シャワーを浴びて、用意された自室に入り、ベッドに身を投げる。今日一日は、中野にとって久しぶりに楽しいと素直に思える日であった。こんな充実感はいつぶりだろう。それが一年半も前のことになることに彼は気づいた。
随分と長いこと、足を止めてしまったな。そう回顧する。
「胸の中心のヴァニタスに問う」*1と歌ったのは、はたして誰であったか。これまでの彼の胸中を表すのにコヘレトの言葉ほど相応しいものはなかった。とにかく無意味な時間であった。だがキヴォトスにいる今、彼は何かしらの光明を見つけようとしている、そんな感覚があった。
気持ちよく眠れそうだ。
そうしてまどろんでいると、音もなく突然、首元に冷たい何かが当たった。何かと思って首を動かそうとすると、
「動かないでくださいますか」
とお淑やかで可憐な声がした。目だけを動かして確認すると、特徴的な狐のお面が見えた。そこにいるのはワカモだった。首には銃剣が当てられている。
「狐坂ワカモさん、ですか」
外面は冷静なように取り繕っているが、突然のことに声は震えているし、鼓動は素潜りの後のようになっていた。
「こんな時間、しかも男部屋に来るなんて、どういった料簡で? 夜這いなら、どうぞフロアの反対の部屋にどうぞ。先生がお待ちですよ」
戦場において、冗談をつく余裕は大事だ。そう自分に言い聞かせて精一杯に強がる。
「あら、意外と肝が据わっているのですね。ですが、これが夜這いに見えるのでしたら、お医者様に診ていただくのがよろしいかと。もっとも、その必要もないかもしれませんが」
「それは、俺をここで殺すから?」
ワカモはその言葉を無視して話を続けた。
「あのお方の住まわれるここに居着こうなど、いったいどういうおつもりなのでしょうか」
底冷えのする声だった。過剰に警戒されることや気持ちの良い睡眠を邪魔されたことに腹が立ち、余計なことを言ってしまう。
「それは嫉妬ですか、ワカモさん? それならあなたもシャーレで――待て待て待て、早まるな!」
中野が冗談を言うと銃剣に僅かに体重が乗り、首の表皮に刃がめり込むのを感じる。
「……あなたの情報力なら知っているかもしれませんが、俺は本当に居場所を求めてきただけです。この体は、キヴォトスで生きるには脆すぎますから。
あなたはもしかしたら、いや確実に俺が先生に何かすんじゃないかってことを危惧しているんでしょうけど、それはないです。断言します。俺はあなたを含め、先生の背後には多数のキヴォトスの実力者が控えてることを知ってます。それがわかっていて、よもや先生を襲おうなどということはありえません。死にたくないからシャーレに来たのに、自ら死にに行くなんて、本末転倒です」
ワカモはゆっくりと銃剣を首から剥がし、肩に担ぐと、
「今はその言葉を信じましょう。あのお方も、ここで人が死ぬことを望まれないでしょうから。
ただし、私が常に見ていること、ゆめゆめお忘れなきよう、お気を付けください」
はじめからそこには何もいなかったかのように、音もなく姿を消してしまった。
思い出したように首を触る。掌には少しく血が付着していた。
「ははは」
乾いた笑いが出る。あまりにも直截的な脅迫に、思わず少し吐き出してしまった。
翌日。けっきょく眠ることのできなかった中野は、以前からそうであったように朝五時から活動を始める。眠気が酷いのでいの一番にシャワーを浴びる。この時間であれば女性である先生や生徒とも遭遇することはない。逆に言えば無遠慮に浴室を使える時間は早朝ぐらいであった。
洗面所で昨日、シャーレに来る前に揃えた衣類に身を包む。そして自室に戻り、シャーレの始業までの時間をどうしたものかと思案する。外での朝の過ごし方は、小説を読んだり、資格の勉強をしたり、運動をしていたが、今ここには本もテキストも運動着もない。スマホは、三大キャリアの回線が別世界に通ずるはずもないから、当然にほとんどの機能が使えない。
