夏休みに入り1日目の部活、日菜先輩がいつもより大きなカバンを持ってきた。なんですかそれと聞くと嬉しそうに話し始めた。
「これはねー俊くんへのプレゼントだよー」
プレゼント?今日は僕の誕生日でもなんでもない日のはずだが。そう不思議そうにしているとカバンの中から鍵盤の描かれた箱を取り出した。
「ロールピアノって言うらしくて、おもちゃのピアノらしいよー。鍵盤の数もピアノと同じやつ買ってみたし、これなら演奏できるんじゃない?」
「気持ちはありがたいんですけど、どうせ弾けませんよ。」
まあまあそんなこと言わずにと言いながら先輩が開封してロールピアノを手に持つ。ペラペラだーと笑いながら机の上に広げたそれは、88鍵と謳うだけあって大きい。仕方がないかと机の前に立ち、弾いてみようとする。意外なことに鍵盤に手を置いても震えが小さいので、思い切って親指でドの音を鳴らしてみると、素直な電子音が部室内に鳴り響いた。だがそこから先は指を動かすことができなかった。
「おー、ちゃんと弾けてるじゃん!」
「ピアノよりはましですけど、指は少しとはいえ相変わらず痙攣してます。これがおもちゃだからそれらしい音が鳴ってるだけで、実際のピアノなら音が震えてますよ。しかも続けて指が動かなかったので。」
「でも、今まで普通の音も鳴らなかったんでしょー?良かったじゃん!」
いやおもちゃだし、と言い返そうとしたがいつになくにこにこした笑みに毒気が抜かれてしまった。
「それにまだもう1つあるんだー」
そういいながら再びカバンの中に手を入れると、懐かしさを感じるピンク色のそこそこ大きなものが出てきた。
「鍵盤ハーモニカなんてよく持ってきましたね、どこに売ってたんですかそれ。」
「んー?買ってないよー。これはあたしの!」
「はい?」
聞き間違いだろうか、いやもしかすると先輩が演奏するために持ってきたのかもしれない。
「あ!もしかして音が出るか心配してる?大丈夫だよ、昨日確認したから!」
「え、いやいやいやいやちょっと待ってください。もしかしてそれを僕に演奏させるつもりですか?」
そのために持ってきたんじゃんと言いながら本体にチューブを付けて、吹き口をこちらに向けてくる。
「はい、弾いて!」
「いや無理ですって!ていうか日菜先輩はそれでいいんですか!?」
「いいから持ってきたんじゃん。あーなになにーもしかして意識しちゃってるー?」
にやにやしながらこちらを見てくるので、僕もついついむきになりチューブを受け取り口にくわえた。少しだけ顔が熱くなるのを感じつつも、演奏しようとして息を吹き込もうとした。
(─えるの───)
どこからか聞こえてきた声にばっと顔を上げる。急に顔を上げた僕にキョトンとしてこちらを見てきた。
「どうしたのー?緊張してる?」
「いえ…あの、さっき何かしゃべりました?」
「何もしゃべってないよー?」
「そう…ですか…」
聞き間違いか何かだろう、再びチューブを口にくわえ指を動かす。
演奏とは言えないただの指の体操だったが、震えることなく一音一音確実に弾ききることができた。横から拍手が聞こえてきて、そちらを見ると手をたたきながら日菜先輩が弾けるような笑顔でこちらを見ていた。
「すっごーーい!るんっ♪て感じだった!」
「曲を演奏したわけじゃないですよ?それなのにるんってなんですか…」
「だって弾いてるときすごく楽しそうだったよー!」
楽しそう、か。確かにあの時からずっと弾けなかったのに、鍵盤ハーモニカとはいえ一応まともに音を出すことができた。感謝の気持ちを伝えると別にいいよーと軽い返事が返ってきた。
「ともかくこれでステージに立つのは問題ないね!」
「ステージ?何の…いやまさか…」
「うん、文化祭のステージエントリーしたんだー」
