キヴォトスに生きる   作:山葉

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愛情――2(第一章最終話)

 

 

 

 それは何てことのない指導の最中のことだった。その時の指導は射撃訓練だった。

 

 普段、予科生の彼女らに施設内での銃の携帯は許可されていない。だが銃の携帯はこの世界の常識だ。常識を奪うことが悪影響を与えることは知っているが、流石に殺傷能力のある物を自由に持たせるのはリスクが大きすぎる。ということで、定期的に射撃訓練を行うことでその常識を少しでも保障することで落ち着いた。

 

 それに健全な銃の使い方――ガンモラルとでも呼ぼうか――を学んでもらう必要もあったから、どのみちこうした指導をする必要があった。

 

 ちなみに、自分が教官として指導に加わることはない。予科生たちに混ざって、一緒に指導を受けさせてもらっている。自分も銃に関しては学ぶ側の人間だからだ。

 

 その日、いつものように射撃訓練に勤しんでいた。最近はストレスが酷くて、とにかく一心不乱に的に発砲していた。すると、一人の予科生が話しかけていた。いや、突っかかってきた。

 

 彼女は毎度毎度、自分に挑発的な態度を取るのだ。少し前までは笑顔でやり過ごせていたのだが、今はそれもできなくなって、それどころか苛ついた表情を見せてしまっていた。もちろん自覚している。だからこそ、そのことにも苛立って仕方なかった。それはつまり、彼女の思惑通りになっていたということでもあった。

 

 彼女との会話は、多くは覚えていない。ただ、最近のヨミとの関係を指摘され、先生を侮辱するようなことを言われたのは覚えている。そして、それに酷く憤ったことも。

 

 はじめは単なる言い合いのはずだった。しかし徐々にヒートアップしていき、ついには取っ組み合いになった。もちろん、キヴォトス人に力で勝てるはずがない。だがヘイローのない人間相手という現実が彼女を委縮させた。恐れさせた。そうして争った結果。

 

――バンッ

 

 急所に当たらなかったのはよかった。おかげで死を回避しただけでなく、自分の未熟さが少女を人殺しにさせずに済んだ。

 

 おもむろに、自分の左肩に触れる。すると撃たれた時の痛みを思い出して冷や汗が吹き出る。まだ塞がり切れていない傷口が疼いて仕方ない。

 

 扉がノックされる。そして現れたのは看護師だった。

 

「傷口、痛みますか?」

 

「いえ、幻痛ですよ。少し思い出しただけです」

 

「そうですか……ところで、今日も先生から面会の申し出がありますが」

 

 中野は首を横に振って答えた。

 

「……わかりました」

 

 看護師は部屋を後にした。

 

 覚醒した中野は、ずっと面会を拒否している。先生も、交流のある生徒も、全員例外なく。理由は彼自身でも言語化できない。ただ名状しがたい「今は会いたくない」という感情だけがある。

 

 怪我が完全に塞がったら退院して、シャーレに戻るのだからどのみち会うことになる。そんなことはわかっているが。

 

 退院日。病室で身支度をしていると先生が入室した。流石に退院になってまで先生と会うことは拒めない。自分の住処はシャーレだというのに、どうしてこの期に及んで拒めよう。

 

「中野くん……怪我の具合はどう?」

 

 久しぶりに聴く先生の声だ。相変わらず優しくて、しかしどこかに活気のある、そんな声。しかし不思議と感動はなかった。なぜだかわからない。

 

「傷口は塞がりました。問題と言えば、動かす時に痛むぐらいでしょうか」

 

 先生はすごく辛そうにした。なぜだかわからない。

 

「そう……なら、よかった。あとは無理せず過ごせばだね!」

 

 いつものように笑顔を見せる。けれど、どこか悲しそうに思えた。なぜだかわからない。

 

「それじゃ、シャーレに帰ろう」

 

 中野の手を引いて歩き出す。部屋を出る直前、ベッド脇の棚に立てかけてあった小さな鏡に映る自分が見えた。猫背で、髪はぼさっとしていて、頬は少し痩せているようにも見えて、瞳はどす黒く何も映していなかった。あれ、俺ってこんなだっけ。

 

 シャーレに帰るまで、先生はちらちらと中野を気にかけてはいたものの、二人の間で会話は生まれなかった。

 

「ほら、着いたよ」

 

