「もう1度だけチャンスをあげよう。きみが『代行者』に相応しいのか、わたしに示してくれ」
「おとなしくついていけば、レイを解放するとでも言うつもりですか」
「いいや。私は5分後にこの病院の地下に仕込んだ玩具を放つ。きみが彼女の後を継ぐというのなら、私に囚われた友人と数百の魔獣に襲われる市民を守ってみせなさい。私はきみを捕えてメイゼナウへと帰還する。ザガロフの血と異能は平和ボケしたメイゼナウを面白い色に染めてくれるだろう」
絶望的な状況だった。守ると誓った街が焦土と化し、操り人形となった自分が異世界で新たな悲劇の作り手となる光景を幻視した。ここでセンセイを止められなければそれらはすぐに現実となるのだろう。
引き寄せたカバンの中で冷たい感触を握りしめた。まだ思い通りに動かない脳みそで頭の裏を覗き込む。ボロ雑巾を絞るように乾いた身体から魔力をかき集めると、鼻の奥に強い鉄錆の匂いがした。
「……あなたはなにがしたいんですか。こんな……ただ、破壊と混乱を振り撒くようなことに何の意味があるんですか!」
「この期に及んでまだそんなことを言っている余裕があるとは。前にも喋っただろう? ……暇つぶしだよ」
本当に? ならなんで代行者が死んでから今までおとなしくしていた? 絶好のチャンスじゃないか。邪魔者もいなくなって思う存分好き勝手できたろう。
……いいや、ちがう。そうじゃない。いま言ったじゃないか。『暇つぶし』だ。対戦相手のいないチェスなんて誰がやりたがる。コイツはずっと遊び相手が戻るのを待っていた。そのために教会に蘇生の魔術を教え、私に事件の手がかりを渡し、儀式が行われるのを助けた。
コイツは代行者に、姉に戻ってきてほしかったんだ。自分の孤独を癒してくれた、ただひとりの理解者を手放したくなかったんだ。
でもひとつだけ疑問がある。姉を助けたいなら自ら手を下せばよかったのに、なぜこんな遠回りな真似をしたのか。
『彼女はこんなことを望まないでしょう』
そうだ、姉は自分が助かるために大勢の命が失われることを望まない。だからセンセイは表立って動けなかった。主導者が自分だとバレれば、姉に嫌われるかもしれないから。
そしていま、その目論見が失敗したことに腹を立てて八つ当たりをしている。……なんて幼稚なんだろう。
「……姉さんとの関係も、単なる暇つぶしだったって言うんですか?」
「…………」
「姉さんが愛したこの街を……センセイは本当に壊すつもりですか?」
「……そ――」
なにかを言いかけたセンセイに向かって取り出した拳銃を発砲した。
弾丸は不愉快そうに歪んだ顔の前で静止している。
物理法則をあざ笑うような異常な光景だった。
だが、その光景もすでに知っていた。
「無駄だよ。私に普通の――」
扉を蹴破って狼人が侵入してくる。それに合わせてさらに2発、発砲した。
あらぬ方向に発射された弾丸は予知通り、壁を反射して軌道を変えた。乱入者に意識を向けたセンセイを上下から襲い、ガラス玉を跳ね飛ばす。
宙を舞うそれを獣のように捕まえて、ユライが私の横に着地した。
「いやはや、うまくいきやしたね。こんなのはこれっきりにしたいもんですが」
緊張からか全身の毛を逆立てたユライの顔は冷や汗でじっとりと濡れていた。
センセイは血の滴る指を不思議そうに見つめていたが、やがてポツリと呟いた。
「――ゾリス」
轟音とともに病室の壁が破壊される。侵入してきたのは巨大な骸骨の腕だった。崩れ落ちた壁の外に、肉と皮の代わりに濃密な魔力を纏った規格外の大きさの巨人が立っていた。
8メートルを超える巨躯、骨の冠を戴く双眸には青い鬼火が踊る。ボロボロの黒い外套には赤い竜があしらわれていた。
「『骨喰(ほねばみ)ゾリス』……。40年前に西の都を死者の街にした特級魔獣ですか。とんでもないもんが出てくるもんですねえ……」
巨人が守るようにかざした丸太のような指の間から濁った視線が私を貫く。
