キヴォトスに生きる   作:山葉

7 / 11
遅れてほんっとに申し訳ない!


一人の大人として――3

 

 

 意味わかんない意味わかんない意味わかんない!

 

 どうしてあの状況で我慢するわけ? どうして我慢できるの? どうして、血を流してまで……

 

 あの男は、あの男は今までのやつらとは違うと言うの? 身持ちの固そうな男もみんな誘いに乗ってきたというのに? あの男だけはそれでも救いの手を差し伸べようとするの?

 

 いやだ。認めたくない! だって、認めてしまったら、私は今までいったい何のために身を売ってきたというのよ! 欲しかったものが、こんな簡単に、それも近くにあったなんて、それはこの数年間をすべて否定することになる。そんなの、認めない。

 

 決めた。あの男――中野享吾を、絶対に陥れてやる。

 

 バカだと、愚かだと罵られたっていい。それでも私のためになるの。

 

 そう信じさせてちょうだい。

 

 

 

 稗田ヨミ。十五歳。逮捕理由:暴行、窃盗、売春。

 

 D.U.地区内で生まれ育ったヨミは幼いころから孤独だった。両親はほとんど家にいることなく、言ってしまえば育児放棄、ネグレクトだ。親の愛を知らないどころか、そもそも人と話すという経験に恵まれなかった。それでも彼女はまだ恵まれていた方で、親に暴力をされていたわけでも、食事を与えられなかったわけでもない。ただ話して貰えなかっただけ。だがそれだけに人に飢えた。

 

 学校では浮いていた。会話が下手でそれを周りは嫌った。必然的に友人ができるわけもなかった。この辺りから非行集団と関わり始める。

 

 きっかけはもう忘れてしまったらしい。ただ口下手だからといたずらに疎外されることはなかった。それが学校よりも居心地がよかったらしい。

 

 はじめは暴行と窃盗を繰り返していたが、途中から売春に注力した。その経緯は本人が語りたがらない。

 

 取調べを行うにあたり目立った反抗はないものの黙秘を貫き通し、非協力的だった。が、これはキヴォトス人の中では比較的に従順な方である。

 

 以上がヴァルキューレから貰った報告書の概要だ。

 

 中野は医務室のベッドで寝ながら読み返していた。指の皮脂がついて若干黄ばんでいる。それほど繰り返して読んでいるのだ。

 

 倒れてから数時間と経たないうちに目が覚めた中野は、何をするよりも先にヨミのことを慮っていた。ただそれは先生のような利他的な気質故ではない。ただ、自分はそうしなければ何もできないという使命感に基づいたものだ。それによれば、彼はヨミにひたすらに優しく接しなければならない。彼女が目標や目的を得られるように導かなければならない。しなければならない、しなければならない。

 

 べき論で身を固めたことで柔軟性は失われてしまう。しかしそのおかげでヨミの誘惑に乗らないという結果を引き起こした。それを踏まえ、どう評価したものかと苦笑する。

 

 中野はヨミと接するにあたり二人の人物を意識した。それは先生と、亡き養父だ。どちらも優しくて人当たりの良いところがよく似ていたし、実際、先生は数多の生徒を、養父は中野をそうして救っていた。心に傷を負っているであろう子どもに接するには斯くあるべきだ。その理想像ばかりが先行していたのだろうか。だから二人のように相手に十分に寄り添えないのか。だからヨミはあんな行動に出てしまったのか。

 

 そんなことを考えていたら突然、医務室の扉が勢いよく開かれた。そうして入室したのは先生だった。

 

「中野くん大丈夫⁉」

 

 急いで来たのか、額には汗を滲ませていた。

 

「ああ先生。見ての通りだ。問題ない」

 

 すると先生はずいっと中野に覆いかぶさるようしてに迫った。

 

「本当に?」

 

 走ってきたからだろう上気した心配顔がなぜだかとてもかっこよく見える。

 

「あ、ああ。本当だ」

 

 なんかドキドキする。

 

「そ、それよりも、シャーレの方は大丈夫なのか?」

 

 ここしばらくはヨミに付きっ切りだったのでシャーレに戻れてすらいない。

 

「それなら大丈夫。心配いらないよ。それに、仮に立て込んでたって駆け付けるよ。中野くんに会いたかったのもあるし」

 

 中野は頭を軽く掻いた。

 

「くっさいこと言うなあ」

 

 まんざらでもないけど。ああだめだ。頬が緩んでる。

 

 先生は打って変わって表情を曇らせた。

 

「ねえ、一度休んだらどう? ずっと前から気になってたの。たまに帰って来るときも顔色が悪かったし、無理してるんじゃないの?」

 

