「ホシノ。『ただ、どれほど賢くてもやはり幼い彼は、人が本性を隠して何かを装っていると、いつしかその装っているものの方が本性になってしまうのだということに気づいていなかった。』
その掌を小さいと、先輩のようにはなれないと責めることは、決してするなよ。他人と比較する必要はない。それを、感情的に理解できるようにならんとな」
そう言ってはにかんだ中野の顔をホシノは思い出す。
中野の護衛としてブラックマーケットに行ったあの日、どんな文脈で言われたのかはわすれてしまったが、その言葉だけはやたらと鮮明に覚えていた。それは、彼がユメ先輩のことを知っている風だったからかもしれない。珍しく内心を読まれたからかもしれない。その言葉があまりにも核心に迫っていたからかもしれない。いずれにしても中野の言葉は、どんな慰めや共感よりも確かにホシノの心を打った。
どうしてそのことをと問うたら、彼はまた「過去を観て」と下手くそな嘘をついたが、それすらも好意的に感じられて、随分と絆されたもんだと自分を笑った。
ただ、それからしばらく経った今となっては「どの口が」と呆れたように、また怒るように、しかし心配になりながらそう思う。
あれは、中野の自分自身に向けた自戒の言葉ではなかっただろうか。そんな気がしてならない。
もしかしたら彼は、自らが今の思いつめた状態になることを予見していたのではないだろうか。それでもなお突き進んだのであれば、いったい何がそうさせたのだろうか。
「まあ、あとで本人に訊けばいっか。こういうことならちゃんと答えてくれそうだし」
そのためにも、中野のいち早い復帰をホシノは願う。
「そんなに心配もいらないか。なにせ一番近くに先生がいるんだし」
先生。彼を、救ってあげて。
会議から数日が経ち、リンから直接に中野の案が正式に採択され、すでにその計画が動き始めているという連絡を受けた。
「なるほど。それで俺の主な役割は事務ではなく、現場に出て指導するというわけか」
仕事内容としては、支援施設の教官が入所者に対し正しく教育できているかの監督、および両者の教育。あとは何かしらの雑務を日常的にすることになるだろう。
「はい。事務仕事は経験が浅いとお聞きしましたので」
ホログラムで表示されたリンは淡々と告げる。
「その通りだが、別に教育者としての経験があるわけでもない。それにこういう実務はわざわざ俺に頼る必要はないんじゃないのか? 優秀な人材は他にいるだろうに」
「しかし、最も刑事政策に知悉しているのは中野さん、大学で学ばれていたというあなただけです。ご自身についてどのように評価されているのかはわかりませんが、それだけは事実です」
だからその経験を借りたい、と。
たしかにその通りではある。キヴォトスは最近になるまで犯罪者の再犯防止策について、真剣に議論されなかったわけではないがいずれも排除論的であり、まったく意味のないことだ。
日本の刑法学者や官僚でさえ、再犯防止のためには犯罪者に対する福祉が欠かせないことに気が付いたのはつい十五年前、二〇〇八年のことだ。それまでは犯罪学・刑事政策の学者と一部の知識人しかその考えに至らなかった。
今も昔も、非行少年たちの課題や可能性を誰よりも早く、そして熟知していたのは正義を騙る表社会の人間じゃない。裏社会の汚い大人だ。まったく、酷い現実だよ――中野に教鞭をとっていた教授の言葉だ。
そしてその知識を伝授されて聡い、しかし十代の彼女たちは淡々と理解ができるだけで実感としてはわからないだろうから、なおのこと中野の存在が必要になる。
「わかった、引き受けよう。提案者でもあるし、一人の大人として是非もない」
「ありがとうございます。受け入れ施設の準備等にまだ時間がかかりますので、追って通達いたします」
「りょーかい」
「では、失礼します」
ホログラムが消えた。
しばらく背凭れに寄りかかって虚空を見つめる。これからどうなっていくのだろうという漠然とした不安を覚えたのだ。
いつの間にか、気の赴くままに動き、ストーリーに与える影響を最小限にするという目的を忘れてしまっていたことを、今更ながら思い出し、僅かに後悔している。常に、なるべく理性的であろうと心がけている。冷静に、論理的に……だがこうして気づかぬうちに感情的に行動していたということが時にある。急にやる気が出たとか、あるいはなくなったとか。なんてガキっぽいことだろう。
「こら、また変なこと考えてる」
先生に額を小突かれる。
「……別に欲情はしてない」
「違う違う。色々考え込んじゃってるなあって」
先生は人の機微にとても敏感だ。生徒、そして教え子と認めた中野に対してなら、なおのこと。
「不安そうだね」
