ユミル──《温泉郷》と名高いその地を治めるのは、シュバルツァー男爵家だ。男爵という爵位の中では低い部類に入る貴族であるシュバルツァー家だが、皇族に縁があるという事があり、周囲からは一目置かれる立場にあった。
それが変わったのは十余年前。とある浮浪児を養子に迎え入れたからである。リィン・シュバルツァー。此度の内戦で英雄に担ぎ上げられた彼を。
出自のわからぬリィンを受け入れた事により、テオ・シュバルツァー男爵は社交界から追放同然の扱いを受けた。
しかし、それもついこの前までだ。 シュバルツァー男爵の養子、リィンは内戦終結に尽力した英雄にしてクロスベル戦線にてカルバード共和国軍を撃退した立役者《灰色の騎士》。
復権のために掌を返した貴族はリィンを利用するためにシュバルツァー男爵に取り入る事を視野に入れるだろう。
という話はさておき。
久々にユミルに足を運んだナギト。すでに3月も終盤で、内戦時は降り積もっていた雪も僅かにしか残っていない。
最後にユミルに来たのは、内戦終結直前だった。正規軍からトールズ士官学院奪還作戦の打診前に寄ったユミル、シュバルツァー男爵邸で、内戦終結後にリィンの出自についてシュバルツァー男爵は話すと確約したのだった。
しかし、その約束は果たされる事はなかった。果たされる必要がなくなったからだ。
リィンの出自は、実父が現れた事で判明した。 ギリアス・オズボーン───《鉄血宰相》の異名を取る辣腕の彼こそがリィンの実の父親だったのだ。
だが、その事実を知るのは、その時に煌魔城にいたメンバーのみ。世間的には、リィンは未だシュバルツァー家の養子なのである。
そして、ナギトもそうだった。 ナギト・シュバルツァー──リィンと同じく、シュバルツァー男爵に拾われ養子となった者だ。正式な手続きはしていないものの、シュバルツァーを名乗った男。
内戦終結に尽力したⅦ組の一員……というのが内戦に関わった者の評価だが、その実過去に《剣鬼》と呼ばれた剣士である事や貴族連合の英雄の一角《閃嵐の騎士》であった事はあまり知られていない。
知られていない、がために“ナギト・シュバルツァー”の名にはあまり価値はなかった。協会や教会、結社や一部の者たちからは警戒対象になつているが、それで行動を制限されるような事はなく。
しかし今後、ナギトをシュバルツァーとしておく事はシュバルツァー家にとってもナギトにとってもリスク足り得る。加えて記憶を取り戻した以上は……という事情もあり、ナギトはその姓を返すためにユミルに来たのだ。
“卒業まではナギト・シュバルツァーで通す”と言っていたナギト。それは逆説的に卒業後は違う名で通すという事に他ならない。 しかし、シュバルツァーの名を脱ぎ去る前に、それを報告せねばならない人物がいた。 記憶喪失の《剣鬼》を助け、ナギトの名と家族を与えてくれた恩人、テオ・シュバルツァーだ。
彼に、彼の家族に。シュバルツァー家の誇りを返す時が来たのだ。
☆★
ユミルの地に足を踏み入れると、どうしても目につくものがある。それは領主邸宅でも、ユミルを温泉郷と言わしめる鳳翼館でもない。 町の中央に設置された足湯だ。町の中央に設置されているために、当然のように一番目立つのだ。
ナギトはその足湯に、良く見知った人物を見つけたのだ。 偶然か、必然か───、あるいは作為によるものか、ナギトはその衝撃に呆然とした。
「……はは」
親にして師。それがナギトの、その人物に対して抱く想いだ。 ナギトはその人物に近づき、声をかける。ユミルにはシュバルツァー男爵への筋を通すために来たが、これくらいの寄り道はいいだろう、と。
「お久しぶりです、老師」
「おうウィルか、久しいのぅ」
短い、されど親しみの込められた再会の挨拶。
ナギトの──否。ウィル・カーファイの親にして師たるこの人物は、八葉一刀流開祖、《剣仙》ユン・カーファイだ。
顔には深い皺。腰は曲がり、頑健なはずの肉体は衰え、前髪は後退している。しかし、それでもこの人はユン・カーファイであった。
「いつからユミルに?」
ナギトは問う。ユンの真意を測るために。この老人がいったいどこまで見通していたのかを。
「ん〜、三日前からかの」
「なるほど。俺を待っていたわけですか」