 中野は意図して先生を見ないようにした。

 

「そうはいかない。担当の子との信頼関係はまだまだ築けていない。でもようやく、向こうから口を開いてくれた。今が踏ん張りどころ、大事な時期なんだ」

 

 ぐっと固く拳を握る。

 

 先生は戸惑う。いつもなら、いや生徒に対してならどんな風に接するのが適切なのかわかるのに、中野のこととなるととんとわからなくなる。

 

「そう心配しないでくれ。一人の大人として、成すべきことをしたいのは先生も同じだろう?」

 

 中野は自分の発言を卑怯だと思った。先生はそれをずるいと思った。

 

「そう……わかった。でも、今回みたいな無茶は絶対にしないでね。いつでも私を頼ってくれていいからね。約束だよ?」

 

 先生は中野の手を強く握って言った。

 

 

 翌日には復帰した中野は平常のように自身の仕事をこなす。額のガーゼを触りつつ、ヨミとの面談をこれまで通りに行うか迷う。

 

 自分を抑えるためとはいえ、目の前であんなことをしたのだ。彼女に精神的な負担をかけてしまったのではないだろうか。もしそうであれば、昨日の今日で会うことは憚れる。

 

 そう思っていたのだが、普段通りに面談が行われることになった。というのも、意外なことにヨミから希望があったのだ。

 

「倒れたと聞いたけど、大したことにはならなかったのね、その傷」

 

 開口一番にそんなことを言ったヨミに、中野は驚いた。

 

「何よ、その顔」

 

「いや、まさかヨミが心配してくれるとは思わなくて」

 

「どういう意味」

 

「嬉しいってことだよ」

 

 笑顔でそう言うと、ヨミは小さく笑った。

 

「変なの」

 

 この日の面談はこれまでよりもはるかに進展したものとなった。

 

 ヨミが普通に会話してくれる。ぶっきらぼうな表情が今は柔らかな笑みを浮かべている。そのことにとても安堵し、達成感を得た。

 

 ところで、ヨミと仲良くなれそうなことは喜ばしいが、気になることが一つある。

 

 別日、話の流れで中野の好きな音楽をヨミに聞かせることになった。なんでもヨミはこれまで音楽を愉しんだことはほぼないという。それはもったいないということで、中野は当日、面談室に日本時代のスマホを持ち込んだ。オフラインでも聴けるようにとサブスクではなくダウンロードしていたことが功を制した。

 

 特に気に入った曲を集めたプレイリストを開き、何から流そうかと思案していると、ヨミが隣に椅子を持ってきて座った。さらに肩を寄せる。

 

「なんか、近くない?」

 

 二人の間に隙間はない。

 

「……嫌?」

 

 上目遣いで問うヨミは、とてもいじらしい。すぐさま視線を逸らした。

 

「いや、そういうわけじゃ――」

 

「じゃあいいよね」

 

 そういって腕を掴み自身の胸に抱き寄せる。

 

「ちょっ、また引っかけようってか⁉」

 

 怒気をはらんだ声で言うと、ヨミは悄然となってその拘束を解いた。

 

「別にそういうつもりじゃないのに……」

 

その様子を少しく見て中野は、自分にも娼婦に対する偏見もかくやの意識があったのだろうかと内省し、眉間を抑える。

 

 そもそも彼女は、コミュニケーションの問題があって社会から爪弾きにされた経緯がある。男女で二人きりのシチュエーションの時の適切な距離感を学ぶ機会はなかったのではないだろうか。その状態で春をひさいでしまったがために反抗以外ではそういう身の振り方しか知らないのではないだろうか。だとしたら、さっきの自分の対応は間違いだ。

 

「疑ってしまってすまない。何と詫びたらいいものか」

 

「なにそれ。なんか大袈裟じゃない?」

 

 言わんとするところがわからない。

 

「だから、許すって言ってんの」

 

 あっさりと許されて拍子抜けがした。だが一方でほっと胸を撫でおろす。

 

「でもそうね……代わりに、享吾って呼ばせて」

 

「それは構わんが、そんなんでいいのか?」

 

 ヨミは嬉しそうに笑った。

 

「いいの!」

 

 窓あけた笑ひ顔だ。初めて見る年相応で華やかな喜色は隣にころりと転げた。

 

 中野は微笑ましくも緩む内心を律した。

 

「とはいえだ、こうして無遠慮に男に接触するのはあまり良くない。俺が言うのは変だが、男ってのは獣なんだぞ」

 

「私を襲うの?」

 

「いや俺はしないけど」

 

「じゃあ問題ないよね」

 

「そういうことじゃなくて……」

 

「でも万が一があっても大丈夫よ」

 

