気が向いたら書くかと後回しにしていたら、気づけば一年が経っていました。
時間の流れの早さが恐ろし過ぎる。
大変お待たせいたしました。
シンプルなものが好きだ。
複雑なものは嫌いだ。
食パンにはマーガリンさえあればいい。サンドイッチは卵ペーストだけでいい。おにぎりなら塩むすびなら具はいらない。
それだけで、自分は満足できる。それ以上のものは何も要らない。
自分が欲していることも、とてもシンプルなことだ。
大切な人と、ずっと一緒に居たい。
ただそれだけのことが、どうしてこうも難しいのだろう。
俺の身の周りは溜息をつきたくなるくらいに複雑なことばかりだ。
朝に目を覚まし、そこに居る家族と呼ばれる人に会うだけで俺はその神経をすり減らしながら生きている。
自分だけが不幸な目にあってしまっている、などという妄言を吐き出してしまいたくなるような毎日だ。
しかしそんな自分の毎日の中でも、今こうして目の前で起きていることは今まで自分が経験してきた状況の中で、とびっきりに理解できないものだったと言えるだろう。
頭を抱え伏せた顔を少し起こす。
目の前にはニコニコと笑っている愛音さんと、恥ずかしげに下を向いた姉さんの姿がある。
俺は長いため息を吐きながら、自分が次に言うべき言葉を探していた。
その日、愛音さんから呼び出しがあった。
昨日と大して変わらない『話したいことがあるから』ってファミリーレストランに集まることとなった。
それはまあ、別に不思議なことじゃない。最近よくあることだった。
しかし、その場に姉さんまでいるのは少し予想外だった。
とはいえ、昨日の様子を考えてみればおかしな話ではないなとも思えた。
昨日の姉さんは大分様子がおかしかった。特に理由もなく『会いたい』と言われるのはそれほど珍しくなかったけど、実際に会った時の様子は明らかにいつもと違っていた。落ち込んでいるというか、寂しそうにしているようなそんな感じに俺には見えた。だから最初はバンドで何か問題があったんだと思っていた。だけど話を聞いていくうちにどうやらそういう話ではないんだろうなということも察していた。
そうして今この二人を前にして理解した。愛音さんと姉さん、きっとこの二人の間で何かがあったんだろうと解釈した。
そこまではよかった。実際、この二人の間柄の話をされたわけだし。
「私、ともりんとも付き合うことにしたんだ」
けれど、まさかこんな話をされるだなんてまるで思っていなかった。
「……分かりました。いや、なんも分かってないですけど。とりあえず、そうなった経緯から教えてくれませんか?」
声が震える。
これは怒りだろうか?それとも困惑だろうか?いや、もうこの際どちらでも構わない。
今までほんの少しでもこの人のすること言うことを予測できたことなんてないが、今回ばかりは笑って済ませるような話ではない。
とはいえ姉さんの居る手前だ。なるべく平静を装って話を続ける。
「私はともりんのこと大好きでしょ?」
「それで~、ともりんも私のことが大好き」
姉さんは同意を示すようにコクコクと首を縦に振る。
「つまりそういうこと!」
軽い調子で愛音さんは言う。
自分とのあまりの温度差に眩暈がしてくる。
頭沸いてるんですか?
姉さんがその場に居なかったら、間違いなくそう言っていた。
本格的にこの人の意図が理解できない。こんな風に人をからかって何が楽しいんだろうか?
「……はぁ……もういいですよ。冗談はこのくらいにしてください。俺の狼狽える姿はもう十分見れたでしょう?」
「いやいやいや、冗談じゃないんだってば」
「そういうのもういいですから。燈も迷惑してますよ、ね?」
そうして燈に視線を向ける。
姉さんは少し困ったような、恥ずかしそうな表情のままだ。しかし、愛音さんの言葉を否定する素振りはない。
「……燈?こんなくだらない冗談に付き合わなくていいんだよ?」
「……冗談じゃなくて、本当のことだから」
「は?」
流石にそれは聞き捨てならない。
姉さんの言葉は、愛音さんの口から出るようなその場限りの思い付きとはわけが違う。
「ほらー、ともりんもこう言ってるでしょ?冗談だと思ってるの歩弥君だけだよ?」
姉さんはまた同意を示すように頷いていた。
上手くこの現実を飲み込めない。
とてもじゃないが、今こうして起こっている出来事が事実だとは受け入れがたい。
つまり、なんだ?俺の認識が間違いではなければ、このピンク頭は俺の(一応)恋人だったけれど、俺の姉さんとも付き合うことになったと。そういうことか?
