ナギトとエリィの密会から半月後。
ナギトは遊撃士協会クロスベル支部に来ていた。
「これは……確かなんですか?」
ナギトが手にしているのは紙束だ。それは遊撃士による《Ω》の調査報告書だった。
ざっと目を通すナギトの手は、そこで止まる。
テロ組織《Ω》内部勢力のそれぞれの目的について。
元《帝国解放戦線》勢力:オズボーン政権の打倒。
クロスベル市民勢力:クロスベルの解放。
共和国勢力:クロスベルにおける帝国支配の打破。
そこまでは、いい。予想通りとも言える結果。納得に足るテロ行為に手を染める理由。
問題は、次。《Ω》内部における国境なき軍隊の目的だった。
それこそがナギトの求める情報。ルーファスが望んだ情報。クロスベルの今後を左右すると言って過言なき事実。
そこには、短くこう綴られてある。
“クロスベルの解放”。
国境なき軍隊の目的は、クロスベルの解放。
「確かな情報よ……、とは言ってもかしらに“当面の”がつくけどね」
あのレオニダスにも劣らない筋肉っぷりを誇るクロスベル支部の受付、ミシェルはそう語る。
「“当面の”?」とナギトがおうむ返しに言うとミシェルは受付の奥にしまっていた文書をナギトに手渡した。
「《太陽の砦》内部にあった国境なき軍隊の文書……その写しよ。塗りつぶされている箇所は多いけど、そこには確かに彼らがクロスベル入りした目的が記されているわ」
ナギトは文書に目を通す。
『我々《アナザーフォース》○○○○が○○○○○入りしたのは○○の目的、○○○○○○○のためである。そのための○○○○として○○○○○入りが決定した。
○○○○○は現在、○○○○○○○○○○○にあり、その影響で元々○○○で活動していたテロ組織《○○○○○○》が○○○○○○○を巻き込んだテロ組織《Ω》となった。この《Ω》の目的は○○○○○○○○ひいては○○○○○○○○○○である。この点において我々と《Ω》の目的は一致した』
塗りつぶされている箇所は多く、断片的にしか読み取れない。ナギトは2枚目の文書を読む。
『そのため我々は《Ω》に○○○○ことにしたのだが、当初我々の正体は伏せておくつもりだった。しかし《Ω》のリーダー○○○により我々の正体は暴かれ、《アナザーフォース》という傭兵組織としての○○を求められた。しかし、この○○○という男は強かであり、我々の目的すら見透かしたような言動をする。もとよりそのつもりだったが傭兵と知られながら我々はただ働きするはめになっているのだ。
○○○率いる《Ω》と我々の○○の目的は同一と捉えて良いはずだ。今後も彼らと道を同じくしていくべきか、○○に指示を仰がなければいけない。
だが今は○○○○○○○○に向けて力を入れる時だ。我々《アナザーフォース》の○○○○は当面の目的を○○○○○○○○として《Ω》に○○する』
文書を読み終えて唸るナギトに、ミシェルは再度文書を手渡した。内容は先程の文書に似ているが───
「それは、私たちでその文書を解読したものよ。推測でしかないし、未だ虫食いは多いからあんまりアテにしてほしくはないけどね」
『我々《アナザーフォース》○○○○がクロスベル入りしたのは○○の目的、○○○○○○○○のためである。そのための○○○○としてクロスベル入りが決定した。
クロスベルは現在、○○○○○○○○○○○にあり、その影響で元々帝国内で活動していたテロ組織《帝国解放戦線》がクロスベル市民を巻き込んだテロ組織《Ω》となった。この《Ω》の目的はクロスベルの解放ひいては○○○○○○○○○○である。この点において我々と《Ω》の目的は一致した。
そのため我々は《Ω》に協力することにしたのだが、当初我々の正体は伏せておくつもりだった。しかし《Ω》のリーダー○○○により我々の正体は暴かれ、《アナザーフォース》という傭兵組織としての協力を求められた。しかし、この○○○という男は強かであり、我々の目的すら見透かしたような言動をする。もとよりそのつもりだったが傭兵と知られながら我々はただ働きするはめになっているのだ。
○○○率いる《Ω》と我々の○○の目的は同一と捉えて良いはずだ。今後も彼らと道を同じくしていくべきか、○○に指示を仰がなければいけない。
だが今はクロスベルの解放に向けて力を入れる時だ。我々《アナザーフォース》○○○○は当面の目的をクロスベルの解放として《Ω》に協力する』
読んでからナギトはミシェルを真っ直ぐに見据えた。
「これが、推測…ですか。なんというか、ずいぶんピッタリはまるような感じですが」
「ええ、内部に潜入したウチの遊撃士たちが持ち帰った情報を元に穴を埋めてみたの。もちろん的外れの可能性もあるけど、中々良い線いってる当てはめだと思うわ」