「警戒心薄くないか、それ」

 

「そう? だって享吾、私よりも弱いじゃん」

 

 そう言うとヨミは中野の腕を後ろに組んで机に押し付けた。少女の細腕とは思えないパワーだ。

 

「ほら、全然抵抗できてない。私からすれば、享吾の方が無警戒だと思うな。私たち相手に手ぶらって、危険じゃない?」

 

「たしかにそうかもしれんが、それじゃヨミたちを端から疑ってかかってるってことになる。逆に訊くが、はじめから武装して威圧してくる相手に心を開いてくれるのか?」

 

「……開かないかも」

 

「だから、リスクを取ってでも手ぶらなんだよ。俺は仲良くなりたくてここにいるんだよ」

 

 ヨミは何も言わない。組み伏せられているから表情も見えない。ただ、その抑える手の力が少しだけ強まったような気がした。

 

「ところで、ヨミさん。そろそろ放してほしいなあって」

 

 ようやく中野は自由を得た。

 

 

 中野は自身の執務室で書類と戦いつつ、少し頭を悩ませる。

 

 先に見たように、最近のヨミは距離感が近い。中野とて煩悩はある。だからこそ軽々な振る舞いは自重して欲しいのだが、彼女がそういうパーソナリティスペースを持つ人であるならば無暗に否定することもできない。精々誰彼にでもするんじゃないぞって注意するぐらい。だがその理屈で距離を取ることもできない。すでにその「誰彼」という信用もない他人の中に中野はいないようだ。

 

 左腕をさする。未だにヨミが押し付けてきた胸の感触が残っている。

 

 とても柔らかく、暖かい人の感触。それが中野を刺激する。そしてそのことに、高揚と同時に気分が悪くなる。

 

 中野はいつものように眉間を抑えた。猿みたいにサカついてんじゃ、ヨミと顔を合わせらんねえぞと。

 

 支給された方のスマホが鳴る。出ると、ホログラムの投影がはじまり、その光は羽川ハスミの姿を再現した。

 

「こんばんは、中野さん」

 

 ホログラムの彼女は、ほんのわずかだが気分が沈んでいるように見えた。

 

「こんばんは、ハスミ。わざわざ君から連絡を寄越したってことは、例の件だろう」

 

 例の件とは、トリニティでの少女院開設のことだ。連邦生徒会の本計画に対する評価など諸々の資料をハスミに預け、ティーパーティーに提案してもらっていた。

 

「どうだった?」

 

「にべもありませんでした」

 

「そうか。何て言っていたんだ?」

 

「まず大前提として、現在、トリニティはとある事情によりあまり余裕のない状況です」

 

 エデン条約――連邦生徒会長が失踪前に提案した、ゲヘナとトリニティの講和条約。

 

「ご存知だったのですね」

 

「まあね。それで向こうさんとしては、この忙しい時期に実績のない、それもまともに機能していない連邦生徒会から発案された計画の価値は低いとされた。そうだろう?」

 

「驚きました」ハスミは少し感心したように言った。「そこまでわかっていたのですね。ええ、なので、まずは実際の成果がなければ受け入れられないと」

 

 中野は深くため息をつき頭を抱えた。わかってはいた。当然の判断でもある。物事には優先順位があるわけで、あれもこれもと一気にできるものではない。ましてや、いまのように立て込んでいるのであればなおさら。これが平時でされた提案であればリソースも割けたかもしれないが。

 

「そうか。そうだよな……」

 

 悔しさの滲む声色に、ハスミは少し目を落とす。

 

「私なりの意見も交えて説明いたしましたが、力及ばす申し訳ありません」

 

「謝らないでくれ。ティーパーティーの言っていることは正しいんだ。この状況ならどうしたってこうなるだろう。タイミングが悪かったんだ」

 

 福祉政策の効果は、長い時間をかけて検証しなければならないことが多い。とりわけ再犯防止策となれば、調査のために五年は欲しい。

 

 このキヴォトスの寿命は、いったいどれぐらいだろう。最近はそんな不安が頭をよぎる。

 

 ブルーアーカイブの世界観には平行世界がある。このキヴォトスだっておそらくそのうちの一つだ。ゲームの先生はそういう因果律であるかのように世界を見事に救っていくが、ここも必ずしも同じだとは言えまい。事実、プレナパテスのように失敗した世界線もある。今まではそれらに目を伏せて楽観視していたが、その崩壊の時が明日にもくるかもしれない。翌年すらも保障されていないのに、どうして五年も悠長に待っていられよう。だからこそ、体力のいる施策は先んじて整えておく必要があった。

 

 その事実は、自分しか知らない。けれど怖くて、誰かに知らせることもできない。しかしその制限の中で、いったいどうすればこの問題を解決できるというのだ!

