ウマ娘Prequel「跳べ、ウラヌス!~ウマ娘オリンピック物語~」 作:空見ハル
喫茶店にランタンを送った後、私とファレーズは騎兵学校に戻った。車夫のウマ娘に御礼を言うと、「いえいえ、またいつでも!」と、笑ってどこかへすっ飛んでいった。すごい健脚だった。
騎兵学校に帰ると、ちょうど夕食の時間を迎えていた。トレーナーは「明日までいても良かったんだぞ」と言っていたが、私もファレーズも、どうにもそういう気分はなれなかった。
ファレーズと別れて一人。夕食は、いつもの食堂。いつもの定食。けれど、心の中に残った、東京の街とランタンの言葉が、ずっと胸の奥でこだましている。
箸を持つ手が止まる。
人力車から東京を見た。震災の跡、新聞売りの子供、路地裏でパンを配っていたランタン。あれは全部、今の“日本”の顔だった。知らなければ、ただ夢に向かって走れたのかもしれない。だけど、知ってしまった以上、無関係ではいられなかった。
……こんな時代に、オリンピックに夢中でいていいのか?
私は、車夫のウマ娘やランタンが東京の街を語るのを見て、なぜか思い浮かんだことがある。
『困ったものだね、オリムピックのためだなんて』
『ええ、大陸ではいつ戦争になるのかわからないっていうのに、西洋のスポーツとやらに現を抜かされてもね』
騎兵学校の中でもたまに私たちに向けられる、競技ウマ娘やトレーナーへの陰口。
彼ら彼女らの中には、貧しい農村出身者や、東京の中で震災にあった人もいたのだろうか。ふとそう考える。
今、日本は苦しんでいる。貧しさに、争いに。
いくら情勢やニュースに疎い私でも、知っている。大陸で今にも戦争が起きそうなこと。それによってさらに日本は貧しくなりそうなことも。
これからの時代は、日本はきっと、もっと苦しくなるだろう。
でも、私たちはそれを感じない。トレーナーの下で、戦争のためでも、福祉のためでもなく、日々オリンピックのためにトレーニングをしている。莫大な資金をかけて行われる、オリンピックのために、日々お金をもらいながら励んでいる。
でも、それでいいのだろうか。今まで、私たちがしてきたことって……。
ぐるぐると考えていると、向かいの席から視線を感じた。
ソンネボーイだ。
まだ慣れないのか、ちょっと下手に持っていた箸を置き、まっすぐ私を見ている。
「顔に出てるよ」
「……え?」
「何か、悩んでる。ご飯も、進んでいない」
鋭い感性は飛越だけじゃない。ソンネボーイは、良くこちらをじっと見ては、的を射ることをよく言うのだ。
私は少しだけため息を吐いて、ソンネボーイに話した。今の東京のこと、私たちが跳んでていても良いのかということ。
「こんな時代に、競技をしていてもいいのかって?」
「……うん」
それを聞いたソンネボーイは、なぜか少しむっとした。
「愚問。世間の貧しさも、争いも、関係ない。ボクらにできるのは、ただ目の前の勝負に勝つことだけ」
そして目の前の夕飯を一気にかきこんで、すたっと席を立った。
「ウラヌスは優しい。でも、そのままだと、ボクには勝てない」
そう言って、お盆をもってすたすたと言ってしまった。
何かまずいことを言ったのだろうか。いや、言ったのだろう。私たちは陸軍のウマ娘だ。ヨーロッパで拾われ、競技に向き合うバ術選手だ。
ファレーズも言っていた。「使命だ」と。
こんなことを考える私は、よっぽど軟派なのだろう。
「ソンネボーイらしいね。ま、でも、ウラヌスの悩みがまったくおかしいわけでもないと、私は思うな」
声がした。その主は、センパイだった。
松葉杖をついて、器用に私の隣の席へと来て座った。
「ちょ、出歩いて良いの!?」
「昨日の夜に医務室の食事を食べたんだけど、慣れなくてね。食堂のご飯を食べないと、治るものも治らないよ」
「もう、後でちゃんと戻るのよ」
「はーい」
センパイはどこか抜けたように笑う。