「……その拳銃、誰から受け取った? いや、いい。私も無駄な争いはしたくない。それとポプリを渡したまえ。それで手打ちにしようじゃないか」
その言葉に思わず笑いだしてしまった。乾いた笑い声はすぐにゴホゴホという血の混じった咳に変わる。
心臓が握りつぶされるように痛む。儀式で空っぽになった魔力を無理矢理絞りだしたせいで身体にガタが来ているのだ。
「……やっぱり、どうでも良いなんて思ってないじゃないですか。でもそれは不可能です。もう壊れてしまいましたから」
「……」
「ずっと不思議だったんです。なんでみんな私の居場所がわかるんだろうって。発信器でも仕込まれてるんじゃないかって。もしそうなら私が絶対に手放さないものに仕込むはずです。たとえば携帯。もしくは――」
ずっと握りしめていた左手を開いた。布で作られた袋から、粉々になった花と機械の欠片が降り積もってシーツの上に山をつくった。
「――姉さんのくれたポプリ」
魔術師はもう直す者のいなくなった匂い袋を呆然と見つめた。
「そうか……ならいい」
一切の光を飲み込む奈落の瞳に身体が震える。
軋むような唸り声をあげて骸骨が手を伸ばしてくる。
ユライが守るように私の前に立って……飛来した墓石が骨の腕を粉砕して壁に突き立った。
「なんだと?」
崩れ落ちえう壁を背に、墓石から降り立った大狼が凶暴な笑みを浮かべた。
言葉の応酬もなく、灰色の狼は怨敵へと走り出した。
進路を遮るように伸ばされた巨大な骨の腕が槍の一振りでバラバラに砕け散る。狭い室内で思うように動けない巨人を尻目に、狼はさらに駆けた。
魔術師の黒衣から生み出された無数の犬が、獅子が、竜が、襲いかかってはまるで虫けらのように斬り砕かれる。
本来であれば警備隊と何人もの掃除屋を集めなければ討伐し得ないような魔獣が、たったひとりの狼によって塵殺されていく。
手駒を犠牲に稼ぎ出したわずかな時間で、センセイはこちらを指差した。
ベッドの上で呆然と状況の推移を見守っていた私の手から、空になったポプリの袋が吸い寄せられるように宙を漂って魔術師の手に移る。
センセイは目的の物を懐にしまうと、崩落した壁から下の歩道へと飛び降りた。魔獣を生み出しながらさらに距離をとろうとする魔術師に向かって狼は大きく跳躍した。
「ふふっ、飼い主に捨てられたにしては――」
「死ね」
半月を描くように水平に振られた槍は、肉壁とかざされた魔法陣もろとも魔術師の身体を切り裂いた。身体の中程まで断たれた衝撃で魔術師は大きく吹き飛ばされる。
即座に追撃に移ろうとする大狼に巨大な影が降りかかる。飛びのいた瞬間に巨大な拳が先ほどまでいた歩道にめりこんだ。
真上からの巨人の叩きつけをなんなく躱した狼が、得物を大上段に振りかぶった。かすかな呼気とともに振り下ろされた一撃は数百年生きてきた骸の王の残った腕を叩き切る。
間に入って粉微塵にされる魔獣の後ろで、魔術師の姿が黒衣の中に溶けて瞬く間に消えていった。
その場の脅威を殲滅し終わった大狼が病室へと戻ってきた。
「ちっ、逃がしちまったか。とはいえしばらくは引っ込んでるだろ。ありがとよ、嬢ちゃん」
「まだ、地下に……」
ゴボゴボと血の混じった咳が出る。頭が重い。寒い。視界がどんどん暗くなって、
「おいおい、大丈夫かよ」
「いけやせん! 意識を保って――」
真っ暗になった。
×××
意識が揺蕩う。
灰色の世界の中、冷たい川の中に膝上まで浸かっている。水の流れは激しく、立っているので精一杯だった。
進まなければいけない。心の奥底から湧いた源泉の不確かな使命感に突き動かされて歩き出したが、どれだけ進んでも向こう岸にはたどり着けない。変わらない景色が、あまりにも遠い目標が私の心を苛む。
寒さに震える私は前方に人影を見つけた。結った黒髪に華奢な背中は見慣れた姿のままだった。
川の中から岸に上がった彼女はこちらを振り向くことなく遠ざかっていく。
「待って……」
胸が締め付けられる。追いつかなければならない、その一心でがむしゃらに脚を動かす。
