■ ■
「やぁ、“ドクター”。目覚めたか?」
目を開くと、そこは『図書館』だった。
黄昏色の光が灯された、数多くの本が入れられた大きな本棚が並ぶ図書館。
その床に、ドクターと呼ばれる人物は倒れていた。
目を開き、重たい体をゆっくりと起こそうとするドクターに、“ソレ”は手を差し伸べた。
ドクターは、ソレを知らない。だが、何故だかソレを訝しむことはなかった。
差し伸べられた手を、ドクターは何を疑うでもなく握った。
「ゆっくりだ。そう、ゆっくり。体に異常はないか?」
「…大丈夫」
「そうか、よかった。何もないなら、安心だ」
「此処は、いったい…?」
「『図書館』さ、見ての通りね。何の変哲もない…いや、少しばかり変な所はあるが、確かに『図書館』だよ。君は、その図書館に招かれた『客人』という訳だ」
「……」
「混乱しているみたいだな、ドクター。だが、それも仕方ない事か。目を覚ませば見覚えのない存在が隣に居て、見覚えのない場所に居る状況だ」
「私は…君を知らない。でも、君は私を知っている…君は、いったい誰…?」
ソレは、人の形をしていた。
鉛色の空の様な髪と、それに似合わぬ虹色の瞳という特徴を持ち、首辺りのボタンを外した黒いシャツの上に黒いスーツを着た男の姿をしていた。
ソレは、まるで自分の考えが当たっていた子供の様に、屈託もなく笑った。
「誰、誰か。はは、その問いをされるのは何度目だったか…あぁ、だが良い。私は何度でもその問いに答えよう、友人」
「友人…?」
「そうだ、私は君の友人さ。此処に流れ、君に助けられ、『塔』の仲間となった一人だよ」
「『塔』……バベル…?」
「―――はは、最初にその名前を出してくれるとは、中々に嬉しい事をしてくれるじゃないか」
バベルという名を出したドクターに、ソレは少し驚いてから、照れくさそうな笑みを浮かべた。
ソレにとって、その名前は大切なものだったのだろう。
「バベル…バベルか。実に懐かしい名前だ。確かに、私が身を寄せたのはバベルの方だ。それも君が統べていた場所だが…残念ながら、それはもう無いに等しいモノだよ、ドクター。君の今の居場所は『ロドス』だ」
「ロドス…」
「そうだ。今も、“彼女達”は君の目覚めを待ち続けているんだ」
「…なら、これは夢なのか…?」
「かもしれないし、現と夢の境界線かもしれない。けれど、図書館は此処に在るモノだ。それは変わらないし、変えられない。君の存在の様にね」
「……君は、違うのか?」
「私か? 私は…そうだな、“どちらでもない”と言う方が正しいかな。君が深く気にする必要はないさ」
「……」
「あまり納得がいっていない、という顔だな、ドクター。最後にその顔をさせる事が出来たのは、とても喜ばしいな」
一歩、ソレが光の前へと踏み出す。
パラパラ…と、本の頁が捲られる様な音が図書館を闊歩する。
ソレはドクターの方を振り返り、名残り惜しそうな顔をした。
「残念ながら、そろそろ時間だ。君との久々の会話だ、もっと話していたかったんだが…どうやら、そうもいかないらしい」
光がソレとドクターを包み込む様に、広がり始める。
別れの時間。ソレがドクターと、ドクターがソレと別れる時間が訪れる直後。
「君は、誰なんだ」
ドクターは、大きな声を出していた。
自分でも驚いてしまう程の大きな声を出して、彼に問い掛けた。
「さっきも言っただろう? 私は―――」
「名前は、聞いていない。君の名前は…まだ、知らない」
「……ははっ! 相変わらずだな、君は」
吹き出して、ソレはくしゃりと笑った。
名前を伝えるつもりはなかった。どうせ忘れるだろうから。
詳しく話すつもりはなかった。どうせ忘れるだろうから。
だが―――そんな嬉しいことを言われては、伝えない訳にもいかないだろう。
「カバラ。それが私の名だよ、ドクター」
「カバラ…カバラ」
「あぁ。伝承という意味を持つ、神秘の言葉だ」
「…カバラ」
「なんだ?」
「またね」
「……あぁ。また会おう」私の大切な友人。
いつしか、それは全てを司った。