『あなたのお姉ちゃんのことでお話があります』
そう言われた時には、自分の知らないところで姉さんに何かあったのかと思って驚いた。
けれど、その蓋を開けた先でもっと驚かされることになるなんて思っていなかった。
「あっ、じゃあ私と恋人になってよ」
まるで名案とでもいう風に指を鳴らしてそう言った女――千早愛音には思わず閉口してしまったものだ。
『もっと真面目に考えてください』なんて思わずツッコんでしまいたくなったが、これはある意味チャンスではないかという閃きが生じた。
金品でのやり取りで関係を手切れにするのが一番楽な道だと思っていたけれど、姉さんの友人それもバンドメンバーともなれば、早々簡単に縁を切ることは難しい。
それに一度こういう脅しに屈してしまうと、何度も適当な理由をつけて脅しをかけてくるというのは常道だ。
そのスマホに保存されている動画にコピーがないとも限らない。俺にとって最も恐れるべきは、この動画のせいで今の環境が壊れてしまうことだ。今は受験も控えている、小さなことでも事件を起こしたくない。それに何より、10年間という年月をかけて築いてきた今の家庭からの信頼が失われてしまうことは絶対に避けたい。……俺だけじゃない、姉さんの家族を傷つけるような事態にもなって欲しくない。せっかく姉さんは今の家族と良好な関係を築いているんだ。それが壊れてしまうのは嫌だ。姉さんからもう一度家族を奪ってしまうようなことは、もう二度とあっちゃいけない。
だからそう、ここでこの女の恋人になるというのは明確にメリットがある。
一つはこの女の機嫌を損ねずに済むということ。
そしてもう一つは、この女の動向を知ることができるということだ。
ただの思い付きでその動画を使って脅迫してるのかもしれないが、その動画には俺の人生がかかっている。万が一にも外に流出されるようなことだけは避けなければならない。最悪でも、俺と姉さんの家族の目に入らなければいい。その為には、この女の近くにいるのはとても重要だ。
時間はかかるかもしれないが、動画のコピーなどないことを確認して、円満な形で別れる。それが理想的な形だ。
覚悟を決める。
大丈夫、気分屋な女のご機嫌を取るのは俺の得意分野だ。今まで10年培ってきたその技術を舐めないで欲しい。
それと、ごめんね姉さん。今も昔も愛しているのは姉さんただ一人だけだ。綺麗な体のままではいられないかもしれないけど、心だけは姉さんのものだから。
俺は絶対、こんな女に屈しないからね。
そうして俺は、千早愛音との偽物の恋人関係を結んだのだった。
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「はぁ~……緊張した。とりあえず話まとまったし、なんか一曲歌う?」
脅す側が何をどう緊張したのか知らないが、脱力したように机に突っ伏す。
「その前に、約束通り恋人になったんですから動画を消して貰えますか?」
「ああオッケー」
「は!?」
どういう反応を返すかのジャブのつもりの要求を、寧ろ待ってましたとばかりに返事を返され呆気にとられる。
「……本当に消してるし。良かったんですか?」
「私は早く消したかったの!SNSに写真投稿しようとカメラロール開くたびにこの動画が視界に入って、何か悪いことしてる気分になってた私の気持ちわかる?」
「いや、実際盗撮ですよね」
「証拠隠滅!」
目下最大の懸念であった、自分の急所ともいえるべきそれを軽すぎるノリで消されてしまう。
間違いなく悪いことではない……筈なのだがどうにも釈然としない。
「……俺がこのまま帰って着信拒否したらどうするつもりだったんですか?」
「えー!?何それずるい!……あっ!私、家のパソコンにコピー持ってるかもよ?」
「今思いついたって顔して言われても……」
その可能性を考えないわけはなかったが、今のその言い方は完全に引き留める理由付けだった。
薄々気づいてはいたけど、もしかしてこの人はかなりアホなんじゃないだろうか?
……いやまだ、まだ一応本当にバックアップを取っていたり、自分では見抜けないほどの演技力という可能性もある。……ある?
