『大狼』(たいろう)
…都市の最大戦力。最強の掃除屋。
夕日が地平線に沈みつつある。賭場を出ると、橙色の光が私たちの顔を横殴りに照らしてきた。
結局トランクのお金も置いてきた。オーナーの言う通り、今の私たちには不要だったし、余計な面倒事の種を抱え込むのも嫌だったからだ。
賭場の外で獲物を物色していた連中は、私たちの表情や血のとんだ服装から美味い獲物ではないと判断したのだろう。あっさりと潮が引くように掃けていった。
賭場から直接目が届く範囲ではさすがにいないが、すこし離れればこんな風に人食いどもがたむろしている。
私はその光景に言いようのない既視感を感じた。彼との賭けの途中に、正確に言えば、完全に異能を掌握したときに胸中を満たした罪悪感が再び私を押しつぶそうとしていた。取り返しのつかない過ちを犯したみたいにじくじくと胸が痛んだ。
「……華? 大丈夫ですの?」
「あ、うん。なんの話だっけ」
訝し気にレイが私の顔を覗き込んでくる。自分でも気付かないうちに思考の海に沈んでしまっていたらしい。今は余計なことに気を回している場合ではない。
魔力不足で青白い顔をしたレイは心配げに言葉を続けた。
「一度休んだほうがよろしいのではなくて? わたくしの魔術でも失った血は戻せてませんし、なによりあんな拷問みたいなギャンブルをしてからすぐに動くのは……」
「ううん、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから。それに……」
震える声で続ける。制御できない感情の波が再び押し寄せてきていた。怒り、恐怖、悲しみ、後悔、そして使命感。複雑な色に染まったマーブル模様の心が肉体を追い立てていた。
「一刻も早く教会に行かなきゃ。これ以上の犠牲者を出さないためにも」
「……わかりましたわ。じゃあ行きましょう」
レイは何かを言いたげにしていたが、結局それを飲み込んで歩き出した。
ふらふらとおぼつかない足取り。回復魔術の使用で大量に魔力を消費したのだ。私よりも彼女のほうがずっと弱っている。
「……レイ」
「なあに?」
彼女はこちらを振り返り、私をじっと見つめて悲し気に言った。
「……そうね。分かっていますわ。今のわたくしでは足手まといにしかならないですわね」
そんなことはない。そう言いたかった。でも彼らがどう振舞うかなんて分からない。私を求めてここまでついて来てくれた彼女を危険に晒したくなかった。
ふらつく彼女に駆け寄って抱きしめた。熱を失った冷たい身体。甘い香り。
張り裂けそうな心臓を抑えて震える声を絞りだした。
「――ごめん。私、レイとは一緒にいけない。私、この街でみんなを守らなくちゃ」
「……良いんですのよ。どうせお父様が勝手に言い出したことだから。……でもわたくしが観光に来ることだけは許してね?」
おどけてみせる彼女に向かって笑ってうなずいた。
願わくば明るい未来が来ますように。ただ望むだけではない。それを叶えるのが今の私の使命だった。
×××
レイと別れ、東区に位置する教会本部に向かうためタクシーに乗った。一刻も早く代行者を止めなければ。
意外なことにユライはついて来ていた。だが、この男なら適当なところで離脱するだろう。レイのように私に対して特別な感情があるわけでもないのだから。
私はこの狼人に対しては奇妙な信頼を持っていた。それは互いに独立していて、一切の責任を負う必要がないという気安さから生まれていた。
「しかし『災厄の魔法使い』ですか。やっぱりこっちに来てたんですねえ」
車内に緊張感に欠ける間延びした声が響いた。
さきほどのオーナーの話をしているのだろう。たしか、レイが言っていた気がする。私をこちらに連れてきたのもその魔法使いだと。
「昔から伝わるおとぎ話みたいな存在だったんですがね、こっちにワームホールが開いたでしょう? それからメイゼナウはすこぶる平和になっちまいましてね。それでやっと分かったんですよ。ああ、やっぱりいたんだって」
「……平和になったら存在を実感するって。どんな厄物なの、それ」
ユライが乾いた笑いを浮かべる。それから、したり顔で頷いて話を続けた。
