二人は同じ血を流す。私はその間に挟まる。   作:愛宕饅頭

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初デート回なので気合い入れて書いてました。


9,写真と思い出

 

昔、宝物と言えるくらい大切な物があった。

それは写真だった。

 

幼い時分にはそれがどれほど大切な物になるか想像していなかった。

家族に会いたくても会えない寂しさがあるなんて考えたこともなかったのだから。

お父さんと二人で暮らすようになったとき、もっと写真を持っていくんだったと後悔したものだ。

 

それでも、一枚だけ写真を持ってきていた。

自分と姉さんが二人で写っている写真。

二人とも麦わら帽子を被っていて、確かそれは川にキャンプに行った時の写真だ。

俺はカメラに向かって笑顔で手に持っているセミの抜け殻を見せている。

姉さんは下を向いていて、足元にある赤い沢蟹を指でつついている。

そんな、なんてことは無い思い出のワンシーンを切り取ったものだ。

 

きっと、とても楽しかったんだろうと思う。

けれど悲しいことに、今ではその時の記憶がほとんどない。

そういう写真があったという事実だけが、その過去を物語る証拠だった。

 

新しい家に与えられた自分の部屋。

布団なんかを収納しておく押し入れの中に、一つのクッキー缶が置いてあった。

それが俺の大切な物を入れておく場所で、宝物入れと呼んでいた。

あの家を出て姉さんと離れ離れになるときも、真っ先にそれを持ち出して、お父さんにもお母さんにも決して触らせなかった。

好きだったキャラクターの缶バッチだとか、紙粘土で作った人形だとか、姉さんから貰ったどんぐりだとか、色んな思い出が区別なくたくさん入っていた。

その写真も、その宝物入れの中に入っていたものだった。

 

弱い泣き虫だった自分を変えると決意してからも、不意に寂しさに囚われる夜があった。

そういう時に宝物入れから写真を取り出して、美しかった過去の思い出に浸っていた。

どうか夢の中だけでも一緒に居られるようにと、枕の下にその写真を置いて寝た夜もあった。

 

その時、俺は確か8歳だった。

その夜も、不意に孤独を感じて恐ろしくなり写真を枕元に忍ばせて眠った。

結局どんな夢を見たかは覚えていない。

はっきり覚えているのは、その目覚めだ。

 

枕の下にあったはずの写真がなくなっていた。

 

寝相の良さからか、今まで一度もそんなことは無かったからゾッとする思いだった。

ベッドと布団の隙間、枕カバーの中、床やカーペットの下、思いつく限りの隙間という隙間に目を凝らしてもその写真は見つからなかった。

その日は平日で、普通に学校もある。昨日の夜の記憶が間違いだったんだろうと無理やり自分を納得させ、リビングへと向かった。

 

「おはよう、歩弥」

「おはようございます、母さん」

 

その日は珍しく朝だというのに母さん(あのひと)がゆっくりとコーヒーを飲んでいた。

どこか機嫌がよさそうににこやかで、それだけでヒシヒシと違和感を肌が感じ取っていた。

その違和を気取られないように俺は努めて普通に振舞い、朝食を母さんと食べて朝の支度をした。

 

歯磨きをして、シャワーを浴びて、顔を洗って、ただいつも通りの朝のルーティンを熟しているだけでも胸のざわつきは収まらなかった。

母さんと一緒に暮らし始めて2年ほど、少しずつだが彼女の性格のことは理解していた。

基本的に穏やかで優しい気性の反面、自分の思い通りにならないことを激しく嫌い、苛烈ともいえるほどの嫉妬深さを併せ持つ。そういう人だった。

だからこそ、あの何かが満たされた微笑みは、何か恐ろしい兆候に違いないと確信していた。

 

自室に戻り着替えを済ませ、ランドセルの中の荷物を確認する。

今すぐにでも家を出れるという段階まで支度をして、ふと気になって俺は押し入れの中を覗いた。

光の無い暗い押し入れ、それでも何かを見間違えるなどありえないという程、何度も見てきたその押し入れの一番下の隅。

 