なるほど、激戦区と名高いクロスベル支部は遊撃士だけでなく、受付までもが優秀らしい。
「しかしこれ、《Ω》の最終目的は元《帝国解放戦線》のそれと考えていいですよね。なら、国境なき軍隊…《アナザーフォース》の目的も同じ……なんでしょうか?」
そこでナギトは気づいた疑問をミシェルにぶつける。《Ω》の前身となった《帝国解放戦線》は『静かなる怒りをたたえ、度し難き独裁者に鉄槌を下す』事を目的とした集団だった。それをより明確に文字に起こすと、オズボーン政権の打倒、という表現になるのだろう。
それがわかっているのなら、文書の虫食いはもっと減らせたはずだ、とナギトは言っているわけだ。
「文字数が違うのよ」
と、ミシェルは短く言い放った。「文字数?」とまた自ら唱えて、ナギトは気づく。文書をぐっと眼前に近づけて、虫食いの箇所を、それこそ穴が開くほどに見た。
数瞬後、呟くナギト。「なるほど、そういうことか……写しというのは筆跡から行間からすべてをそのまま写してるわけか。……写真でもあるまいに」感心したように、薄く笑う。
ミシェルの言葉は何の比喩でも暗喩でもなく、そのままの意味なのだ。
文字数が違う───、それは塗りつぶされている範囲が違うという事と同義だ。
それこそ《Ω》と《アナザーフォース》の最終目的に違いがあるという証左に他ならないわけだ。
この文書の原本を書いた人物は相当に几帳面らしい。字に乱れがなく、すべてが同じ大きさで、等間隔。導力ネットで見る文字列を想起させる。
だからそれは、一文字の大きさがわかれば、塗りつぶされている範囲にいったい何文字刻まれていたかが計算できるのだ。
そして、その計算によると《Ω》の目的と《アナザーフォース》の目的の文字数は異なっている。つまり似て非なる目的を掲げた協力者たち、ということを理解できる。
とにかく、その文字数のおかげで《Ω》と《アナザーフォース》の目的に違いがある事がわかった。加えて、当面とは言え《アナザーフォース》の目的も判明した。後々オズボーンを狙うかもしれないが……クロスベルで《Ω》が足掻いている内は帝国首都には手を出さないだろう。
「……助かりました。クロスベルに巣食うテロリストへの潜入調査の敢行───見事です」
「その言葉はありがたく受け取らせてもらうわ。その上で、あなたにちょっとお願いがあるんだけど」
ミシェルはナギトから《Ω》の調査報告書をピッと奪い取ると、ウィンクした。
「お願いというより、依頼ね。遊撃士としてのあなたへの。なに、大した事じゃないわ」
ミシェルは、ミシュラム・ワンダーランドのアトラクション『鏡の城』最上階へ行け、と言ったのだった。
☆★
元々金持ちの別荘だったミシュラムを開発してテーマパークをはじめとしたショッピングモールや湖水浴場が建造されレジャー施設に発展した。
ミシュラム・ワンダーランドとはミシュラムに建造されたテーマパークの事だ。
ナギトが『鏡の城』最上階に到着すると、そこには『関係者以外立ち入り禁止』の立て札があったが、それはナギトに対して向けられたものではなく、むしろナギトしか最上階に入れないようにするための措置だ。
クロスベル支部は特務支援課の協力者である。そしてクロスベル市民は特務支援課に協力的である。
この2点を前提として考えると、特務支援課の誰かがナギトに接触を取ろうとしている、という絵図が見えてくる。
ナギトはドアを開けてゆっくりと最上階に入る。最上階の中心部にはレコーダーが置いてあった。
この録音機が誰かの忘れ物、というわけではなく誰かからナギトに宛てたメッセージだろう。ナギトはためらう事なく再生ボタンを押した。
「久しぶりだな、ナギト」
そして、聞こえてきた声に驚愕する。
「とは言っても俺が一方的に声を送り届けてるだけだがな」と苦笑する、クロウの声。
「どうやら、クロスベルに着いて早々活躍してるみてぇだな。その悪名は俺の耳にも届いてるぜ」
何が悪名だ、と悪態をつくナギト。
「それに俺の事を捜してるようだが……悪いな、今のところ会うつもりはねぇ。…だが、もし。そんな俺をまだ信じられるって言うんなら、3日後に《月の僧院》に来てくれ」
要件は以上のようだった。「このメッセージは今から5秒後に消去される。……嘘だ、俺の声をまた聞きたくなったなら何度でも再生してい」と続いたがなんとなく不快になったのでレコーダーを潰したナギトだった。
ナギトはその後船に乗ってクロスベル市街に戻ると、遊撃士協会でミシェルに依頼達成の旨を伝えて《Ω》の資料を受け取った。
