月毛の翔馬は夢を届ける   作:種なし米最強馬

4 / 8
月に乗る者

 1994年に差しかかってすぐ、シロハナ牧場のオーナーブリーダーである文夫のもとには、ある一報が寄せられた。

 それをもたらした人物というのは、大切な愛馬を預かる調教師、東正則からだった。

 

『すみません、加賀さん。ひとつ謝っておきたいことが……』

 

 そのような前置きをしたあと、正則は嘆息して。

 

『実は……ゲッコウエースのデビュー戦が少しずれ込みそうでして……』

 

「……なにがあったのですか?」

 

 告げられた言葉に、文夫の眉間に皺が浮かぶ。

 自身の愛馬にまさかの事態があったら、堪ったものではない。しかしそういう事態に近い状況に追い込まれているからこそ、こんな連絡をしてきたのだろう。

 最悪の想定を予測しつつも、そうでないことを願うしかなかった。

 

『ゲッコウエース自体にはなにも問題はありません。ただ……』

 

「……ただ?」

 

 胸を撫で下ろし、改めて文夫は問う。

 文夫は内心で、ホッと一息吐く。

 

『騎乗予定だった騎手が、このときになって騎乗停止処分を下されてしまいまして……』

 

 申し訳ないです、と声を震えさせ、正則は続ける。

 

『こちらのほうで騎乗できそうな騎手は探します。ですが……見つからないとなると、デビュー戦は来週以降にずれ込みそうです』

 

「そうでしたか……」

 

 騎手がいないとなると、それこそ競走自体が成立しない。

 もし今週中に騎手が見つからなければ、残念ながら、デビューは遅れるというものだ。

 

『……一応お伺いしておきます。どういう騎手がいいとか、そういった要望はありますか?』

 

「いえ、乗れれば誰でもいいです。こんな状況ですから……」

 

『……ありがとうございます。では、失礼します』

 

 電話を机に置き、文夫は頭を掻く。

 苦しく悶えるような表情で。文夫は大きく溜め息を吐く。

 

「……頼む、見つかってくれ」

 

 

 

 電話を机に置くと、正則は傍らに立つ男性スタッフに声をかける。

 

「見つかった?」

 

 と問われれば、スタッフはただ首を横に振るだけ。

 

「これは……これはいけない……」

 

 ソファに座り込んで、頭を抱え、考える。

 どうする、どうする、どこにいる。

 

ゲッコウエースがデビューする予定のレースは、今週の東京競馬場で行われる3歳新馬。

誰でもいいから鞍上を――

 

「あのー、すみません。東先生、自分、伝手があるんで、一回そこに連絡してみても?」

 

 もはや藁にも縋る想いだった。正則は顔を上げて。

 

「すぐに頼む」

 

 と一言発すれば、声をかけてきたスタッフは一旦この場から離れ、連絡を取り始める。

 

 1分弱だろうか。それほど経たぬうちに、連絡を取っていたスタッフが駆け足で戻ってくる。

 

「東先生! 出れます!」

 

 その一言だけで、正則の表情にみるみる明るさが灯っていく。

 

「本当!?」

 

「はい、本当です! 予定が完全に空いていたみたいで、今週の東京競馬場には乗れるようです!」

 

「よかった……。

して、その騎手は?」

 

「はい、名前は――」

 

 

 

 1994年2月。

 まだまだ終わらぬ冬空を一瞥し、白い吐息を吐き出す。

 東京競馬場、3歳新馬、芝1600m左回り。

 いよいよデビュー戦を迎えようとする愛馬に、想いを馳せて。

 

「よかったですね、予定通りの新馬戦に出れて」

 

 そうやって微笑みかけてくる小牧和美に対して、文夫は苦笑で返す。

 

「なんとかだけどね。とりあえず、彼らに会いに行こう」

 

「はい!」

 

 快活に返答する和美を連れて、文夫は地下馬道に立ち入る。

 そこで待ち受けていたのは、がっしりと筋肉がついた月毛馬と、それを管理する正則、それからもうひとり、騎手と思しき端正な顔立ちを持つ美青年だった。

 

「お疲れさまです、加賀さん」

 

 正則にそう声をかけられ、文夫が軽く会釈をする。

 と、正則は平手で隣に立つ美青年を指す。

 

「ああ、すみません。こちらが鞍上の……」

 

「ええと、はい。騎手の幸久明と申します。今日はよろしくお願いします」

 

 若干堅い印象を受ける肩を震わせ、美青年――幸久明が口を開く。

 

「よろしくお願いします、幸さん。それと、ありがとうございます。遠く関西から乗りに来てくれるとは」

 

「あー……たまたま空いていましたからね……。

 まだデビューしたてですから……」

 

 そう自嘲する久明に、文夫は笑みを深める。

 

「いえ、乗ってくれるだけでもありがたいですよ。前提として騎手がいなければどうにもなりませんから……」

 

 では、と文夫は言葉を続ける。

 

「よろしくお願いします、幸さん」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。