やっと少し近付けた、そう思ったところで、石のぬめりに足を滑らせてしまった。
「――うっ……」
寒い。
四つん這いになって震える。氷のような冷水が身体の芯から体温を奪っていく。
全身ずぶぬれになった私の視界に、温かな赤い光が飛び込んできた。その源は彼女の背中から生えた翼だった。
「あっ――」
彼女は私の視線を拒むように翼を羽ばたかせた。ひときわ強い光と熱気が襲ってきて、思わず目を閉じる。
凍えていた身体が燃え尽きてしまうんじゃないかと思うほど猛烈な熱波だった。数十秒か数分たって、熱気が去って……ようやく目を開くと彼女の姿はなくなっていた。
あとに残されたのは干上がった川の中に立つ私と数枚の羽根だけ。それも風に流されるように飛んでいく。
私は追いかけるために走りだそうとして……後ろから弱々しい力で手を引っ張られた。
振りほどくのは簡単だったけど、なぜだかそんな気持ちになれなかった。
「…………」
進む道はそっちじゃないよとでも言うように、立ち止まった私を何度もせっつく柔らかい手のひらを強く握り締める。
深い森の中へと消えていく羽根を最後に見送って――
「さよなら」
――振り返って歩き出した。
×××
「…………ッ!! ハア、ハア……」
薄暗い空間に裂け目が生じる。それは黒衣の人物を吐き出すと、すぐに消失した。人影は流れる血を手で抑えながら荒い息をしている。
油断していた。いいやそれは負け惜しみになるか。小娘があそこまでやるとは嬉しい誤算だった。てっきり泣きわめいて塞ぎこむだけかと思っていたが。
大狼につけられた傷の回復にはしばらく時間がかかるだろうが、それもさして苦にはならない。玩具もまだ十分に残っている。
いまから彼らで遊ぶのが楽しみだ。彼らの痛みと絶望は彼女と再会するまでの退屈を埋めてくれるだろうか。
「ふふっ……」
転移で飛んだのは隠れ家のうちのひとつだった。かつて戯れに彼女を招待した場所だ。この場所を知っているのはもはや自分以外にいない。
掃除屋どもの武力は脅威だが直接やり合わないのならいくらでもやりようはある。ゆっくりと傷を癒し、それからかき回せばいい。
それに、必要なものも手に入った。なぜ蘇生の儀式が失敗したのかは不明瞭だが、おそらく余計な血が混じったことで術式がくるったのだろう。
くだらない、なにが余分な犠牲だ。半端者どもめ。あの賭けさえなければ私が直接執り行ったものを。
問題は残りの部位を持っているあの修道女がどこに行ったのかだが……。
不意に灯りがともり、暖かな光が魔術師の顔を照らし出した。
「演目は楽しんでいただけましたか? 『先生』」
懐かしい声が聞こえた気がした。
視線を向けた先、照明の傍に立っていたのはひとりの幼子だった。色素の薄い肌、金の髪、ルビーの瞳は照明の光に照らされて燃えるような色を帯びている。
見覚えのないはずの幼女はよく見慣れた表情を浮かべていた。イタズラを成功させた子供のような笑顔。
外見ではない、その魂の奥に燃え盛る大炎を幻視した。ただ呆然と見つめることしかできない。この手から零れ落ちたはずのものがそこにあった。
「……きみは――」
夢中で手を伸ばした。もう2度と失わないように、今度こそ――
――身体を貫く衝撃。ふたつの世界をもてあそんだ大罪人の意識はそこで途切れた。
×××
こどもはかつての師を見つめていた。
視線の先では純白の甲冑に身を包んだ異端審問官がふたり、念入りに死体を切り分けていく。人体を小さく切断し、保存容器に詰めていく作業はあの夜に行われたものと同じだった。
最後に残った首を銀髪のシスターが運んでくる。
幼女は従者が差し出した魔術師の首を受け取り、大切に抱きしめた。
白い服が赤く染まる。手に入れた物の重さを確認して、幼い顔は陶然とした笑みを浮かべる。
すりつけるように自分と魔術師の額を合わせ、血の朱に染まった唇で熱情を紡いだ。
「これで……やっと、私の物になってくれましたね」
10年の時を経て、彼女はようやく本当の願いを叶えた。