「えっ……?」
痛みはなかった。
だからこそ理解できなかった、水っぽい音を立てて落ちた“それ”が自分の腕だとは。
「なに、これ……なんで、わた……溶け……」
昨日から変わったことがあるとすれば、一つしかない。
私が創造主を裏切ったからだ。
「――――逃げなさい!!」
最期に飛び出したその言葉が、私の本音なのだとようやく気付いた。
道具には不必要だと目を逸らしてきたこの感情が、私が私だという何よりの証明なのだ。
なんだ、それならもっと……好きな事をしたかったのになぁ。
「大丈夫、大丈夫です! 大丈夫ですから……!!」
身体から黒い水のようなものがあふれ出し、肉体の輪郭が分からなくなっていく。
もうじき自分が自分でなくなるその刹那、掻き消える意識の中で確かにあいつはそこにいた。
逃げろと言ったのに、なんの根拠もなく私を抱きしめたまま。
「……バカね、あんた……本当に、バカッ!!」
――――――――…………
――――……
――…
「ドクター! こっち――――う゛ぇ!?」
「どうしたゴルドロス、納豆にかぶりついた犬みたいな顔をして」
「あ、当たらずとも遠からずカナ……酷い魔力、鼻がひん曲がりそうだヨ!」
街はずれに墜落した大鷲の魔力を辿ってこの採石場までやって来たが、急に魔力の気配が変わった。
煮詰めたドブをさらに腐敗させたような、吐き気がする
今この瞬間だけは自分の感知精度が疎ましい、しばらく鼻の奥にこびりついて取れる気がしない。
「あーね、なんとなく分かるわ。 肌がピリピリする」
「……確かになんとなく空気が変わった気がするな、ここから先は慎重に進んだほうが良い」
「いや、そんな悠長してられないヨ!」
ドクターの忠告を振り切り、一足先に駆け出す。
あの大鷲の墜落もバンクの魔法によって誘導された事象のはずだ、ならば近くに必ずハクがいる。
もし急激な魔力の淀みとハクが関係しているのなら、彼女は今相当危険な状況に置かれているはずだ。
「待て、ゴルドロス!」
「ごめんネ、ちょっと先走―――――えっ?」
立ちはだかる茂みを飛び越し、一際広い採石場の中央に躍り出る。
そこに居たのは大鷲――――だったものを飲み込む、黒い液体の塊だった。
大鷲のサイズは私を3人並べてまだ足りないぐらいだろうか、だが液体の全長はそれをさらに超える。
周りを見渡すが、大鷲が掴んでいたはずの少女も、ハクの姿も見えない。 ならばあの不気味な液体の正体は……
「っ―――――!!」
迷ってる暇はなかった、
まさに今、黒く濁った液体の中へ飲み込まれようとする、白い細腕が。
「ハク、ハク! まだ生きてる!? 今助けるヨ!!」
吐き気を催す臭気の中へ飛び込み、何とか沈み切る寸前にその掌を掴む事は出来た。
だが、ビクともしない。 引っ張り上げるどころか、むしろ私ごと引きずり込まれてしまいそうだ。
「ンギギギギ……!! ドクタァー! 早く来てヨー!!」
「ゴルドロス、一人で先走って何を……誰の腕だ、それは?」
「のんきしてる場合カナァ!? いいから二人とも手伝って!!」
「よく分かんないけど、そう言う事なら私の出番っしょ!」
状況把握に手間取るドクターの背から飛び出したヴィーラが、黒い液体に向けてハンマーを振るう。
彼女が振るう魔法は“拒絶の魔法”、例え目標が液体だろうが構わず吹っ飛ばす。
お蔭で掌以外は埋もれていたハクの姿が、上半身が見えるまで掘り出された。
「チッ、こいつ効き目が悪い……! 今のうちに早く!!」
「これならいける……! ハク、起きてヨ!!」
ハクの身体に纏わりつく液体は吹き飛ばしたはずだが、それでも少しずつしか引っ張り出せない。
執着じみた恐ろしい力だ、私がこれ以上の力で引っ張れば、引き抜くより先にハクの身体が千切れてしまう。
「う、ぐ……ケホッ、ゴホッ! ゴルド、ロス……ちゃん……?」
「ハク! 今助けるヨ、けど何があったのサ!?」
「これは、ネロちゃんが……でも、私……彼女を……」
「……交渉に失敗したってことカナ? なら、残念だけど諦めるしかないネ」
2人の間に何があったかは分からないが、この黒い液体はネロという少女の成れの果てらしい。
既に正気を失っているのか、とにかくこれ以上ハクを液体に浸からせるのはいけない気がする。
「…………ごめんなさい、ゴルドロスちゃん」
「……ハク? 何言ってるんだヨ、まさか――――」
「私はまだ、諦めたくない。 だからお願いします」
掴んでいた掌が、するりと逃げる。
その瞬間を待っていたとばかりに、飛び散ったはずの液体が再びハクに飛びついた。
「――――マスターたちには、謝っておいてください」
逃げた掌を再びつかもうとした私の腕は、ただただ空虚を掴むだけだった。