久方ぶりですな。
暫くは投稿遅めが続きます。
夢を見ていた。
……
夢に出てくる場所は薄暗くて、何処か分からない。
ーーーーでも、不思議と嫌な感じはしなかった。まるで何かに包まれている様な、そんな不思議な温もりがその夢にはあった。
シンジはその夢の中にいる時は、赤子になっていた。そして、顔も名前も知らない母親が、すぐ傍で囁いている。
「────。」
……何かを言っている。ーーーーすぐ傍にいる筈なのに、声が遠くて良く聞き取れ無い。
(ーーーー何を言っているの?母さん??)
そう問いかけたいが、夢の中の自分は赤子になっているせいで、口が上手く動かなかった。
それでもなんとか喋るべくシンジが口を開いた時、コポッ…と自分の口から気泡が漏れ出した。
(ーーーーえ?)
その時、シンジは気づいた。
ーーーーココはL.C.Lに満たされている。
……夢の中なのに、微かに漂うL.C.Lの匂いが鼻についた。
母親がシンジの頭をそっと撫でる。
そして、彼女の声がシンジの耳に微かに聞こえてきた。今度は、意味を伴って。
「ごめんね。」
「……??」
何に謝っているのかシンジは理解に苦しんだ。母親の顔は相変わらず謎の逆光で良く見えない。
しかしその顔には悲しみと、ある種の覚悟が滲んでいる様に見えた。
まるで縋る様に震える指先が、シンジの頭を撫でて離れる。
(何に……何に謝ってるんだよ母さん……!?)
そう問いかけたいが、シンジには何も出来なかった。
ーーーーやがて、シンジの周りの感覚が無くなっていく。……何かから、引き摺り出されようとしているかの様に。
…………夢から覚めるのだ。
(母さん……!)
シンジは、夢の中の母親から離れたくないと思った。
幼く丸い手を伸ばし、母の手を掴もうとする。
しかし、その手は届かなかった。
遠ざかる母親の影。
最後に母親がそっと呟くのを、シンジの耳は聞き取った。
「ーーーーーーーーだけど、貴方は産まれるべきなの。」
遠ざかるシンジの耳に
『ーーーーL排出。』『サルベー……了』『なぜーーーー』『信じられん……コレはーーーー』『まるでーーーー』
此処でシンジの夢は完全に終わりを告げた。
◇◆◇
「………知ったばかりの天井だ。」
目が覚めたシンジは、天井を暫く見つめてからそっと呟いた。
何か夢を見ていた気がするが、良く覚えていない。ただ何となく、悲しい気持ちが心の底に残っていた。
「……ミサトさん…もう起きてるかな……。」
布団から身を起こしつつ、シンジは独り言を言いながらリビングへ向かう。すると、洗面所の方からミサトが歯磨きをしながら出て来た。
ーーーー短パンタンクトップという、だいぶとラフな格好をしている。
「あら、おはようシンジ君。昨夜は良く眠れた?」
シャカシャカと歯を磨きながら問いかけてくるミサトに対して、シンジは頷きを返す。
「はい。……一応は。」
「そう。なら良かったわ。ーーーーあ、これシンジ君の歯ブラシとコップね。タオルは掛かってるの使っていいから。」
「ありがとうございます。」
ミサトから差し出されたコップを受け取るシンジ。
そのまま顔を洗いに行くシンジの背中に、ミサトが歯磨きをしながら声を掛けた。
「ーーーー今日の予定だけど、9時からネルフ本部で細かい説明及びシンジ君の職員登録をするわ。…ま、基本は私が仕切るから、シンジ君が特別なにかする事は無いわね。気楽に構えてなさ〜い。」
「あ。……はい、分かりました。」
のんびりとしたミサトの声に、小さく頷いたシンジは、洗面所へと向かうのだったーーーーーーーー。
◇◆◇
ーーーーミサトの言う通り、ネルフ本部でシンジがする事は何も無かった。
ただ、椅子に居座って話を聞いて、何枚か写真を撮られて、それで終了だった。
「ハイ。コレがシンジ君の職員証ね。ーーーー絶対に無くさない事。分かった?…貴方はもう、国家の重要人物となったの。肌身離さず持っているのよ。」
「…はい。分かりました。」
渡された一枚のカードを握りしめ、シンジは強く頷いた。
そんな彼を見て頷き返すミサト。
「うん。良いわよ。……じゃ、一個お願いをしても良いかしら?」
「お願い…ですか?」
「うん。ーーーーコレ、届けてきて欲しいの。」
「…?」
スッ、とミサトが別のカードを取り出してシンジに手渡す。
そこには、黒髪の少女の顔写真と文字の羅列が載っていた。
『綾波 レイ』
「あやなみ…レイ……。」
名前を読んで、そっと囁くシンジ。