理解は早かった。三日前とは即ち、ナギトがトールズ士官学院を卒業した日だ。ナギトがレグラムに寄らなければ、ナギトとユンはその日に鉢合わせていた事になる。
「察しが良くなったのお。さ、早く用事を済ませてきんさい。ここで待っておるから」
察しが良いのはあんただ、というセリフを飲み込んでナギトは「では、いってきます」と言い、シュバルツァー邸に向かう。
シュバルツァー邸の玄関に入る。「ただいま」という発音は、未だこの家が自分の帰る家だという認識からだ。
「帰ってきたのか、ナギト」
ナギトを迎えたのは、テオとシュバルツァー夫人ルシアだ。 ルシアは優しく「おかえりなさい」と言う。少しだけ震えたその声音は、これから起こる事を予見してのものだろうか。
ルシアは「お茶を淹れてくるわね」と言って居間の奥に姿を消す。
「話があるのだろう?」
すでにシュバルツァー邸には手紙を送っていた。内容はぼかしたが、それでもナギトが何を告げるかシュバルツァー夫妻は理解しているだろう。
テオは椅子に座る。それは食事時のいつもの定位置ではなく、ナギトがいつも座る椅子の正面となる位置だ。
ナギトはいつものように、いつもの椅子に座る。シュバルツァー邸で暮らした一年、家族で団欒した思い出の場所に。
ルシアが淹れた茶を飲み込んで、舌根を潤す。味なんて、わからなかった。
テオの横にルシアも着席し、ナギトの言葉を待つ。 話を切り出すのは、ナギトであるべきだった。
「テオ・シュバルツァー男爵、ルシア・シュバルツァー夫人。これまでお世話になりました。 俺は、この家を出ます。シュバルツァーの姓を返上します。 この事はすでにリィンとエリゼにも伝えています。俺は記憶を取り戻しました。俺の中にはもうウィルとしての記憶があり、それがある以上は、もうシュバルツァー家に依存するわけにはいかない。 ……だから、今までありがとうございました」
長い空白があった。
瞑目したテオは、ゆっくりと言葉の意味を咀嚼する。 やがて意味を端まで理解し、言う。
「わかった……」
続く言葉は、なかった。 言いたい事はあった。言うべき事はあった。だが、感情がごちゃまぜになって、何を言葉にするべきかわからなかった。
「だが、これだけは君に……」
立ち上がる、テオ・シュバルツァー。その目は澄んでいる。言いたい事、言うべき事、それらを差し置いても絶対に伝えなければいけない言葉があった。
「ナギト……シュバルツァー家の誇りを君に」
絶句したのはナギトだ。
それを返すために今日ここに来たと言うのに。 まったく、シュバルツァー家の誇りはいつまで俺を離さないつもりだ。
この決別はしかし、親愛に満ちたものだ。
“ナギト・シュバルツァー”の記憶が走馬灯のように蘇る。 「はは」と笑うナギトの目からは一筋の涙が。
「それを返上するために今日は来たんですけどね……、あの内戦で俺は…
「君が何を抱えているのかはわからない。だがナギト……君も二年ばかりだが、私の息子だった。だから私にはわかる。君の行いには必ず君なりの正義があったのだと。であれば、例え家名を返そうとシュバルツァー家の誇りは君と共にあるはずだ」
内戦でのナギトの画策───“Ⅶ組英雄化作戦”は、帝国各地に出現した幻獣を市民にけしかけ、その脅威度認知度を高めてから討伐し名声を得る事を目的とした作戦だった。市民には死人はでないまでも怪我人はあった。そうしないと幻獣という脅威を認識してもらえないからだ。更に言えば市民が幻獣に恐怖心を抱けば抱くほどに、それを討ち倒したⅦ組の名声は高まる。
ナギトはⅦ組を正義にするために悪事を為した。そこには“クロウの救済”のための楔を打つという目的もあったが────。
テオ・シュバルツァー男爵は今どき珍しいノブレスオブリージュを体現する貴族だ。領民を愛し、領民から愛される領主。ある意味では距離が近すぎるが、愛嬌というものだろう。
そんなテオが、事情を知らずともナギトを信じた。そこには正義があったと。その行いの理由も意味も知らずとも2年を過ごした息子を信用すると。
ならば、それに応えないなんて嘘だ。恩人が、義父が、信じると言ってくれたのだ、であるなら、それに応えるのは息子の役目だ。
「…ありがとうございます。ならば、シュバルツァー家の誇りはここに」
胸に手を置き、ナギトは低頭する。
