何を言っているのか、脳が理解を拒絶した。なぜ目の前の男の口からそんな言葉が飛び出すのか、理解が追い付かなかった。
「まさか、まだ知らなかったのですか? てっきり彼らに聞いていたと思いましたが……」
「……ちがう。だってそんなこと……」
おかしいじゃないか。たしかに姫が生きているなら、どこかに匿われているのだろうとは話していた。
だが、この男の口ぶりはまるでこの街全体が私を……
「7年前、あなたを見つけた我々はどうすべきか必死に考えました。なにせどこにも紐づいていない異邦人など初めてだ。文字通り、どう扱ったところで文句はつかない。あなたは最高の研究材料でした。どの組織も喉から手が出るほど欲しがった。あわや組織同士が開戦の一歩手前まで行ったのも致し方のないことでしょう」
ところが、と続ける。
「ひとりの人間がその状況に待ったをかけたのです。都市の絶対権力者、都市総合管理局局長に代わってその権威を振るう者、すなわち代行者が」
男の目にかすかな光が灯る。ゆらめく鬼火のような色。能面のような顔から隠しきれない強烈な感情が滲み出した。
「代行者はひとつの案を提示しました。曰く、白木華の血筋は極めてユニークで価値がある、ホルマリン漬けにするよりも我々で飼うべきだと。先見の明があったと言わざるを得ない。あなたは期待通り未来視を発現した。そしてその血はメイゼナウとの架け橋にふさわしいものだ」
さあ、続けましょうか。目の前の男はそう言って笑った。
薬指に感じる重みと金属の冷たさ。
自分の存在が知れ渡っていたことを理解すると同時に、新たな疑問が頭に浮かんでいた。
この男は自分の異能を知っている。ならばなぜこんな無意味な賭けをするのか。未来視を相手にギャンブルを挑むなんて正気だと思えなかった。
だが、その疑問も男の言葉によって最悪の形で解消された。
「まだ完全に制御できていないようですね。道具に頼るのは良いが、その対策をされる可能性も考えるべきだ」
男の蛇のような目が私のポーチを観察している。
そこで気付いた。薬によってもたらされていた偽りの全能感がきれいさっぱり消失している。勝負の直前に飲んだのだから、あと15分間はもつはずだった。
必死で現状を把握する私の目に、机の上に置かれた灰皿が映った。
まだ煙をくゆらせる葉巻からはかつての依頼で嗅いだ掃除屋の匂いが漂っている。
最初の依頼で嗅いだ香り。洋館での出来事が思い出された。
「煙草……」
「そのとおりです。掃除屋の愛用するこれには強力な解毒作用をもたらす成分が含まれている。促進剤に含まれる汚染物質も跳ねのけるほど強力なものが」
心臓を鷲掴みにされるような恐怖。
こいつは私がここに来ることを知っていた。薬に頼らなければ満足に異能を発揮できないことまでわかっていた。
足元が崩れていくような感覚を覚え、思わず声を発していた。
「……待っ――」
轟く銃声。
跳ね飛んだ薬指がゆっくりと目の端を横切っていく。
遅れて届く信号。焼けるような痛みとともに奇妙な喪失感が脳を支配した。
「――うわあああぁぁっっ!!」
痛い、痛い、痛い!