「……な、なんで……こうなった……?」
再び頭を抱える。
本当に今起こっていることが理解できない。
百歩、いや千歩譲ってこの際この二人が両想いだったとしよう。それは別にいいさ。今時、同性がどうとかいうつもりは無い。姉さんにとってこのアホピンク頭が大事な人だっていうのはよく知っている。姉さんの友人としてのこの人の事には、俺も敬意を抱いていた。だからその流れで、友愛から恋愛感情が芽生えたとしても……まあありえない話じゃないんだと思う。
好きになる人は選んだ方がいいと思うけど、まあそれも一億歩譲って許そう。腹立たしいが俺もこの人の事を嫌いじゃないと思い始めていたわけだし、そんな風に思ってしまう理由も分からなくもない。
だけど、それを俺に伝えた意図は何?……いや、それももういいや。どうでもいい。
「……とりあえず、別れますか」
俺が言うべきことはこれだけだろう。
俺は別にこの人に執着する理由は無い。割と居心地も悪くないと思っていたけれど、この二人が恋人同士になったっていうのなら俺が居ては邪魔なんだろう。
考えてみれば、昨日の姉さんの様子がおかしかった理由はこれだったのかもしれない。愛音さんとの関係をしつこく聞いてきたことにも納得できる。……そうだ愛音さんも昨日、俺と付き合っているということで姉さんを傷つけたかもしれない、みたいなことを話していた。なるほど、なんとなくだが昨日の二人の様子がおかしかったことにも説明がついた。
考えれば考えてみるほど、するりと腑に落ちる結論だった。
「いやいやいや!ちょっと待って!何でそうなるの!?」
「え、いや……そうして欲しいから俺にこの話をしたんじゃないんですか?」
「全然違いますー!ここからもっと大事な話があるんだってば!」
まだこれ以上何か話し合うべきことがあるというのか?頭が混乱してきた。いや、寧ろこのピンク頭の方こそ混乱しているのだろうか?そうとしか思えない。
どんな思考、どんな神経をしていたらこんなにも堂々と二股を宣言できるのだろう?
それもその相手が実の姉弟だぞ?もう滅茶苦茶だ。
これがただのこのピンク頭の女の狂言や妄言だったのなら、もうこれ以上は付き合いきれないとこの場を去ればいいだけなのだが、問題は姉さんだ。
頭を抱え只管にこの現状を受け入れられていない俺と違って、姉さんは満更でもなさそうというか、完全にこの状況を受け入れてしまっているように見える。
それだけが本当に分からない。今まで姉さんのことならなんでも理解してあげられていたと思っていたのに、今日この時ばかりは姉さんが今どんな気持ちでこの場所に居るのかまるで想像さえできない。
「なんなの……マジで……」
頭を抱えたまま、ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき乱す。
変なのは俺か?間違っているのは自分の方なのか?
まるで悪い夢でも見ているかのようだ。
「はぁ……それで、その話をして俺にどうして欲しいっていうんですか?」
一先ず、提示されたこの状況は呑み込むことにしておいた。
何一つ理解は及んでいないが、この人は二股をした。もうそれがすべてでその話はいったん終わり。
問題はそれをどうして堂々と二股相手の前で宣言したのかという話だ。黙っていればいいことをわざわざこうして三人で集まって話しているということは、何かしらの目的があるはず。
このピンク頭は考えなしに行動しがちな人だけど、理由もなしに行動に起こしたりはしない人だ。……多分。
すると小声で「ほら、ともりん頑張って」と言いながら愛音さんが姉さんを肘でつつく。
そうして促されるままに口を開く。
「えっと…………その……」
何度も目を泳がせながら、それでも俺の方を向いて話そうとしてくれている。
言葉で気持ちを伝えるのが苦手な姉さんが、頑張って何かを伝えようとしてくれていた。
きっと前もって話す内容自体は決めていたのだろう、けれど改めて言葉にしようとするとどういう形にすればいいのか困っている。そんな様子だ。
改めて、姉さんには場の空気を変えてくれる不思議な魅力があるなと感じる。
ゆっくりでいいよとアイコンタクトをして、姉さんの考えがまとまるのを待つ。
今更ながら愛音さんの二股の話はただの前座だったんだだなということを実感する。恐らくこの、これから姉さんが俺に語る内容こそがこの集まりの本題なのだ。