 

 しばらく苦悶していた中野にハスミは問いかける。

 

「どうして、そう焦っているのですか。比較対象としての意味は失ってしまうかもしれませんが、それこそ条約の件が落ち着いてからでも良いのではないでしょうか。中野さんは、今すぐにも始めなければならないと切羽詰まっているようにお見受けします」

 

「いやなに、少しでも早く人の助けがしたいと思っているだけだ。それが、なんというか、使命感とかになってしまって、勝手に追い詰められてるだけなのかもな」

 

 これは嘘ではない。だが抽象的で、核心的なことは何も語っていない。

 

「……そうですか。くれぐれも無理はなさらないでください」

 

 それを知ってか知らずか、ハスミは引き下がった。

 

「ああ、わかってるよ」

 

 抑揚のない言葉を言い切る前に回線が切れた。切ってしまった。

 

 中野は一発だけ、拳を机に振りかざした。

 

 疲労もあるのだろう。このころから中野は少し精神的に参ってしまっていた。それでもその様子はおくびにも出さず、いつも通りに振舞おうとしていたが、目敏い一部の職員には気づかれてしまうこともあった。

 

「中野さん、お疲れのようですが、大丈夫ですか?」

 

 連邦生徒会から派遣されたというこの子はコトハといい、とても気配りのできる生徒で、入所者のみならず職員の相談相手を買って出ておりみんなから頼りにされている。その彼女がこうして声をかけてきた意味を中野は理解した。

 

「そんなに危なっかしく見えたか?」

 

 問うと、コトハは軽く頷いた。

 

「声に覇気がないような気がします。それに姿勢も以前より猫背気味で、頬が重くなっているようにも見えます。どれも些細なものですが」

 

「そっか」

 

 目元を掌で覆う。何か熱いものが体の奥底から湧き出てくるような感触があった。それを押し戻すように、ただじっと。

 

「大丈夫って言って信じてはくれないだろうね。でもわかるだろう? 今は止まっていい時じゃないんだ」

 

「ですが、そこで無理をして倒れでもしたら、それこそ大きな支障になります」

 

「正論だな。でもな、これが先生ならどうしただろうと考えてしまうんだよ。あの人なら、こんなところで止まらない。現に今この時も走り続けているはずだ。なら、俺だって」

 

「あの人と比較するだなんて無謀です! 人にはそれぞれの限界があるじゃないですか」

 

「それでも、追いかけなきゃ何にもならん。何も得られないんだよ」

 

 コトハは激しく首を横に振って、中野に詰め寄った。

 

「だとしても、一時の休息も取れないということはないでしょう? 論点をずらしたって無駄です。強引だろうとなんだろうと、せめて一日は休んでもらいますから!」

 

 そう言い切って勢いよく執務室を出ていった。彼女はたしか、人員割りや業務スケジュールの管理をしていたはずだ。その権限をもって暇を与えるつもりだろう。

 

 中野は机の上で組んだ両手を見つめて、しばらく動かなかった。

 

「なんか、元気ない?」

 

 その日の面談。ヨミはこてんと首を傾げた。

 

「うん、やっぱりそうだ。何かあったの?」

 

「鋭いね」中野を視線を落として言った。「色々あるんだよ。色々、ね。でも心配いらないよ。近い内に暇を与えられると思う」

 

 ヨミの瞳がやや陰る。中野はそれを見逃した。

 

「ふーん。どれくらい?」

 

「具体的なことはまだ何も。いつからいつまでなのかはわからない。担当の子がいき込んでたから、それなりに離れる事にはなりそうだけど」

 

「……そっか。さびしくなるのね」

 

「へえ、嬉しいこと言ってくれるね」

 

 ヨミは少し目つきを鋭くさせる。

 

「茶化さないで。ほんとにさびしいんだから」

 

 中野はバツがわるくなったのか頭をガシガシと掻いた。

 

 実は危惧していることが一つある。それは中野の任が解かれることだ。

 

 この活動には少なくない連邦生徒会からの派遣がいる。中野の扱いもそれと同様だ。

 

 一つの機関としてまだ確立されていないこの創生期にはどうしても人手が不足する。そのため埋め合わせのために人員が寄せ集められる。環境が整えば、そうした者たちは元いた場所に戻る。だから、ヨミよりも早く中野がここを去る可能性もある。

 

 断っておこう。中野にしてみればこれは杞憂に過ぎない。彼はいつも他の職員に信頼関係の重要性を説いている。職員たちも例外なくそれを理解している。だから、よほどのことがない限り、ヨミが出院するよりも先に中野が去ることはない。