「そりゃあ……はじめての、しかもそれにしてはあまりにも大きい試みだからな。先生みたいに相手の懐に飛び込むことができたら、いくらかは円滑にできるかもしれないな」
「その必要はないと思うな。中野くんは中野くんだから。それに、堅苦しいけどノリはいいし、いつも通りにしていれば誠実なのも伝わるよ」
「そうだといいが」
頑なだなあと溢した先生は少し悩む。
彼は自身のことについては極めて理解が深い。例の視線のこともそうだが、性格や行動・思考のパターンをとにかく考えて考えて、こうではないかああではないかと分析しようとする。もはや習い性と言っていい域に達しているのかもしれない。だから、こうして考えすぎてしまうことが良くないことなのだとわかっているはずだ。それでも懊悩としてしまう。一見、理性的なようで実は感情的。どんな言葉が、どんなことをしてあげれば良いのか、先生でさえ判断に迷う。おそらく彼は、繊細だろうから。
けっきょく先生は中野の頭を撫でた。それしかできなかった。
「頭撫でんな」
その手は空しく弾かれてしまった。
それから一週間と経たないうちに支援施設が完成した。随分と早いなと思っていたら、どうやら閉館予定の公共施設を改装することでコストと工期を最小化したらしい。それでも早いとは思うが。
その日中に施設と自分の役割の説明を受けた中野のはじめの仕事は配属された職員たちの啓蒙だった。連邦生徒会の生徒、雇われた犬猫ロボットといういびつな光景は異常というほかないが、彼ら彼女らはみな真面目に耳を傾けた。
連邦生徒会の用意した矯正プログラムは、日本人からすれば甘すぎると批判を受けるぐらいに宥和的なものだった。それでいい、と中野は思う。日本はしばしば犯罪者に優しい国だと皮肉を言われるが、実際は再犯に寄与する程度には手厳しい。真面目に対策を考えているインテリ層はとかく、世論は時代に追いついていない。キャンベル共同計画*1など、真に関心のある者しか知らないだろう。その程度の認識なのだ。
「繰り返しになるが、手をあげるのはもとより、声を荒げ責め立てたり、罪の意識を植え付けるようなことは一切しないでくれ。我々は、これからやってくる少女たちの良き隣人であらねばならない。そのことを、忘れないでほしい」
そう言いつつ、自分自身が一番の不安要素だと思っていた。
この活動においてもっとも重要視するべきことは何か。すなわち信頼を得ること。そのためにはコミュニケーション能力が欠かせない。それも通常のそれとは違い、この場においてはいかに入所者である非行少女たちに寄り添えるかという問題が生じる。相手は話の通じない狂乱者かもしれない。そうであった時、はたして自分は適切に対応できるだろうか。自信はなかった。
あるいは、先生のような聖人さがあれば、最低限の会話で懐柔することができるかもしれない。しかしそれには底なしで混じり気のない良心がなくてはならない。常に相手を想い続ける心が必要だ。そんな高尚な精神でこれをはじめたわけではない中野には無理な話に思えて仕方なかった。
俺はただ、自分にとって胸糞悪いからというエゴと、この世界であっても生かれるという存在価値が欲しかっただけ。それでも上手くいくなんて思うのは、傲慢なのだろうか。
誰よりも調子になりやすい性格であることを知っているからこその自制心。それが過剰か不足かなど、わかりようもない。人は永遠にわかりあえない。例え己であったとしても。
支援施設あらため少女院の教育活動は主に五つにわけられる。
社会で自立して生きていくための常識や態度を学ぶ生活指導。勤労意欲の喚起や就業の知識技能を取得する職業指導。学力低下の防止や維持のために行われる義務教育課程、高等教育課程と同様の教科指導。体力の維持と心身の健康を目的とした体育指導。社会貢献や音楽などの芸術を通じて豊かな価値観を育む特別活動指導。
だが、入所してすぐにこれらすべての指導を行うわけではない。大まかに三つに段階に分けられる。
入所初期から三級生、二級生、一級生となっていき、最終的には出院することになる。もう少し詳しくいうと、三級生のうち、最初の数日間は考査生と呼ばれ、生活指導と並行して自身の課題と向き合い、それらを言語化する内省を行う。それが終わると予科生に切り替わり、様々な指導が始まる。これはすべての級生に跨るが、これが中間期と出院準備期間にさらにわけられる。
さっそく少女院には十五人の非行少女が連れ込まれた。少女たちは三グループに分けられた。暴力・窃盗というもっとも基礎的な犯罪を起こした者、その上で薬物に手を出してしまった者、そして身売りをした者の三種類だ。逆を言えば、暴行窃盗にプラスして何かしたかしてないか、という違いがあった。
彼女らを見て、職員の一人がこうこぼす。
