一度だけ、逃げ出してしまったことがある。
あの人が新しい母親だと紹介されて、そのすぐ次の日だった。
一晩眠り、朝目覚めてその人を見た時に怖くなった。
これは夢なんかじゃなくて、これからずっと続く現実なんだと気づいてしまったから。
今まで一緒に暮らしてきたあの人はもうお母さんじゃない。そう認めたくなかった。
もう二度とお姉ちゃんと一緒に暮らせないんだ。ボクはそう思ってしまった。
今まで嘘をついたらいけないと教えられてきた。
お父さんとお母さんと、大人の人は皆そう言った。
喧嘩をしたらちゃんと仲直りをしなさいと躾けられてきた。
自分からちゃんと謝れば、相手もそれをちゃんと受け入れてくれた。
男ならちゃんと約束を守らなければいけないと怒られた。
いつも優しいお父さんが、怖い顔で僕の肩を掴んでそう言っていた。
ボクはそれが貫き通すべき正義だと信じていた。
誰もがそれを守っていて、大人は皆そうなんだと思っていた。
だからボクは決して嘘をつかなかった。
喧嘩をしたらちゃんと謝って仲直りをした。
約束をしたなら、それを破るようなことをしなかった。
だけど、裏切られた。
お父さんは僕に嘘をついた。
喧嘩をしたお母さんと仲直りをしてくれなかった。
もう一度お姉ちゃんと居られるようになるって約束したのに、それを破った。
そのことが、何よりもショックだった。
足元がガラガラと崩れ去るような感覚がした。
目の前が真っ暗になったような気がした。
大好きだったお父さんはもう別の人とすり替えられていて、ここには何も信じられるものがないと気づき、それまで感じたことのなかった恐ろしい思いに囚われた。
だから逃げ出した。
もう一度本当の家族に会いたくて、こっそり家を飛び出した。
あの家に、みんなで暮らしていたあの場所に行けば全部が元通りになると信じて。
けれど、そんなに上手くいくことなんかなくて、ボクはすぐに迷子になった。
その場所がどこかも分からずに、怖くなってまた走り出し、またすぐに迷子になる。ずっとその繰り返し。
まるで出口のない迷路を彷徨うように、何処にもたどり着けずに不安だけが大きくなり続けていた。
ああ、きっとボクはずっとこのまま一人ぼっちなんだ。
心の底からそう思った。
もう二度とお父さんは帰ってこなくて、もう二度とお姉ちゃんには会えない。
そう思ってしまったとき、涙が溢れて止まらなかった。いつしか、走ることもやめてしまっていた。
止めどなく涙が流れ、上手く声が出なくなった。
いつもそうだった。
本当に苦しいとき、痛いとき、怖いとき、ボクは何も言えずに体を丸めて縮こまってしまう。
そんなことをしても何も解決するはずがない。けれど、ボクはいつもそうしてしまっていた。
……思えばそれは、学習していたのかもしれない。そうしていれば、いつも助けてくれたから。
「だいじょうぶ?」
本当に不思議だった。
何もかも嘘だらけ、偽物だらけの壊れた世界で、その声は何一つ変わらずにボクを見つけてくれた。
「どこか痛いの?」
何もかも救われた思いだった。
顔を上げるとそこには、記憶の中と何一つ違わないお姉ちゃんがそこにいた。
心配そうな困り眉で、ボクの背中を何度も撫でてくれた。
安心して一層涙がこぼれた。お姉ちゃんは慌てて絆創膏を取り出して、ボクの膝や腕や顔に貼ってくれた。
ボクが泣き止むまで、お姉ちゃんはずっと傍にいてくれた。
落ち着いて周りを見てみれば、そこはよくお姉ちゃんと一緒に遊んでいた公園だった。
いつの間にかすぐそばにお母さんも居て、誰かに電話をしていた。そうして暫くすれば車が来て、慌ててお父さんがやってきた。
まるで魔法にかかったような気分だった。
お姉ちゃんが見つけてくれただけで、すぐに全部が元通りになってしまったのだから。
けれど、その魔法もすぐに解ける。
少し離れた場所で、お母さんは怖い顔をしてお父さんと話していた。
まだ二人は喧嘩をしていて、仲直りをしたわけじゃない。やっぱりお父さんは噓をついていて、ボクとの約束を破ったことを少しずつ理解していった。
その間、ボクは絆創膏だらけの手でお姉ちゃんの手をずっと握っていた。
握り返してくれるその温かさだけが、ボクの世界に残った一つだけの本当だったから。
「……どうしてお姉ちゃんは、ボクがここにいるって分かったの?」
「わかるよ」
間髪を入れずそう答え、ボクのもう一方の手を握る。
正面に立ち、少しだけ屈んで額と額を合わせて、鼻先同士がキスをする。