「……うん。アルには、私と恋人になって欲しい」
長い吟味の末に放たれた言葉に、少しだけ落ち着きを取り戻しつつあった自分の思考は再びフリーズしてしまう。
愛音さんもまた焦った様子で「話の順番!」と姉さんに耳打ちしていた。
言った当人である姉さんもまた、愛音さんに言われてハッとした様子で慌てた様子で口をパクパクしている。
やがて
「ごめん、もう一回いい?」
と、申し訳なさそうな顔で愛音さんが手を合わせてそう言った。
確信がある。
きっとこの日以上に頭がおかしくなりそうなことは、もう金輪際経験することは無いだろう。
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本日2杯目のホットコーヒーを卓に置き、改めて二人と向かい合う。
普段愛音さんの話を聞く程度ならドリンクバーのコーヒー1杯で済んでいたところを、今回ばかりは長丁場を覚悟し適当に食べ物も追加注文した。
何かカロリーを摂取しなければ、これから先の話についていけないだろうと予感したからだ。
「それで、一体何がどうなっているんですか?貴女が姉さんに変なことを吹き込んだんですよね?」
「変なこと吹き込んだって人聞きが悪いなー」
此方の問い詰めにも臆することなく、無遠慮に俺の頼んだフライドポテトを次々に口に運んでいる。
「まあ確かに、私の発案ではあるんだけど。ともりんだってイイと思ったから乗ってくれたんだよ。ね?」
「うん」
カフェオレを飲みながら、先ほどよりは幾らか落ち着いた様子で姉さんは同意している。
「……つまり発案が愛音さんってことは、愛音さんから姉さんに付き合ってくれって話をしたんですね?」
「それは、そう」
となれば姉さんが愛音さんに以前から強い恋愛感情を抱いていて、俺から愛音さんを奪い返そうとしただとかそういう話ではないようだ。
一先ず一つの疑念は消えてくれた。……この場合恋人がすでにいる立場の愛音さんが、自分に恋人が居ると知っている人に付き合おうと話したという問題が浮上をしてくるが。
ジロリと訝しげな視線を寄こすと、愛音さんもやや気まずそうにしながらも口を開く。
「まあ確かに、客観的事実だけを見れば浮気とか?二股とか?そんな形に見えちゃうかもだけど、私としてはこれが一番丸く収まる方法だと思ったの!」
「かも、じゃなくてバリバリそうでしょうが」
「まあまあ最後まで聞いてってば」
話している内容の殆どに問題点があることが悪い気がするが、このままでは愛音さんの発言全てに口を挟んでしまいそうだったので、言われた通り話を聞く姿勢をとる。
「この前、っていうかつい昨日のことなんだけど。ともりんが私に遠慮してるなって思ったの」
「それでよくよく考えてたら、その遠慮の原因は私と歩弥君が付き合ってるからなんだろうなって気づいたわけ」
「俺と愛音さんが付き合ってるから、燈が愛音さんによそよそしくなった?」
何故そうなる?という疑問が浮かぶ。
「ともりんはさ、私と歩弥君が一緒に居る時間を邪魔したくなかったんだよ。ね?」
「う、うん」
申し訳なさそうに、控えめに姉さんが頷く。
なるほど、俺があまりにも
確かに恋人同士が二人で会っているのにその間に割って入ろうとするほど、姉さんは厚かましくないだろう。
姉さんはその性根の優しさゆえに、愛音さんに遠慮をするようになってしまっていたらしい。
昨日の姉さんの様子が少しおかしかったのも、そういう親しい人同士の関係性の変化に心の距離感を図りかねていたんだろうと予想できる。
「私としてはね、別にそんなの全然気にしないで3人で一緒に遊びに行ったりとかしたいわけじゃん」
「でもそれはそれとして、ともりんのその気を遣っちゃう気持ちも結構わかるからさー……どうしたもんかと思ってたんだけど」
「私と歩弥君が恋人同士で、私とともりんは友達同士だから遠慮しちゃうわけでしょ?じゃあ二人とも恋人同士になれば解決じゃん!って思ったわけなんですよ」
「………………なるほど」
コーヒーを一口飲み、たっぷりと間をおいて答える。
「わかってくれた?」
「……多少は」
着地点の発想の飛躍っぷりにはどうかと思うが、一応愛音さんのやりたかったことは理解できた。