「私、不安になってきました……」
すると、他の職員も同調する。
暴れられたら御しきれない、と。
「気持ちはわかる。だが我々は彼女たちをコントロールするためにいるんじゃない。寄り添うためだ。言葉にすると、そうだな……彼女たちが自ら我々に自分の過去や心情を吐き出してくれるように支えること、かな。
まあ、要するに信用を得ろってことだ。地道にやってくしかない」
職員の表情は晴れない。不安そうなままだ。こういう時、先生ならどうしたのだろうか。
更生とは「更に生きてもらう」という意味が込められている。つまりは生活だ。それも我々にとっての「普通」の生活を理解し、慣れてもらうことを要する。そこにメスを入れぬまま社会に放り出せば、彼女たちはその「普通」の人々から疎外され、そのギャップに苦しみ自分を理解してくれる元の犯罪集団に戻ってしまうだろう。それでは意味がない。得てして大切に扱われたことの少ない彼女たちには寄り木となる居場所がなによりも必要なのだ。
差し当って中野は、一対一の個別面談が重要だと考え、さっそく受け持った一人の少女を面談室に通した。
「やあ、こんにちは」努めて柔和に振舞う。「さあ座って」
仏頂面の少女は催促されて素直に座った。
「俺は中野享吾。ニ十歳の大学生。元、だけどね。見ての通りキヴォトスの外からきたんだ。だから銃弾一発で簡単に死んじゃうんだ」
あははと笑う。不自然でなければいいのだが。
「君の名前を聞かせてくれないかい?」
少女は中野の手にしている書類を一瞥して、ふんっと悪態をつく。
「知ってるくせに」
「まあまあそう言わずに。君の口から聞きたいんだよ」
十分かニ十分か、二人は長いこと見合う。片方は睨むように。また片方は優し気に。先に折れたのは少女の方だった。
「……
「ありがとう。でももっと色々教えて欲しいなあ」
ヨミは舌打ちをして黙り込もうとしたが、同じことの繰り返しになりそうで観念した。
「十五」
「まだ中学生?」
無言で頷く。
「そっか」
一度ここで会話が途切れた。
さて、ここからどうしたものかと中野は悩む。やはりそう簡単には心を開いてくれず、このまま何気ない会話を敢行すべきか、あるいはいきなり彼女の過去や心の傷に触れるか……いや、そうはいかんだろう。あれこれ逡巡して、テキトーに雑談でもすればいっかと開き直った。
無視されても構わん。こういうときは向こうから踏み出してもらうことを期待してはいけない。こっちからぶつかっていかないと。
「ずっと黙ってるのも退屈だし、お話ししない?」
ヨミは反応しない。
「まあ構わず喋るんだけど。じゃあそうだな……定番通りにいくか。何か好きな食べ物とかある?」
「別に」
「そっかあ。じゃあそれならさ、これから一緒に探さない?
俺、こう見えて料理するのよ。シャーレとそこの先生って知ってるかな? その人が俺より大人なんだけどだらしないというかね、栄養に悪いものばかり食べるから、それはあかんってことで俺が作ってるってわけ」
そういえば、これからシャーレに帰れる時間減るかもなあ。はは、先生の泣き顔が想像できる。
「レパートリーは増やしている最中だけど、難しいのじゃなければ大体作れるよ。ポテトサラダとかどう? あれ簡単に作れるし、スーパーの総菜で買うよりも安く――」
中野のスマホが鳴った。どうやら時間になってしまったらしい。
「そんなに話したつもりはなかったんだけどな」
沈黙していた時間が長すぎたか。
相変わらず不愛想なヨミに中野は微笑みかける。
「今日はここまでだね。それじゃまたね。この後は余暇だったかな。ま、ゆっくり休みな」
そう言って面談室を後にする。遅れてヨミは別の職員によって寮に連れられて行った。
事務室――ありていにいえば職員室――に戻る途中で他の子の面談をしていたロボット職員と鉢合わせた。
「これは随分と――激しかったようで」
彼はボロボロだった。
「子どもとはいえ暴れられると手が付けられなくて。そちらは?」
「大人しかったけど、ほとんど無視された」
「そうですか。お互い上手くいきませんな」
「全くだ」
はっはっはっ。共にから笑いする。
「しかし、これからのことを考えると気が重くなります。どうしたら言うことを聞いてくれるのでしょう」
「それはちょっと違う。今日のはじめにも言っただろう? 俺たちはコントロールするためにいるんじゃない。良き隣人となるためだ」
ロボット職員は立ち止まり、天井を仰ぐ。
「そうでしたね。根気が要りそうですな」
「大人が踏ん張らなかったら、子どもたちに示しがつかんよ」
「そうですな」
二人は互いの肩を叩いて称え合った。