しばらく部屋の中をうろついていると、シャーレには小さい図書室があることを思い出した。
キヴォトスのこと、知らなくちゃな。そうして彼は図書室を訪ねると、一冊の分厚い歴史書を手に取った。
歴史書を半分ほど読み進めた頃、時計を見ればすでに八時を回っていた。本を片付け、図書室を後にする。先生はもう起きただろうかと思いつつ執務室に入ると、デスクにうずくまるように書類と向き合う背中が見えた。
「早いですね、先生」
中野の声に、先生は緩い笑顔で返す。
「あ、おはよー」
「おはようございます。始業までまだもう少しあるのでは?」
「そうなんだけどね、早めにやっとかないとどんどん溜まってっちゃうから。
仕事のことはちょっと待ってね。今日はユウカ――早瀬ユウカって子に教育係を頼んでいるから、なるべくその子に任せたいんだ。人に仕事を教えるのって、すごくいい経験になるから」
そういって先生は書類と向き合う。
というわけで、先日、シャーレに住まわせてもらう代わりに仕事を手伝うと言った手前ではあるが、手伝えることはまだ何もなく、けれど仕事をする先生の近くでのんびりするのも憚られどうしたものかと苦慮する。その様子に気づいたのか、先生は最初の仕事を頼む。
「中野くん、コーヒーお願いしてもいいかな?」
「了解です」
中野は嬉々として応えた。
八時四十五分。
執務室の扉が叩かれ、一人の少女が入室した。
「おはようございます、先生」
そう挨拶したのは、早瀬ユウカである。彼女は明るい表情で先生を見つめ、それから隣の中野を視野に入れた。
「えっと、あなたは……」
「はじめまして、早瀬さん。中野享吾です。二十歳、大学生です。まだ正式なシャーレの職員ではありませんが、今日からここでお世話になります」
そう言って握手を求め、ユウカはそれに応じる。
「早瀬ユウカです。中野さんのことは事前に先生から伺っています」中野の頭上を見上げる。「外から来たと聞きましたが、本当なんですね」
「ええ。なので、シャーレで匿ってもらうことになりました」
「妥当な判断だと思います。それで、今日は中野さんの教育係を任されていますので、今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、事務仕事は初めてなのでご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
二人の事務的な会話を聞いていた先生は、つまらないと訴えるような表情をして言った。
「若い男女の会話とは思えない。もっと初々しい感じになると思っていたのに……」
ユウカと中野は顔を見合わせ、苦笑した。
ユウカの教え方は簡潔でわかりやすく、丁寧だった。
まずはじめに教えられたのは書類の分類だった。重要性と緊急性の高い案件はすぐに先生のデスクに回し、そうでないものは三段階に分けていく。重要性と緊急性の判断基準として、例えば「個人の生命又は公益に著しい損害を与えるもの」というのは中野にとっても、それ自体はとても分かりやすい。だがこうしたものは、社会通念上、その行為がどのように受け止められているかなどを理解している必要があるが、キヴォトス人が頑丈であるがために日本の感覚で捌くと時に、
「この書類は優先度があまり高くないのでこっちに――」
といった具合に分類を間違えたりする。
また、案件の全てをシャーレで解決しなければならないものではない。
「それは……ヴァルキューレに回した方がいいですね。こういう時は――」
治安にかかわる案件で各自治区の警察組織に任せられるならそうした方が効率的だし、そもそも政治的な理由でシャーレが扱うべきではない依頼もある。