 中野はシャーレのビルをぼんやりと眺める。その動作一つ一つに生気が感じられない。

 

「おかえりなさい、中野くん」

 

 先生は努めて明るく迎えた。

 

「ただいまです、先生」

 

 中野は寒々しい中味のない言葉で返した。

 

 

「あ、中野さん!」

 

 オフィスにはユウカが待っていた。帰ってきた二人を見るなり駆け寄ってきた。

 

「よかった、怪我は大丈夫そうですね」

 

「ええ、無理さえしなければですが」

 

 するとユウカは目を見開いて先生を見た。あり得ないものを見たと訴えるかのように。先生はそれに明確なアクションは起こさなかった。ただ悲し気にユウカと目を合わせるだけ。

 

 とりあえず座ろうか、という先生の勧めに従うと二人は対面に座った。そして、帰って早々だけど今後のことを伝えなくちゃいけないね、と切り出す。

 

 まず、中野の少女院での任は解かれ、本日付でシャーレに復帰を旨とする通達がなされた。その理由として主なものは二つ。

 

 ひとつは、少女院を含め、再犯防止のための体制が整ったこと。具体的には新たに社会福祉室が行政委員会の下に設立された。少女はこの管轄に置かれ、また在野の心理学や教育学の専門家、有資格者と協力又は登用していくことが決まった。他にも、これまで陽の目を浴びてこなかった数少ない犯罪学者を招聘し“授業”を連邦生徒会内で実施し、またいわゆる有識者会議のスケジュールも組まれて物事は万事順調に進んでいる。

 余力のない状況でよくぞここまで、と平時の中野なら感動していたことだろう。だが今の彼は薄い反応しか示さない。

 

 またもう一つは、現体制下における中野の必要性と件の責任という側面だ。盤石ともいえる体制ができつつある現在、より専門化していく環境に中野はついていくことができなくなるだろう。よってあとのことは専門官たちに任せ、中野自身については以前のようにシャーレの業務に戻るよう沙汰が下された。

 

 そして同時に、組織としては事情があったとしても問題を起こした中野に何もしないことはできなかった。つまり、この処分は外観としては新事業から降ろされ左遷されたというのに近い。しかしその実、本人には言わないが、危うい状態にあった中野を遅れながらも保護するにはこれが最適解だったし、そういう配慮でもある。また保護をシャーレに任せたのは七神行政官の想いやりと先生に対する信頼故だった。先生は内心で、それに深い感謝を告げた。

 

「事務連絡はこんなところかな」

 

「では、まだ何かあるのですか?」

 

 ただじっと中味のない目で仰ぎ見る中野は言った。

 

 先生は一つ二つ呼吸を置き、慎重に言葉を紡ぐ。

 

「色々と大変だったでしょ? だから中野くんにはお休みとか、それだけじゃなくて悩みの解決とかも必要かなって」

 

 中野の肩がわずかにピクリと反応した。

 

「その、前にも言っていた……目線のこととか、ね」

 

 はあはあと息切れがし、冷や汗を滲ませる中野に並々ならぬ気配を感じ取る。

 

「な、中野くん?」

 

 顔を覗くと彼の焦点は合わず、カタカタと震えている。うわ言のようにごめんなさいごめんなさいと繰り返している。

 

「中野さん、大丈夫――」

 

 その瞬間、中野は立ち上がった。そして扉に向かって駆けだした。

 

 先生は咄嗟に去ろうとした中野を引き留める。

 

「待って! 話を聞いて!」

 

「わかってます、わかってます! ですが少し時間をください。逃げも隠れもしませんから!」

 

「違う、そうじゃなくて――ああもう、ユウカ!」

 

 先生は筋力では劣ると悟るや否やユウカと入れ替わる。女性とはいえキヴォトス人のパワーは凄まじく、中野はなす術なく近くのソファに押し込まれる。

 

「聞いて! 別に私たちは中野くんを責め立てたいわけじゃないの!」

 

「じゃあ何だと言うんですか! 卑しい俺を糾弾するんじゃなくて!」

 

 必死に抵抗するも全く歯が立たず、情けなくなって涙が零れ出す。

 

「みんなわかってるの!」

 

「俺の尾籠さでしょう!」

 

「違う、君がそれに悩んでることだよ!」

 

 中野は一瞬、その言葉の意味を捉えられなかった。

 

「みんなの優しさを見くびらないでちょうだい!

