月夜に舞えよ、蝶々 作:へびのあし
「……なんてことです。」
雪がふる。
光がのぼる。
童の戯れるは、雪兎。雪達磨。かまくら。雪灯籠。
「純真な子供の遊びを、こんなにも……貴女のかわいい手を、これ以上穢さないでください。」
血の海。
人体から吸い尽くしたような血の海で、それを白い雪玉に変えては遊んでいる影があった。
いつからそれをしていたのか。
すでに雪が降ってもおかしくない季節であるのに加え、ここは洞窟の中。夏でも氷室となる地下鍾乳洞のような場であったこともあり、一度作った雪が溶けないのだろう。
そこらじゅうが、雪と氷。
ぼうっと浮かぶ鬼火がシャンデリアのように光り輝き、昼間のように眩しい明るさとなっている。
山奥の捨てられた石切場で見つかった、異常な光景だった。
真ん中に座り込んでいた童女の鬼は、ゆっくり顔を上げると……
「おねーちゃん、大人?」
「……どうでしょう。子供でも大人でもない、ちょうど中間くらいです。」
「じゃあ、殺していいのかわかんないよ。」
困ったように眉根を寄せる。
銀色の髪の毛や薄青い瞳の色も相まって、人形のように見える鬼だった。カタリと首を傾げる仕草も堂に入っている。
ふぅー、と桃乃は息を吐いた。
「だれも、貴女が殺していい人間なんていないんですよ。」
「でも、
「それは鬼の首魁のことですか?」
「ううん。」
童女の鬼は、指を唇に当てて考えるような格好をした。
飢餓に呑まれていない。人を充分に喰って力をつけた鬼だった。
「あのね、
桃乃は、ふぅーと息を吸った。
童女の鬼は、まだ何かを思い出そうとしている。
桃乃は構わず、息を吐いて、また吸った。
「それで、お兄ちゃんはね……」
水菓子の呼吸 壱の型 林檎は薄切り
「………弱肉強食がこの世の中の………えっ?」
—————チャキン
「終わりです。もう二度と、人を殺めないでください。」
全てが始まる前に、斬った。
鬼の子の血鬼術は強力だったかもしれないが、桃乃の技に殺気はない。桃乃が視ているのは“氣”の流れであり、よって病人を抱き上げるような自然な動作の予兆のみが、鬼に見える全てとなるのだ。
加えて舞のような独特の型。
初見殺しにもほどがあるそれらにより、鬼は完敗を喫した。
「……あ、ぇ……!」
カッと目を見開いた鬼の首を、桃乃は油断なく見つめる。今際の際に取る行動は鬼によって様々。涙を流したり、周囲の全てを破壊するために暴れたり。前者の場合はともかく、後者ならば場合によって、鬼の体全てを切り刻んで灰にすることも考えねばならない。
—————灼けて崩れてゆく童女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……心配は、なかったようですね。」
納刀された鞘に手を添え、深く息をつく。
しかし。いや、油断は禁物だと、桃乃はすぐに気を引き締め直した。
『お兄ちゃん』『拳が強すぎる』『とにかく強い』『女に優しい』『先生』
今までにこの辺りで斬ってきた鬼の口から、いくつかの情報の断片が漏れ出している。どれも他愛のない欠片ばかりだが、桃乃が警戒心を抱くには十分すぎるものだった。
「今度こそと思ったら、またハズレでしたし……」
男ばかり狙う鬼を追っているはずなのに、なぜか今まで斬ったのは『特にこだわりのない鬼』『話にならない雑魚(選別用に藤襲山送りになった)』『旅人を待ち伏せする鬼』そしてさっきの『大人のみ狙う鬼』だけなのだ。
のらりくらりと、躱されているような。
煙に巻かれているような。
「気持ち悪いですね。」
そう。この感覚……
「背筋に虫唾が走ります。」
「—————ふむ。だれのせいで、虫唾が走るのだろうな?」
「……っ!」
水菓子の呼吸 陸の型 完熟枇杷の酔い散らし
ドン!