☆★
3日後、《月の僧院》。
「けっこう遠かったな……」
はー、と息を吐きつつ呟くナギト。クロスベル市街から歩いてきたとは言え、2時間はかかった。
監視を巻く目的も兼ねて歩いてきたわけだが、これなら途中まで公共交通機関を使うべきだっただろうか。
ともかく、今日がクロウが指定した日だ。監視の目もなく、“何かあった”事はバレるだろうが“何があったか”までは露見しないという寸法だ。レコーダーと違いナギト以外に回収される恐れのない情報が《月の僧院》にあると見ていいだろう。
僧院に入ると、奥にある祭壇の前に1人の男が佇んでいるのがわかった。
朽ちたる僧院にある紳士。崩れた天井から射し込む陽の光を一身に受ける様はどこか神秘的でもあった。
「お初にお目にかかります。私の名はエルメロイ。クロウ様の従者であります」
紳士はそう言って自己紹介した。ナギトは歩を進め、紳士まであと5歩という所で立ち止まると「初めまして、ナギト・ウィル・カーファイです」と頭を下げた。
「クロウ様からのメッセージを預かっております」
エルメロイはそう言うと、自らの右目を抉り出した。
ナギトは声もなく目を見開いたままだったが、紳士はどこ吹く風、その右目の湿り気をハンカチでふき取るとナギトに差し出した。
「義眼でしてな。……ものを隠すにはうってつけの場所です。 これは情報記憶媒体です。クロウ様によればあなたが望む情報がここにある、と。導力端末に繋いでお使いください」
手渡されたそれは確かに義眼で、小さなツマミを回すと導力端末に差し込める端子が出てくる仕組みとなっていた。
これは確かにカモフラージュとしてはピカイチだ。義眼とわかっても、それが情報伝達の手段であるとは普通は考えない。
エルメロイは手慣れた様子で眼帯をつけると、ナギトに別れを告げる。
僧院を出る手前でナギトに振り返り、ニッコリと笑った。
「一応言っておきますが、私を追跡しても無駄ですぞ。このままジュライへ帰ります故な。……クロウ様に会いたいのならご自分の力で見つける事です」
ナギトは義眼を手にしたまま大きく肩をすくめた。それがどういう意味かエルメロイにはわからなかったが、彼は恭しく一礼すると僧院を出た。
エルメロイが去った僧院で1人、ナギトは再び義眼を見やる。まだ暖かい木製のそれにひきつった笑みを向けて「これにはどんな情報が詰まってるんだか」と、思考を巡らせるのだった。
その義眼型情報記憶媒体の内部データを閲覧するに当たり、細心の注意を払わなければならない。
ナギト以外の誰にも見せてはいけないものだ。情報如何によればクロスベルの均衡を崩す事すらあるかもしれない。
だから、これはナギトが1人で見るべきものだ。
ネットワークに繋がっていない端末を使い、且つその様子を見られないようにしなければならない。要はネット方面と物理での覗きを防げれば良いのだ。
その条件は、案外簡単に達成できる。端末をネットに繋げる配線をパージし、周囲を“幻造”で作った壁で覆えば完了だ。
クロスベルに戻りアクロスタワーの端末を使わせてもらおうか、と思っていた所に、ルーファスが待ち構えていた。
「ごきげんようナギト君。………今日はどこに行っていたのかな?」
「答えると思いますか?」
そもそも後ろ暗い事だから監視を巻いてから《月の僧院》に向かったのだ。問いに答えるという選択肢は最初からない。
「いいや。…ではもっと簡潔に言うとしよう」
ルーファスはスッと手を差し出した。上体を少し仰け反らせるように。お見通しだと言われてる気がして──それは正しかった。
「そのメモリを渡しなさい」
短い言葉、それはエルメロイから受け取った義眼型の情報記憶媒体を意味していた。
なぜ知っている?とナギトが目を見開いて、一瞬の後に表情を元に戻すが───それは失策ではない。
ルーファスの言い方は確定的だった。カマをかけたのではなく、知っているのだ。
「従うと思いますか」
返す言葉に疑問符は付けない。拒絶を表すが、ルーファスは気にせずに踏み入ってくる。
「従えないかね?オズボーン宰相閣下からきみの身柄を預かっている私の命令に」
脅しにも似た文句にナギトも逡巡を余儀なくされる。
このメモリに入ってる情報が何かは知らない……が、クロウがナギトに宛てたもので、その重要度は高いと思われる。
──だがそれはあくまで、クロスベルでの事だと推測できる。メモリをルーファスに渡す事でクロスベルにおける帝国の支配が盤石になり、オズボーンがさらに力をつける事になったとしても、ナギトが守りたいものに危険が及ぶ事はないんじゃないか?
