キヴォトスに生きる   作:山葉

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愛情

 

 

 

 何もない場所にぽつりと立っていた。白か黒か、あるいは他の色か、上下左右すら知覚できない空間だ。とすると、立つという表現は少し間違っているかもしれない。

 

 ぼうっとしていると、脇からすすり泣く声が聞こえた。見るとそこには制服姿の女がうずくまっていた。どくん、と心臓が鳴った。

 

 すると次は、彼女の反対側、つまり自分の背後からまたすすり泣く声がした。振り向くと一人目の子とは違う髪型の、しかし同じ制服の女がうずくまっていた。どくん、どくんと心臓が鳴る。

 

 今度は左右同時に泣き女が現れた。姉妹を思わせるよく似た背格好をしていた。先ほどまでの二人とは違う、しかし同じ制服の女二人だった。どくどくどく、と鼓動が加速する。

 

 四方を囲まれた。泣き声が大きくなる。とても喧しくて、不快で、不安を煽ってくる。頭がおかしくなりそうなほど恐ろしい。

 

 耐え切れなくなって耳を塞ぎ、目を固く瞑って、俯いた。しばらくそうしていると周囲が静かになっていることに気が付いた。ゆっくりと顔を上げると、目の前には一人の女がいた。大人びた雰囲気の大学生がそこにいた。

 

 彼女は養父を亡くし失意の中にいた中野を見かねて優しく接してくれた。そんな彼女が、引き攣った顔で言った。

 

「気づいていないと思ってるの? その目線」

 

 辛くなって顔を背ける。しかし向いた先にも彼女はいた。

 

「優しくしたからってヤれるとでも思ったの? そんなに尻軽に見えたわけ?」

 

 下を向いた。だが彼女は下にもいた。こちらを見上げている。

 

「不快なのよ! その下卑た目だけじゃないわ。その癖して、誰よりも自分が不幸で哀れだなんて言いたげな目も全部!」

 

 たまらず見上げるその顔を蹴った。実体のないそれはいともたやすく霧散し、もうその姿を見せることはなかった。

 

 わかってるよ、そんなこと。俺だっていやだ。でもわからないんだよ。自分の気持ちって、性格って、どうやって変えられるんだっけ? 気づかないといけないって何さ。俺はこうして俯瞰できているじゃないか。それの何が不満なんだ!

 

 こんなの堂々巡りだ。スタミナをつけたければ中長距離走をすればいい。タッパを大きくしたければ筋トレをすればいい。じゃあ心は? 心は具体的にどうすればトレーニングできるの? どんな科学的、医学的アプローチがあるというの? 

 

 でも誰も教えてくれない。誰も彼もがいっちょ前な批判はするくせに、何の知識もないんだろう。だから誤魔化すように曖昧なことしか言えない。そうに違いない。

 

 ならせめて、意識すること、自分がそういう人間だと自覚して、地道に自分の内側と戦い続けるしかない。

 

 ああ、ほんと、嫌になる。

 

 全部、わかってるのにな。

 

 

 

 中野くんにとって最良の対応って、どんなものがあるのだろう。例えば、ユウカやハスミのような学内でも一定の地位にいる真面目な頑張り屋さんの生徒たちなら、その肩の力を抜いてあげるといい。生徒の多くは純粋で、素直で、行動の動機やきっかけがわかりやすい。でも中野くんはなまじっか考える力があるだけに、そしてここでは大人なんだという意識も相まってその内心が複雑に絡み合っているように見える。その背景にはおそらく彼の過去が大きくかかわっているだろうから、それを知らない自分にはどうするべきなのか、わかるはずがなかった。

 

 けれどもそうして諦めるわけにもいかない。彼はいま、ちょうど子どもから大人へと変わっていく時期であって、どちらとしても中途半端だ。少し前には「一人の大人として」と言っていたが、まだ学ぶべきこと経験すべきことの多さから考えれば十代とさして変わらない。重要なのは、この成長期を適切に支えてあげることだ。

 

 そのためには彼のことを色々と知らなくちゃいけないけど、踏み込んでいいのかなあ……

 

 そうこうしている内に、少女院のコトハという生徒から緊急の連絡を受けた。

 

「中野さんが……射撃訓練中に、一緒に訓練を受けていた予科生と口論になり、撃たれました」

 

 その時、恥も外聞もなく泣きだしそうになった。何とか耐えたが、目の前のコトハにはその感情は筒抜けだった。

 

「先生、大丈夫です。中野さんの命に別状はありません。現在は病院で治療を受け、安静にしています」

 

 しかしそういう彼女の表情は暗く心配の色が色濃く映っていた。

 

「先生にはこれから言う病院に来ていただいて、詳しくはそこでお話ししたいのですが……」

 

 是非もなかった。食い気味に行くと応え、搬送された病院を聴いてすぐさま準備をした。

 

 病院のロビーには、先ほど話していたコトハが待っていた。

 

「忙しい中、ありがとうございます」

 

「ううん、いいの。中野くんだって大切な教え子だからね」

 

「……中野さんのいらっしゃる部屋にご案内します」

 