たくさんの思い出が詰まっているはずの宝物入れが、そこにはもう無くなっていた。

 

即座に理解した。

これは母さんがやったんだと。

怒りも絶望も、もうその時にはとっくに涸れ果てていた。

分かっていたからだ。母さんはそういう人だって。

きっと気に入らなかったんだろう、未だに俺が過去の思い出に縋っていたことが。

この部屋は俺に与えられたものだけど、この家は母さんのものだから。

この家に住む以上、初めから自分だけのものなんて何一つなかったんだ。

だから自分がすべきことは、もっと上手に隠すことだった。

 

悪いのは俺だ。

 

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 

微笑みには微笑みを返し、俺は何事もなかったように家を出た。

その日以来、孤独に怯える夜を過ごすことは無くなった。

 

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ここ最近、一つ自分の中で痛感していることがある。

自分自身が冷静ではないと気づくのは簡単ではないということだ。

思えばここまで、とんとん拍子で口車に乗せられ続けてしまっている。

俺はあの千早愛音という女を少し舐めていたのかもしれない。自分がこんなに簡単に心が乱されると思っていなかった。

家族でもない他人に、プライベートで干渉を許したのは今まで一度もなかった。

 

「不安だ……」

 

眼鏡をしまいながら、ため息をつく。

その日俺は愛音さんから指定された場所で、デートとやらの待ち合わせをしていた。

どこに行くのかも、何をするのかも知らされていない。事前に全ての予定を決めてから何かをする俺とは真逆だ。

 

そもそも、こんなに短期間で姉さんと会っていいのだろうかという不安もある。

明確に月何度まで会うことにしている、という決まりがあるわけではない。

それでも互いの予定もあるし、あまり頻繁に会っては周りに感づかれるかもしれないという思いから、お互い遠慮しあっているというのが現状だった。

今月はこの前姉さんとデートをして、その一週間後くらいに姉さんから呼び出されて、そのすぐ三日後くらいが今日。

今までにないくらいのハイペースで会っていることになる。

とても不安だ。いつもと違うことをするというのはどうも落ち着かない。それも他人に決められた予定ともなれば猶更だ。

実の姉と一緒に出掛ける。ただそれだけのことに罪悪感を感じてしまうという、それこそが本来おかしいのだけれど。

 

「……はぁ」

「あ、居た居た。おーい!」

 

本日何度目かも分からないため息。

そんな憂鬱を抱えた俺とは対照的な、能天気な明るい声がこちらに呼びかける。

羽丘女子高の制服を身に纏うピンク頭の少女。いうなれば今日のデートのおまけのような人……だったのだが、

 

「一人なんですか?燈は?」

「あー……ごめん!今日ともりん他に予定あったんだって」

「……つまり?」

「今日は二人でデートしよっか♪」

 

言葉を失う。

今日は姉さんが来るというからこの人とのデートを承諾したというのに、前提が覆ってしまっている。

まさか俺とデートの約束を取り付けるために姉さんの名前を出したんじゃないだろうか?そんな邪推までしてしまう。

いやでも、それ以上に気になることがある。

 

「燈の予定って知ってます?」

「詳しくは知らないけど、りっきーとどっか行くんだって」

「……そうですか。まあ、事前に友人と予定があったのなら仕方ないですよね……うん」

 

姉さんが友達と遊びに行く予定があった、それはいい。

寧ろそれは喜ばしいことだ。姉さんに友達なんて何人いてもいいんだから、遊びに行くなら存分に楽しんでほしいものだ。

だけど、俺よりもその友達を優先したというのは……正直言って少しショックだった。

そっちの方が先約だっただけだったんだろうけど、仕方のないことなんだろうけど……俺より大事な人なのかな?と思ってしまう自分が居た。

 

「もしかして、落ち込んでる?」

「……多少は」

「一応、歩弥君が居るとは言ってなかったからさ。それに前から決まってるみたいだったし」

 

よほど落ち込んで見えたのか慰められてしまった。

とはいえ、その言葉に少しほっとしたのも本当だ。

 

「……因みに、そのりっきーさんは男ですか?」

「ううん。うちのドラム」

「…………ドラムの人」

「絶対顔浮かんでないじゃん」

 