立場が変われば容易に心の距離感は変わってしまう。簡単な話だ、見知らぬ人より知ってる人。別の学校の友達より同じ学校の友達、違うクラスの友達より同じクラスの友達。そういう風に少し立場が変わるだけで心の距離というのはグッと変わってくる。
そしてその心の距離が、遠慮や気遣いといった一つの壁を作るのだ。
どちらがより親密かは問題ではない。友達だから言えることもあるし、家族だからこそ気遣ってしまうものもある。
俺と愛音さんの関係によって意図せずに生んでしまっていた姉さんとの距離感を、愛音さんは全部同じ関係にするという強引なやり方で解決しようとしたのだ。
ただ口で『遠慮しないでよ』なんて言うより、よっぽど効果的なやり方だとは思う。実際ただの口約束で生まれた関係だろうと、自分はこの人の恋人なんだという自覚だけで容易に心の距離は変われてしまうものだ。……それは自分で身に染みて分かっている。
確かにそれは一般的な倫理感さえ無視すれば、悪くないのかもしれない。(普通無視することはできないが)
「ここまでは分かってくれた?」
「……まあ、はい」
「よかったー、これで第一段階クリアかな」
愛音さんは胸を撫で下ろし、安心したように再びポテトを頬張り始める。
そう、今までの話はいわば前座。これからする話の前提条件。
問題は
「一応聞くけどさ、燈は愛音さんの恋人になるのは大丈夫なの?」
「大丈夫って……その言い方は酷くない?」
「俺は燈に聞いてるんです。……どう?この人の押しに負けてとか、断れなくてって訳ではないんだよね?」
「……うん。愛音ちゃんの話を聞いて、私もいいなって思ったから」
真っすぐに俺の目を見て、はっきりと姉さんはそう答えた。
「愛音さんにはもう恋人……俺と付き合ってるって分かってたんだよね?それは気にならなかったの?」
「えっと……駄目、なのかな?」
「うーん……まあ普通は気にするかな」
「そっか。……でも、私は嬉しいと思ったんだ。私の大好きなアルと、私の大好きなあのちゃん、その二人と一緒の輪の中に居られるなら……それが一番いいなって思った」
なるほど、そういう感じだったのか。
まだまだ姉さんに対する理解が甘かったなと反省するしかない。
愛音さんは姉さんにとってとても大きい存在であるということをきちんと認識できていなかった。
言うまでもなく俺と姉さんの関係は何にも代えがたい固い絆で結ばれているのだが、腹立たしいことに姉さんにとってそんな俺に引けを取らないくらい愛音さんのことも大切な存在だったんだろう。
だからこそ、そんな二人が自分の知らないところで特別な関係にあることを知って、姉さんは疎外感のようなものを感じてしまっていたんだろう。
元より姉さんは孤独を感じやすい人だ。その心情は察するに余りある。
自分だって姉さんとその友達の時間を大切にしてあげたいと、姉さんと一緒に居ることを遠慮したことは何度だってあったじゃないか。そうすることで自分が疎外感を感じないからと言って、姉さんがそうだとは限らないだろう。自分本位の価値観でしか考えていなかった自分が恨めしい。もっともっと姉さんの心に寄り添ってあげるべきだった。
「だから、アルには私とも恋人になって欲しい」
「いや、それはおかしい」
「ええー!この流れはそうなるでしょ!」
愛音さんと姉さんが恋人になった理由と経緯は理解した。
姉さんが愛音さんの提案を受け入れた心情も理解できた。
しかし、その最後の結論だけはよく分からない。
「わざわざ恋人になる必要あるかな?」
「あるでしょ!この流れなら!私とともりんが恋人同士で、私と歩弥君も恋人同士なのに、ともりんと歩弥君が恋人同士じゃないのはバランス悪いじゃん!」
「俺と燈はそんな関係に頼らなくても、唯一無二の特別な繋がりがありますから」
バランスが悪いとか知ったことではない。
恋人などたかだか口約束。そんなものよりももっと強固で、深い絆で俺と姉さんは繋がっている。
軽々には口にできないけれど、確かにこの体を巡っている血が何よりの証拠だ。
この繫がり以上の関係なんて、俺達には必要ない。無粋だろう。
「だよね?」
そう考え、俺は愛音さんの真似をするように姉さんに同意を求めた。――――だが
「……」
姉さんはしゅんとした表情で唇を真横に結んでいる。
求めていたものと全く違う反応が返ってきてしまった。
「あ、あれ?燈?」
「……アルは、私と恋人になるのは嫌なんだ」