「まあいいじゃん。折角カラオケなんだし歌おうよ」
「……はぁ……理解できません。よくもこんな状況で呑気にそんなことが言えますね」
「それは、私が君と仲良くなりたいからじゃん」
「……こんなに態度を一変するような人とですか?」
「ああ、それね?もうそういうの慣れてるからさー」
「慣れてるって……」
「そよ・ザ・デンジャラスがね」
「誰……?」
プロレスラーだろうか?少なくとも俺が思っているより、対人関係では苦労をしてきたらしい。
俺が何を言おうが、千早さんはもう歌を歌うつもりらしく電子目次本という機械で曲を選んでいる。
これ以上ごねても無意味と悟り、俺も曲を選ぶことにする。
動画は消去された以上本当に帰ってもよかったけれど、無理に不仲になる理由もない。一応はまだバックアップがある可能性はあるんだし様子見は必要だ。……決して毒気を抜かれてしまったというわけではない。
「この曲知ってる?」
「……いや、知らないです」
「じゃあこれは?」
「……知らないです」
「えー?CMとかで聞いてると思うんだけどなー。じゃあアルくんはどんな曲聞くの?」
「変な呼び方止めてください」
「嫌だった?そんなとこまでそよデン似だね」
そよ・ザ・デンジャラスさん。微塵も知らない人だけれど、きっと彼(彼女?)も俺と同じ気持ちだったんだろう。
顔も素性も知らない人物に少し親近感を覚えてしまう。
「でもともりんはアルって呼んでなかった?」
「そう呼んでいいのは燈だけです。普通に名前か、ダーリンでいいですよ」
「ダーリンはいいんだ」
「頭が悪そうでいいじゃないですか、ダーリン」
「あれ?もしかして馬鹿にされてる?」
「そんなわけないでしょ、ハニー」
「うっ……ちょっとまだムズムズするから、今まで通りにしとこうかな」
「じゃあ俺もそれに倣いますよ。千早さん」
「恋人なんだし名前で呼んで欲しいなー、あのちゃんでいいよ?」
「……愛音さん」
「頑なだなー」
そう言いながらも彼女はカラカラと楽しそうに笑う。
この人の相手はどうにも調子が狂う。媚びた笑顔で恭しくすればいいものを、思わず考えていたことがそのまま口に出てしまう。
こういうタイプの人は初めてだ。学校とか周りにもいたのかもしれないけど、こうやって正面から向き合ったことはない。
……少し不思議な感じだ。
「歩弥君はどんな曲が好きなの?」
「どんなって……燈の歌ですかね」
「それは嬉しいけど、カラオケには無いかなー。ちなみに一番好きな曲は?」
「春日影です」
「えっ!?」
「えっ?不満なんですか?」
「いやっ……う~ん……う、嬉し……う~ん……嬉しいっちゃあ嬉しい様な……いやでもな~……」
「そういえば最近は全然やってないですよね、春日影」
「…………複雑なのよ、色々と」
「はあ……?よく分からないですけど、いい歌なのに勿体無いですね」
「ねー、ほんとにね」
よく分からないけど複雑らしい。
姉さんが初めて俺に見に来てって言ってくれたライブで聞いたから思い出深い歌なのだけれど、バンドにまるで関わってこなかった俺には分からない苦労もあるんだろうと察せられた。
「もしかしなくても、歩弥君ってカラオケ来たことない?」
「……二度くらい、クラスの付き合いで」
「やばぁ、その時は何か歌った?」
「確か……合唱コンクールで歌った『――』だったと思います」
「そういうチョイスかー。なんかちょっと歩弥君のこと分かってきたかも」
「……こんなことで何が分かるっていうんですか」
「ん、それ入れたから歌って歌って!」
「は!?」
「恥ずかしいなら一緒に歌ってあげよっか?」
「…………遠慮します」
「めっちゃ悩むじゃん」
無理やりマイクを握らされ、既にコマーシャルみたいな映像から歌のイントロに切り替わってしまっている。
はっきり言って全然カラオケの経験なんてないが、自分の意思でなくとも曲を入れられると歌わないといけないような気分になるのは少し苦手だ。
とはいえここで歌わない方がもっと気まずい。慌てて水を飲み、何度も咳払いをして歌い始める。
一年前に授業でやった程度だったが、なんだかんだ覚えていることに少しだけ驚いてしまう。
「おー……」
「……別に普通でしたよね」
「普通っていうか、低音パートじゃん」
「それはそうでしょう」
「そんなんじゃ盛り上がらないよ!」
「言っときますけど、この曲入れたの貴女ですよ」
「もうしょうがないなー、ここは可愛い彼女が盛り上げてあげますかー」
やれやれとでも言いたげに首を回しながら立ち上がり、曲のリズムに合わせて体を揺らしている。
自分が歌いたいだけ、とは言わないでおいた。
勝手に盛り上がってくれる分にはむしろありがたい。元より歌を歌うつもりなんてなかったわけだし。
愛音さんの歌は、曲の良し悪しの分からない俺からでも下手じゃないと思えた。調子に乗りそうなので上手だとは言わない。
「―――どうよ!オーディエンス盛り上がってる?」
部屋に置いてあったマラカスを振り返事の代わりにする。
「いえーい!ともりんほどじゃなくても、私も結構上手くない?」
「……まあ、いいと思います」