 

 たしかにみんな、君のそういう視線を快く思ってはいない。でもね、それでもみんな、口をそろえてこう言うの。その視線を向けるたびに、君は後悔するように眉間を抑えるんだって」

 

 先ほどまでとは全く異なる理由で目頭が熱くなる。

 

「だからね、みんなに頼まれたの。君のその悩みを、解決してあげてって」

 

「なんですか、それ」くぐもった声がする。「みんな、優しすぎます」

 

「そうでしょう?」

 

 先生が誇らしげに言って、ついに中野は決壊した。涙が、嗚咽が、止めどなく溢れ出る。みんなの優しさをかみしめるように。

 

 もう必要ないと判断したユウカは拘束を解いた。落ち着くまでの間、先生は中野の隣に座って寄り添った。その優しさが、温かさがありがたくて、つい甘えてしまった。

 

「ねえ、吐き出してみない? 中野くんの心の中に溜まったもの」

 

 少しだけ躊躇う。これまで誰かに自身の核心に迫ることを打ち明かしたことなどなかったから。

 

「大丈夫。ここにはみんなを導く先生と、世話焼きのユウカだよ? 良い相談相手だと思うんだけどなあ」

 

 少しおどける先生を見て、自然と笑みがこぼれた。

 

 思い切って話してみることにした。

 

 

 

 中野享吾の人生は、決して明るいものではなかった。もの心が付いた時から両親は喧嘩が絶えず、その激しさや恐ろしさに常に泣いていた。父の怒号。母の悲鳴。ある時はその立場が逆になる。そんな環境はいつまでも続くわけもなく、彼が小学校に進学するタイミングで離婚し、母親についていくことになった。後に知ることになるが、両親の表の離婚理由は母親の不倫であった。しかし、実際は複雑であった。鶏が先か、卵が先か。どの要因がすべての始まりであったかを断ずることはできない。

 

 彼の家は貧しく、父は安月給を補うため、会社の規定に背いて、秘密裏に副業として深夜までアルバイトをしていた。毎日が睡眠不足だった。さらに良くなかったのは、本業の彼の上司によるパワハラは苛烈であったらしく、そのことも心身の疲労に拍車をかけ、いきおい当然、彼を激情家に仕立て上げた。その余裕のなさゆえに、家庭内での暴力は絶えなかった。

 

 母は父と比べると幾分か穏やかではあったものの、お世辞にも賢い母とは言えず、学もなければ男性関係にも緩く、浪費癖があった。彼女も彼女で働いてはいたもののその収入は決して多くはなく、父が家庭のためにと準備した貯金にまで手を出す始末であった。そして中野家では贅沢ができなかったため、外に男を作り、遊んでいたことも、父の心労の一端となった。

 

 これらの要素がいつの間にか連鎖的に起きるようになり、ついに家庭は崩壊した。

 

 比較的、温厚な母に連れられ、少しは状況が改善されるかに思われた享吾の環境は、むしろ悪化した。離婚後も相変わらず男をとっかえひっかえする母はそれらを頻繁に家に連れ込んだ。

 

 しかしこのような女性が引っかけられる男などたかが知れており、どれもクズばかりであった。小学生の享吾に暴力を振るうことなど当たり前であり、風呂場に沈められたり、煙草で根性焼きをされたり、鋭利なフェンスに腕を引っかけられ深い傷跡ができたこともあった。

 

 そうした生活環境では、まともな人格など育つはずもなく、享吾は鬱憤を晴らすかのように同級生を殴るようになった。女性を単なる性の道具と考えるようになり、猥褻行為など日常茶飯事であった。最悪なことに、超えてはならない一線を越えたことが何度もある。被害を受けた彼女らが自殺を図らなかったことは不幸中の幸いと言ってもいいだろう。

 

 そうして荒んだ享吾に転機が現れたのは、中学二年の夏のことだった。

 

 いつものように母が連れ込んだ新しい男はこれまでとは異なり、とても温厚で聡明な印象があった。享吾はそんな彼を鼻で嗤った。こんな男でも、こんな阿婆擦れに惚れるものなのかと。

 