「例えシュバルツァーの名を失えど、誇りはここに。 これより我が名はナギト・ウィル・カーファイ。男爵、貴方にもらった名前は思い出と共にこの身に刻みます」
ナギトの顔が上がると、テオは感謝を告げる。先の言葉が単純に嬉しかったからだ。 ナギトはニコリと微笑んで、また恭しく一礼する。
「それでは、今日はこの辺で」
ナギトは「泊まっていけばいいのに」と引き止める二人をなだめ、玄関に足を運ぶ。
扉に手をかける前に「あ、そうそう」と思い出したように挨拶。
「もしかしたら、まだ間違って呼ぶ事もあるかもしれませんけど、それは容赦してくださいね」
頭上にハテナマークを浮かべる程の疑問だった。そもそも、ナギトはテオやルシアの事を親父殿、夫人と呼んでいた。 それをどう間違って呼ぶというのだ。
「それじゃあ行ってきます。父さん、母さん」
確信犯のナギトの挨拶に、二人は顔を綻ばせ、見送りの言葉をかける。息子だった男に、間違えられては、こちらもつられるというもの。
「いってらっしゃい、ナギト」
☆★
「けじめは、つけたのか?」
開口一番、師はそう問うてきた。
ナギトは、それにただ二文字「はい」と答える。
師は「重畳、重畳」と笑う。師の笑みはただの純粋な笑みでないと、ナギトは気づいたが、あえて指摘はしない。
複雑なのだろう、とナギトは思う。複雑だ、とナギトは思う。
だが、そのすべてとまではいかないものの、丸く収める事ができたと思う。
「俺は今日から“ナギト・ウィル・カーファイ”と名乗ります。老師には申し訳ないですが、“ナギト”として過ごした月日も大切なので」
ユンは足湯からあがり、ナギトを正面に見据えて「うむ、それがよかろう」とまた複雑そうに笑った。
「では、行くかのう」
ユンは呵呵とばかりに笑い、歩いて行く。
ナギトは知っていた。この人がこう笑ったら質問しても答えてはくれない。黙ってついて行くいかないのだ。
ユンはゆっくりと、しっかりとした足取りでユミルの山道を登って行く。ナギトはそれについて行くのみだ。
アイゼンガルド連峰に続く山道。山頂に近づくにつれ、雪の残滓が増えている。ナギトの数歩前を行くユンが唐突に口を開いた。
「ヴァンダイク殿に預けた文は読んだかの?」
「はい、読みました」
ユンはナギトの答えに「ほうほう」と笑い、さらに問う。
「では、今のオヌシは何者じゃ?」
ナギトはそれに、一瞬の間もおかず答える。
「二代目八葉一刀流継承者です」
ユンは今度こそ大笑した。声に出して「カカカ!」と。
「良い。良いぞ、ウィルよ。ようようそこに至ったか。して、どうじゃな?過去のオヌシが欲していた、その境地は」
「正直、大したものじゃありませんでした。だからこその《理》なのだと、わかってはいますが」
「ふむ、そうじゃろうな。人ができることには、そのコツというものがある。要はそのコツを掴み易い、というのが《理》よ。言うなれば《理》を得るとは、器用になるという事じゃな。大した事なかろう」
「ええ、まったく……」
師との会話で、ナギトは思考する。
《理》──過去、《剣鬼》であった頃の自分が欲していたもの。武の頂点とまで言われる極点。
それは、思い描いたものほど大したものではなく、それと同時に納得できるものでもあった。
《理》などと勿体つけるから遠く感じるのだ。難しく考えるから離れていくのだ。《理》なんて、誰にでも理解できる簡単なことなのに。
───しかし。
《理》の深淵に引きずり込まれた自分だからこそ言える。
この世界を、当然のように考えて。物語の中だと言うことが。
だから、《理》と呼び遠ざける方が幸せなのだろうと。
「しかしオヌシは、己を二代目と言うたな。それは《理》を得ただけでは名乗れぬ名ぞ?ウィルよ…オヌシに八葉の名を継がせてよいかどうかは儂が判断する。あの文は嘘だ」
振り返り、年甲斐もなくニヤリと笑うユンに、ナギトは嘆息する。「仕方がないですね」と。
「さて、ここらでよかろうよ」
立ち止まったユン。すでに二人はユミル渓谷道の最奥に来ていた。この開けた場所でなら戦うに支障はあるまい、とユンは言っているのだ。
仕込み杖から刀を抜くユン。その構えには一分どころか一厘の隙すらない。感じる剣気はあの《光の剣匠》に匹敵している。これで齢70を越す老人というのだから恐れ入る。
どうやら、この老師は本気でナギトを二代目として相応しいか試すつもりのようだ。