 

 だが、その事情を知らない目の前の少女からすればどうだろう。思い出してほしい。彼女の決意を。

 

 その日の晩、中野はいつものように自分の執務室にいた。

 

「また無理してない?」

 

 先生はホログラムを介して言った。繋いで開口一番だった。

 

 中野はそれに応えない。いや応えられない。彼の口は空いたり閉じたりを繰り返していて何も言葉にしない。だが先生には十分だった。

 

 先生のホログラムは中野の頬に触れる。けれど感触はない。温かさもない。何もない虚しさだけがある。

 

 中野は先生の方に映っているだろう自分のホログラムを憎いと思った。

 

「シャーレに帰っておいで。リンちゃんから聞いたよ。とても頑張ってるって。おかげで環境が滞りなく整えられてるって。もう少しで負担をかけなくてもよくなるって。

 

 もう大丈夫だよ。もう身を削る必要はないんだよ。今ここで中野くんが降りても誰も文句も言わないし、混乱も起きない。君がそう整えたんだよ。だから、またこっちで一緒にいよ?」

 

 触れないとわかっていても先生の手を掴もうとして空ぶった。

 

「先生……俺は」

 

 とここで、ヨミたちの寝泊りする寮からのコールが鳴った。迷わずそのリクエストを認めた。

 

 表示された寮長は先生に気づき、あら、と口に手をあてた。

 

「お邪魔でしたか?」

 

「そんなことはない。受話器を取ったのは他ならぬ俺だからな。しかし、寮長からなんて珍しい」

 

 珍しいどころか、寮長と事務連絡以外で会話するのも初めてではなかったか。

 

「折り入って相談がありまして」

 

「俺にってことは、ヨミか?」

 

「はい。先ほど彼女から、どうしても中野さんと話をさせて欲しいという申し出がありまして……通常なら受け入れませんが、かなり必死な様子ですのでどうしたものかと」

 

 少女院は規律も重んじる。消灯時間間際にそのような自由は与えられない。それは寮長もわかっている。それでも合わせたいと思わせる何かがあったのだろう。

 

「わかった。では面談室に連れてきてくれ」

 

「ありがとうございます」

 

 寮長はパッと消えた。

 

「先生、俺がもう少しで必要なくなるなら、俺はそのもう少しを踏ん張りたい。その時にはシャーレに帰る。約束するよ」

 

 先生の返答を待たずに通信を切った。

 

 一足先に面談室で待った中野は、入室したヨミを見て目を見開いた。

 

 ヨミの目元は赤くなっていた。どうしたんだと言おうとしたが、その前にヨミが抱きついてきて尻もちをついた。引っぺがそうと肩に手を置いたところで胸元からすすり泣く声とぬるい感触と振動を感じ取って、その手を頭に置いた。

 

「どうしたのさ。泣きじゃくるなんて柄じゃないだろうに」

 

 中野は泣き収まるまで小さな頭を撫でた。やがて落ち着いたヨミは、しかし顔を見られたくないのか俯いたまま、くぐもった声で話す。

 

「私、享吾に会えなくなるなんて、耐えられない。こんなにも心が温かくなってのも、将来を真面目に考えられるようになったのも、全部あなたのおかげ」

 

 ヨミの腕に力が籠り中野をより強く拘束する。

 

「好き。私、享吾のことが好きなの」

 

 そういうと彼女は中野を床に押し倒した。

 

「ヨミ?」

 

「でも、あなたはいなくなるのでしょ? だから考えたの」

 

 身体に回していたヨミの腕は素早く中野の両手を捉えた。

 

「あなたが私に拘束されればいいの。物理的にじゃなくても、社会的に」

 

 右手で拘束したまま、左手は中野の股に伸びた。その瞬間に彼女の意図を理解した。

 

「やめろヨミ!」

 

 足をじたばたとさせる。腕を必死に振り回そうとする。けれどヨミは涼しい顔をしていた。

 

「言ったはずだ、俺は手を出さないって! お前にはもっと自分の身のことを思って欲しかったからだ!」

 

 いよいよ自由であった足も、彼女の足で絡めとられてピクリとも動かせなくなった。

 

「うん。わかってる。だからもう誰彼に触らせたりしないよ。でも、享吾だけは例外。あなたになら襲われたって構わないわ」

 

 いま襲っているのは私だけどね、とヨミはわらう。

 

 ヨミの左手はその指で中野の腹部を優しく這わせる。徐々に下腹部へと下がり、やがて下着のゴムを押しのけて侵入していく。

 

 中野は股間にヨミの温もりを感じた。心地よさと危機感とがないまぜになって彼の情緒を崩していく。

 

