――頭がいたい、身体が怠い、お腹が減った。
目が覚めた私は概ねそんな感想を抱いた。
カーテンの隙間から差し込む光は強く、私の意識を蝕む。汗で湿ったシーツがたまらなく気持ち悪い。
なぜこんなところにいるんだろう。私はぼんやりとした頭で記憶を掘り起こそうとした。
――身体を指し貫かれる痛み、異物が体内に侵入する気持ちの悪さ、それらをまとめて吹き飛ばすような強烈な快感と酩酊感。
「うえぇぇっっ、、」
昨夜の私が経験したのは、自分の中身を爪先からてっぺんまでなめまわされるような不快感だった。
なによりも恐ろしいのは、それらが徐々に馴染み、気持ち良さへと変わっていったことだ。自分の感情を無理やり書き換えられるような異様な感覚に強い拒否感を覚えた。
「うぅっ……」
夢中でベッドから這いずり出した。ポーチからポプリを探し出し、額に当てる。微かに漂う香りに、ゆっくりと落ち着きを取り戻していく。
私はあれによく似た感覚を知っている。隔離地区に来る直前に寧子と味わった感覚。あれは促進剤と同じものだ。自我を揺さぶる快感と異物感。
すこし早まったかもしれない。血を渡すだけだと軽く考えていたが、それだけで済んだとは思えなかった。
廊下を歩く足音が近付いてくる。それは扉の前でぴたりと止まった。
がちゃりと扉が開き、血色を取り戻した依頼人が大量の荷物を抱えて部屋に入ってきた。彼女はこちらの姿を認めるとぱっと顔を輝かせる。
「華っ! 起きたんですのね!」
「あ、はい。……うっ」
返事をするが、途中で頭が痛くなり、こめかみに手を当てる。
それを見た彼女は荷物を放り出すと、私を抱え上げてベッドへと戻した。
「駄目ですわよ。元気になるまで休んでいてくださいまし。あなたの代わりはいないのですから」
痛む頭ながらに違和感を覚える。彼女はこんなに親身だったろうか。それに、まるで旧来の友人のように私を名前で呼ぶのはなぜだろう。
「なにか食べますか? いろいろ買ってきたんですのよ。ばあやからこういう時の作法は教えられていますから」
「あの、それってあなたが買ってきたんですか?」
「ええ。案外バレないものですわね」
あっけらかんと笑う彼女により一層頭痛が酷くなった。もし、異邦人だということがバレていればどうなったことか。これでは私がついてきた意味がない。
「わたくしが食べさせてあげますわね。これなんかどうかしら」
「え……」
困惑する私にかまわず、依頼人が上機嫌で栄養食を差し出してくる。溢れんばかりの笑顔から親切心ゆえの行動だとわかったが、それにしても強引である。
私は得体のしれないこの状況に混乱していたが、今は体力を戻すのが優先事項だと割り切ることにした。
差し出した食事に食い付くと彼女は喜び、花が咲いたように笑った。
×××
調子が完全に戻るまでは丸々2日かかった。彼女はその間ひなを育てる親鳥のように甲斐甲斐しく私の世話をした。
完全にグロッキーになっていた私は、所長や寧子に最低限の連絡をした後ずっと伸びていた。体調が回復して暇になると、私は彼女に色々と聞くことができた。
「あの――」
――なんでそんなに馴れ馴れしいんですか。
口から出かけた疑問をすんでで飲み込む。直接聞くのは怖かった。私の脳裏には昨夜の記憶が鮮明に刻み込まれていた。
彼女は言い淀む私を不思議そうに見つめる。その顔からはこれまで存在していた警戒心を欠片も感じられない。
「――身体は大丈夫ですか?」
結局、私の口から出たのはそんな当たり障りのない言葉だった。
彼女はそれを聞いて嬉しそうにコロコロと笑った。
「えぇ。お気遣い感謝しますわ。もうすっかり、なんでしたら今まで生きてきた中で1番体調がよろしくてよ」
大袈裟だなと思ったが、彼女の満面の笑顔にその言葉が本心からのものだとわかった。
「華のおかげですわ。あらためてお礼を言わせてください。この恩義はいつかかならず返しますわ」
混じり気のない感謝の言葉に、私は彼女の顔を見れなかった。今まで他人からこんな風に面と向かって礼を言われる機会がなかったため、なんとなく気恥ずかしかったのだ。