 そう言ってコトハは歩き出し、それについていく。病室に着くまでの間で会話はなかった。

 

 病室は静かだった。彼に繋がれた機器を除いて、音を発するものは何もなかった。

 

 そう、音を発することができたのは、機械と、今入室した二人だけなのである。

 

「ご覧の通り、容体は安定しています。ですが、現在まで、意識不明のままです」

 

 彼女の言葉は耳に入らなかった。ただその目だけが、白いベッドで穏やかに眠る中野を捉えて動かなかった。

 

「明日か、遅くとも明後日ぐらいには目覚めるだろうと、医者は言っています。撃たれた左肩を動かすのは、まだまだ時間がかかるそうですが。ただ、懸念が一つ」

 

 コトハの方を振り返った。これまで以上に苦しそうな表情をしていた。

 

「懸念って?」

 

「……トラウマです。今回のことは、間違いなく精神的にも大きな傷を残したでしょう。もともと精神的に危うい状況にあったのに、まるで追い打ちをかけるように、こんな……」

 

 とても悔しそうな、それでいて自分を責めるような含みがあった。

 

 そっと、コトハを抱きしめる。

 

「ありがとう、コトハちゃん」

 

 抱きしめた彼女の身体は少し震えていた。

 

「すみません、私が、もっと、上手く、やれてたら!」

 

「そんなことないよ。コトハちゃんみたいな優しい子がいなかったら、中野くんはもっと辛くなってたかもしれない。気にかけてくれるだけでも、人って嬉しくなるんだよ?」

 

 するとコトハは自分の胸の中で静かに泣き始めた。収まるまで優しく背中を擦った。

 

 

 シャーレに戻ってから、コトハから聴いたことを反芻していた。

 

 最近の中野の情緒不安定。その原因と思われるヨミという子との関係。そして今回の事件のこと。なぜ、少女院の中で銃撃事件が起きたのか。それは射撃訓練があったからだ。中野は指導される側として参加し、そこである一人の子と喧嘩になって、その流れで怪我を負った。

 

 以前から、この射撃訓練を指導の中に組み込むことには反対の声があった。犯罪者に矯正施設内で銃を持たせることは危険ではないのかという心配だ。

 

 生徒たちならそんな心配いらないと信じる一方で、無理からぬことだと理解を示す。悲しいかな。誰もが無条件で人を信じることができる人間は極めて少ない。その不安を杞憂と一蹴することもできない。実際、こうして事件が起きてしまったわけでもあるし。

 

しかし、こうした反論に対して、彼はこんなことを言ったそうだ。

 

 

 故郷の話だ。働きだした者は皆個人口座を持っているし、小学生でも携帯を持っている。これだけだとこっちと大して変わらんな。ともあれ、いっそそれらを持つことは常識と言える。だが、指定暴力団の団員の場合、条例によって口座も携帯も持てなくなる。足を洗ったとしても五年間は持てない。彼らがよしんば心が綺麗になったとして、そういった常識を奪われて、まともに生活できるのかね? 口座も携帯もない人間を、しかも元暴力団という肩書を背負って、まともな職にありつけるのかね?

 

 答えは「困難」だ。では、生活苦の人間、それも以前には犯罪を犯した者はどうするだろう。きっと再犯するだろうね。ホームレスのおじいちゃんが無銭飲食するように。あるいは別の暴力団が接触してきて「うんうんわかるよ辛いね。じゃあうちに来ない?」と誘うこともあるだろう。今が苦しいのに、断れるのかな?

 

 常識を奪うというのはそういう結果を生むんだ。日本じゃ本当にそういう制限をする条例がある。そして元暴力団員の再犯に役立っている。まったく馬鹿げた話だ。俺はそんなの御免だね。

 

 

 彼らしいと言えば彼らしい。何をするにしても理屈をこねくり回そうとする彼は、いつも何かしらの根拠を示すことに精を尽くす。本当はもっと感情的だろうに。もしこんなことを直接言ったら、

 

「いやどうだろう。その可能性もあるだろうし、単純にそうした知識があるからこそ付随してきたのかもしれない。確定はできない」

 

 と堅苦しいことを言うだろうね。もっと単純になっていいのだけれども、きっと彼は拘る。拘ってしまう。それを欠点として自認してもなお。

 

 全ての景色が滲んでいく。悲しみだけじゃなくて、悔しさもあって。

 

 どうしていたら、こんなことになる前に彼を救えていたのだろう。どうして自分は、こんなにも無力なのだろう。

 

「先生……」

 

 アロナの呼ぶ声にはっとした。

 

「そうだね、アロナ」

 

 悔いたのなら、行動にしないといけない。彼も言っていたじゃないか。反省とは、もう二度とそれを繰り返さないという形でしか表せないって。

 

 善は急げ。思い至るやタブレットを操作し、連絡帳を開いてその内の一人を呼び出した。

 

「ユウカ? いきなりごめんね。少し相談があるんだけどいいかな?」

 




次回 起の部 最終話
愛さえあれば、それでよかったんだ。それだけだったんだ。
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