「この世界でたった一人のきょうだいだから」
「どこに居ても、どんなに離れていても、ずっとずっと繋がってるから」
「アルが泣いてたら、また絆創膏を貼ってあげる」
恐る恐る、ボクは聞き返す。
「……約束、してくれる?」
「うん、約束。離れてても、一生一緒」
不思議だった。
それはただの口約束で、お父さんと交わしたものと全く一緒のこと。
だけど信じられた。お姉ちゃんの言葉なら嘘じゃないと思った。
お父さんもお母さんも簡単に壊れて変わってしまうものだけれど、お姉ちゃんだけは……この二人の間に流れる繫がりだけは一生変わらない。
この血だけはボクを裏切らない。確かにそう思えた。
その場でボクはお父さんに連れられて、お姉ちゃんはお母さんに連れられて分かれた。
名残惜しい思いはあった。けれど、ぐずったり駄々をこねることはなかった。
会おうと思えばまた会えると、互いにそう確信していたから。
そして、それは事実だった。
ボクはあれから何度も家を飛び出し、この公園へと向かった。
その度にお姉ちゃんはボクを見つけてくれた。
今考えてみれば、それは何も不思議なことではなかったんだろう。ただ、お姉ちゃんが毎日そこで遊んでいたというだけのこと。
理由はただそれだけのことだったんだろうけど、ボクは嬉しかった。
そこに行けば絶対にお姉ちゃんに会えて、お母さんが心配してくれて、お父さんが迎えに来てくれたから。
そうしていれば、いつか二人は仲直りしてくれて、また皆で家族になれるんじゃないかと思っていた。
……アレを見てしまう前は。
夜に何かの物音で目を覚ました。
その音はリビングから聞こえていた。近づいていくたびにその音が、二人の大人の声だと分かった。
嫌な感じがした。いつか聞いた、世界に罅が入ってしまったときの音。
あの時は怖くなって、お姉ちゃんに抱きついて必死に聞こえないようにした。
怖かった。けど、ボクはこっそり音を立てずにリビングを覗き見た。
そこで、新しいお母さんが恐ろしい顔で怒鳴っていた。
ボクはその人とあまり喋ろうとはしていなかった。嫌いだったから。この人がいるからお父さんはお母さんと仲直りできないんだと思っていたから。
でも、怒った姿を見たことがなかった。何度もボクに話しかけてきて、それを無視するたびに困ったような顔をしていた。
だからそこで、ボクは初めてその人の本性を垣間見た。
「なんで私を怒らせるようなことをするの!!」
「も、もう二度としない!会いに行かないって約束させる!」
それは、喧嘩ではなく一方的な暴力だった。
その時初めて、大人が大人に暴力を振るう姿を見た。
その時初めて、この二人の関係の形を理解した。
高い背を丸め、大きな体を縮こまらせて、ただ必死で許しを請う。ボクの大好きだった、強くてカッコいいお父さんはそこには居なかった。
また自分の中で何かが壊れた音がした。
全部ボクのせいなんだ。
そう気づいてしまった。
ボクの我儘のせいで、お父さんが怒られている。
ボクがまた家族を元に戻したい。そう思ったせいでお父さんは傷つけられている。
何もかも、ボクがこれを選んだんじゃないか。
『ねえ、アルもお母さんと一緒に居たいよね?お姉ちゃんも一緒に居るんだよ?』
いつかのお母さんの言葉を思い出す。
まだみんなが一緒に暮らしていた時、離れ離れになってしまう前。ボクはそんなことを聞かれた。
本当はお姉ちゃんと一緒がよかった。お父さんよりもお母さんよりも、お姉ちゃんが好きだったから。
だけどその時、ボクはお父さんの顔を見て……首を横に振った。
『お父さんがかわいそうだから』
一人ぼっちはかわいそうだと思った。
お母さんにはお姉ちゃんがついているなら、ボクはお父さんの傍に居てあげよう。
ただそれだけの理由で、ボクはこの未来を選んだ。
目の前で繰り広げられる惨状を、ボクは目を逸らさずに見続けた。
怖かったけど、涙は流さなかった。そんなことをしても、何の意味もないと理解していた。
きっとこのままでは、お姉ちゃんやお母さんまでこの暴力に晒されるかもしれない。
今助けが必要なのはボクじゃなくて、お父さんだ。
ボクが守らないと。
そう決意し、ボクは変わった。
気に入られるために嘘をつき、バレないように約束を破り、どんなに嫌でも言われた通りのことをした。
我儘は二度と口にしなかった。痛みも苦しみも憎しみも、全部飲み込んでボクはその人に笑顔を見せた。