「あはっ、少し固くなってきた。嬉しい、私で興奮してくれるなんて!」

 

 抵抗を続ける。虚しくも何の成果も得られないとしても体を捩じり、浮かせたりしてヨミを振り落とそうと試みる。

 

 不思議と抵抗の意思が弱まることはなかった。全身に感じる女子中学生の熱と柔らかさに性欲の昂りを実感しつつも恐怖を感じていたからだ。そのパワーだけではない。彼女が弄る度に過去の記憶がチラついて不快なのだ。忌まわしい黒歴史が這いずったまま自分の足首を掴んでいる。人間には到底不可能なほど口角を釣り上げてケタケタと嘲笑う。来いよ、来いよ。そして思い出せ。お前の罪悪はこんな程度のものではないだろう。さあ共に醜くわらおうではないか!

 

「やめろ! 来るな! くるなあ!」

 

 妄念に悶える。いやだいやだと暴れ、流石のヨミも余裕がなくなっていく。

 

「ちょっ、暴れないで!」

 

 それはほんの一瞬のことだった。一瞬だけ中野の右手が拘束から外れた。その手は迷うことなく拳となりヨミの頬を襲った。それによってぐらつき、右足が解き放たれる。無我夢中でその足で突き飛ばした。ごん、と鈍い音を立ててヨミは壁に衝突した。

 

 中野は上体を起こして、衝撃と痛みの残る右手を左手で覆った。自分の乱れた息しか耳には入らなかった。

 

 少しずつ冷静さを取り戻した中野は、さあっと血の気が引いた。今、俺は何をした? この右手で、何をした?

 

 恐る恐るヨミを見る。彼女は色の無い顔で、殴られた頬を擦っていた。

 

「ヨ、ヨミ……?」

 

 震える手足で這うように近づくと、

 

「……最低」

 

「ま、待って。待って、ヨミ!」

 

 ヨミはそれ以上、何も言わずに去った。去り際に見えた目には涙が溜まっているようだった。

 

 一人残された中野は、固く握ったままの右手を抱えて呼吸を荒くする。

 

 意識は残っているのに遠のくような、遠近法の奥行に吸い込まれてしまうような錯覚に呑み込まれながらうずくまる。

 

「違うんだ。違うんだよぉ」

 

 どうにか嗚咽は抑えた。

 

 それ以来、誰がどう見ても中野の精神状況は悪かった。もともと抱え込みすぎるきらいはしばしば見えていたが、もはや看過できるラインは超えていた。

 

 例えばこうだ。ある時、見かねたコトハが中野を引き留める。

 

「もう休んでください! 決定とか待たなくていいので今すぐに!」

 

 はじめ、中野は穏和だった。しかしコトハが粘り強く食い下がるとやがて癇癪を起す。

 

「俺はそんなにも邪魔か⁉ そんなにも切り捨てたいか⁉」

 

 その形相はおぞましかった。鬼のように恐ろしいのではない。時に追い込まれた人間が見せる狂気にも似た何かがあったのだ。

 

 およそ七秒後、中野は正気に戻る。

 

「あ……すまない。そんなつもりじゃないよな。さっきのは撤回する。悪かった」

 

 気味が悪いぐらいの変容。まさに情緒不安定だ。

 

 こうした出来事のせいで、コトハのみならず他の職員も心配する一方で、自力で中野を止めることができなかった

 

「こうなっては悠長ではいられません。早いとこシャーレの先生に、無理やりにでも連れ帰っていただきましょう。頑固なあの人には、それしかありません」

 

 緊急で開かれた会議。議題はもちろん、中野のことだ。

 

「しかし、彼女――稗田ヨミのことはどうするのですか? 中野さんは常々、子どもたちとの信頼関係を大事にするように主張していますし、それが実際にいい結果につながっていることは確かです」

 

「もちろんそれは懸念すべきことです。が、数日前から彼女は面談を拒否しています。中野さんが強く希望を出しても。一時的だとしても、修復には時間がかかるでしょうし、何より今の彼は仕事にも支障が出ている状況です。これ以上悪化しないようにするためにも必要なことではありませんか?」

 

 議場は鎮まり返った。

 

「他に、反論のある方は……いないようですね」

 

渋々な者もいるが、全職員が一致した。だがその時、事件は起きた。

 

 話し合う彼らのいる会議室に飛び込む少女が一人。

 

「享吾が、享吾が――」

 

 飛び込んだ少女はヨミだった。彼女は表情を青くしていた。

 

「ヨミちゃん⁉ いったん落ち着いて、ね?」

 

 コトハが駆け寄る。

 