ほら、とスマホで写真を見せてもらったがあまりピンと来なかった。

あまりこの人たちのバンド活動について詳しいわけではないけど、姉さんから話を聞く機会は多い。しかし、その中で『りっきー』という名前或いはあだ名になりそうな人物が思い出せなかった。

ドラムは確か『たきちゃん』って人じゃなかっただろうか?……だめだ姉さん以外の人の顔に興味がなくて、顔と名前が一致しない。

とはいえ普通に女の人だったのでそこは安心だ。

 

「……え~っと、付き合ってくれる……よね?」

 

不安そうに上目遣いでそう訊ねられる。

ハッキリ言ってしまえば姉さんが居ない以上どうでもいいというのが本音だった。

 

「……どこに行くんですか?」

「付き合ってくれるの?」

「どうせ他に予定もないので」

「やったー!」

 

別に断ってもよかったけど、まあいいかと思ってしまった。

ご機嫌取りだとかが必要な人じゃないというのはわかってる。

だからこれは、俺の意思なんだと思う。

 

「私、どうしても見たい映画があったんだよねー」

「映画か……何時ぶりだろう」

「ほら、早く行こ」

 

急かすような仕草をする愛音さんに、無意識に手を差し出そうとしてしまったことに気づく。

 

「歩弥君?」

「……何でもないです」

 

笑えない。もし本当に手を握ろうとしてたら今日一日はそのことで弄られてしまっただろう。

自分でも意識していないうちにこの人に心を許してしまっていたのだろうか?

まさかこんな人と姉さんを重ねて思ったなんて、そんなことの方がありえない。

多分今まで女の人とデートなんて姉さん以外としたことがなかったから、自然とそうしてしまったんだろう。姉さんと出かけるときはよく手を繋いでるし。

 

「あ、せっかくだし手握る?」

「……気づいてたんですか?」

「え、何のこと?」

「はぁ……握りません。そんな仲ではないので」

「えー?一応恋人同士なのに」

 

ぶーぶーと文句を言われながら二人並んで歩く。

この人とは相変わらず嚙み合わないというか、どうにも調子が狂ってしまう。

この人には、心を乱されてばかりだ。

 

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愛音さんが見たいと言っていた映画のチケットだけ購入し、上映時間までまだ時間があるということでショッピングモールの中を二人で練り歩いていた。

 

「ともりんとはこういう場所も来るの?」

「まあ何回か」

「どういうとこ見て回るの?」

「そうですね、ああいう雑貨屋とかアクセサリーショップとか、あとは文房具とかですかね」

「すっごくともりんチョイスっぽい」

「それはもう、ただの燈の付き添いです」

 

自分の意思でショッピングモールでウインドウショッピングしたいと思ったことは無い。

こういう場所に一人で来ることもないし、せいぜい服を買いに来るくらいだろうか?

 

「歩弥君が興味ある場所ないの?」

「無いです」

「即答じゃん……あ、クレープ!歩弥君甘いもの平気だよね?」

「平気です」

「じゃあアレ食べよ」

 

弾んだ声色で吸い込まれるように店に向かう愛音さんの後を追う。

映画館でポップコーンとか食べないんだろうか?と思ったが、口には出さなかった。

 

「う~ん……歩弥君はどれにする?」

「……じゃあこのイチゴのやつでお願いします」

「えっもう頼むの!?私も同じのでお願いします!」

「もしかして急かしました?」

「ううん。ちょっとびっくりしたけど、私もそれいいなって思ってたし。あんまり悩んで映画に間に合わなくなっても嫌だしね」

 

程なくしてクレープを受け取り、ベンチに並んで座る。

イチゴと生クリームがたっぷり入った、特に捻りのないスタンダードなクレープだ。

クレープを前に食べたの何時だったかな?そんなことを考えながら一口目を齧り付く。

 

「あー!待って待って!」

「………………どうしました?」

 

慌てて制止する愛音さんに対し、大口で一口目を口に含んだので大分咀嚼の間をおいてから返事をする。

 