「え!?いや、そういうわけじゃないけどさ……恋人にならなくっても、俺と燈は誰よりも特別な相手……だよね?」
「……でも、アルはいっつも私に隠し事してる」
「それ……は……」
そう言われると少し胸が痛い。
感付かれないようにしてきたつもりだったけど、それでもやはり気づかれてしまうものか。
けれど、今まで姉さんに隠してきたことは全部姉さんを思ってのものだ。知られれば、姉さんに無用な心配をかけてしまうから。俺なんかのことで思い悩んだり傷ついたりしてほしくないからだ。
……それに何より、俺自身が知って欲しくないからだ。醜く、かっこ悪く、汚い自分の姿を姉さんには見られたくないから。
これは俺にとって譲れない一線だ。
「アルは、どうしてあのちゃんと付き合っていることを言ってくれなかったの?」
「それは……愛音さんのせい」
「それも、私には言えないこと?」
言えるわけがない。
というか、こればっかりは完全に自分は被害者側だ。
愛音さんの方を睨みつけると、申し訳ないと言わんばかりに両手を合わせている。
隠し事があるのは俺だけじゃない、愛音さんだってそうだ。
「……燈だってさ、俺には言えない……言い難いことってあるでしょ?」
「無いよ。アルになら、私のどんなことも知って欲しいって思ってる」
間断なく、きっぱりと言う。
そう答えられては困ってしまう。
姉さんには無くとも、俺にはあるんだとしか言いようがない。
「あのちゃんとアルが一緒に居るデートした時の写真、あのちゃんに見せてもらったんだ」
「あ、ああ……あの時の」
「そこには、私の全然知らないアルが居た」
そう思うのも無理はない。
自分だってそう思った。この人の前だとこんな顔をしているんだと、その時初めて知ったんだ。
「あのちゃんの語るアルの姿は、全然私の知らないことばっかりで……悔しかった」
「私が居なくても、私に言えないことがあっても、あのちゃんが居るなら……あのちゃんが聞いてくれるならそれでもいいのかなって思ってた」
「でも、やっぱり嫌なんだ」
空気がピンと張り詰めるのを感じる。
その必死さが伝わる声に、表情に、胸の奥の柔らかい部分を引き掴まれるような感覚を思い起こさせる。
「アルはいつだって優しくて、優し過ぎるくらいで。私をいつだって気遣ってくれて……でも、それじゃ嫌なんだ」
「何も知らないまま、見て見ぬふりをしたまま、アルにばっかり無理させてる自分じゃ嫌なんだ」
「もっと知りたい。アルのこと、アルの口から、アルの言葉で……ちゃんと伝えて欲しい」
「辛いとき、苦しいとき、ちゃんとそれを吐き出せる相手に私はなりたい」
「今の関係のままじゃそれが叶わないのなら、変わりたいって私は思ったんだ。だから……だから……恋人になれれば、そんな相手になれるかなって……思ったんだ」
語り終えることを伝えるように、姉さんの声は消え入るように小さくなっていった。
自分の心臓の音が聞こえる。
自分が目の当たりにした衝撃を何より体が伝えてくれている。
この今の自分の感情を、何と表現するのだろう?喜怒哀楽いずれにも当てはまらないこの感情のうねりには何という名前がついているのだろう?
近い感情としてはそう『悔しい』そんな気持ちだ。……ああそうか、姉さんもこんな気持ちだったのかもしれない。
俺、この人の事全然知らなかったんだ。
気遣い、慈しみ、労わることが愛することの全てだと思っていた。
そうすることこそ、この人を傷つけずに済む一番の近道なのだと思っていた。
言葉なんかなくとも、自分の持ち得る愛の全てがこの人に伝わっていると思っていた。
その逆だ。その想いが、良かれと思ってしてきた心遣いが、却ってこの人を傷つけてしまっていた。
当たり前にしてきたことが、そんな風に姉さんの心を陰らせているなんて想像もしていなかった。
何も知らないままだった。自分の気持ちがどんなふうに伝わっているかも、姉さんの想いも何もかも。
少し考えてみれば当たり前のことだ。見も聞きもしない情報なんて、誰にも知り得るはずがない。
なら、言葉にするしかない。
俺も同じだ。
自分の想いがちゃんと伝わらず、相手が傷ついたままじゃ嫌だ。
「ごめん。燈がそんな風に考えてるなんて知らなかったんだ。本当にごめん」
「でも、一つだけ訂正させて」
俯いていた燈が顔を上げるのを待つ。
互いの目を合わせ、改めて言葉を紡ぐ。