「そんなこと言ってる場合じゃないの! 早く享吾を助けて!」

 

 一瞬で会議室の空気が変わった。

 

「中野さんに何があったの?」

 

 ヨミは食い気味に叫ぶ。

 

「享吾が撃たれた!」

 




 本話は人の思い込む力の強さと厄介さを意識して執筆しました。
 思い込んでしまう心の脆さ。そのことを自覚しておきながら脱せない矛盾と無力感。
 それらがどれだけ理性的には拙いのだと理解しても、不思議なことに変われないことが非常に多いのです。その原因を推測することに意味はあるかもしれませんが、時にはその試み自体が原因となることもあります。中野やホシノがそうです。
 内省という言葉の響きは素晴らしい。自らの心の内を自らが問うという行いのどこに醜さがありましょう。ですがこれは人の心を蝕むこともあります。
 まあこれらについては前回の後書きでも触れましたけどね。
 本当に自分自身が許せなくて憎くて堪らないって人間ほど面倒くさいものはありませんよ。
(2023/10/26)


ここから下までかなり長いので面倒なら思いっきりスワイプして飛ばしてください

 以下は筆者の不安の吐露です。
 (ここに何かしらの文章を入れる予定だったけど何書こうとしたか忘れちゃったから中略)
 ええそうです。こうして書きながら覚悟を試みているのです。一番はこの作品を最後まで書き切ること。そのためには構想とか教養だとかもそうですが、筆者の持続的なメンタルも重要です。例え「最近雑になってきた」との批判があったとしても、それが必要なことであれば腹を括ってやるべきでしょう。こうして語ること自体が自身を正当化させようとする言い訳であるという誹りもあれば受け入れるべきでしょう。それでも、最後まで書ければこっちのもんです。そう信じようと思います。


作者の言い訳みたいなの

 馬鹿くそ遅れた理由ですが、まあ何というか、前回の投稿後すぐに淫魔チャンネル系のコンテンツにハマりましてね。ええそうですよ! 2m越えのデカムチ異種族お姉さんにぐちゃぐちゃにされる妄想で筆が進みませんでしたyo! こちとら法学の勉強してても執筆しようとしても事あるごとに「はぁ、龍族ゥ」ってな感じで囚われてましたよ! 家の壁にメジャーを這わせて2mがどんなもんなのか確認して妄想が捗ってましたよぉ!
 でもそしたら、寝てる時が寂しくなって抱き枕を買ってしまいました。アレ用ではなくちゃんと安眠用ですよ? アイリスオーヤマの。

 話変わって、以前にめちゃくちゃ的確なご指摘をいただきましたが、上の吐露とかいうのにもちょっくら書きましたが、しばらくはこのまま突っ切る方針でいきます。元々完璧主義者な嫌いがあって、それがモチベーションだとかに悪影響を与えるっていうのがよくあるタイプの人間なので(実際それでギターもドラムも短い期間で辞めてる)、拘りすぎると多分この作品から逃げてしまうかもしれないって危機感が出てきたので、作品の完成度から多少逃げることにしました。まあ、そのせいで今話が少し雑になりました。真面目にやろうと思えばこの話、あと五千字は盛れますね。それぐらい開き直って書いてるってことでもありますが書き続けるためだと思ってご寛恕くださいな。


以下、必要かなあって思って書いた補足です。2000字と長いので別個出しても良かったのですがここに記載します。


 本話は本編ストーリーではなく、前話「一人の大人として」の補足回になります。飛ばしていただいて構いません。
 
⭕️この期間の先生の対応
 尺の都合上、不自然に省略された描写になります。
 基本的には先生による協力の打診を中野が拒否する形で関与できずにいる、という立て付けになります。
 先生及び交流のある生徒は、中野が少女院につきっきりでなかなか帰ってこないこと、帰ってきたと思ったら顔色も良くない上にあまり会話をすることもなく黙々とシャーレの仕事をこなして、先生の夕食をぱぱっと作ったら翌早朝には少女院に戻っている。そんな調子なので基本的にみんな心配します。だからその負担軽減のため、シャーレの支援を提案するわけです。
 ただ、先述の通り中野はそれを拒みます。ここについては未だ詰めが甘いままです。そもそもこの計画を始めること自体について、役にたつことを証明することで自身の存在価値を確認しようとしているのか、単に奉仕精神に基づくものなのか、他の理由とも混ざり合っているのか。何れにせよ、中野は嫉妬と焦燥感を抱いていることは事実です。それが原因であることは十分に考えられます。
 
