月毛の翔馬は夢を届ける 作:種なし米最強馬
東正則がシロハナ牧場を訪れてから、およそ2年を経て。
1993年10月、牧場で馴致などの育成を終えた2歳馬のほとんどは、別の馬主へと売り払われていったなか。
一頭だけポツンと放牧場で佇む2歳馬を、文夫は腕を組んで見つめていた。
やはりこの馬は大物だと、牧場で育成していくたび、目にするだけでもそう痛感するばかりだった。
食欲旺盛で、よほどの事態以外ほとんど動じることなく、泰然自若とした月毛馬。そんな2歳馬に寄せる期待は大きい。
血統的には、カツラギエースが父だというのが気にかかるが、母系にあるシンザンの血がきっとスタミナを補ってくれるはず。もしかしたら、この馬はダービーを勝つのでは――
文夫の中ではすっかり、ランドガーネットの仔の存在が大きくなりつつあった。
放牧場に入ると、月毛の頭を撫でてから、引き綱を持つ。
その意味が伝わったのか、月毛は反抗することなく連れられるがままに、文夫についていく。
「月くん、やっぱり大人しいですよね」
月毛のことがどうにも気にかかったのか、場長の和美は現れるなり、馬の首筋を平手でそっと叩く。
「こんなに大人しいと、ちょっと闘志が心配だけどね」
と、答えれば月毛がぶるると喉を鳴らす。
「おっとごめんよ」
文夫は苦笑しつつ謝罪する。
まるで人間の言葉がわかっているようなこの月毛に、和美は一層笑みを深める。
「そういえば小牧ちゃん、この仔を月くんと呼んでるぐらいには愛着が湧いているみたいだけど……」
「まあ、入れ込んでしまってますよね。自分でも自覚していたつもりではありますが……」
「ははは、月くんは罪な牡だね」
文夫がそう冗談めかすと、和美は苦笑いを浮かべる。
「変なこと言わないで、ほら、連れていきますよ」
和美は親指で馬運車を指し、文夫を促す。
乾いた笑いを零したあと、文夫は月毛に語りかける。
「月くんなら、きっと、大丈夫だ」
馬運車が向かう先は関東方面。そう、美浦トレセンだ。
2歳になり入厩を迎えたこの月毛を、果たして預託先の調教師がどんな目で見るか。
内心で胸を弾ませながら、文夫は馬運車からゆっくりと月毛を引き出す。
「お待たせしました、加賀さ……ん……」
預託先の厩舎の主ともいえる正則は、出迎えたまではいいものの、以前惚れ込んだ月毛馬の変わり身っぷりに、唖然とする他なかった。
確かに毛色は変わっていない。引いている人間に対して顔を寄せているところも、2年前の当歳時代を彷彿とさせる。
だがなんなのだ、この変わりようは。
「……とんでもなく、大きくなりましたね……」
この目から測っても恐らく500キロ台はあるであろう馬体。まさに巨漢と表現できるほどだ。
「食欲旺盛なんですが、ここまで大きくなるとはね……」
あんなにちっこかったのに、と頭を掻いて文夫は呟く。
「これは、ある意味で予想以上ですね……」
はは……と正則は笑うしかなかった。
まさかあんな小さく幼い月毛馬がこうもなろうとは、誰が予想できるのか。
「じっくり仕上げるしかない……」
「いろいろとすみません、東先生……」
「いえ、これほど大きくなるのは流石に予想外でしたので……」
文夫が申し訳なさそうにするなか、正則は頭を抱える。
「……仕上げ的には、デビューは3歳から、でしょうか……」
正則は苦笑しつつ、早めに切り出す。こうしていないとあとあとトラブルになれば面倒なことになるから。
「ただ、足腰はしっかりしてそうなので、調教自体は捗ると思います。
……でかくなりましたね、本当に」
「けっこう食べて成長しましたからね……。
……あ、そういえば」
と、文夫は言葉を続ける。
「馬名も決まりましたので、そちらもお伝えしておこうかと。……父馬から取ったようなものですが……」
「決まっていましたか。では、お願いします」
「月毛というのもありましてね、この馬の名前は――」
――ゲッコウエース。
文夫がその名を告げた瞬間、月毛馬――ゲッコウエースは返事をするようにぶるぶると首を振った。