「食べる前に一緒に写真撮ろうと思ってたのに」

「ああ、なんだそんなことですか」

 

何か行儀のよくない事でもしてしまったかと思っていたけど、対して気にするようなことではなかった。

確かに、こういう外で食べた物の写真を撮りたがる人は割といる。でも姉さんはあまりしないせいか、そこまで気が回らなかった。

改めて俺と姉さんとはまるで違う趣味の人なんだなと実感する。

 

「そんなことって……デートなんだし、ともりんとだったら写真撮ってたでしょ?」

「いえ、普段から写真撮らないので」

「えー?嘘だー、だって今年の夏休み大阪に行ったって言ってたじゃん。その時の写真くらいあるでしょ?」

「無いですよ」

「じゃあスマホのカメラロール見せて」

「どうぞご自由に」

 

何の抵抗もなくスマホを手渡されたせいか、見せて欲しいと言った愛音さんの方が寧ろおっかなびっくりといった様子でカメラロールを開く。

そこには当然、一枚の写真も入っていない。

これは今日買った新品というわけでもない。もう4年は使っている代物だ。

 

「……やば、ホントに何にも入ってない」

「言ったじゃないですか。普段から写真撮らないって」

「そうは言っても、ここまでって普通想像できなくない?」

 

然しもの愛音さんも驚いている様子だった。というか、おそらく引いてる。

客観的にそれが普通ではないことくらい、俺も分かってる。

けれどこれは必要なことだ。

 

「保険ですよ。万が一、俺と燈が会っているっていう証拠が残ってると面倒なので」

「……歩弥君はそれでいいの?」

「別に構いません。写真は無くとも、思い出は残ります」

「……えい」

 

予想外のシャッター音に思わず顔を顰めてしまった。

 

「人のスマホで勝手に撮らないでください」

「次は私と一緒に撮ろ!」

「ちょ聞いてます?近い近い!」

 

カメラを構えて二人で一つの画角に収まるように、ぐいぐいと体を押し付けてくる。

嗅いだことのないシャンプーの匂いに思わずドキッとしてしまう。

 

「ほらほら動かないで、笑顔笑顔」

「いや、別いいですって」

「よくない。なんか寂しいでしょそういうのってさ」

「俺は別に……」

「私が寂しいの!」

 

そうこうしている間に、数回シャッター音が切られている。

誰かと身を寄せ合ってツーショットなんて全然経験がないせいか、妙に気恥しい気持ちになる。

気のせいか、周りの視線も痛く感じてしまう。

 

「う~ん、本当は笑顔で撮りたかったんだけど……まあこれはこれでいいかな」

「人の物で好き放題して、そろそろ返してください」

 

スマホを取り戻し、撮った写真を見る。

そこに映る俺の姿はその場から逃れようとして身を捩り、困ったような照れたような、何とも言えない微妙な表情ばかりだ。

一方で愛音さんはというと、こういう自撮りに慣れているらしく、バッチリ作った笑顔で写っている。

正に今の俺と彼女の関係を表しているような、何ともちぐはぐな二人の写真だ。

 

「消さずに後で私にも送ってよね。大事な思い出なんだから」

 

後で消そうと思っていたところに釘を刺される形になった。

意外なところで鋭い人だ。

 

それにしても妙な気分だ、自分の写った写真を見るのなんて久しぶりな気がする。

その顔は毎日鏡で見ているはずなのに、どうにも自分の知らない自分が映っているようでむず痒い。

俺、この人の前だとこんな感じなんだな。

 

「次撮るときは笑顔でね」

「……変わってますね。そんなに俺の笑顔が見たいんですか?」

「もちろん!だって歩弥君にも楽しいって思ってもらいたいもん」

 

そう言いながら愛音さんは歯を見せて笑う。

姉さんはしない、花が開いたような明るい笑顔だった。

 

胸のあたり、針で刺したような痛みが伴う。

 

その言葉も行動も、その表情さえも、千早愛音という人が見せるそれは俺の知らないものばかりだ。

相変わらず何を考えてるかも分からないし、その行動を予想できたことなんて殆どない。

どうにも自分とは全くかみ合わない、分からない事ばかりの人だ。

けれど、少しずつ理解してきたこともある。

 

多分この人は、俺に好意を持っている。

 

理由はまるで分らない。

だけど今のこの関係になった経緯や、今までの言動を思えばそうとしか考えられなかった。

 

まるで訳が分からない人だ。

これは一方的に脅されて結んだ関係なのに、どうしてこう対等に俺と目線を合わせようとしてくるのだろう?