決して瞬きはしなかったと断言できる。
寸分の油断もしていなかった。
完全に全力を尽くして、その果ての結果だった。
「っぐ!」
ズザザーッと雪の上を滑るようにして着地する。向かい合って、ようやくその姿を捉えることができた。
……しなやかな肉体を持った青年。紅梅色の髪。藍色の入れ墨が全身に広がっている。雪のような儚い寂しさを纏ったような、独特の鬼だった。
その金色の瞳に刻まれた文字は『上弦』『参』。
うっと桃乃が息を詰める。……鬼の首魁を除けば、この世で三番目に強い鬼。
鬼は、意外そうな表情でそんな桃乃を見下ろした。
「ほう、今の拳を受けて無事だとは。」
「………。」
無事なわけがない。ピシリと、厄除の面にヒビが入る。そして割れた。
しかし。ばらばらと地面に落ちていく狐面を構っている余裕は、一切なかった。そんなことをすれば、その瞬間に桃乃は—————死ぬ。
圧倒的な強者を前に、死の予感が叩きつけられているのだ。
鬼は、奇妙に透かすような視線でこちらを舐めるように観察していた。そして、すっと首を傾げる。
「おまえ、変なやつだな。いったいどんな手品を使っているのか、闘気がやけに読みにくい。」
「………。」
「まあいい。俺のやることは変わらない。両手をもぎとって再起不能にする。」
「……どうして。」
「弱者風情がおかしなことを聞く。」
呆れたように吐き捨てた鬼はそのまま黙るかと思われたが、しばしして「あのお方のご命令だ。」と付け加えるように言った。
……そう、まるで“本当は闘いたくなかった”とでもいうように。“上官に嫌味を言われて仕方なく”この場にいるのだとでもいうように。
桃乃は小さく眉を顰めて、鬼に問いかけた。
「……命令されたことは、たとえ自分の意に沿わなくとも、実行するのですか?」
「そうだ。当たり前のことだろう。」
「私ならば、そんな組織は抜けます。」
「この世は強さが全てだ。上に立つものに、下のものが従うのは当然の摂理。」
「いいえ。」
何かがおかしい。そう思った。
たった一度の剣戟で心臓が躍っていた。それだけならば、ただの緊張や打ち合いの激しさを物語のみだが、そうではないような気がしていた。
今までに会ったどの鬼とも違うこの鬼を目の前にしたときから、桃乃の身に何かが起こっていた。
湧き上がる感情の奔流に、桃乃は戸惑った。
「江戸の時代の貴方なら、そんなことは言わなかったはずです。」
そんなことを口走った途端、鬼が「は?」と呆けたような顔をした。
「今は大正だぞ?お前、バカなのか?」
「そ、そんなこと……私はいたって真剣なのです!」
「ああそうだ、お前が持ってるのは真剣だな。駄洒落で遊んでいる余裕があるならさっさと振ればいい。無論それも、今から俺が—————叩っ斬ってやるがな!」
刹那、奇妙に時がゆっくりになった。超速を超えた、神速で拳が迫りくる。
桃乃の体は、ほとんど勘で動いていた。
水菓子の呼吸 弐の型 干し柿の簾抜け
すれすれで、拳をすり抜ける。
鬼が舌打ちをする音が響いてきた。
水菓子の呼吸 肆の型 野苺畑の舞い
「弱いくせに粘る……!」
すっと目を細めた鬼がこちらへ拳を振ろうとして……不意に虚空へ拳を放った。凄まじい衝撃波が乱打される。
紙一重で踊るように回避してゆく桃乃と、まるで見当違いの方向へ拳が飛んだ。さっと桃乃が青ざめる……が、間に合わない。
「気づいていないとでも思ったか!……おまえも邪魔だ!」
ギャッ、と。
天井ギリギリで様子を伺っていた鎹鴉が、悲鳴を上げて落ちてきた。
「矢羽凪!」
「動物に構っている場合か!己の全てに集中したらどうだ!」
「……っ!」
水菓子の呼吸 参の型 梅の串通し
首を傾けて回避される。
隙が生まれ、鬼の無表情の目の奥に、金色の瞳がギラリと光る。ぞっと背筋の毛が逆立って距離を取った。
水菓子の呼吸 肆の型 野苺畑の舞い
一撃でも貰えば終わる拳の乱打を回避するため、本来は攻撃に使う技を転用し、全力で逃げ回る。ほう、と鬼が息を吐いたような音がした。
「……弱さを自覚しているゆえに逃げる?いや……むしろこれは………」
鬼が何事かぶつぶつ呟いているが、とにかくこの鬼の拳は尋常ではない。血鬼術を使っている形跡は微塵もないのに、掠っただけで、羽織が裂け、皮膚に血が滲んだ。
……ふと、攻撃がやんだことに気がついた。
鬼が、薄らと笑みを浮かべたような、不気味な表情で佇んでいた。
「おまえ、名は。」
「……小栗林……桃乃。」
ゼイゼイと息を切らしながら、桃乃は極力落ち着いた声で答えた。ふむ、と鬼が首を傾げる。
「女だてらに、なかなかやる。路傍の石にも満たぬ弱者と思っていたが……どうやら勘違いだったようだ。敬意を評してやろうじゃないか。—————なあ、桃乃。」
ぞわり、と桃乃の全身に寒気が走った。
「俺の名は、
刹那、目が眩んだようだった。
桃乃の脳裏に、知らない誰かの記憶が流れ込む。
—————花火の下で逢瀬を果たしたって?誓いの証に和歌は詠んだのか?え、恋雪さんだけ詠んだ?