そうすることで、大切な物を傷つけられずに済むと信じて。
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『今日、会いたい』
姉さんのそれはいつも突然だ。
夕飯後、入浴と歯磨きを済ませて自室で勉強をしている最中にそのメッセージに気が付く。
『何処に行けばいい?』
それだけ送り、大急ぎでクローゼットから運動着を引っ張り出す。
そう頻繁には使えないが、こういう時の備えもある。
「ちょっと走ってきます」
「ん、おう。あんま遅くなんなよ」
父にそう伝えてリビングを出て、靴箱から運動靴を取り出す。
俺は勉強のストレス解消によくランニングに出かける……という設定で家族には通してある。
常に学年トップという成績を盾にすれば、流石に俺のこのやり口に文句を言われることはなかった。
体よく外に出る理由は何個あってもいい。これも日頃の根回しの成果というわけだ。
姉さんからの返信を確認し、ジャンパーのジッパーを首まで閉め、ランニングキャップを被り、腕に反射材の入ったバンドを巻く。
大体十五分くらいか。
頭の中でルートを構築しながら家を出る。
時刻は19時半。晩秋ということもあってかすっかり肌寒く、街灯無しではとても外を歩けないほど暗かった。
一定の呼吸でリズムを取り、ただ走る。
いきなり呼び出されるのは大変だけど、こうやって走るのは嫌いじゃなかった。
走ることそのものもそうだが、何より姉さんと会えると思えば寧ろ楽しいくらいだった。
特に問題なくイメージ通りの道順で目的地へとたどり着く。
その場所は姉さんがよく使っているという音楽スタジオだった。
中に入る前に一度ランニングベルトから制汗シートを取り出して軽く汗を拭い、その辺の自販機で水を買って飲む。
呼吸を落ち着けてから眼鏡を外し、店の中に入る。
こうやってここに来るのは2度目か?
本来の目的で利用したことなんて一度もないため、妙な居心地の悪さを感じてしまう。
とはいえ、それでビクビクして怪しまれれば面倒なことになるのは目に見えている。
受付にいるバイトと思われる店員に会釈をし、何食わぬ顔で二階に上がる。
特に引き留めるような声はかけられない。
前回もそうだったが、これで大丈夫か本当に不安だ。多分姉さんが後から人が来ると伝えているから特に何も引き止められないんだろうけど、次からはもう少し安全な場所にしてもらいたい。
廊下を歩きながらメッセージをもう一度確認し、指定された部屋へと向かう。
扉をノックするとすぐに気づき、ロックを開けると少し開いた扉の隙間から腕を引っ張られ、引きずり込まれるようにして中に入る。
「燈どうし……!」
文字通り口を塞がれる。
服の襟を引っ張りながら、精一杯背伸びをしてその唇を押し付けるようにして重ね合わせる。
「ん……ふぅ……ま、待って燈」
碌に抵抗もできないながらも、何とか腕を伸ばして扉の鍵を閉める。
「はぁ……はぁ……!」
ようやく唇を離してくれた姉さんの肩を掴む。その体は小さく震えていた。
外を走ってきた俺よりも息が荒く、頬は薄桃色に上気し、興奮していると一目で分かった。
熱を帯びた潤んだ瞳で見つめられ、ジャンパーの胸あたりをギュッと握りしめられる。
「大丈夫?何かあった?」
「……わからない。怖くなって……アルが居るって、ちゃんと確かめたくて……」
「大丈夫。大丈夫だよ。俺はいつだって燈と一緒だよ」
安心させるように背中を擦る。
バンドを始めてからだろうか?時折、姉さんはこんな姿を見せるようになった。
今日みたいに歌を歌ったときは特にそうなりやすい。
姉さんはライブの最中だとか、歌っているときのことをあんまり覚えてないことがあるらしい。感情を乗せすぎるというか、一種のトランス状態のようなものだろうか?姉さんは昔から集中力が高すぎるきらいがあった。そういう極度の集中力がこういった興奮や昂り、或いは強烈な不安を発露させている……んだと思う。
とにかく、こういった姿を見るのは初めてのことじゃなかった。
……そしてその行為も、初めてではない。
姉さんが俺の上着のシッパーに手をかける。
「待って、俺今……その、汗かいてるから」
「ううん、嫌じゃないよ」
閉じ切られていた熱が解放され、薄手のインナーが露出する。
胸が激しく鼓動を鳴らす。全身に血流を送り込むその音を確かめるように、姉さんは俺の胸に手の平を当てる。
この人は、その行為のことをどこまで分かってやっているんだろう?