それらの分類作業を一通り教えると、次は書類作成に移る。
「これが報告書のテンプレートです。とりあえず今は、書き方だけでも覚えて――」
こんな感じに書類の分類や振り分け、簡単な書類の書き方から教えられ、ひとまずこの業務に慣れてから次の仕事を覚えていこうという流れになった。
「それにしても、どんどん仕事が舞い込んできますね。目が回りそう」
「これでも今日は外出の案件がないから、少しだけマシなんだよね」と先生が苦笑する。「外出するときなんて、あっという間に溜まっちゃって……あはは」
「書類見てると、便利屋の扱いですもんね」
来る依頼の多くは、言ってしまえば些末事。遺失物の捜索はその最たる例の一つだろう。
「着任したばかりの頃はまだ仕事が少なくて、そういうことを積極的にしてたからねえ」
懐かしむよう――いや、違う。これは「楽だったあの頃が羨ましい」の表情だ。けれどすぐに嬉しそうな顔で続ける。
「でも、頼られるのはいいことだよ。それだけ信用されてるってことだからね」
人のために何かをして役立つことが好きなのだろう。昔の中野なら綺麗事だと鼻で嗤ったかもしれない。それを無邪気に追い求める精神性があるから彼女の周りには自然と人が集うのだ。あまりにも眩しくて、少し凹む。
先生という理想に感銘と自傷心とが揺れ動いていると、ユウカの声に現実へ引き戻される。
「あっ、中野さん。この書類、ちょっと」
ユウカが中野のデスクに近寄り、一枚の書類を手渡した。
「この部分が間違えていました」
滔々と説明していくユウカは立ち、中野は座ったままという位置関係もあって、彼女の太ももが視界に入りやすくなる。ついその目に下心が籠る。
女性は鋭い。それはユウカも例外ではなく、当然気づいた。不快に思い、けれどここで指摘するわけにもと考え、あとでそれとなく注意しようと決めたところで、突然、中野が苦虫を噛み潰したような顔で宙を仰ぎ、かとおもえばガクンと項垂れて眉間を抑える。これは彼が気持ちの切り替えや反省をするときによくする動作だ。
「あの、中野さん?」
訝しげに覗き込むユウカ。中野にはその表情がしかめっ面に見えた。
信用を得なきゃならんってのに、何やってんだ俺は!
「いえ、お気になさらず。はじめての仕事で思いのほか疲れてしまったのかもしれません。この書類の手直しだけしたら、少し休みます」
そして数分もしないうちに直した書類をユウカに渡し、執務室を後にする。誰もいないカフェに入り、コーヒーを用意する。普段はあまり飲まないが、今の気持ち的に苦みが欲しかった。正直、コーヒーの良さはわからない。だが口に含んだ時、鼻腔に香る匂いはなぜか気持ちを落ち着かせる。そしてゆっくりと嚥下する。
昔から、女子に下卑た目線を向ける節がある。良くないことだと、自分でもわかってるんだけどな。そう苦笑する。先生とホシノに対しては、不思議とそういうこともなかったのになあ。
テーブルに突っ伏してから十分ほど経った頃、中野は重い腰を上げて執務室に向かった。どういう表情で、またユウカとどう顔を合わせたものか、少し、憂鬱な気分になる。
入る直前で息を整え、軽く頬を叩いて執務室に入ると、何やら騒がしい。どうやらユウカが先生に詰め寄っているようだ。その手にはいくつかのレシートが握られていた。
「先生? 昨日だけで三万円以上も使われてますが――」
「あっ、中野くん! 助けて、弁明してえ!」
重い気持ちなどどこへやら。先生の情けない声に思わずぷっと笑ってしまう。
「中野さん、何か知っているんですか?」
眉間にしわを寄せたユウカが問う。
十中八九、昨日の買い物だと思うが、念のためレシートの内容を確認する。
「早瀬さん、これは先生、悪くないですよ」