この人がその気になれば、もっと乱暴に俺を呼びつけたっていい。一方的に搾取したっていい。それができるだけの手札をこの人は持っているはずだ。

あの動画がもうこの世には出回らないという確証がない以上、俺はこの人に絶対に逆らえない。元よりそういう覚悟で、この関係を受け入れたはずなのに。

どうしてこんな形で、心をかき乱されないとならないんだろう?

 

どうして俺が、罪悪感を感じなきゃいけないんだ。

 

食べ終わったクレープの包み紙をくしゃりと握りつぶす。

 

「ちょっとお手洗い行ってきますね」

 

努めて平静に席を立つ、決して顔を見せないようにして。

その身勝手な苛立ちを悟られたくなかった。

どういう形であれ好意を向けてくれている愛音さんに、今だけは心に靄をかけて欲しくなかったから。

 

==============================================================================

 

「えっ?ポップコーン買うんですか?」

「そりゃもちろん。歩弥君は好きじゃなかった?」

「さっきクレープ食べませんでした?」

「食べたけど、映画と言ったらポップコーンはマストでしょ!」

「…………」

 

カロリーの話だとか、食べ過ぎではないかとか、いろいろ言いたくなったが飲み込むことにした。

きっとこの人はポップコーンを食べる代わりに夕食を抜くつもりなんだろう、と自分を無理やり納得させる。

俺は飲み物のコーラだけ買って、愛音さんと指定されたスクリーンへと向かう。

 

「Nの20……ここかな」

 

愛音さんの後ろをついて歩き、着席した彼女の隣、番号にしてNの19が俺の席だった。

スクリーン真正面の中段、その後方やや左。当日数分前に取った席にしては上等だ。寧ろかなり理想的と言えるんじゃないだろうか?

人の入りはそれほど多くは無い。とはいえそれは人気がないからというわけではなく、単純に封切されてから随分時間が経っているからだろう。

 

暫くすると上映中の注意喚起のアニメが流れ、それが終わると既に放映されている映画やこれから放映される予定の映画の予告がスクリーンに映し出される。

 

「こういう予告見るのってちょっと楽しくない?」

 

愛音さんは顔をこちらに向け、口元に手を当てながら俺の耳元に小さな声で話しかけられる。

 

「……ちょっと分かります」

 

少し体を隣の愛音さんの方に近づけながら言葉を返す。

映画館のスクリーンで見る予告の映像というのは俺も好きだったりした。

単純に知らないものを知れるというのもあるけど、自分では絶対興味を持ちえない映画の予告を全編通してみるというのも新鮮な気持ちになる。

きっと普段なら途中で見ることをやめてしまうであろう内容でも、映画館という特別な空間に居れば不思議とイラっとしなかった。

 

「今のやつ面白そうじゃなかった?」

「……まあ、好き好きですよね」

「露骨に興味なさそう。歩弥君は気になったの無かったの?」

「俺はあの漫画原作のやつとかですかね」

「えっ?なんか意外かも。女の子向けっていうか、恋愛系じゃなかった?」

「原作を読んだことがあるので」

「へー、漫画結構読むんだ」

「俺がというより父が好きで買ってくるんです」

「あーそういう感じなんだ。でもちょっと分かるかも、私も初めて漫画読んだのはお母さんが読んでたやつだったなー」

 

予告が終われば再び上映中のマナーについての注意喚起が行われ、やがて室内の明かりが落とされる。

愛音さんは何かを言いかけたのか此方を向いていたが、途中で止めてスクリーンへと顔を向ける。

始まる。そう感じさせる空気感に、らしくもなく気分が高揚してしまった。

 