「ドクドクいってる。私と、おんなじ」
そう言いながら体をぴったりと重ね合わせてくる。
「ねえ、聞こえる?」
つんのめる様なつま先立ちで、姉さんの胸が強く押し付けられる。
厚手のシャツと下着からでもはっきりと分かるくらいの膨らみが柔軟に形を変える。
一層、自分の鼓動が早くなる。
心臓とは逆の位置の右胸、そのすぐ下あたりの肋骨に姉さんの胸が押し当てられている。
自分の心音が激しすぎるのか、それとも姉さんの服とその胸が厚いからなのか分からないけど、姉さんの心音は殆ど分からない。ほんの少し、骨に振動が響いてくる……ような気がしてくるくらいだ。
姉さんの足がプルプルと震えていることに気づき、支えるように背中に片腕を回す。
体勢が安定してほっとしたのか体重を預けてくる。俺はそれを受け止めるようにして壁に背中をつける。
「……好き」
潤んだ瞳で真っすぐに俺の目を見ながら慈しむように微笑み、小さな唇で愛の言葉を紡ぐ。
締め付けられるような痛みが胸に突き刺さる。
全身の血が沸騰するような、強烈な熱が頭の中を揺さぶってくる。
どこまで、どこまでこの人は……
「ごめんね、いつも私……上手く伝えられなくて……いつも、アルに甘えてばっかりで」
「いいんだよ、無理に言葉にすることなんかない。何も言わなくても、伝わってる……繋がってるから」
「……たった一人の、血の繋がった姉弟だもんね」
その言葉に罪悪感を覚えてしまう自分に腹が立つ。
今だけは、何もかもを忘れてしまいたい。
「好きだよ、姉さん」
誤魔化すように愛を口にする。
どうか、忘れさせてくれ。
「…………ん」
ゆっくりと姉さんは目を閉じる。
小さく顎を上げ、何かを期待するように色づいた唇を僅かに震わせている。
姉さんの顔に向けて指を伸ばす。
軽く前髪を払いのけ、顎を少し持ち上げ、包み込むように手の平をその頬に添える。
そして、俺もゆっくりと目を瞑って顔を近づけ、唇を重ね合わせた。
「んっ……」
小さく姉さんの息が漏れる。
ただ肌と肌を触れ合わせてるだけなのに、ピリピリと痺れるような快感を脳へと伝えてくる。
頬に添えた手に姉さんが上から手の平を重ねてくる。
小さな手だった。昔は自分よりも大きくて、頼りになる印象だった。俺は泣き虫で、姉さんは全然泣いたりしない人だったから。
でもここにあるのは、小さな柔らかい女の子の手だ。俺を強く求めてくる、愛しい人の指先。
頬から引きはがすようにその指先は蠢き、もっと強く繋がり合おうと指を絡ませてくる。ぎゅっと力強く握りしめられ、手を壁に押さえつけられる。
「んぅ……はぁ……はぁ……!」
ずっと長い間互いに息をするのを忘れていた。
唇を離し目と目が合う。二人の熱い息をすぐ目の前に感じる。
不思議な感覚だった。互いの血の流れが一つになったような、二人の体温が一つに溶け合うような感覚。
これが初めてじゃない。俺と姉さんはもう何度もこうして唇を触れ合わせている。
でも何度やっても慣れることはなく、寧ろ回数を重ねるたびに悪化してしまっているような気さえする。
欲しい。もっと触れていたい。
姉さんも同じ気持ちなんだろうか?