どういうことですか、とユウカは中野に迫る。おお怖い。
「聞いてるとは思いますが、俺は無一文でキヴォトスにいたので、自分の生活品とかを立て替えてもらったんですよ。この服も、先生とホシノさんに選んでいただいたものですよ」
そういって服を揺らす。なんと形容すれば良いのか全くわからないが、なんかオシャレになってしまった。
「もちろんお金は返します。今はまだ正式なシャーレの職員じゃないですからお金はもらえませんし、なれてもすぐにもらえるわけじゃないので、それまでは先生に借り続けなくちゃいけませんが」
ユウカは張っていた肩を緩める。
「……そうことだったんですね。先生、すみません。中野さんも」
「いいのいいの。私を想ってのことだし」
「私に頼らずとも自主的にお財布の管理はしてほしいですけど――」
いや、でもそれだと先生が私を頼らなくなってしまうんじゃ……とかなんとかぶつくさと言っている。
「ユウカ?」
少し慌てて、誤魔化すように咳払いをして話題を変える。
「それにしても食材を買われるなんて珍しいですね。普段は出来合いのものしか買いませんのに」
「それは、昨夜、俺が先生とホシノさんに料理を振舞ったからですね」
「中野さんが? そう、ですか……」
歯切れが悪い。なんだろうと考えていると思い出した。彼女は先生の正妻(候補)だ。
少し魔が差した。ユウカの耳元でささやく。先生には聞こえないように。
「先生が他人に胃袋を掴まれるのは複雑ですか? 正妻として」
「な、なにを⁉」
「皆まで言わないでください。その焦る気持ち、理解できます。ですがご安心を。俺は乙女の恋路を応援していますから。なんなら、今夜は早瀬ユウカ特製手料理を先生にお出ししては――おーい?」
ユウカはゆでだこのように顔を赤く染め、口をパクパクとさせてオーバーヒートしていた。
いかん。これはいかん。面白すぎる。と思いつつ恍惚とした笑みを浮かべる。
「中野くん、何を言ったの」とジト目の先生。
「心外です! これはちょっとした交流ですよ、先生」
そう、これは他愛もない、しかし的確な進言だとも。彼女の同僚であるノアと似たようなことをしたまでさ。
「ユウカ、ユウカ? だめだこりゃ」
先生が揺さぶっても反応がない。完全に意識があらぬ方向に飛んでいる。
「あーあ、中野くんが女の子を壊したー」
「その言い方やめません⁉」
とりあえずソファに寝かせて休ませる。
「ま、いつも頑張っててロクに休んでないだろうから、今ぐらいはいいかもね」
そう言う先生の表情はとても優しく、慈愛に満ち溢れていた。
「それじゃ、私たちは仕事しよう」と言ってデスクに戻る。「目が覚めて全然終わってなかったら怒られちゃう」
中野は眠るユウカの耳元にまたささやく。
「さっきはすみません」
正面から謝らないのはずるいことだろう。でも中野にはその勇気がなかった。
「お疲れ様でした」
「うんお疲れー」
夕暮れ前。ユウカがミレニアムに帰る。その間際に中野と目が合うとユウカは笑った。それにしては少し威圧的であるように感じた。
笑顔で睨むとはこういうことなのかと思いつつ、中野もニッコリと笑って見送った。
「いやー、それにしてもあれは驚いたなあ。目が覚めたと思ったら中野くんの首根っこを掴んで出ていくんだもん。先生としては、二人で何をしていたのか気になるなあ」
揶揄うような口調だった。あのあと少ししてユウカは目を覚ましたと思ったらいきなり中野を連れて執務室を出て壁際に追い込んだのだ。早い話、壁ドンだ。すごい力だったので一切抵抗できなかった。
つい自分の中の乙女が反応しそうになったが、目の前の少女がより一層強い乙女オーラを放っていたので引っ込んだ。
「わ」
「わ?」
「わかりやすかったですか⁉」
唐突に何を言い出すんだという顔をした。