壮大な音楽やオープニングからではなく、静かにその映画は始まった。

立体的な音響でCGアニメーションに合わせてその環境音が流れる。踏みしめる靴音、ボールの跳ねる音、砂浜に波が寄せては引いていく。

その一つ一つの音にグッと関心を引き付けられ、否応にも映像を見るという行為に集中力が高まっていく。

 

その瞬間だった。

 

左太ももに振動を感じる。

非実在の世界から現実へ一気に意識が引きずり下ろされる。

鏡などなくとも自分の顔は今歪んでいるとはっきりと分かる。

思わず舌打ちをしてしまいたくなる不快感の中、左の足のポケットに入っていた携帯を取り出す。

明かりの落とされスクリーンに映し出される映像だけが光源であるべきこの場所で、不釣り合いな小さな光が手元に収まっている。

 

『アリスがお兄ちゃんに迎えに来て欲しいって拗ねてる。今から幼稚園まで来れないか?』

 

そんな父からのメッセージがスマホのディスプレイには表示されていた。

胸の中で強烈な嫌悪感がぐつぐつと煮えたぎる。

そうか、こんな時でさえ忘れさせてくれないんだな。

いっそ笑えてしまう。あんなに引き込まれていた映像も音もほとんど頭に入ってこない。

頭の中ではもう、どう弁明してこの場を去ろうかという考えが巡り始めていた。

 

「ん」

 

それは一瞬だった。

この場に不釣り合いな明かりが消える。

俺の手には自分の物とは違う温もりが触れていた。

 

「ちゃんと電源消しとかないと駄目だよ」

 

彼女は眉を顰め、仕方ないなという表情をしていた。

それ以上は何も言わず、すぐにこちらへの興味を失ったようにスクリーンに向き直っていた。

 

『いきなり何を』

 

そんな事を言おうとして、口を噤む。

彼女は何も間違っていないと気づいたからだ。

映画の上映中に携帯電話等の電源は切っておくようにと、事前に何度も注意喚起されていた。

だから、間違っていたのは俺だ。

 

正しくマナーに則っていたならば、それは本来得るはずの無かった不快感だ。本来は知りえるはずの無かった情報だ。

だったら――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

俺は電源を切ったスマホをポケットに入れた。

既読もつけず、返信もしなかった。

俺は人生で初めて家族からの連絡を無視した。

不思議と罪悪感は無かった。正面のスクリーンに目を向け音と情報を取り込むと、そんなどうでもいいことはすぐに頭の中から押し出されていった。

映画を見ている最中そのことを思い出すことは一度も無かった。ただただ、スクリーンに映し出される興奮と熱狂に夢中になっていた。

 

==============================================================================

 

すっかりと日が落ち、代わりに月がその頭上に煌々と明かりを灯す。

晩秋の夜の肌寒さを感じながら、充足感に浮かされたままの足取りで俺と愛音さんは並んで歩いていた。

 

「あー……もうほんと良かった。ってもう何回言ったっけ?」

「10回以上は聞きました。……気持ちはわかりますけど」

 

映画を見終えたその帰り道、もう互いに存分に今日見た映画の感想を語り合った後だった。

その日得た興奮と感動はとても一人だけで消化できるものなどではなく、二人で見に来てよかったと心からそう思えた。

 

「そういえばさ、誰かから連絡着てなかった?返信しなくて大丈夫?」

「ああ、別に大丈夫です。……どうでもいいことだったので」

「そう?ならいいんだけど」

 

愛音さんにその話をされるまで、まるで忘れてしまっていた。

普段の自分なら余裕をなくして焦っていたかもしれない。

けれど、気づいてしまった。あんなメッセージに今日のデートを邪魔される理由なんてないということに。

今日のことは、家族の約束を破っているわけではない。正しいマナーの下で見て見ぬふりをしたというだけで、何も間違ったことはしていない。

姉さんと会っているのとはわけが違う。ただ個人的に付き合っている人物と映画を見ていただけ。俺と愛音さんの関係のことで、あの人たちに何かを言われる筋合いなど無いんだ。

 

不思議と、自分の中で奇妙な解放感があった。

こんなに純粋に何かを楽しんだのは何時ぶりだろう?