⭕️中野の指導について
 中野が実際にどのように指導をしていくのかについては、筆者の知識不足から面談を除き描写しないことにしました。筆者は法務教官ではないですし、それについて学んだ経験もないので。ただ、面談であれば描写は可能だろうと考えましたし、それが重要であることは筆者の考えでもあります。
 しきりに中野が「我々は寄り添わなければ」とか言っていたのは、おそらく皆さんがイメージするであろう厳しい指導が逆効果であることを知っているからです。
 キャンベル共同計画によれば、スケアード・ストレイト(非行少年たちを大人の凶悪犯罪者たちに犯罪したらこうなるぞとか言って脅させる矯正プログラム)や被害者の気持ちを理解させ罪悪感を植え付けるプログラムというのはマイナス効果を生むことが報告されています。意味がないのではなく、マイナスなのです。つまり、加害者の気持ちをいくら変えようとしたところで意味ないし悪化させるだけ、ということです。
 それに対し、怒りの感情をコントロールさせるアンガーマネジメントや行動パターンを変化させる指導には効果があることが報告されています。問題を起こしたり、巻き込まれたりしないようにするスキルを身につけることが重要であるということです。
 また、受け入れてくれる居場所や生活の安定が見込める環境があると再犯率が減ることも指摘されています。それがわかりやすいのが仮釈放です。
 仮釈放とは、例えば刑期が5年だとして、残り2年あるけど帰る場所あるし迎えてくれる家族もおるし働き口もあるし犯罪しなさそうだから出してあげるっていうものです。日本の刑務所の六割ほどがこの仮釈放がされていると言われていますが、これは上述した再犯しなさそうな環境があると判断される受刑者に対して行われるものです。
 令和元年のデータによると、満期釈放者の2年以内の再販率は23.3%、5年以内では47.3%であるのに対し、仮釈放者はそれぞれ10.2%と29.0%と低いことがわかります。2012年発行の『季刊刑事弁護』に掲載された浜井浩一の「再犯防止と数値目標」によれば、再犯者の「再犯しなかった時期の状況」として就労、就学、監督者との生活のケースが多かったことが指摘されています。逆にいうと、この仮釈放率が下がるということは、迎え入れてくれるところも働いて日々を過ごすための手立てもない受刑者が増えているということを指し示すわけです。
 ホームレスのおじちゃんがお金ないから無銭飲食して捕まって、刑期が終わって放り出されたらまた無銭飲食するし、窃盗を働いて褒められて育った子どもには窃盗が悪って感覚はわからないし、それとみんなの「普通」が違うから普通の社会から疎外されて理解してくれる犯罪者コミュニティに入っていくわけですよ。
 簡単に言えば、その人たちに罪を犯させる必要のない環境を与える、作れるように支援することが大切です。働いて当たり前に給料が貰えればホームレスは無銭飲食しないし、突っぱねないで向き合って色々教えてあげれば子どもも理解します。
 幸福な状態が続けば、あえて違法行為をする理由はないでしょう?
 筆者もそうですが、中野がやりたいのはそういうことなのです。
 
⭕️省略の必要性について
 ブルアカ二次創作の物語の展開が様々であることは知っております。原作の道筋を辿るものもあれば、まったく関与しない独自路線の展開もあります。本作はどちらかと言えば後者にあたります。
 いつぞやの後書きで記した通り、メインはヒューマンドラマと言って差し支えないでしょう。そのためにマクロな展開ではなくミクロな展開がされています。しかしそれは短い時間軸の中に多量な情報量を詰め込む一方で、全体のリズム感を損なうものであります。
 この場合、マクロとはどんなことがあったのかを地の文で記していくものを指すのに対し、ミクロとは会話を主体とした心理描写になります。現実の人間の心理の複雑さを思えば、今の筆者の描写には物足りなさを感じますが、それをするばかりでは先に進みません。
 畢竟、筆者が危惧するところとしては、「人間関係」の描写に注力するあまり、そもそもこの作品がブルアカの二次創作である意義を損なうことです。
 現在のところ、日本を舞台とした小説としても成立する展開が続いている自覚はあります。それはあまり喜ばしいことではありません。そのためブルアカである必要性の低い序盤部分は早々に終わらせる必要がありました。先を急いでいたのです。
 そのために内容が雑になってしまったことは、申し訳ないです。
 
 
 今後は以上の内容を前提として物語が紡がれていくます。頭の隅にでも置いてくだされば。
 
 次話「愛情」をもって起承転結の起の部が完結し、同時に承の部が始まります。見通しとしてはパヴァーヌ一章とエデン条約調印式前後までの予定です。ただ、ゲームのストーリーそのままとはいかず、多分にオリジナルストーリーで書いていく必要があるので、一話毎の更新に時間がかかることが予想されます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。