必死で涙をこらえる私の耳に無感動な、ひどく冷淡な声が耳に届く。
「薬に頼るものは何人かいたのですよ。彼らの場合は取るに足らない悪戯だったので見逃しましたが、あなたはちがう。そんなくだらない物に頼るべきではない」
無機質な瞳が私を値踏みするように見下ろす。
「しかしまあ、ずいぶんと脆弱ですな。だから甘やかすなと言ったのに。それで、どうしますか。続けますか」
恐怖と痛みでごちゃ混ぜになった思考が警告を発する。危険を冒すべきではない、今すぐ逃げろと。
それを引き留めたのは胸に灯った微かな火だった。
(お姉ちゃんもこんな風に殺されたのか)
センセイに見せられた写真を思い出す。解体屋の拷問で苦痛にゆがんだ被害者の最期の表情。
暴力で他人を支配しようとするこいつらが殺したくなるほど憎かった。
苦痛をこらえ、薬指の欠けた左手をテーブルの上に戻す。
涙に滲む目で目の前の男を睨みつけた。
「良い目だ。昔を思い出す」
乱れた呼吸を戻す。苦痛と恐怖に慄く頭の中から不要なノイズを取り除く。自分自身の目的を強く、強く自覚する。
目の前の屑から情報を引き出すこと。それが姉の復讐を遂げる最良の手段だ。
3度目の試合が幕を開ける。中指にかかる重み。じくじくと痛む薬指の根元。
苦境に立たされている。私の来訪を予想していたこの男から少しでも多くの情報を引き出さなければ、この賭けに勝機はない。
「……あなたの狙いは嗜虐的なギャンブルじゃない。私の異能を引き出すこと」
「…………」
男は目を細めた。無言で続きを促す。
「一見管理局に従っているように思える。でも疑問がひとつ。なぜ局の方針に逆らって解体屋のデータを残したの? 来るかもわからない私のためにリスクを冒す意味がない」
「いいえ、あなたが来ることは分かっていました。我々は同じ道を歩いているのですから」
「なにを言っている……?」
男の瞳が遠い記憶を映し出す。対面する私を炙るほどの大炎がその目に映っていた。
「昔、代行者とおなじような賭けをしました。小細工はなしでね。私にとって、こんなあまっちろい賭けは勝負にもならないと思っていた」
男が人差し指と親指しか残っていない左手を掲げた。
「その結果がこれです。1発ずつ交互に引き金を引く中で、私の弾丸は1度たりとも命中することはなかった。20年に及ぶ賭場の経験も、オーナーとしてのプライドも、まるで役に立たなかった。今でも、失った右目にあの燃えるような瞳が焼き付いている。すべてを焼きつくす彼女の瞋恚の炎が」
焼き付くような狂気を宿した瞳が私を見る。男は私に同じものを求めていた。
「あなたはいずれ代行者の後を継ぐことを期待されている。であれば我々と同じ試練を越えなければならない。あなた自身の価値を証明するために」
「そ、そんな狂った考えのために自分の組織を危険にさらしているのっ!?」
「私が正気かどうかは結果が証明してくれるでしょう。さあ、神経を研ぎ澄ませてください。1本でも多くの指が残るように」
狂人の考え。悪魔のような言葉に言いようのない恐怖を感じる。
目の前の男は自分とは別の道理で生きていた。だが、その狂的な理論が男を今の立場まで引き上げたのだ。解り合う道などあるはずがなかった。
必死で失った感覚を探す。霧を掴むような感覚。どれだけ探しても薬によって得ていた感覚は戻ってこなかった。
指にのしかかる黒鉄の冷気が私を追い立てる。
無情な発砲音。
飛び散る中指。
狂人は痛みに呻く私をゴミのように見下ろす。拳銃にはねた血を丁寧に拭うと、まるで期待していたおやつが腐っていたかのように吐き捨てた。
「がっかりですね。まさかここまで軟弱に育っているとは。これでは彼女の健闘も無駄だ」
「……何を言っているの」
「なぜ監視対象のあなたが南区の貧困街で暮らしていたか、不思議に思いませんでしたか? 本来ならどこかの研究所で幽閉されてしかるべきだ。そのほうが観察もしやすいし、今回のように必要な刺激も与えられる。そうならなかったのはあなたの姉が懇願したからです」
「姉さんが……?」
「代行者はその考えを取り入れました。こちらに情が湧いたほうが扱いやすいと判断したのかもしれません。決定の後、白木光里は普通の人間では到底処理し切れない量の仕事を任されるようになりました」
言葉を失う。幼き日、いつまでも姉を待っていた記憶がフラッシュバックした。
真っ暗な部屋でただ姉を待った。疲れ果てて帰ってきた彼女を何度もなじった。自分よりも仕事のほうが大事なんだと。
「あなたは彼女の失敗そのものだ。中途半端な情に流されて血のつながらない妹など守らなければもう少し長生きできたのに。結局たいした成果も出せず、一般管理区域での観察期間は打ち切られた。しびれを切らした上層部からあなたの移動を命じられた彼女の表情は傑作でしたよ」
心が軋むような音を立てた。
欠けてなくなった指よりも、在りし日の記憶が強い痛みを訴えていた。
4度目の発砲音、人差し指が失われる。
微かに呻く。新たに生まれた痛みさえどこか遠くに感じた。
男は気力を失った私の姿を見て大きなため息をついた。
「これでも駄目ですか。本当に度し難い。……仕方ない。本当は後にとって置くつもりでしたが、面白いものをお見せしましょう」
オーナーは懐から1枚の写真を取り出して机に置いた。
穏やかに眠る顔。悪夢の夜の光景。あの場にいた人間しか撮ることのできないはずの写真。
ブルーシートの上に横たわる彼女の姿を認めた脳が沸騰した。
「おまえかああああぁぁっっ!!」
写真に映っていたのは白木光里そのひとだった。