「……名前で呼ぶようになったのもそのせいですか」
「えぇ。私、昨夜が初めてでしたの。人と繋がることがどういうことかよくわかりましたわ」
「初めて?」
うっとりと昨夜の記憶に浸っている彼女に問いかけた。彼女は笑顔でその言葉を肯定する。
「メイゼナウでは血を吸う必要なんてありませんから。もちろん、嗜好品として頂き物を飲むことはありましたけど、それも瓶に詰まった状態でしたわ」
メイゼナウ――異世界はこちらの世界と違って魔力に満ち溢れている。普通に生きるだけなら大気中の魔力だけで消費をまかなえたということだろう。
しかし、血を吸わないのに吸血鬼とは。一体誰が名付けたのか。
考え込む私に彼女はにこにこしながら言った。
「華もそんな堅苦しい言葉は止めてくださいまし。私のことはレイと呼んで。家族はそう呼びますの。私、同年代のお友達ができたのは初めてですわ」
突然の彼女の提案に衝撃を受けた。
――お友達? 何を言っているんだ、コイツは。捕食者と被食者の間違いだろう。
一方で、頭の中の冷静な私が言う。
――今の段階で依頼人の機嫌を損ねるのは得策ではない。少なくとも依頼達成の見通しがつくまでは、このおままごとに付き合ったほうが状況をコントロールしやすいだろう。
私は薄汚い本心を飲み下して無理やり笑顔を作った。
「わかった。よろしくね、レイ」
私の言葉に彼女はぱっと顔を輝かせた。
×××
「せっかくだから聞いておきたいんだけど、なんでそんなに家宝の奪還に拘ってるの? 『純血のマドラー』って貴族様が密入国して単身で取り返しに来るほど大切なものなの?」
依頼人にため口を使うという行動に生じた違和感を押し殺して彼女に問いかけた。それは依頼を受けた時からずっと気になっていたことだった。
盗まれた物を奪い返す行為は理解できるが、金持ちならもっと安全で効率の良いやり方を取るはずだ。護衛を連れてくる、こちらで言う便利屋のようなものを雇うなど、慣れていない自分でも簡単に思いつく。目の前の少女がそれらを無視して強引な手段を取ったのはなぜなのだろうか。
私の質問に吸血鬼の少女は居住まいを正した。
「『純血のマドラー』は母の形見ですの。彼女は私が3歳の時に弟を産んで死んでしまいましたから」
この街では珍しくもないことが、異世界でも当たり前のように起こるのだということをその時になってようやく知った。
私にとって宇宙人でしかなかった彼女たちも、私たちと同じように生きているのだ。
「あ、ごめ――」
「良いんですのよ。気にしてない訳ではありませんけど、もう昔のことですから。でも――」
レイは自分を落ち着かせるように何度か深呼吸をする。
「――それが盗まれていることをお父様に伝えた時、なんて言ったと思いますか? 『お前はそんなことよりも期末試験の結果を気にしろ』ですって。たしかにわたくしの成績はお世辞にも良いとは言えませんが、そんなものを母の形見と並べるだなんて許せるはずがありません! お父様は人でなしの冷血漢ですわ!」
彼女はひとしきり吠えると、呆然としている私に気付いて咳払いをした。
「それでカッとなって出てきたと」
「……まあ、そうなるかしら。でも、こちらに来てから考えたんですの。これは大きなチャンスかもしれないって。もし成功すれば、お父様や、日頃わたくしを馬鹿にしてくる学園のクラスメイトをギャフンと言わせられますわ。きっと爽快でしょうね。それに……弟も助けられるかもしれませんし」
物憂げに彼女は話した。
「弟さん?」
「ええ。わたくしよりもずっと頭が良くて、手の掛からない子。……華はわたくしたち吸血鬼の家督相続がどうやって決まるかご存知?」
突然の質問に考え込む。
「……こっちの偉い人なら能力が重要視されるのかな。あとは男性が優先で女性は嫁に出されるかも」
「こちらは能力至上主義ですわ。性別も生まれた順番も関係ない、ただ優れた子供が家名を引き継ぎますの」
レイが遠い目をした。弟のことを思い浮かべているのかもしれない。