 男は鬱陶しいほどに享吾との対話を試み続けた。いつしか享吾は折れ、男と会話するようになった。はじめは他愛もない話をするだけだった。それがいつのまにか享吾のやりたいことについて話すようになり、そしてそれを実現するという話になっていき、享吾は不愛想に振舞いながらもそれを楽しむようになった。関心は全てそちらに向き、母のことも、学校のことも視野に入らなくなり、人並みに楽しい時間を過ごせるようになっていった。

 

 だが享吾はあるとき、ふと学校のことを思い出した。学校の連中も、普段はこうして過ごしていたのだろうか、と。そして、ようやく自身のやってきたことを振り返り、ぞっとした。本来、学校にいる時間も楽しくあるべきだ。なのに、自分という存在が同級生たちの青春を破壊し続けていたのだと。享吾は初めて後悔した。初めて罪悪感を抱いた。初めて自己嫌悪した。初めて死にたいと願った。そして、初めて病んでしまった。

それ以来、部屋に籠るようになった享吾の下を男は変わらず訪れた。享吾が、今まではとは違って、自分をクズだと罵って会うのを拒んでも足繫く通った。

 

 ある時、男は別の場所でやり直してみないか、と言った。

 

 どうやって、と享吾が問うと、男は気楽そうに答えた。

 

「僕と一緒にここを出るんだ。そして一緒に住もう」

 

 そんなことをしていいのだろうか。それは自分の罪から逃げているのではないか。享吾がそう悩んでいると、

 

「今は逃げたっていいんじゃない?

 僕は、反省って気持ちの問題じゃないと思う。反省と謝罪で一番大事なのは、行動だよ。どんなことを思ったり言ったりしたって、その後同じことを繰り返すんじゃ意味ないからね。だから反省したのなら、それを今後ずっとしないこと。そうすれば、いつか振り返った時に、『俺はあれ以来道をたがえてない。これこそが反省の証だ』って胸を張れる時がくるよ」

 

 その言葉は享吾の心に強く響いた。ずっと見えなかった自分のすべきこと。それがはっきりして、彼の心に必要な穴を空けた。

 

 享吾は迷わず男の提案に乗った。高校進学と同時に引っ越すことに決め、進学のために残りの時間すべてを勉強につぎ込んだ。だが彼は母が何というのか、それが不安だった。しかし男は何と言ったのか、母を納得させてしまった。どんな交渉をしたのか、その内容は知らない。

 

 ともあれ、享吾は無事に中堅の県立高校に進学が決まり、新たな暮らしをスタートさせた。しかしそれでも順調とは言えなかった。

 

 これまでまともな人間関係を築いたことのなかった享吾には、人との適切な距離感がわからず、人の心の機微を気にすることもなかったため無神経な言動をしてしまい、ついに高校で友人を作ることは叶わなかった。特に女子からは大いに嫌われた。というのも、彼が小学生のころから持っていた「女は性の道具」という価値観は抜けきっておらず、ことあるごとに女子に下卑た視線を送っていたからだ。自覚した時、文字通り膝から崩れた。何の反省もできていないのではないかと自身を疑った。だがそこで単に項垂れるのではなく、これと向き合っていくことに決めた。

 

 しかし不運なことに、彼を心身共にサポートするはずだった男は、大学入学から間もなく、交通事故で亡くなってしまった。

 

 それはある晩のことだった。いつもなら何かしら話しかけてくる男が、その日は妙に静かだった。不思議に、しかしどこか心配するように様子を窺っていると、男は暗い顔で大事な話があると言った。

 

「今まで隠してきたことがある。……僕は、享吾の本当の父親だ。君と僕には、同じ血が通っている」

 

 享吾は唖然として何も返せなかった。それに構わず男は、父は話し続ける。

 

――君のお母さんとお父さんが結婚する前、僕は彼女と不倫関係にあった。僕は彼女に婚約者がいるなんて知らなかった……いや、これは言い訳だ。事実は変わらないのだから。

 

 ともかく、僕は間男だった。そしてある時、彼女は青ざめた表情で言ったんだ。僕との間に子どもができたって。僕は嬉しかった。だって愛する人との愛の結晶ができるなんて、素敵に思うじゃないか。けれど、そうして浮かれる僕に、彼女は婚約者が他にいる、どうしようって、言ったんだ。

 

 それから先のことはあまり覚えてない。ただ怒ったこと、悲しかったことは覚えてる。結局その後すぐに僕たちは別れて、彼女は何事もなかったかのように結婚し、僕は関わらないようにすると心に決めた。

 

 しばらくして、彼女と同級生だという人と仕事で会って、離婚のことや、君のことを聞いた。僕は後悔したんだ。裏切りがあったとはいえ、自分の血を分けた子が酷い環境にあって、ここまで気にせず生きてきたことを。

だから彼女に連絡をとって、君に会ったんだ。今度は逃げずに、向き合おうと思って。

 

 そこまで静かに話を聞いていた享吾が重く口を開け、飛び出たのは糾弾の言葉だった。

 

 どうして隠してた。今まで聖人ぶって俺に説いた言葉は何だったんだ!