姉さんは昔から他人と同じ気持ちを共有できないことに苦しんでいた。俺も姉さんと同じ色の世界を見ているという自信はない。
だからせめて、一方的でもいい。伝わって欲しい。この頭の奥が痛くなるような切ない愛しさを。
「んむっ……ちゅっ……ちゅ……」
どちらともなく小さく口を開き、もっと深く繋がり合おうと口を動かす。
姉さんの唇は熱くて、柔らかくて、頭がおかしくなってしまいそうなくらいに気持ち良かった。
「んっ!……んれ……ちゅぷっ……」
舌先が触れ、びくりと姉さんの体が震える。
けれどすぐに姉さんもその舌先を伸ばし、二つが触れ合い、互いを愛撫する。
抱き寄せる腕に思わず力がこもってしまう。もっと力を入れたら壊れてしまうんじゃないかと思うくらい、華奢で小さな体だった。
「ん、んっ……っはぁ……!はあ……!」
息継ぎの為に一度口を離す。
姉さんの顔は赤く上気し、その息の荒さは息苦しさだけではなく興奮も入り混じっていると伝えてくる。
「ふふっ……アル、綺麗だね」
目尻を細め、涙を流しながら姉さんはそう言った。
それがどういう意味かは、俺には分からない。
けど何故か、昔から俺をそう褒めてくれていたことだけは確かだ。
「ん……ごめんね、もっと……」
切なげに眉根を寄せ、強く体を押し付けこすり合わせてくる。
時折こうして、姉さんが俺を求めるようになったのは何時からだろう?
どうして俺と姉さんは、互いの温もりを感じると安心するようになったんだろう?
触れ合っていないと、本当に繋がっていると信じられなくなったのは何故だ?
確か……そう、初めてキスをしたのは4年前だ。
あの人が妊娠していると知って。怖くなって姉さんに会いに行ったんだ。
俺と姉さんは、二人の間には何者にも侵されない特別な絆があるんだって信じたくて、確かめたくて……それで────
そっか、あの時俺からキスをしたんだ。
じゃあ俺のせいじゃん。
よかった、ごめんね。
支離滅裂な思考が頭の中を巡る。
自分が純真で美しい姉さんの心を歪ませてしまったという事実に、頭の奥の方で昏い喜びがスパークする。
俺がそうさせた。だから、
「燈は何も悪くないよ」
そう言って俺はもう一度唇を重ね合わせる。
何度でも何度でも、その繫がりを確かめるように、互いの熱を交わし合う。
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「……ちょっと寒くなってきた」
「もう11月になるからね」
「あ、今息白かった」
「ほんと?……はぁー」
帰り道、暗い夜道を二人で歩く。
あんまり姉さんと一緒に帰るのはよくないけれど、こんな時間に一人にはさせられない。
「次呼ぶときは、もうちょっと周りが気にならない場所にしてね」
「……そんなに気になった?」
「燈は行き慣れてるのかもしれないけど、俺は全然行き慣れてないからさ。それに、あんなことしてるって知られたら燈も行き辛くなるでしょ?」
「た、確かに……」
「……今更気づいたんだ」
姉さんは案外衝動的なところがある。
そう知ってはいたけど、そこまで考えずにあの場所に呼び出されたのかと思うと少しひやひやしてしまう。
「……じゃあ、次からどうしよう?」
「まあ……カラオケとかでいいんじゃない?」
「カラオケ……アルの歌って全然聞いたことない」
「えっ?歌うの?別にいいけど……俺全然流行りの曲とか知らないよ?」
「私も」
「…………」
「…………」
「ま、まあ歌いに行くわけじゃないから、うん」
二人でならどこでも楽しめる気でいたけれど、カラオケには二人で行っても盛り上がらなそうなことを想像してしまった。
何か一曲くらい持ち歌的なものを持っておくべきだろうか?
今度千早さんにでもおすすめの曲を聞いてみたりしようかな。
「ん、じゃあここらへんで分かれよっか」
「もう着いたんだ……なんだか早いな」
「……不安なら、電話しながらでもいいよ」
「ううん、大丈夫」
繋いでいた手を離し、向かい合う。
「じゃあね、愛してるよ」
顔を寄せ、頬にキスをする。
「おやすみ、またね」
その時は珍しく姉さんからも頬にキスを返してくれた。
驚いて頬に手を当てていると、いたずらっぽい表情で笑っていた……頬は赤かったけど。
マンションに入るまでその背中を見送って、俺は帰路に着く。
ここから家まで大体30分くらい?……電車使うか?
「いや、今日はいいや」
この浮かされた熱を冷まし、日常に帰るならちょうどいいクールダウンだろう。
俺は忘れないように父親に『30分くらいに家に着きます』と連絡をし、走り始めた。
そのすぐ後に軽い電子音とともにスマホが振動する。父さんにしては随分返信が早いなと思いながらスマホを取り出し、画面の明かりをつける。
『あなたのお姉ちゃんのことでお話があります』
父親ではない送り主のその文字列に、俺は血の気が引くような思いで返信をしたのだった。