「あ、いや、あの……私としてはそこまで態度に出したつもりはないんですけど……」
ともじもじ。ああ先生のことかあと納得しつつ、そういえば思いのほか明確なラブサインはしてなかったなと振り返る。ゲーム知識で知っていただけなのだが、誤魔化すのも面倒なのでとりあえず揶揄う。
「いやまあ、レシート持って詰め寄ってるのが、なんか無駄遣いをした夫に詰め寄る嫁みたいだったので」
「嫁⁉」
「いやー様になってましたよ、奥さん?」
ユウカはまたもや赤くなったが、今度は耐えている。と思えば、
「そ、その手には乗りませんよ!」
と的外れなことを言った。何の手だと思われているのだろう。少なくとも冷静でないことだけはわかる。
「このこと、誰にも言わないでくださいね⁉ 絶対に!」
そうして仕事に戻ったのだ。帰り際の睨みは「言うなよ」という警告だろう。
「まあまあ、やましいことはしてませんし、女子高生の乙女な話を聞かされてただけですよ」
嘘は言っていない。
「え、なにそれ。すっごい気になる」
中野は口を横一文字に結ぶ。
「先生なら生徒のこと、知ってもいいと思わない?」
「だめです」
「どうしても?」
「俺が絞め殺されます」
「そうかあ」
先生はしょんぼりと肩を落とすが、すぐにいつもの和やかな雰囲気に戻る。
「それで、今日はどうだった?」
「そうですね……仕事は慣れるのに時間がかかるかもしれません」
「それは仕方ないよ。誰だってはじめは時間が必要なんだから、焦らずにやっていこうね」
先生の慰めはとても優しく心を撫でる。中野が同じことを言ったとしても同じことは起きない。この差はなんだろうか。
「それでそれで、ユウカはどうだった? どう思った?」
年ごろの女の子がする質問そのものだったし、ノリもそんな調子だった。ちょいちょい思っていたがこの人、学生みたいな感性してる。
「とても良い子でした。丁寧に色々と教えてくれて、とても助かりました。あと面白かったです」
中野はユウカのあの素直な反応を思い出してニヤリと笑った。期待していた返しでなかったのが不満なのか、先生はムッとした表情をする。なんか可愛く見えてきたな。
「でもまあ、それなら仲良くやっていけそうだね。よかったよかった」
そう言って顔を綻ばせる先生とは反対に、中野の表情は硬くなる。それに気づいた先生はどうしたの、と声をかける。
しばらく逡巡した末に中野は口を開く。
「良き関係の構築ができるかは、自信はありません。いえ、俺が拒否するってことではなく、なんというか、嫌われるんじゃないかって不安です。今日、早瀬さんには申し訳ないことをしてしまったという自覚はありますし」
短い沈黙が流れる。中野は詳細を訊かれるものと思っていたが、先生が次に発したことに、ぎょっとする。
「それは、君の目線のこと?」
僅かに空気が冷えたのを、中野は感じた。
「気づいてたんですね」
「まあ、ね」
中野は一度深く深呼吸をした。
「わらってくれてもいいんですよ、先生。猿みたいだって」
先生がわらわないので代わりに自分で嗤う。
「自覚はしているんですよ。自分の悪いところだって。それに改善しようとは思ってるんです。まあ、治らなかったらそんな意志に意味なんてありませんが」
自己嫌悪も、反省も、結果が伴わなければ全てゴミだ。その者の罪悪は、生涯をかけて再発しないという愚直な方法以外では償いようもない。自身の行動を過ちと認め、今後しないという謝罪と所信表明が根本的に無価値であることの証左でもある。
だが中野のそうした思想を受け止めつつも反するのが、聖人の生き様である。
「そんなことはないよ」
優しく諭すように先生は言う。
「たしかに、中野くんの言うことが正しいこともあるかもしれない。けれど意志があるのとないのとじゃまったく違うと思わない?