私は一度席を立ち、センパイの分の食事を持ってきて机の上に置いた。センパイは「ありがとう」と言って、夕飯のスープに口をつける。
「そうそう、さっきの話だけどさ。悩むってことは、それだけ真剣なんだよ。バ術にも、それ以外にも。それに、ソンネボーイも言っていたけど、ウラヌスの優しさだと思うな」
「優しさ……って、そうかな」
「そうだよ。普通なら“自分の競技がどうなるか”だけ考えてればいいんだ。でも、東京を見て、それでも悩んでる。それは、また別の強さの証だと思うよ」
センパイは笑った。その笑顔の奥には、なにか確信めいた光があった。
「でもさ、そういう時こそ、トレーナーと話してみるべきじゃないかな?」
「トレーナーと?」
「うん。世界を見渡してみて、自分の鳴きにある不安が分かったのなら、それを共有して考えるのもまた、人バ一体のバ術というものではないのかな」
「私も、昨日はいろんな話を聞いてもらったし」と、センパイは少し小声で言った。
「うーん、トレーナーかあ」
別に嫌なわけではないけど、分かってくれるだろうか。
トレーナーはたしかに立派だ。でも貴族でお金持ち。休みの日は常に飲んで遊び歩いている。こんな悩みを持ったことなど、あるんだろうか。
「考えていることはわかるよ。でも、意外に思うかもしれないけどね、あの人ほどそういうことを考えている人はいないと思うんだ。私はね」
にわかには信じきれなかった。けれど、まあたとえわからなくても、それでも——あの人が自分の飛越や悩みに真剣に向き合ってくれていることは、知っている。
答えが出るかは分からないけど、聞いてみても良いとは思った。
そもそも、この”宿題”はトレーナーから出されたものだ。
センパイに背中を押されるようにして、私は食堂を出た。
ちなみにセンパイには、この後ちゃんと医務室に戻るように念を押しておいた。
夜の騎兵学校は、凛とした静けさに包まれていた。歩く足音だけが、廊下に響く。
トレーナーの部屋の前まで来ると、扉の向こうから人の声が聞こえた。
「なるほど、満州ですか」
「ああ、もう避けられんだろうな。あの石原も関東軍に入った」
「しかし、若槻さんが危ういとなると、次は……犬養さんが?」
「まあ、そうなるだろうな。ツキが回ってきたのさ」
「しかし、また戦争になるんですか」
トレーナーともう一人、声が聞こえる。
詳しくは分からないが、内容は分かる。戦争。日本が歩みつつある、次の戦争の話だ。
しかし、この声は……。
「あの、トレーナー、ちょっといい?」
「ん、ああ、ウラヌスか。良いぞ」
部屋の中に入ると、暖かな灯りが迎えてくれた。軍用の木机の上には地図と書類、湯気を立てる紅茶のポット。トレーナーがいる。そして、その向かいに座っていたのは——
「やあ、久方ぶりだね」
髭を整え、落ち着いた物腰の老紳士。以前、東京で出会った“髭のおじいさん”だった。前とは違う、洋装のスーツにブーツという組み合わせだけど、それがかえって風格を際立たせていた。
「髭のおじいさん!」
「……ウラヌス。この方のこと、そう呼んでいたのか?」
「? ええ。おじいさんもそれで良いって」
トレーナーは、「殿下に続き、この人にも……」と、あきれたような顔をしていた。
何よ。
「いいか、この方はな——」
「ふんふん。…………え?」
話を聞いて、私は瞬間的に飛び上がった。
「大変申し訳ございませんでした」
頭を下げる。ほぼ土下座だ。
「よいよい、やめんか。わしが良いと言っているのだからいいだろう」
髭のおじいさん……いや、イヌカイさんは、慌てて立ち上がった。
”犬養毅”。
日本の代議士。つまり政治家。しかも一大政党の総裁。つまりめちゃくちゃ偉い人。
なるほど、前にこの人が『ヤクザみたいなもん』と言っていたけど……いや、何ならそれよりも恐ろしいのでは?