「いや勝手に何してるんですか!」
「まあまあ、弾けるようになったんだからいいじゃん。」
お気楽そうに先輩はそういった。弾けるようになったと言っても鍵盤ハーモニカがやっとなのが現状だ。そんな状態でライブだか演奏会だかできるわけがない、いいとこお遊戯会だ。
「弾けるって言っても鍵盤ハーモニカですよ?そっちのロールピアノや、ましてピアノなんて文化祭まで弾けるようになると思いません。」
「まだ1か月以上あるんだし、心配しすぎだよー。いざとなったら鍵盤ハーモニカで演奏すればいいし。」
「日菜先輩もしかして僕のこと嫌いなんですか?」
「なんでー?大好きだけど?」
ためらいもせずに出た日菜先輩の言葉にドキッとした。1年以上の付き合いになるがいまだにこの人のストレートな言葉には慣れない。なので僕は目をそらしながら気恥ずかしさをごまかすよう、少しぶっきらぼうな態度をとることにした。
「高校生にもなって大勢の前で鍵盤ハーモニカを演奏するなんて何の罰ゲームですか。」
「えー、るんっ♪てくると思ったのに。」
「くるわけないじゃないですか。」
「いいじゃん、出ようよ!」
出場するも何ももう委員会に提出済みであり、日菜先輩は目を輝かせている。こうなった先輩に何を言っても止まらないことは重々承知であり、観念して了承の意思を告げる。
「わかりました、できる限り練習はします。で、何曲演奏するのかとか歌のありなしは決まってますか?」
「とりあえず1曲だけやるとしてー、うーんやっぱり歌があるほうがるんってくるよね?俊くん歌ってくれる?」
「無理なので先輩がお願いします。ボーカルじゃないのは知ってますけどたぶんできますよね?」
ちぇー、と言いながら先輩が不貞腐れる。
「じゃあ歌ありで好きな曲決めてよ。」
「日菜先輩が歌うのに僕が決めていいんですか?」
いいよーと天球儀をいじりながら返事がくる。それにしても好きな曲か、かなりおおざっばな要求で正直困る。5分ほど悩んだ末にとある曲を先輩に聞かせると、いい曲じゃん、天文部っぽいしとのこと。まあそれを意識したのはもちろんある、天文部員としての少なからずの意地だ。それに今、この先輩になんの曲を勧めても許可してくれそうな気がした。
「じゃあ2つともあげるからちゃんと練習してねー!」
「鍵盤ハーモニカはいらないので持って帰ってください、自分のがあります。」
あれから特に波乱もなく8月も中旬に差し掛かった。自分でも意外なことに演奏が鍵盤ハーモニカでやっとだったが、今ではロールピアノでもなんとか弾けるようになってきている。
弾けなくなったあの時ピアノで弾くことに躍起になっていて、他の選択肢それこそ鍵盤ハーモニカなんかで練習しようだなんて考えは全く浮かんでいなかった。いい感じに手の力が抜けてるし、何よりもできることが増えていけばそのたびに日菜先輩が大げさなほど喜んでくれたことも大きい。──こんなこと本人には直接言えないが。
ただ、相も変わらずピアノは弾けそうにもない。今日もリビングに置いてある電子ピアノに手を置いてみるも指が動きそうにもない。蓋を閉じ自室に戻ろうとすると母親から声がかかった。
「今日も弾けなさそう?」
「…なんでそんなに嬉しそうな声で聞いてくるん?」
「だって、今まで見もしてなかったピアノの前に座ってるんだもん。それに部屋で練習してるみたいだし。」
自室でロールピアノにイヤホンを繋いで練習してたのにばれていたみたいだ。指でたたく音が強すぎたかと舌を出す。
「そうそう、9月の文化祭なんだけど私も見に行くから。天文部で何かするんでしょう?」
「なんで知ってんの?」
そんなこと教えた記憶がなく聞き返すと、母親はしまったとばかりに顔をしかめる。
「もしかして先輩に会った?」