中野くんに何があってそう考えるようになったのかはわからないけど、難しく考えなくてもいいし、焦らなくてもいいんだよ。もっと自分の過ごしやすいペースで、歩めばいいんだよ」
「ですが、そうやって悠長にしていたら、改善するまでに多くの迷惑をかけてしまうんじゃ……」
「そんなことは気にしない!」
つい「ええ……」と困惑した声を漏らす。
「いっぱい迷惑をかけて、もしかしたら嫌われるかも……その心配は、すっごくわかる。でもそれなら、迷惑をかけた以上の感謝されることをたくさんしていけばいいんだよ。それで帳消し。中野くんが誠意を持って接していれば、必ずみんな、いつか助けてくれるようになるよ。
あれこれ悩むのも止めない。けれど、それと同じように行動もしよ?」
中野にしてみれば、それはすごく単純なこと。なんならすでに通った考え方ですらある。なのにこうして誰かに、それも先生に言われると、どうしてこうも心にしみるのだろうか。
「それに私もいるから、たくさん支えてあげられるよ。中野くんの先生でもあるからね!」
「もう生徒じゃありませんよ」
「でも学生でしょ?」
詭弁だなあ、と中野は笑う。先生、あなたはどこまでも、先を生き、後続を導く者なんですね。
「あーあ、もっと早くに受け入れられてりゃなあ……」
アドルフ・アドラーの目的論を思い出す。いつの間にか、望んで苦しむ選択をしていた。それは自分への言い訳だったかもしれない。免罪符のつもりだったかもしれない。自分はこうして悩み、苦しんでいるんだ。許されたっていいじゃないか!
習い性のようなこの考え癖は、すぐには変えられない。まだしばらく付き合うことになるだろう。それでも構わない。先生の言う通り、それを上回るパッションで塗りつぶしてしまえばいい。難しいことは、何もないのだ。
「先生、頼りにしてます」
「任せて!」
ここには、頼れる“大人”がいるのだから。
おおよそ高校の後半あたりで親や教師から「もうすぐ大人になるんだぞ」と言われ始めると思います。そして実際、高卒で社会人になったり、進学して大学生になったりすると「お前は大人だ」と断言されるようになります。ですが、大人ってなんでしょう。高校を卒業し、社会人や大学生の地位を経たその瞬間に大人へと変質するのでしょうか。当然、そんなことはありません。
二十歳は、大学生であれば2年間を社会経験のないまますごし、高卒社会人であってもたかだか2年です。社会の求める「大人」であるためには、あまりにも時間が短すぎます。甘えれば「大人のくせに」と言われ、何かを主張すれば「若造」だの「社会を知らないガキのくせに」だの言われます。
そんな難しい立ち位置にいる青年たちが社会の思い浮かべる「大人」になるには、もしかしたら平均的に十年という長い時間をかけて成長し続けなければならないのかもしれません。その過程を、せめて序盤だけでも支え導く存在が必要です。そしてその存在こそが「大人」なのです。
青年たちにとっての「大人」とは過干渉でなければ無責任でもありません。訊けば導き、挫けば支えます。突き放すどころか寄り添ってくれる……普遍的に好まれるはずです。それは当然のことであるはずなのに、多くの青年からすると、自分の周囲にはいないのです。
その不安を、恐怖を、お分かりになるでしょうか。
それはさておき、こういう心情の変化は、より現実的に描写するならばもっと丁寧に時間をかけるかけるべきなんですが、そうするとテンポがあまりにも悪くなるし、そのバランスを保って良い描写する実力もない……ってことでちゃちゃっと進めちゃいました。
追記(限定的な用語を使ったのでその解説)
アドルフ(アルフレッド)・アドラー
1870-1937。オーストリアの心理学者。フロイト、ユングと並び三大心理学者に数えられ、深層心理学においてアドラー心理学という一派(その個人のことをアドレリアンという)を築いた。なお本人は一派とのかかわりはない模様。
目的論
アドラー心理学に現れる基礎概念。人間の心理とは、意識的であろうが無意識的であろうが、当人の持つ目的によって変化するものと説いた。フロイトの原因論と対を成す。
余談ですが、アドラー心理学は哲学として接するのが良いと思います。そもそも深層心理学事態がそういう側面が強いので。