八葉一刀流の開祖が、己がすべてを託した弟子を相手取り、本気で自らの後継に相応しいかどうか。
「ほれ、どうした。抜かんのか?」
挑発するように言うユン。その身から放たれる剣気たるや、一流の闘士であっても即座に敗北を予期するだろう。
しかし、ナギトはその剣気をゆるやかに受け流し、天を指差す。
「我が剣は世界とひとつ。故に剣は抜かずとも良いのです」
刹那、呆気にとられるユン。その後、「ク、カカカ」と一瞬だけ笑いをこらえたかと思うと、大笑した。先ほどの大笑すら比較にならぬ呵々大笑。
「いやはや天晴れよ、ウィル。これでは儂の負けじゃな。オヌシがすでにその境地にいるとは」
ユンはナギトが《理》に至ったと聞いて尚、八葉の二代目として認めなかった。冗談半分だが、あまりにも不甲斐ない様を見せたら本当に撤回するつもりだった。しかし。
「技の練度は同等、至った境地も同じ。しかし肉体の若さで負けておる故、儂はオヌシには負けるじゃろう」
ユンからはすでに剣気は失われていた。手にした刀すらすでに鞘に納められ、仕込み杖の中に仕舞われている。
「認めよう。ウィル……否、ナギト・ウィル・カーファイよ。 オヌシを、八葉一刀流、二代目継承者として」
ナギトは傅き「ありがたく」と師の祝福を受け取る。
立ち上がったナギトは、その決意を口にした。
「これからも邁進します。あなたより八葉一刀流を継承した者として……八葉を継ぐ者として!」
☆★
少しだけ、昔の話をしよう。
それは、百日戦役が終結し、暫くした頃だった。
ユンの元に一通の手紙が届いた。差出人はカシウス・ブライト。八葉一刀流の一の型を極めし、剣の達人。ユン・カーファイの人生における、最高の弟子だった。
その手紙の内容は、剣を捨てる。というものだった。
ユンは嘆き、悲しむ。もったいないと。
その表情を、隣で見ている少年がいた。
剣に触れて短い、最も新しいユンの弟子にして拾い子。
その少年は、ユンのその顔を忘れなかった。
悲しい顔をした師。じゃあ自分がその悲しみを晴らせばいいと思った。思い続けた。
技の鋭さは、剣の歴史でも類を見ないほどに高まった。未だ年若き少年の身ですべての型を皆伝した。
しかし、それでも師の悲しみは晴れたとは言い難かった。自分が《理》に至っていないからだ。
カシウス・ブライトは《理》に至っていたと聞く。ならば、師の悲しみを晴らすには自分も同じ境地に至らねば。
そして少年は、鬼となった。
☆★
「思えば、酷く遠回りした」
「そうじゃろうなあ。二年ほど前のオヌシなど、見ておれんかったわい」
ユミル渓谷道での帰り道。ナギトとユンは会話していた。ナギトの口調が柔らかくなっているのは、すでに師弟から親子へと関係が戻ったからだ。
弟子である内は敬語を使うように、と師から(社会に出た時の事も考えて)言われていたため、先ほどまでは敬語だったが、親子に戻った今、敬語は必要ない。
「……あの時に言ってくれれば良かったのに、爺さんてば言わないんだもんなあ」
「口で教えられてわかるものではあるまい」
「そうだけどさぁ」
ぼやくナギトに、ユンは話を転換させる。
「してナギト。そなた…その境地に何と名をつける?」
ナギトが《理》の果てに至った境地。
我が剣は世界とひとつ────、ならば。
「“天上天下我剣同一”…───かな」
天より上、天より下、其の総てが我が剣である。我そのものである。
「爺さんは?」とナギトは問い返した。自身と師の至った境地はおそらく同じだ。だがどう言語化するのかは別だろう。
「そうじゃのう……一の太刀、もしくは───無仭剣、かの」
やはりそれはナギトの“天上天下我剣同一”と本質は同じに思えた。
義理とは言え、やはり親子かと感慨に浸るナギトに、師弟の雰囲気に戻りそうな空気をユンが親子のそれに引き戻す。
「それにしても、ウィル。オヌシ、言葉使いが都会っぽくなっておるの、似合わんぞ?」
ナギトは「うるせー」と言いながら、その表情は穏やかだった。
師が、あの時に教えてくれなかったおかげで、自分はリィンやラウラ、他の友人たちに出会えたのだから。
逆にそれがなければ、今のように《理》を得てはいなかっただろうと思う。
さて、兎にも角にも。これで果たすべき義理は残るところあと一つとなった。
次なる目的地は異国の地だ。
あの先輩は元気にしているだろうか?