いつも時間を気にしていた。いつも人の目を気にして、いつも無意識にあの着信音に怯えていた。

けど、今日は違った。

 

()()()()()()()()

 

そう思えることに、確かな高揚を感じ取っていた。

 

「……今日はありがとうございます。おかげで楽しかったです」

「まあ私が何かしたっていうより、映画が最高だったって感じだったけどね」

「いえ、それだけじゃないです。今日一緒に映画を見た人が愛音さん……貴女でよかった」

 

自分の胸の中にある、ありのままの感情で感謝を伝えた。

愛音さんはというと面食らったというように目を見開き、その場に足を止めてしまっていた。

俺がこんなことを言ったことに驚いているのだろう。まあ、今までの俺の態度を考えれば当然かもしれない。

今この瞬間の高揚感に身を任せて言ってしまったという自覚はある。もしかしたら、冷静になった後に思い返すと恥ずかしくなってしまうのかもしれない。

けど、今あるこの思いを伝えずにいるのは不義理だと思った。

 

「……歩弥君てそんな風に笑うんだね」

「楽しいと思ったら、俺も普通に笑います」

「あ!写真撮ればよかった!」

「……心配しなくても、また機会はありますよ」

「またって……え?え!?今日ちょっとデレ過ぎじゃない!?」

 

それに対しては何も答えず俺は足を止めずに歩く。

愛音さんは慌てたように小走りで俺の隣に追いついてくる。

らしくないことを言ってるなと自分でも思った。だからこれは照れ隠しだ。

 

「じゃあ、俺はここから電車なので」

「えー?ああでも、中学生をこれ以上連れ回せないし仕方ないか……」

「愛音さんは家まで歩きですか?」

「うん。もうすぐ近くだしね」

「暗いのでお気をつけて」

「なんか優し過ぎて違和感あるかも」

「誰も貴女に興味ありませんよ」

「それはちょっと辛辣過ぎない!?」

 

少しだけいつもの調子を取り戻す。

それでもまだ、二人の間にある浮ついた空気感はまだ残っていた。

 

「それでは、俺はここで」

「あっ……」

「まだ何か?」

「えっと……この前ともりんにしてたみたいのはしてくれないの?」

「は?愛してるよってやつですか」

「そう」

「……まだ早くないですか?」

「……そうかも」

 

あはは、と愛音さんは照れたように頬をかく。

俺もだいぶ浮かれている自覚があったが、彼女も大概だったらしい。

いつも自分ばかり振り回されているイメージだったからか、その様子は新鮮に思えた。

 

「どうしてもというなら、嫌々してあげますよ。俺は脅されている身なので」

「今それ持ち出すの酷くない!?今日は結構いい雰囲気だったじゃん!」

「冗談です。後で写真も送りますね」

「あ、それ私が忘れるとこだった」

「今度こそ、さようなら」

「うん。じゃあまたねー」

 

そうして俺と愛音さんは別れて帰路に着いた。

電車の出入り口に背を預けながら、スマホの電源をつける。

あれから何件か父さんからメッセージが届いていた。詳しく読む気にはならない。『映画館にいて電源を切っていたので気づきませんでした』とだけ送る。

写真を送ろうとカメラロールを開く。いつもは何もないはずのそこに、いくつかの写真が残っている。

何も予告されずに写真を撮られ、神妙な顔でクレープを咀嚼している俺の姿が映っている。

変な顔だ。こんな姿姉さんには見せられない。

愛音さんと一緒に映っている写真は、どれもこれも決め顔の愛音さんとどう見ても嫌がっている俺の顔ばかりだった。

 

「ふふっ」

 

思わず笑ってしまっている自分が居た。

こんなちぐはぐな二人が映った変な写真なのに、どうしてこう……悪くないなと思えるんだろうな。

 

電車に揺られながら、俺は何のためにそのカメラロールを開いていたかも忘れて、ぼんやりと今日のことを思い返していた。

 

 





あの日のことを、冗談にしてしまえるほどの今日だった。
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