そういった思考が。まるで悪魔が囁くようにして脳内を駆けずり回る。
だが────
「従えないな。……これは友人から俺への個人的なメッセージだ。そも見せる価値もない」
「それは私が判断する事です。渡しなさい」
「───断る。……わかってないのか、ルーファス・アルバレア。これは契約違反だぞ」
ルーファスは差し出していた手を引っ込めてニヤリと笑う。
「ではきみは認めるのだね?それが価値のある情報だと」
ナギトが盾にしたのは煌魔城でオズボーンと取引した際の条件だ。
“Ⅶ組のメンバーに立場が不利になるような事を一切するな”
これにはナギトも含まれるし、なによりこのメモリを渡す事でⅦ組メンバーの立場が不利になる可能性は否めない。ナギトもメモリの中を知らぬからこそ押し通せる理論だった。
「そうだな。そうかもしれない。だから渡せない」
「………わかった、いいだろう。それについては諦めるとしよう。昨日、《Ω》や国境なき軍隊についての有力な情報を持ってきてくれた事だし、それとチャラだ」
遊撃士たちの成果という事はルーファスも知っているだろうが、それは言わぬが花というやつだ。
「それとは別に頼みたい事がある。ナギトくん、ついてきてくれ」
ルーファスにとってはむしろそっちが本題だった。
ナギトがメモリを素直に渡すとは思ってなかったから、話を断らせる事で小さくとも負い目をつくっておき、本題を通しやすくするための罠だったとも言える。
ナギトとルーファスはエレベーターに乗り、総督執務室に向かう。その途中でナギトは口を開いた。どうしても疑問に思っている事があったからだ。
「どうして俺がメモリを持っていると知ってたんですか?」
問題はそれだ。監視は巻いたし、盗聴器の類にも気をつけていた。それなのにルーファスはナギトがエルメロイからメモリを受け取った事を知っていた。
自分の行動が筒抜けであった理由を、ナギトは知りたいのだ。
「きみにつけている監視が、1人だけとでも思っていたのかな?」
それに対するルーファスの答えは簡潔だった。
監視が、もう1人いた。
ナギトが巻いた監視とは別に、もう1人がナギトを監視していた。
確かに監視が1人というのは少ないと思っていた。が、まさかもう1人いたとは。
ぬかった、とナギトは苦い顔をする。
ナギトが本気を出せば、気配探知の網はクロスベル市街全域を覆い、個人を特定できるまでに至る。
この気配探知の網を潜り抜けて自分に接近できる人物をナギトは2人しか知らない。
つまりナギトを真に監視している人物はシャロンやリーシャに勝るとも劣らない隠形を身につけているという事だろう。
ポーン、と軽い音が鳴りエレベーターのドアが開く。廊下を歩いて総督執務室に入り、ルーファスは窓際に立つ。眼下にあるのはクロスベルの街だ。その初代総督たるルーファスはいったい如何なる思いからオズボーンに仕えるようになったのだろうか。
革新派の首魁と貴族派の貴公子。このありえない組み合わせだからこそ、誰も2人の関係を見抜く事はできなかったのだ。
しかし、ナギトにそれを問いかける気はなく、ようようルーファスは言葉を口にした。
「実を言うとね、すでに私はロイド・バニングスらの居所を掴んでるんだ。………驚かないのかな?」
「道理でしょう」と、ナギトは短く返答する。もはやその理由を語るまでもなく。
ルーファスがその情報をいつ掴んでいたかはナギトには知る由もない。
しかし、仮にそれがあの英雄テロリスト化作戦の以前なら攻め込まない理由もわかる。ルーファスは特務支援課には徐々にフェードアウトしていってもらうつもりだったと語ったからだ。だが、オズボーンの命令によって、英雄テロリスト化作戦は開始され、その望みは絶たれた。
半ば強引にとは言え、特務支援課を敵として倒すに足る名分ができたのなら、何故いま動かない?