その後も中野は、積極的にヨミとの会話を試みた。しかしことごとく無視されるなどそっけない態度を取られるばかりで、一向に打ち解けられずにいた。はじめはそれでも気にせずにいたのだが、次第に心がやつれはじめていた。しばらくシャーレにも帰れず、先生に会えていないことも一因であることは、この時の中野にはまだわからなかった。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
その日もいつも通りの面談をしていた。
面談室に入った中野は申し訳なさそうにしながらヨミの対面に座る。
「それじゃ、今日は何を話そうかねえ」
顎に手を当てて考えてから、しばらく他愛もないことを話していると、珍しくヨミが話しかける。
「ねえ……どうして訊かないのよ」
とても無機質な声色だった。
「私が今まで何してたか、あなたは知っているんでしょ?」
中野はなおも押し黙る。自分から踏み出していいのか判断に迷う。
「なら嗤いなさいよ」その声はわずかに震えていた。「ガキのくせして身削ってみじめに生きてるバカな女だって!」
短い沈黙の後、中野は重くその口を開く。
「そうして欲しいのか?」
腹に響く低い声で言った。ヨミに聞かせるのはこれがはじめてだった。
「今まで会った男はみんなそうしたわ」
「なら、俺はしない」
毅然として応えた。
「わからない。わからないわ。どうして、どうしてあなたは手を出さないの? こうして二人きりになれるのに、どうして?」
他の男たちは、すぐに私を犯したのに――言外にそれを読み取った。
「私ね、中学生離れした体つきなんだって」
そう言って胸元のボタンを外す。豊かな谷間がその姿を現す。
「何を――」
「ね、大きいでしょ? こんなの重くて肩がこるから好きじゃないんだけど、男はみんなこれが好きなんでしょ?」
さらにボタンを外し、下着も見えてくる。
キヴォトスに来てからというもの、自室であっても躊躇ってしていなかったから溜まっていて、それもあって視線がどうしても外せない。
その様子を見てヨミは妖艶にほほ笑んだ。
「よかった。あなたも好きなのね」
机の上に乗り、胸を寄せて、さらに中野の目の前に近づける。
「あんっ……くすぐったい」
荒い呼吸が胸を撫でたようだ。その喘ぎにより一層の昂りを感じる。
思考が遠くなる。手が勝手に持ち上がる。視線も顔も吸い寄せられて――鈍い音が鳴った。一度ならず二度、三度、そして五度鳴った。中野がヨミを押しのけて、机に頭を打ち付けたのだ。強く、そして角で打ったことで額から血が流れていく。
「俺は手を出さん。出さんぞヨミィ!」
引いた様子のヨミに中野は吼える。
「お前を苦しめた大人と、男と、同じだと見くびるなよ!」
言い切ってだらんと脱力し、先ほどとは別の理由で息が荒い。
片やヨミは少し怯えている。
「なんで、どうして、そこまでして……」
スマホのアラームが鳴る。
揺れる体を必死に抑えながら立ち上がる。
「じゃあ、今日もここまで。またね」
面談室を後にするとヨミを寮に誘導する職員がいた。
「中野さん! 血が……」
中野は近寄ろうとする職員を片手で制する。
「俺のことはいい。ヨミを頼む。ああそれと、これはヨミのせいではないからな」
壁伝いに廊下を歩く。
先ほどの職員から連絡を受けたのだろう他の職員が駆け付ける。その姿を認めてから、中野は気を失った。
引用及び参考資料
宮部みゆき『ソロモンの偽証 第一部(一)』新潮文庫、2014年(冒頭の『』)
守田正ほか『ビギナーズ刑事政策 第三版』成文堂、2017年
岡邉健ほか『犯罪・非行の社会学 補訂版』有斐閣、2020年
法務省『多摩少年院の概要』
その他、いくつかの犯罪白書と判例より
筆者が引用した宮部みゆきの文章を読んだとき、これは習い性のことを言っているのだと理解した。習い性とは、継続してある行動をしていたら、それが生来の習慣のように身についてしまうことをいう。
筆者は中学以来、自身を何かしらの概念で定義し、べき論で分析し語ってきた。私は合理的であるべきだ。私は思考力に長けるべきだ。私は冷静であるべきだ。私はそういう人間であるべきだ。
人間というのは不思議なことに、そう思っているとそういう傾向にはなるもので、合理性と思考力には議論の余地があるが、少なくとも筆者は感情豊かな人間にはならなかった。そう定義して生きてきたからだ。
ホシノは自分を何も守れなかった弱い人間と定義した。中野は……これからの内容にも繋がるため濁すが、また自分を無闇矢鱈に定義付けようとする面倒な人間だ。
いずれにしても、こういう人間は自分自身に対しては凝り固まった偏見があるからよろしくない。その必要性など無いというのに。
そのことを感覚的に理解するって、いったいなんだろうね。
次回更新は一週間ほどを目標として書いていきます。