 

 そんな言葉が溢れ出てきた。やめようと思っても、止まらなかった。

 

 父を責める言葉も出尽くして、それでも気が収まらなかった享吾は家を飛び出した。父に対する怒りはあった。だがそれ以上に、自分のことを棚に上げたこと。これまで父がどれだけ自分に良くしてくれたのかわかっているのに罵ってしまったこと。それらが罪悪感となって彼を突き動かした。

 

 父が交通事故に遭ったのはこの時だった。

 

 享吾がそれを知ったのは翌朝、頭が冷えて、謝ろうと決心して家に帰ると、一本の電話が入った。誰が寄越した電話か、それは父の訃報で失念した。

 

 曰く、享吾を探して街を走り回り、その途中で不用意に飛び出してしまい、車に轢かれたという。すぐに病院に運ばれたものの、間もなく死亡が確認された、と。

 

 享吾は膝から崩れた。だが不思議と涙は出なかった。ただその心には、酷い喪失感と罪悪感だけが蟠り、蝕んだ。

 

 それから何があったか、享吾は覚えていない。色んな大人と会い、色んなことを訊かれ、言われた気がする。でもそれら全てがどうでもよかった。

 

 以来、享吾は無気力になる。これまでは父を頼りながら自分の内面や罪と向き合ってきた。なのに、その支えが急になくなって、何をどうしたらいいのかわからなくなってしまったし、どうする気も起きなかった。

 

 そのため課題としていたことは全ておざなりになり、解決しないままただ時間だけが過ぎ、今に至る。

 

 

 

 一通りを話し終えると、執務室はしんと静まり返る。

 

引いてしまっただろうか。昔のこととはいえ、これだけで嫌われても文句は言えない。それほどのことだと、彼は理解しているから。

 

 そんな心配をする中野をよそ目に先生は「よし、決めた!」と言って唐突に立ち上がり、中野を優しく抱き寄せた。

 

「私、享吾のお母さんになります!」

 

 またしても執務室に静寂が降りた。数拍の間のあと、ユウカは顔を真っ赤にして勢いよく立ち上がった。

 

「どどどどうししてそうなるんですか⁉」

 

 大声を上げるユウカとは対照的に、中野はわけがわからず戸惑ってわなわなとしていた。

 

「えー、だって、享吾は子どもの頃に必要だった母親の愛を受けずに育ったんだよ? だから今この子に必要なのは愛情だよ!」

 

「言いたいことはわかりますが、中野さんだってにじゅ――ってなんでそんなニヤニヤしてるんですか!」

 

「わかんない、わかんないけど、なんかぁ!」

 

「あなた二十歳の大人ですよね⁉」

 

「そんなこと言っちゃだめ、ユウカ。大人だって甘えたくなる時はあるし、享吾はまだ子どもだよ」

 

「二十歳になったからといって大人になるという因果関係もないだろう。大人の定義もままならないまま断言するのは理系の名折れじゃないか?」

 

「急に冷静にならないでください! というかなんで私が間違ってる雰囲気になるんですか!」

 

 それからしばらく、執務室にユウカの声が響いた。

 

 

「解決ってどうするつもりなんだ?」

 

 中野は鼻をかみながら訊く。心の問題だからすぐに変われないわけで、有効な手段は少ない。

 

「発想を変えなきゃいけないよ、享吾」

 

 先生に名前を呼ばれるだけで顔がだらしなく崩れそうになるがどうにか抑える。

 

「心という実態のないものを変えるのが至難の業なら、物理的に解決するってことよ」

 

「まさか、俺の目を――」

 

「潰さない潰さない! そんな物騒なこと、息子にするわけないじゃん!」

 

「息子って……恥ずかしくないんか?」

 