ナギトの疑問はその一点に尽きた。
作戦のすぐ後に特務支援課の追撃を命じられると思っていたのだが、《Ω》の襲撃があり、急を要するという意味でそちらの調査を優先したとばかり考えていたが、この2週間でその意見は変わっていた。
ルーファスには動かない───あるいは動けない理由があるのだ。
「うむ……では、結論から言おう。私では彼らの拠点に干渉できないのだよ」
ルーファスの言葉はひどくぼやけて感じられた。もっと具体的な事を言ってもらわないとナギトは何も返す事はできない。
「彼らの拠点は、ミシュラム方面にある湿地帯にある。かつて《碧の大樹》が根を張っていた場所だ」
「《碧の大樹》……」
ナギトは呟いて記憶を想起させる。
《碧の大樹》とはクロスベル独立時に《零の御子》の権能を世界に認識させるための増幅器のようなものだったと情報局のファイルにはあった。
《零の御子》……《零の至宝》とは《時》《空》《幻》の3つの至宝の力を兼ね備えた、人工のアーティファクト……ホムンクルスだ。
その権能は『世界を紡ぐ力』。世界の事象全てが持つ因果の過去と未来を操作できるという、まさしく神の如き力だ。しかしそれはクロスベル地域のみでの事であり世界規模での因果改変は不可能だった。そこで登場するのが《碧の大樹》だ。かの神樹は《零の御子》の力を増幅し、七曜脈を通じて世界とリンクさせるものだった。これで《零の至宝》は世界の運命を組み替える力を得たわけだ。
ナギトはその大樹を実際に目にした事があった。内戦時、ガレリア要塞にぽっかりと空いた穴からクロスベルの様子が見えたのだ。そこから《碧の大樹》はその威容を顕現させていた。
「という事は………まさか……」
《碧の大樹》があった場所にロイドたちの隠れ家があり、そこに干渉できない…となれば。
「そのまさかだ。《零の至宝》の力が彼らの姿を隠していると見るべきだろうね」
「…《零の御子》の力は大樹の消滅と同時に失われたと聞いてますが」
「それは確かだ。《零の御子》キーアから至宝の力は失われている。しかし、《碧の大樹》跡地から異常な霊的反応が出てるのも事実だ。……《零の至宝》の力は過去と未来にまで影響を及ぼす…もしかしたら、御子は独立当時に今という未来を幻視してこういった結界を構築したのかもしれないね」
くつくつと笑いながらルーファスは語る。その心情がどんなものなのかナギトには測れない。
「結界?」とナギトがおうむ返しに尋ねるとルーファスは窓からナギトに向き直って答える。
「ああ、『結界』だ。《碧の大樹》跡地にあると思われる彼らの隠れ家……それを守っているのが……零の残り香とも言うべき結界だ」
「零の残り香……、その結界はどういったものなんです?」
「ふむ、私は報告書に目を通しただけだから推測が大部分になってしまうが……
どうやら一種の異界を形成しているようだ。それも、彼らの仲間にしか感知できないものをね」
続けてルーファスは語った。
《碧の大樹》跡地の湿地帯を半球状に包むようにして結界が展開されている事。彼らの仲間が結界内部に入った地点に人員を送り込んでも何ら干渉ができなかった事など。
「つまりこれは人の叡智による隠匿ではなく、神の加護による秘匿だとわかった。……つまりは神秘だね。その領分になると現実に生きる私は弱い。だからこうして君に事情を説明しているわけだが……その結界を破る事はできると思うかな?」
人の歴史。文明の結晶。科学。それによってロイドたちは隠れているわけではなく。
零の残り香。《零の至宝》の力をわずかに残した結界に閉じこもる事で自ら神隠しにあっているのだ。
《零の至宝》は確かに強力に過ぎる権能を持っていたのだろう。しかし、その残り香程度なら、アーティファクトでも中級以上の力を持つものなら、結界を破壊できるはずだ。
「《緋の騎神》を使ってもいいのなら」
それは真摯に考えた上の、しかし挑発的な言葉だった。
《緋の騎神》テスタ=ロッサ──エレボニア帝国に伝わる《七の騎神》の一角であり、超級のアーティファクトでもある。
その《緋の騎神》なら結界を破壊できるだろう、と思っての発案だった、が。