「今まで通り”髭のおじいさん”で構わんよ。ぺこぺこと頭を下げられるのにも飽きた。こんな孫くらいのウマの嬢ちゃんにそうされるよりかは、じいさんと呼ばれたほうが良い」
「は、はい……そ、それじゃあ、ありがとう、おじいさん」
「うむ。まあ、座りなさい」
私は戸惑いながらも、静かに腰を下ろした。トレーナーがまだ「すみません」と言っていたけど、おじいさんは「よいよい」と、むしろどこか満足げだった。
「いやね、西君と君の話もしていたんだよ。東京に行ったんだって? どうだったかね」
「綺麗な街だった。たくさんの人が行き交っていて、素敵な建物もいっぱいあった。でも、同時に、寂しい気持ちにもなった。震災でいくつもの建物が焼け落ちていてその跡が今も残っている。通りを外れて裏路地を覗けば、不況のせいでお腹を空かせた子供たちがいる。だから——」
——そんな時に、私はオリンピックなんか行っても良いのかなって。
言葉にすることで、胸のつかえが少しだけ軽くなった。
トレーナーは黙って話を聞いていた。おじいさんも目を閉じ、手を組んだまま微動だにしない。そして、私が話し終えたとき、最初に口を開いたのはおじいさんだった。
「ウラヌス君は、優しい子だね。私のような政治家が東京を歩いても、そういった感想はすぐには湧いてこんよ」
おじいさんは、自嘲気味に笑う。そして、ソンネボーイやセンパイと似たようなことを言った。
「でもなウラヌス君。そんなことは、私たちのような者が考えることなんだ。だから、君が考える必要はなし!」
「・・・・・・」
「……と、いうわけにもいかなそうだね。むぅ、ま、こういった心配をさせているのも、我々政治家の不甲斐無さゆえだから、何も言えんがね」
「申し訳ないね」と言うおじいさん。
次に言葉を発したのは、微笑んだトレーナーだった。
「なあウラヌス。オレたちは何だ」
「え? それは……バ術家だけど」
「いや、それ以前だよ」
「それは、日本陸軍の……あ、軍人?」
「そうだ。軍人だ。いいかウラヌス。軍人の仕事はな、国のために戦うことだ」
トレーナーの声は、厳しくも穏やかなものだった。
戦う……それはそうだ。私もトレーナーも、本来でいけば兵士。
もちろん私は、一度も戦場に出たことはないし見たこともない。だから、そういう自覚は薄かったけど、そうなのだ。
「でもなウラヌス。戦争ってのは当然必要ないのであればやらないほうが良い。だからといって、平時に何もしないわけにもいかん。皆、それぞれの兵科で、それぞれの役割で、日々必要なことを積み重ねている。オレたちもそうだぞ」
「私が毎日、走ったり、飛越したりしているのも?」
「もちろん。そうするのを陸軍から許されているんだ。当然だ」
「でも、それが、皆の役に立つの?」
「たつとも。走ったり跳んだり、バ術をしたり、オリンピックに出るのだって。お国のためになるからこうして仕事としてやっているんじゃないか」
「お国のため……」
「だから、良いのか悪いのか以前に、ウラヌスもオレも、十分お国のためになることを今やっているんだ。だから、気にする必要なんかないんだよ」
そうなの、か?
あまりぴんとこない。たしかにバ術は直接騎兵の訓練にも繋がるけど、それでもまともな戦闘訓練をしているわけではない。
戦争だけがお国のため……皆のためになることじゃないとしても、それじゃあ何がみんなのために……皆の幸せになっているのだろう。
「一つ言えるのはだ、ウラヌスもオレも、国のため、国民のため……皆のためになる力を持っている。だからこそ、オレたちは今こうしてオリンピックに向かえているんだよ」
でも、一つだけ信じることができる。トレーナーが言っていること。
私たちがやっていることが、”皆のため”に繋がるってこと。私が気づいていなくても、繋がっているってこと。決して無駄ではないこと。
それは、トレーナーの言葉で、信じることができそうだった。
「わかった。邪魔したわね、ありがとう」
「もういいのか?」
「ええ」
「そうか。それじゃあ、またトレーニングで」
私はなんだか悩みすぎても仕方ないと思い、ひとまずここで区切りをつけようと思った。
トレーナーの部屋から出て、もう自分の部屋に戻ることにした。
「ちょっと待ちたまえ、ウラヌス君」
すると、部屋を出たところでおじいさんが追いかけてきた。
「いやね、西君が良いことを言っていたから、これから頑張る君に、私からも何かをと思ってね」
おじいさんは優しい笑みを浮かべて、私の顔を見上げた。
「私はね、君たちがバ術をするとき……いや、それだけじゃない。オリンピックに出るような、他のスポーツ選手たちがね。自分たちのスポーツを一所懸命にやっているのが好きなんだよ」
「そうなの?」
「ああ。なんというのかね。海外に行って、血を流さず、むしろ笑いあって競い合う。これは、ある種の対話だと思うんだよ。血の流さない対話。それができている間はね、日本はまだ大丈夫だと思えるんだ」
おじいさんは、窓の外に目をやった。夜の空には星が浮かんでいる。
「だからね、ウラヌス君たちは、その先頭に立っているんだ。そういう意味で、少なくとも私は期待しているよ」
「”対話”の、先頭として?」
「そうだね。だから私もね、ウラヌス君たちがオリンピックに行って帰ってくるまで、日本は大丈夫なようにする。ウラヌス君も、向こうに行って思いっきりやりなさい」
そう言って、おじいさんは手を差し出す。私は、それに答えて握手をした。
「ありがとう」
心からそう言った。
私の飛越が、走りが、どう皆のためになるのかはまだはっきりとは分からない。
それでも、こうして信じて、期待してくれる人がいる。それだけで、なんだか頑張れる気がした。