「そういう意味ではあの子はレイモンドの名に相応しいですわ。お父様も家臣たちもみんな認めていますから。……でも、すこし優し過ぎる。花ひとつ手折れないですのよ。表面上は取り繕うでしょうけど、きっと貴族の世界で擦りきれてしまいますわ」
「だから、重荷を背負わせないように自分が家を継ぐって? そんなのお節介かもしれないよ」
「それならそれで良いんですの。わたくしがやりたいようにやっているだけですから」
泰然と返す彼女の姿にチリリと胸が痛んだ。
彼女は一通り話して満足したようだった。手に持っていたペットボトルに口をつけて顔をしかめた後、ふと思いついたように私に尋ねてきた。
「華はどうしてこの依頼を受けてくれたのですか?」
「……なんでそんなこと聞くの?」
「木崎さんと事務所を回りましたけど、こんな怪しい仕事は受けられないって散々言われましたもの。だから不思議に思って」
「……この街で仕事を選べる若者なんてごく一部だよ。私だって所長の信用を得られたからこのチャンスを貰えた。きっとレイが行った事務所には若者がいなかったんじゃないかな。木崎さんだってこんな厄介事、下手な事務所に持って行けなかっただろうし」
「仕方なくってことですの? そうは見えませんでしたけど……」
口から出た言葉に嘘はないが本当のことを言っているわけでもなかった。
隔離地区の若者に余裕がないのは事実だ。ただし、学友たちと違って自分には保護者が付いているぶん、それほど切迫した状況にいるわけでもなかった。
異邦人の真摯な瞳が私を見つめている。私はその目に耐えられなくなって、これまで親しい友達にしか明かしてこなかった胸の内を吐き出していた。
「早く自立しなきゃいけないの。これ以上迷惑をかけたくないから。……姉さんには」
「お姉様?」
「そう。外――一般管理地域で働いてて私に仕送りをしてくれてるの。両親が事故で亡くなってからずっと私を養ってくれてる。……私が感染者になってからも、ずっと――」
×××
――姉の姿が重荷になり始めたのはいつの頃からだっただろうか。
私たち姉妹は南区の、それなりに恵まれた家庭に生まれた。
両親は金勘定が得意だったようで、周囲に暮らす人々よりは良い暮らしができたと思う。
南区の貧困層は嫉妬深く、誰それが金を持っていると知られれば碌なことにならないと分かっていたため、私たち一家はひっそりと平和に暮らしていた。
だがそれも、私が5歳、姉が15歳になるまでのことだった。
ある夜、どこからか私たち家族のことを聞きつけた強盗に襲われたのだ。
両親は殺され、家は燃やされ、私はショックで記憶のほとんどを失った。
暴漢はすぐに捕まったが、それで私たちが救われることはなかった。
この街は弱者に厳しい。女手ひとつで生きていくのは難しいことだった。
姉はなんとかして私を養うために高校を中退し、毎日夜遅くまで働くようになった。
私はぬくもりの消えた部屋の中に引きこもり、姉の帰宅を待ち続けた。
転機が訪れたのはちょうど5年前のことだった。
姉が勤めていた職場を辞め、教会へと入会したのだ。
そのおかげか、姉はそれまでよりも早く帰宅するようになり、私は姉と過ごせることを無邪気に喜んだ。
皮肉なことに、年を重ね、私自身が満たされるほど、姉に対して複雑な感情を抱くようになった。それが育て親に対する反抗心なのか、はたまた同じ境遇で早熟し、一人前の人間として認められている姉に対する劣等感なのかは分からない。
もしかしたらそこには、自分という存在が姉の重荷にしかなっていないことへの罪悪感や、いつか捨てられるかもしれないという恐怖も混じっているのかもしれない。
いずれにせよ、姉との関係性に悩んでいた私にとって、変異病で姉との距離ができたのは良い機会だった。
隔離地区に来る直前、もう家族に会えないと泣きじゃくる寧子を慰めながら私はほっとしていたのだ。これでやっとあのぬるま湯から抜け出せる、やっと『白木華』という存在を『白木光里』のいない場所で証明できると――