あいつの置き土産に、誰もが縋りつく。
誰もが恐れている。
素顔を映す水面を。
キヴォトスはドブも同然だ。人の血が流れるドブだ。
いつか下水道が溢れれば、畜群どもは全員おぼれ死ぬだろう。
享楽と破滅に耽ったあげく、己の罪に腹まで浸かった凡人と官僚どもは、天を見上げてこう叫ぶだろう、「助けてくれ!」……
見下ろして私はこう答える、「いやだね」
これまでの道中に選択の余地がなかったとは言わせない。
かつていた先輩のような、まっとうな人間たちの足跡を巡ることはできたはずだ。
日々の労働が糧をもたらすと信じた、まっとうな人々の轍を。
だがあの連中が選んだのは、昨日のような明日だった。
その先に待つのが断崖絶壁だと気付いた時にはもう遅い。
選択の余地はなかっただと、ふざけるな。
今やキヴォトスは崖っぷちから地獄を覗き込んでいるも同然の状態だ。
なのにリベラルなインテリども、あの口先だけの連中は……
口をつぐんだ。
何一つ言葉が浮かばないとでも言うように。
サンクトゥムタワーの窓辺から見下ろすキヴォトスは、美しい造形美を保っているように見えた。
澄んだ空にかかる雲は白く、暗い。
僅かに雨が降っている。
晴れたような空を、確かに。
不知火カヤは口の中で転がした。
それは先ほど口に含んだコーヒーであり、つぐんだ言葉であり、押し殺した感情だった。
連邦生徒会長が失踪してすでに数週間が経過し、情報封鎖も限界に近づいてきている中。
キヴォトスにおける治安維持活動の最高責任者である連邦生徒会防衛室長に対して。
実質的な連邦生徒会のTOPである七神リン行政官が告げたことがあった。
連邦捜査部S.C.H.A.L.Eおよび先生に対して、何もするな、と。
(私を誰だと思っているんです?)
それはヴァルキューレ警察学校およびSRT特殊学園の事後処理の大部分を負う防衛室として、看過しがたい通告だった。
(連邦捜査部S.C.H.A.L.E……人材を独自の判断のもと所属させることが可能で、連邦生徒会の名義のもと、各学区に通告なしでの戦闘活動が可能な組織に、この私に接触するな、と?
SRTの権限を取って食ってついでに足した組織を、ただ放置して後始末だけしろと?)
防衛室はキヴォトス全域の安全保障を担当している。
要は、現場はヴァルキューレやSRTに任せ、その前準備や後始末は防衛室が担っているわけであり。
今回新設されたシャーレとやらの活動も、当然防衛室が後処理することになる。
しかしそれを七神リン行政官は無視して、先生に接触した。
一度ではない、防衛室が接触することを徹底して妨げている。
(シャーレ側からの接触がないことを踏まえると、繋がっていることは間違いないでしょうね)
もともと相反する派閥ではあったが、連邦生徒会長が失踪してからのリン行政官の動きは、明らかに敵対的だ。
それだけならまだよかったのだが……
(あのあいつが、引継ぎに関する文書を一切用意せず、しかも失踪前にこんな組織を用意して……)
連邦生徒会は日和見主義で指示待ちの怠け者しかいない。
(それを異常と思っているのが私だけですか)
飲み込んで、机の淵をなぞった。
隅々まで汚れのない調度品は、手袋をしなければ、触れるたびに汚れてゆく。
そしてその手袋も、やがては洗わなければならない。
不知火カヤは思う。
だれかが立ち上がらなければならない。
だが誰が?
指先はやがて端に届き、滑り落ちる。
そしてカヤは飲みかけのカップを手に取った。
そして、いつものようにコーヒーの香りを楽しむこともなく、飲み干す。
変えなければならないのだ。
今日もまた、何人かの生徒が捕まった。
誰かを傷つけ、誰かが捕まえた。
誰も気にしない。私以外は誰も……
私は間違っているのか?
キヴォトスの限界は近い。
何万もの生徒が死に、生き残った者も飢えと病に苦しむことだろう。
たったひとりの行動に何の意味がある?
あるとも。なぜなら犯罪は悪しき行いだからだ。
悪は罰せなければならない。
アルマゲドンが到来しようと、私は絶対に妥協しない。
絶対に……
変えなければいけないものは無数にある。
……なのに、時間はあまりにも少ない。