「でしょ!因みにともりんを100点としたら何点くらい?」
「3点」
「嘘でしょ!?さっき勝手に曲入れたの根に持ってる?」
「いえ、適正です」
「むむむむむ、二曲目行きます!」
どうしても俺に上手いと言わせたいらしく、ガンガン新しい曲を入れていく。
アイドルの曲を振付付きで歌って見せたり、その多芸っぷりには少し驚いた。
聞けば以前、中学生の頃はギターボーカルで学園祭のステージに立ったこともあるらしい。生徒会長で人気者だったという話は眉唾物だが、その歌の上手さは納得だ。
……とはいえ、姉さんとは比べるべくもない差があるとは思うが。
「最高13点って採点厳しくない!?」
「内訳はダンス10点と、歌3点です」
「結局3点じゃん!?」
「燈の3%分の価値だと思えば大したものですよ」
「出た、シスコン。身内贔屓!」
「燈と比べようとしたのが悪いんです」
「私は褒めて伸びるタイプなのになー、彼氏君は褒めてくれないんだー」
面倒くさい絡み方もしてくる。
「いまウザいって思ったでしょ」
「……ウザいっす」
「やっぱりー」
頬を膨らまし不機嫌をアピールしながら次に歌う曲を選んでいる。
どうにも変わった人だ。
クラスに一人はいる軽いノリのお調子者くらいに最初は捉えていたけれど、はっきりと確信が持てる。こんな人は今まで見たことがない。
図太いというか、不思議なほどにめげない人だ。
俺は最早この人を楽しませようなんて気はない。この人に気に入られようなんて気もない。
一度たりとも彼女を誉めてはいない。彼女の求める言葉なんてわかりきっているのに、ただ思った通り、聞かれた通りのことをそのまま口に出して答えてしまっている。
取り繕わず、誤魔化さない、抜身のままの棘だらけの言葉ばかりをぶつけているというのに――なぜか彼女は楽しそうだった。
今もこうして不機嫌だって顔をしてるのに、なぜか楽しそうだと思えた。
変な人だ。……それに、変な自分だ。
こんなに人のことを考えず、ただありのままを口にするなんて俺らしくもない。
そんなこと、何時ぶりだろう?
「ふふっ……」
「あれ?今笑ってた?」
「どうでしょう?」
「えー?もっとちゃんと見とくべきだったなー」
「……愛音さんなら、こんなことしなくても恋人くらい作れたんじゃないですか?」
「えっ?えっ!?今褒めた?私褒められた?」
「前言撤回。今すごくイラっとしました」
「もうごめんってば、私そういうこと言われたことなかったからさー」
「……ほんと、変な人」
結局、それから時間いっぱいまで歌って帰った。
俺が歌ったのは最初の一曲だけで、あとは全部愛音さんだったけれど。
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「……変な歌詞」
その日の夜、勉強をしながら音楽を聴いていた。
あまりにも最近の流行りの曲を知らない俺を見かねて、愛音さんがプレイリストを作ってくれて共有してもらった。
普段は音楽を聴きながら何かをすることはないが、思ったよりも集中力を阻害しないということを知った。
一つ一つ聞き終わるたびに、手元のメモ帳に感想を書き留めていく。
歌詞が変。声が好きじゃない。喧し過ぎる。
今のところ、ネガティブな感想が大半だった。
今日は大変な一日だった。
まさかあの瞬間を動画に収めるような人がいるなんて考えても居なかったから。
今までなんだかんだ隠し通せてこれていたから、油断してしまっていた。
姉さんを守るためにも、今度からはもっと周りを警戒しておかないと。
しかし、どうしてあの人は盗撮なんてマネをしたんだ?
ストーキングしていたの姉さん?それとも俺?
一応裏で姉さんも同じような脅迫にあっていないか、それとなく探っておくか。
今日話をした感じだと、わざわざ人の弱みを握るために奔走するような人だとはあまり思えなかった。
それすらも演技?……あの計画性の無さでか?動画も俺の目の前ですぐに消して見せたし、行動が支離滅裂だ。
それに、あの要求も意味不明だ。なんでわざわざ俺なんかと恋人になりたいんだ?
懐柔が目的なら、やっぱり金?その割には
まさか何もかも偶然で、一から十まで全て行き当たりばったりだった。なんてこと……ありえるのか?
分からない。
これ以上は考えても仕方がない。俺は愛音さんの事を知らなさすぎる。
穏便に状況を進めるのなら、今の立場を利用して上手く付き合っていくしかないんだろう。
それと、今日の俺はおかしかった。
動揺か?怒りか?そういうもの全部飲み込んで笑顔を作るのが俺の特技だったじゃないか。
自分の思いなど関係ない。その場において必要な自分を演じ切る。もう何年もそういう生き方をしてきた筈なのに。
「……ん、これいい」
視線を移し、メモ帳にペンを走らせる。
イントロのギターが好き。
「確か、カラオケで愛音さんも歌ってたな」
ふとその記憶を思い出し、メモに感想を追記する。
原曲の方が好き。
「ふふっ……」
自然と『わざわざ言う必要なくない!?』という不満げな顔が頭に浮かび、その感想は消さないでおいた。