも、こんなにも不愉快に心を逆撫でる存在はこの世に二つと存在しない。
でも無理だった。
俺に、それだけはできない。
その目に――大切な人と同じ色をしたその瞳に、俺は逆らうことができない。
そういう風に、この心は出来ているんだろう。
「分かった。来週……今度のお休みの日に一緒に買いに行こう」
「ありがとうお兄ちゃん!」
そう言いながらまたきつく抱きしめられる。
俺にできることは、ただそれを受け入れることだけだった。
きっとまた、俺は選択を間違った。