ミサトが横から口を挟む。
「覚えてる?…貴方がエヴァに乗った日、碇司令が貴方の代わりにエヴァに乗せようとした、あの黒い髪の子よ。」
シンジの脳裏に、包帯だらけの姿で震えながらも、エヴァに乗ろうとしていた少女の姿がフラッシュバックする。
「やっぱり。……そういえば、あの後、綾波さんは無事だったんですか??」
シンジの問いに、ミサトは曖昧な顔で頷いた。
「…まぁ、ね。一応、自宅に帰る事は出来たみたいだから、大事にはなって無いわ。…でも、職員証を置いて行ったきり、取りに戻ってこないから、貴方に届けてきて欲しいの。」
そう言って、ミサトはシンジに住所らしき物が書かれた紙を手渡した。
「そこがレイちゃんの自宅よ。…本当は私が行きたいんだけど、仕事がいっぱいで行けそうに無くてね。…シンジ君には午後からの予定は無いから、一走り行ってきて貰えるかしら?」
渡された住所を一瞥して、シンジは頷く。
「分かりました。行ってきます。」
ミサトは和かに手を振った。
「ん、よろしく〜。公共機関を使うんだったら、後で私に請求しても良いからね。でも、その場合は、領収書貰って来てね〜。レシートタイプで良いわよん。」
「はい。」
シンジは頷いて、部屋から出て行ったーーーーーーーー
◇◆◇…移動中…◇◆◇
「…あ……ここかな…?」
渡された紙の通りに第三新東京の街を行き、辿り着いた先はネルフ職員達が寝泊まりする、集合住宅の一角だった。
灰色のコンクリート製のマンションで、ミサトの自室があるマンションと同じ〈ネルフ職員用住宅〉の筈だが、アッチとは違ってだいぶと殺風景というか、寂しい感じが漂っている。……空が、曇り空になって来たせいかもしれないが。
「嫌な風だなぁ………帰り、雨に濡れないと良いけど……。」
怪しくなって来た雲行きを見上げながら、シンジはマンションの中に入って行った。
階段をカンカンと上り、目的の部屋の前に辿り着く。
「…301号室。うん。此処だ。」
番号を確認して、シンジはインターホンを鳴らした。
ピンポーーーーン♪、と何の変哲も無い、若干掠れかけた音色が灰色一色のマンション内に木霊する。
…
……
………
「………あ、あれ?」
しかし、いつまで経っても誰も出て来ないので、シンジは怪訝そうな顔つきになって、首を傾げた。
そっとドアノブに手を回してみる。
ーーーーーーーカチャリ。
するとドアノブは、シンジの掌の中で滑らかに回った。
「!ーーーー鍵、かかってない…?」
不用心だな…なんて思いながら、シンジはドアを開け、玄関に顔を突っ込んで口を開く。
「綾波さーーん??ーーーーえっと…碇です!職員証、届けに来ました!!」
…
……
………
やはり、返事は無い。
と言うか、部屋の中は昼間なのに妙に暗かった。…カーテンが降りているせいかもしれない。
「居ない……なんて事ないよね…。」
独り言を呟きながら、シンジは部屋に上がる事にした。
足裏にフローリングの冷たさを感じながら、部屋の中へ少し及び腰になって入室する。
そして、部屋をざっと見渡して呆気に取られた。
「………何だコレ…。」
ーーーー何故なら、部屋から全くと言っていい程『生活感』を感じなかったからだ。
ミサトの部屋に来た時は、大量の品々とその散らかり用に驚いたが、此方は逆に何も無さすぎる。
「机と椅子…壁の隅にベット………それだけ…??」
…最低限、生活は出来るだろう。しかし、これでは独房と変わりが無い様に、シンジには思えた。
「…良くこれだけの物で暮らせるよ…。もしかして、ミニマリストだったりーーーーーーーーん?」
何気なく机の上に目を落とした時、机の上に薬が入っている様な紙袋が置いてある事に、シンジは気付いた。
「薬…いや、でも、そうか……酷い怪我してたもんね。ーーーーあれ?」
薬に目が行くと、必然的に机全体に目が行く。
そしてシンジは、机の引き出しが半開きになっている事に気付いたのだ。
「………?」
何かに吸い寄せられる様に、引き出しを開けるシンジ。
ーーーー
「何だろこれ……古い……名刺……??」
引き出しの中には、真っ黄色になった紙の名刺が入っていた。
ーーーー
「……誰のだろ。」
シンジは掠れかけた名刺の名前を、そっと声に出して読んだ。
「………
『ごめんね。』
瞬間、脳裏にどこかで聞いた声がフラッシュバックしーーーーーーーー
「なにしてるの。」
「はっ!?」
シンジは、
振り返ると、其処にはバスタオルに身を包んだ綾波レイが、立っていた。