「残念ながらそれは許可できない。…わかっているとは思うが、君が《緋の騎神》の起動者である事は最重要の機密事項だ。閣下の許可なしに起動は認められない」
それは理解している事だった。ギリアス・オズボーンの許可なしに《緋の騎神》は起動できない。現在は帝都の地下で封印されている形になる。この封印はオズボーンの許可と共に解除され、《緋の騎神》とナギトのリンクが復帰する……という仕組みだ。
「騎神の力でしか結界を破壊できない、と言うなら条件付きという前提で私が閣下にかけあってもいいのだが………、本当に騎神を使うほどかね……特異点?」
特異点…その呼び方にナギトは、今度こそどうしようもない程に驚きを露わにする。
それは、ナギトを呼ぶ際に結社の者たちが使った呼称だ。この世で唯一自由に動ける存在。運命に支配されない生物。確定した未来を揺るがす反逆者。唯一にして無二なる“特異点”。
「……フフ。すまないね、内戦時に魔女殿がきみをそう呼んだのを聞いたのだ。どういった意味かはわからないが──どうやらきみにとって致命的なワードのようだね?」
「致命的も何も、それは俺の正体を表現するのに最も適切な呼び方ですよ」
どうやら意味は知らないらしい。知っていてもどうする事もできないだろうが。
冷静を取り戻したナギトは、先程の言葉の意味を理解する。騎神を使うまでもなく、ナギトならば結界を破壊できるのではないか?という事だった。
「確かに俺の権能を以ってすれば可能でしょうが………あの力は、使いたくない」
ルーファスが示唆していたのは、マクバーンを永遠の眠りに誘った“裏技”だ。その力なら結界を破壊できるだろう。しかし───
「使いたくない、か。それが命令でもかな?」
「命令でも、です」
総督府に入る前と似たようなやり取り。しかし今回の方が沈鬱だ、とナギトの様子を読み取ったルーファス。
ナギトはおもむろにシャツをめくり上げると、自らの左の脇腹をルーファスの前に晒した。
「──これは……!?」
あるはずのものが、ない。皮も肉も骨すらも。人体を構成して然るべきものがそこにはなかった。
ナギトの右の脇腹があった場所には、暗闇が広がっていた。まるで星のない夜空のような闇だ。いや、“ある”という表現が正しいのかどうかもわからない。だってそこには何もないのだから。
そこに何かの欠片のようなものが見えた気がしたが、それが何かを確認する前にナギトはめくり上げていたシャツを元に戻した。
「力を行使した代償です。……存在の消失。あの力を使い過ぎれば俺はいずれ消える。そんな力を易々とは使えませんよ。……マクバーンに使ったのだって破格なんですからね?」
笑って誤魔化すようにナギトは言った。力をオズボーンのために使うつもりはなかったが、マクバーンを永遠の眠りに誘うには裏技を使うしかなかった。
ただ眠らせる──否、データを固定するだけだから存在の消失も軽度なもので済んだが、今回の結界のような大規模なものに干渉すればどうなるかわからない。
「ふむ……では、私の方で別の方策を考えておこう」
ルーファスは、ナギトの力を行使する作戦を断念したようだった。
これまでルーファスはナギトの意思を尊重してきた。それがどんな意図によるものかナギトには知り得ない事だ。
だから、ナギトはルーファスに対して申し訳ないと思っているのだ。
元々、ナギトはルーファス・アルバレアという人物を嫌ってはいない。むしろ、人間としての在り方では尊敬できるとすら思っていた。
かつて受けた恩を、まだ返せてもいないのに。
「じゃあ、俺の方でも何とかできないか頑張らせてもらいますよ、ルーファスさん。……もしかしたら、何とかできるかもしれません」
《緋の騎神》や裏技を使わなくても結界を破れるかもしれない。
ナギトは確かにそう言った。
明日からは、明日だけは。ルーファスのために全力を尽くそう。
ナギトとしての生き方を拒絶して《緋玉の騎兵》としてだけ、過ごすのだ。
それでクロスベルの均衡が崩れようとも。明日だけは自らの全てを尽くそう。
明日で全てが崩れてしまったら?
明後日以降に、すべてを裏切ろう。
ナギトの生き方も。《緋玉の騎兵》の契約も。すべてを無へと帰して。
ただ、クロスベルのためだけに走ろう。