「文字通り『災厄』ですからねえ。バルバロイも当時はゲートを開いて異世界にドンパチしに行くなんて思われてなかったんですよ。そもそも脳筋ばかりの国でしたからね、だからよくも悪くも放っておかれたんですが」
「ワームホールを開いたのがその魔法使いだって言ってるの?」
「少なくとも三国同盟はそう考えているみたいですぜ。境界空間を道にして別々の世界をくっつけるなんて頭のイカレた真似、ハラヘラムの賢人たちにも不可能ですから」
ただ、と異邦の狼は続ける。窓ガラス越しに流れていく街の明かりで彼の顔が照らし出されていた。
「にわかにはあんな怪物を抑えられる人材がこの街にいるとは思えないんですよねえ。20年間も『災厄の魔法使い』がいるならこの街はとっくにやつの根城になってなきゃおかしいはずなんです。やっこさんの気に入るなにかがこの街にあったんでしょうかねえ。まあ、この街が本当に龍狼を下したってんならわからねえ話でもないんですが」
私は彼の疑問に返す言葉を持たなかった。それなりの修羅場をくぐり、2つの世界を見てきたこの男が言うのならそうなのだろう。
ただ、奇妙に現実味のない話だった。15年間暮らしてきたこの街が得体のしれない人物に支配されていて、異世界から来た罪人と戦っている。姉はこの街の現状をどう思っていたのだろうか。
首に下げたポプリを握りしめる。すっかり香りの飛んでしまったそれは、姉がたったひとつだけ私に残してくれたものだった。
曲がり角を発進しようとしたそのとき、窓がコンコンと叩かれた。ドアが開かれ、ユライの隣にひとりの女性が乗り込んでくる。
さきほどまで講釈をたれていたユライが悲鳴を上げてこちらにすり寄ってきた。
「よお、忙しそうだな」
かつて1度会った掃除屋の頭。乗り込んできたのは灰色の髪をたなびかせた女だった。なぜか酒瓶を持っている。
彼女は尻尾を抱きかかえて震えあがる狼人を気にした様子もなく、くわえた煙草に火を灯すと私の顔をじっと観察し始めた。
『野良犬くん』。オーナーがユライをそう称した理由がよくわかった。彼女を知る人間からすれば、狼という言葉はユライには不相応だ。モノが違う。あらためて見る彼女には立ち塞がる障害のすべてを取り除けるだろうという圧倒的な存在感があった。
車内に漂う煙に迷惑そうな顔で振り返った運転手は彼女の姿を認めて無言で視線を戻した。
「……私を止めに来たんですか?」
「ああ? ……いいや。たしかにあの人の下でもう1度戦いたいって気持ちはあるがな。あの人はもう疲れ果ててた。寝てるところを叩き起こしてまた働けなんて死んでも言えねえよ」
ポンと差し出された言葉には本心ゆえの気安さがあった。
意外に思う。全員が全員、代行者の回復を願っているわけではないらしい。ではなぜ私に会いに来たのだろうか。
「あたしはお前を見に来たんだ。お前があのクソったれに対抗できそうかってことをな」
「……クソったれ?」
「わからないならそれでも良い。どうせ嫌でも会うことになるんだから」
局長のことだろうか。だが現場の掃除屋と本部に引きこもっているだけの局長に接点があるとは思えない。
もしくは……いま話題に挙がった『災厄の魔法使い』か。
「それと、あたしたちはこれから1週間喪に服す。今夜お前らがどんな選択をしようと、あたしたちが首を突っ込むことはない。なにしろ久しぶりにみんなで飲む予定だからな。頼むから静かに放っておいてくれ」
「……わかりました」
掃除屋は教会との交渉に首を突っ込まないという宣言だった。邪魔が入らないことを喜ぶべきか、事実上見放されたことを悲しむべきか判断に迷う。
私は不安な気持ちを抑えつけるようにポプリを握りしめた。すっと思考が冴えていく。どちらにしろやるべきことは変わらないのだから気にするだけ無駄だ。
彼女はじっと私の胸元を見つめている。あまりにも不躾な視線に思わず戸惑いの言葉を上げた。
「な、なんですか」
「……いや、似てねえなと思ってよ」
無意識のうちに身体が強張る。誰と比べられているかは確認するまでもなかった。
「それ、あなたに関係ありますか」
彼女は軽く鼻を鳴らした。
「いいや。ただ家族ってもんは血だけじゃねえからな。お前が姉ちゃんを思うようにあたしたちもあの人を思っている。それだけは忘れないでくれよ」
そう呟いた彼女の横顔は街の明かりに照らされてひどく寂しげだった。