「うわ、わ!ーーーーご、ごめん!綾波さん!!…インターホン押しても、返事が無かったから、つい…!」
名刺を手に持ったまま、取り乱して頭を下げるシンジ。
レイの、感情の無い声が上から降って来る。
「シャワー浴びてたの。……だから、聞こえなかった。」
「あぁ…うん…格好で……分かるよ。勝手に入ってごめん…。」
謝るシンジに対して、レイは淡々と口を開いた。
「…責めてるわけじゃない。ーーーーただ、その手に持ってる物。返して。」
レイの細くて白い指が、シンジの右手にある黄色い名刺を指す。
「え…。あぁ、名刺か。ーーーーうん。これも勝手に机から取っちゃって、ごめんなさい。」
シンジが名刺を彼女に返すと、レイは元ある場所に名刺を仕舞い込んだ。
ーーーーその名刺が何なのか、どうしてもシンジは気になって、つい彼女に向かって問い掛ける。
「……あの…その名刺……誰のなの…?」
レイはそっと彼に向き直って、静かに答えた。
「ーーーー分からない。」
目を瞬かせるシンジ。
「わ…分からない???」
「ええ。分からない。気がついた時には、私はこれを持っていた。誰かから渡されたのか、拾ったのか、いつ手に入れたのか、何も分からない。……ただ……無くしたらいけない物の気がする。」
シンジは首を傾げた。何とも奇妙な話である。ーーーーが、その事について考えても、答えは出まい。
シンジは話を切り替えた。
「ふ〜ん……。ま、いっか。ーーーー取り敢えず、コレ。職員証、持って来たんだ。…ミサトさんに届ける様にって言われて。」
彼がポケットから取り出した職員証を、静かに受け取るレイ。
「貴方が、わざわざ?………そう。」
彼女は、それを机の上に置いた。
「えっと…じゃ、僕はこの辺でーーーー」
「外は雨よ。」
「えっ。」
レイの声に、部屋に掛かっていたカーテンを開けて外を見ると、灰色の街並みを矢のように降りしきる雨が包んでいた。
ザァーーーー、と思い出したかのようにシンジの耳は、窓を叩く雨音を捉える。
「うわぁ……土砂降りだぁ。困ったな。傘持ってないや…。」
カーテンを戻して項垂れるシンジ。レイが隣で口を開く。
「…大丈夫。一時間で雨は止むわ。」
「ーーーーそっか…。じゃあ、下で雨宿りしてよっかな。」
そう言って、シンジは部屋から出て行こうとする。
レイは、彼が玄関まで歩いて行くのを目で追っていたが、彼が玄関から出ようとした、まさにその時に口を開いた。
「ーーーーねぇ。」
出ようとしていた、シンジの足が止まる。
「ーーーーな、何??」
振り返って尋ねた彼の前で、暫くレイは言葉を探すように視線を彷徨わせていたが、やがて小さく言葉を発した。
「どうして、貴方はエヴァに乗ろうと思ったの?」
「えっ。」
不意に投げかけられた疑問に、固まるシンジ。
レイは黙って彼の返事を待っている。両者の間に生まれた沈黙を埋めるは、篠突く雨の音のみ。
「どうしてって……あ、あの時は、僕が乗らなきゃ…キミがーーーー」
「ただの同情だったの?」
無機質に思えるレイの声色に、微かな苛立ちの様な感情を感じたシンジは、反射的に首を振っていた。
「ーーーーっ!…いや、そんなつもりじゃ無いよ……。」
「じゃあ、なに?」
「……………。」
黙り込むシンジ。
ーーーーややあって、彼は小さく呟いた。
「ごめん。分からない。成り行きで、としか。でも君の言う通り、ただの同情だったのかも……。」
彼の小さな呟きに、レイはたった一言、言葉を返した。
「そう。」
そして、彼女は一気にシンジへの関心を無くしたかの様に、部屋の奥へ歩いて行く。
何をどうしたら良いのか分からなくなって、玄関で立ち尽くすシンジ。
そんな彼に向かって、レイは少し首を傾げながら口を開くのだった。
「…?ーーーー私、今から着替えるのだけど。貴方、女の子の着替えを見る趣味でも?」
我に返ったシンジは、思いっきり首を振った。
「うぇ?!ーーーーあ、いや、全然全く!じゃ、僕帰ります!失礼しましたぁ!」
バタン、と玄関のドアが閉まる。
ーーーー静かになった部屋の中で、レイはそっと呟いた。
「……また会いましょう、碇くん。」
その呟きは、部屋にこだまする雨音に紛れて、レイ本人の耳に届く事もなく消えた。
ラッキースケベは無かったし、ゲンドウの眼鏡も無かった。
代わりにあったのは、ユイという名のついた古い名刺。
小さな差異は、少しずつ良く知る物語を変えていく。
終着点は何処へ。