—————アッハッハ、この幸せ者めが!
—————父さん、呑気に笑ってないで俺の心配もしてくれよな!酷いよなぁ、
美しい夜が、産み落とされた。
血鬼術 術式展開—————破壊殺・羅針
青い雪の結晶が、地面へ刻み込まれる。
あふれだすは、凄まじい鬼気。立ち昇る青火は海の色、揺らめく蝋燭のように立つ猗窩座は、まさしく神の領域へ達している。
桃乃はそれに応えるように、ギリギリと日輪刀を握る力を増す—————ことはしない。
ゆらりと脱力し、研ぎ澄まされた”氣“の世界へ入ってゆく。
その行動には一切の理屈がない。
脳味噌で考えていては、風前の灯火よりも呆気なく死ぬだけの仕合だった。
「さあ……宴の時間だ。」
「いいえ。これは『責任』です。」
血鬼術 破壊殺・乱式
水菓子の呼吸 弐の型・改 鬼斬り柿の簾抜け
先ほどとは比べ物にならない密度の乱打。桃乃はそれを、避ける。避ける。避ける。
猗窩座の方も、先ほどとは何かが異なっているようだった。表情が明るく、高揚している。酔った人間のような饒舌さは、初めに対峙した彼の姿からはまるで想像がつかない。
「逃げていてばかりでは俺に擦り傷一つ負わせることができないぞ!桃乃!」
「いいえ、絶対に捕らえてみせます!」
「甘いぞ、ぬるい!殺す気でかかってこい!」
血鬼術 破壊殺・脚式 流閃群光
水菓子の呼吸 漆の型・改 弾けた鬼金柑泳ぎ
「ついに見せたな!それがお前の最終奥義か!」
「……いいえっ!こんなものは奥義でもなんでもありません!」
桃乃の頭はガンガン鳴っているようで、同時に人生で一番冷静な凪だった。
そして戦いの合間に流れ込む、記憶の奔流。
—————なあ、狛治。それが『素流』の奥義なのか?
—————何を言ってるんだ。そんなものはこの世に存在しない。武人は常に高みへと昇っていくものだからな。『浪流』も同じだろう?
—————アッハッハ、それもそうだな!俺の父さんと慶造さんも、互いに互いを超えるために腕を磨き続けていたと聞く。この瞬間、瞬間にも俺たちは己に打ち勝ち続けるっていうことか。
「私の技は進化するんです!今、この瞬間も!」
「ならば俺はその進化を指一本でねじ伏せてみせる!」
「世迷言を!貴方を止めるのは私の役目!」
一度でもまともに食らえば、小柄な桃乃は即死する。そうでなくとも、大量に失血すれば、一瞬のうちに著しく不利な状況に陥る。
だからこそ全てを避け続けるために全力を尽くし、猗窩座には一撃も入れることができない。
それでも桃乃は、前進突撃する鷹の目を持ちながら後退するという曲芸のようなことを実現させ続けていた。
—————絶対に、諦めるものか!ああ、そうだ!
—————たとえ俺がこのまま死んでも、俺には息子がいる!息子が、それが駄目ならその子供が、絶対にアイツを探し当てる!
—————どうやってだって?そんなのは簡単な理屈だ!
—————俺の、記憶を……受け継がせる!
燃えるような執念が、桃乃を突き動かしている。
何百年という時を超えて、桃乃は『猗窩座』という鬼と戦っているのだった。
なんなのだろう。
『猗窩座』という存在は。
桃乃は、何も知らない。ただ、夢を見るようにその軌跡を辿って………
狛治、と呼ばれた青年がいた。
それが全ての、始まりだった。