「そうそう!買い物してるときに偶然会ってね、顔が似てるらしいからそうなんじゃないかって!」
確実に嘘だとは思うが向こうしゃべるつもりがない以上、こちらからも追及することはやめておくことにした。もやもやするが日菜先輩のことだ、変なことをした可能性はあるが悪いことをしたということはないだろう。
「うん、いい感じ!」
るんってきたーと言いながら日菜先輩がはしゃいでいる。
夏休み最終日、僕たちは学校近くの音楽用貸しスタジオに来ている。先輩の言葉通り僕自身の調子はすこぶるよく、夏休み初日と比べ今やレンタルしているキーボードも右手だけではあるが弾けるようにまでなっている。
通し練習を終え休憩をはさむ。ある程度弾けるようになったとはいえ、どうしても精神的な疲弊が著しく一度演奏しては休みを繰り返してもらっている。
そういえばと思い以前から聞きそびれていたことを先輩に問いかける。
「日菜先輩って僕の母親と会ったりしました?」
「会ったよー、夏休み前に俊くんの家に行ったんだー」
意外にもすんなりと白状したので虚をつかれぽかんとした。
「俊くんのこと色々聞こうかなーって思ってね。だって直接聞いたって話してくれないでしょ?」
「…さすがにそこまでひねくれてないですよ。」
「ほんとかなー?」
まあ間違いなくあの時なら話してなかっただろう。気にしてないようにふるまっていたつもりではあるが、心の傷とは時間が経ってもなかなか消えないものだ。
「そんなことよりどこまで聞いたんですか?」
「えっとねー、小さい頃の俊くんのこと大体聞いたかなー。でも結局一番知りたかったことは聞けなかったけどね。」
「イップスになった理由、とかですか?」
「そーそー!よくわかったねー?」
それはイップスになった理由が僕自身にもわからないからではない。誰にも、それこそ親にすら打ち明けていないからだ。原因はなんてことはない子どもらしいわがままであり、だれにも伝えていないのは子供らしい意地を張っていたのだ。高校生にもなって長い間心に秘めていたことを伝えるのが単純に恥ずかしくて言えていないのである。
「知りたいなら教えますよ、つまんない理由ですけど。」
「うん、知りたいな。」
「…そうですね、端的に言うと嫌になったんですよね、言われた曲ばっかり練習するのが。」
先輩は聞くことに徹するつもりなのか、黙ってこちらを見続けている。
「ある日を境にコンクールの課題曲だけ練習しなさい、テレビ出演の依頼があれば指定された曲を弾いてください、そんなことばっかでピアノを弾くのが億劫になったんです。家で好きな曲を弾けばいいじゃんと思うかもしれないんですが、そもそも家で練習する気力すらわきませんでした。その結果は嫌々出場したコンクールで体が固まって最後には気絶。笑えますよね、さっさとピアノなんてやめればよかったのに…。」
「うん、あたしもそう思うなー。」
悪気もなさそうに先輩はそう答える。
「あたしだったら退屈になったり嫌になったりしたらすぐやめる。でもね、それは俊くんも同じでしょ?」
先輩の吸い込まれそうな黄緑色の瞳が僕をのぞき込む。
「俊くんは昔から今までずっと、ずーっとピアノが好きなんだよね。だからどんなに嫌で辛いことがあってもやめなかったんだよ。」
今まで言い訳してピアノから、そして自分自身からも逃げていた心に先輩の言葉が深く突き刺さる。
「ありがとう、あたしと一緒に演奏してくれて。」
うつむいていた顔を上げると、そこには太陽よりもまぶしい笑顔があった。
「…まだ文化祭は始まってすらないですよ。」
目から雫をこぼさぬよう、声を震わせないよう唇を嚙みながらそう答えた。
「あはは!そうだね。じゃ、練習がんばろー!」
こちらに伸びてきた握りこぶしに、優しく握りこぶしを合わせた。