月毛の翔馬は夢を届ける 作:種なし米最強馬
1994年に差しかかってすぐ、シロハナ牧場のオーナーブリーダーである文夫のもとには、ある一報が寄せられた。
それをもたらした人物というのは、大切な愛馬を預かる調教師、東正則からだった。
『すみません、加賀さん。ひとつ謝っておきたいことが……』
そのような前置きをしたあと、正則は嘆息して。
『実は……ゲッコウエースのデビュー戦が少しずれ込みそうでして……』
「……なにがあったのですか?」
告げられた言葉に、文夫の眉間に皺が浮かぶ。
自身の愛馬にまさかの事態があったら、堪ったものではない。しかしそういう事態に近い状況に追い込まれているからこそ、こんな連絡をしてきたのだろう。
最悪の想定を予測しつつも、そうでないことを願うしかなかった。
『ゲッコウエース自体にはなにも問題はありません。ただ……』
「……ただ?」
胸を撫で下ろし、改めて文夫は問う。
文夫は内心で、ホッと一息吐く。
『騎乗予定だった騎手が、このときになって騎乗停止処分を下されてしまいまして……』
申し訳ないです、と声を震えさせ、正則は続ける。
『こちらのほうで騎乗できそうな騎手は探します。ですが……見つからないとなると、デビュー戦は来週以降にずれ込みそうです』
「そうでしたか……」
騎手がいないとなると、それこそ競走自体が成立しない。
もし今週中に騎手が見つからなければ、残念ながら、デビューは遅れるというものだ。
『……一応お伺いしておきます。どういう騎手がいいとか、そういった要望はありますか?』
「いえ、乗れれば誰でもいいです。こんな状況ですから……」
『……ありがとうございます。では、失礼します』
電話を机に置き、文夫は頭を掻く。
苦しく悶えるような表情で。文夫は大きく溜め息を吐く。
「……頼む、見つかってくれ」
電話を机に置くと、正則は傍らに立つ男性スタッフに声をかける。
「見つかった?」
と問われれば、スタッフはただ首を横に振るだけ。
「これは……これはいけない……」
ソファに座り込んで、頭を抱え、考える。
どうする、どうする、どこにいる。
ゲッコウエースがデビューする予定のレースは、今週の東京競馬場で行われる3歳新馬。
誰でもいいから鞍上を――
「あのー、すみません。東先生、自分、伝手があるんで、一回そこに連絡してみても?」
もはや藁にも縋る想いだった。正則は顔を上げて。
「すぐに頼む」
と一言発すれば、声をかけてきたスタッフは一旦この場から離れ、連絡を取り始める。
1分弱だろうか。それほど経たぬうちに、連絡を取っていたスタッフが駆け足で戻ってくる。
「東先生! 出れます!」
その一言だけで、正則の表情にみるみる明るさが灯っていく。
「本当!?」
「はい、本当です! 予定が完全に空いていたみたいで、今週の東京競馬場には乗れるようです!」
「よかった……。
して、その騎手は?」
「はい、名前は――」
1994年2月。
まだまだ終わらぬ冬空を一瞥し、白い吐息を吐き出す。
東京競馬場、3歳新馬、芝1600m左回り。
いよいよデビュー戦を迎えようとする愛馬に、想いを馳せて。
「よかったですね、予定通りの新馬戦に出れて」
そうやって微笑みかけてくる小牧和美に対して、文夫は苦笑で返す。
「なんとかだけどね。とりあえず、彼らに会いに行こう」
「はい!」
快活に返答する和美を連れて、文夫は地下馬道に立ち入る。
そこで待ち受けていたのは、がっしりと筋肉がついた月毛馬と、それを管理する正則、それからもうひとり、騎手と思しき端正な顔立ちを持つ美青年だった。
「お疲れさまです、加賀さん」
正則にそう声をかけられ、文夫が軽く会釈をする。
と、正則は平手で隣に立つ美青年を指す。
「ああ、すみません。こちらが鞍上の……」
「ええと、はい。騎手の幸久明と申します。今日はよろしくお願いします」
若干堅い印象を受ける肩を震わせ、美青年――幸久明が口を開く。
「よろしくお願いします、幸さん。それと、ありがとうございます。遠く関西から乗りに来てくれるとは」
「あー……たまたま空いていましたからね……。
まだデビューしたてですから……」
そう自嘲する久明に、文夫は笑みを深める。
「いえ、乗ってくれるだけでもありがたいですよ。前提として騎手がいなければどうにもなりませんから……」
では、と文夫は言葉を続ける。
「よろしくお願いします、幸さん」