「確かに俺は燈に嘘をついてきたし、隠し事だってある。何度だって強がった姿を見せてきたと思う」
「でもそれは無理をしてるからじゃないんだよ。辛くて苦しいのを誤魔化すためじゃないんだ」
「燈の前に居る俺と、愛音さんの前に居る俺。どっちも自然な自分なんだ」
「燈の隣以上に素の自分で居られてリラックスできる場所なんてない。愛音さんの前でも……まあ、気が楽で言わなくていいことを言っちゃうことはあるかな」
テーブルの上、すっかり空になっているカフェオレのカップに添えられた姉さんの両手の上に、包み込むようにして自分の手を重ねる。
「俺が燈の前で無理してるなんて、そんな悲しいこと言わないでよ」
「一番大切な、大好きな姉さんに、無理して一緒に居るわけないだろ?」
ずっと伝わっていると思っていたことを、改めて言葉にして伝えた。
姉さんの言葉で、このことが伝わっていなかったことが何より心苦しかった。
自分の不甲斐なさを改めて感じてしまう。
「ごめんアル。ごめんね」
「いいよ。言葉にしなかった俺が悪い」
手の平に伝わる熱から、再び二人に強い結びつきが生まれたことをじんわりと感じる。
その俺の手の甲の上から、まったく別の熱が重ねられる。
「うんうん。仲良きことは美しきかなってやつだね」
完全に二人の世界に入っていた俺と姉さんにも臆さず、堂々と俺の上に手を重ねてきた。
「いや寧ろ雨降って地固まる?」
「どっちでもいいです」
「とにかく、よかったねともりん。ちゃんと話せてさ」
「あ、うん。ありがとうあのちゃん……でも」
「まあまあ、ともりんと歩弥君が恋人になるかどうかはこの際保留でもいいんじゃない?」
そういえばそういう話から始まっていたんだったと思い出す。
言葉にせずとも通じ合っている、形がなくとも繋がり合っている、口約束なんかに頼らなくとも二人の間には強い絆がある。そんな一方的な信頼に俺は甘えようとしていた。
俺と姉さんの血の絆を別の言葉で上塗りするのは無粋だと思っていたけれど、ちゃんと姉さんの意図を理解した今ならば、姉さんのしたいようにしてあげたいと思っている。
「えっと……じゃあ、俺と姉さんはこれから……こ、恋人ってことで……いいの?」
「ううん。アルがそうなりたいって思ってからでもいいよ」
「え?」
「え?」
互いに顔を見合わせる。
まずい、また互いを尊重するあまり意見がすれ違ってしまった。
ハッキリ言って自分としてはどっちでもいいと思ってしまっている。恋人という関係より、この血の繋がりの絆の方が尊いものだという考えは変わっていない。
とはいえ、こんなどっちでもいいなんて考えで恋人になるべきではないと言えばそうなのかもしれない。
「じゃあ一先ず、お友達からってことで!」
また思考の坩堝に陥りそうになりそうなところを、バッサリと断ち切る声が通る。
「……そんなんでいいんですか?」
「えー?別に普通でしょ。お互いのことをもっとよく知ってからお付き合いしましょうってこと!」
言葉だけ聞けば当たり前のことを言っているようにも聞こえるが、状況は滅茶苦茶だ。
俺と姉さんは姉弟同士で、そんな二人の間を取り持っているのはその二人を相手に二股している恋人で、俺と姉さんはこれからお付き合いを前提にお友達になるだなんて。
つらつらと並べているだけで頭が痛くなるような状況説明だ。
とはいえ、もうそれ以上の落としどころも考えつかないのもまた事実だった。
「……じゃあ、そういうことにしよっか」
「う、うん。これから……えっと仲良くしてね」
姉さんの初々しい様子に、思わず笑ってしまう。
俺に釣られて、姉さんも恥ずかしそうに笑ってくれた。
そんな二人を見て、愛音さんは何やら満足げに頷いている。
常々思っていたけれど、本当にこの千早愛音という人は自分とはまるで違う世界の人間だなと感じる。
姉さんと二人だけだったら、もっと湿っぽくなってしまっていただろう。こんなあっさりと、爽やかにこの場を離れられなかっただろうなと思う。
姉さんとは違う意味で、この人の言葉には空気を変える力がある。
どうしてだろうか?姉さんとはまるで似ても似つかない、落ち着きがなく騒がしいこの人の言葉を……こんなにも心地よく感じてしまうのは。
「ほんと、変な人」
「うん。あのちゃんはちょっと変」
「えー!二人して酷い!」
その時ばかりは自分の中にある鬱屈とした問題全てを忘れて、俺は笑えた。