「何よ! さっきから嬉しそうにしてるくせに!」

 

 図星を突かれ顔が紅潮する。

 

「う、嬉しくなんか――ありますけどぉ、それとこれは別の話でしょう。ねえ、ユウカ⁉」

 

 ユウカは目の前でいちゃつく二人を冷めた目で見つめ、ため息をついた。

 

「そんなことより、その物理的にどうするのかってことですけど、具体的には目をゴーグルで覆うという方法です」

 

 そんなことしたって意味ないのではと中野は言った。

 

「ホシノにあまり自分を思いつめないようにって言ったみたいだね。享吾風に言えば、自分を定義することでそうであろうと心が変容しようとしてしまう、って感じかな。私もそう思う。要するにやりたいのは、そんなことを気にしなくなるようにすること。そのためにまずは視界をどうにかすれば、変わるための準備ができると思うんだ。ね、ユウカ?」

 

 ユウカはしたり顔になって応えた。

 

「はい。そこで、ミレニアムが誇るエンジニア部の出番です。詳しいことは現地で伝えますが、ざっくり言うと、女性だけ本来の見え方とは違う描写をするスクリーンをゴーグルのレンズとして取り付けます。どういう描写をするのかとか、デバイスの形状はどうするのかとか、どんな機能をつけるのかとかは、これから中野さんと相談してから――って、何でまた泣いてるんですか⁉」

 

「うぅ、みんな優しい」

 

「おーよしよし。嬉しいねぇ」

 

「うん」

 

 また始まった。こんなことを繰り返されては流石に話が進まないので、ユウカは一度喝を入れる。

 

「ああもうしっかりしてくだい! 先生も、いつまでも甘やかしてないで! 本当に怒りますよ!」

 

 途端にビシッと姿勢を正した二人に、呆れたように再度ため息をつきながら話を進める。

 

「はあ……それで、その制作依頼自体はもうすでにしてあります。おおよその設計や構想もできていますので、あとは細かい部分の仕様を決めて、実際に作ってもらうだけです。なので、中野さんには、明日、私たちと一緒にエンジニア部に会ってもらいます」

 

「明日って、随分と手際がいいな。先生、仕事は大丈夫なんか?」

 

 問われて先生は右手で小さくガッツポーズをして大丈夫、と答えた。

 

「このために仕事を前倒しで終わらせたよ」

 

「最近張り切ってるなと思ったら、なるほど」

 

「それに、丁度ミレニアムに行く用事、というか仕事の依頼があったんだ」

 

 中野はその依頼主が誰なのか察した。

 

「ゲーム開発部からの依頼か」

 

 時計じかけの花のパヴァーヌ編第一章の開幕だ。

 




 愛ってなんでしょう。私にはよくわかりません。実感したことがありませんから。
私の両親が離婚したのは小学四年生の時でした。夏前ぐらいにいよいよ別居となり、私は父と共に暮らすことになったのです。
 母はそれまでに、私を愛してくれていたのでしょうか。おそらく愛はあった、と予想はできます。予想だけです。当時の私には人情やら愛情やらを認知する知性はありませんでした。そしてそれが認知できる頃には、すでに母はいなかったのです。
 では父はどうでしょう。やはり愛はあるのでしょう。しかし実感は湧きません。その事実を認めるにあたり、私はここまで私のためにいくらお金を使ってくれただの、そんな基準でしか測れません。知性は備わっても、感情は育たなかったのです。
 ただ私は、心理学だの哲学だのに傾倒し、物事を俯瞰して、さらに論理的に考えられるようにするということしかしてこなかったのです。感情など掃いて捨ててしまえ。そんな10代でした。
 今はもう、ただの後悔です。取り返しがつかないほどに、私は感情を塵としか思わなくなってしまいました。その存在価値を認めるのは、あくまでも排斥されないようにする手段として用いるときにだけ。そんな価値観です。
 ですが心の中では、きっと求めていたはずなのです。真綿のように優しく温かい、包み込んでくれるような深い愛を。それがあればと何度も何度も夢想し、そして病んできました。
 ここから先の物語は、愛を知らない人間による、愛の物語です。想像上の愛。けれど私にとっては理想的な愛。
 愛さえあれば、それでよかったんだ。と回顧する人間の、後悔の現れ。
 今後とも、お付き合いのほどよろしくお願いします。
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