赤い顔で抵抗するロナルドさんの手を引いて、すっかり住み慣れたホテルの一室へ帰ってきた。
そこそこの部屋を取っているので景色は良いのだが、日光は死活問題なのでカーテンを締め切っている。どうしても多少閉塞感があるので、来客があるなら開けておけば良かった。予定には全くなかったことなので仕方がない。
散らかしてはいないけれど、念の為さっと部屋を見渡して、棺が目に入った。うわぁこれ、と思うが今更どうしようもない。ロナルドさんが吸血鬼に棺の場所を聞くのは云々の話を知らないことを祈ろう。お兄様も堂々と棺を持ち込んでいることだし、大丈夫だろう。私としては棺の場所を聞かれるのもやぶさかでないのだが、今は絶対違う。そもそも振られるかもしれない。
落ち着きのないロナルドさんを窓際のソファに座らせ、私もテーブルを挟んだ向かいに。飲み物くらいと冷蔵庫を覗いたが、開封済みの水と血しか無かったので諦めた。
「あの、エリ?」
どうしたものかとロナルドさんを眺めていると、遠慮がちに話し掛けられた。そうだ、話がしたくて呼んだのだから、話さなければ。口を開きかけて、思いとどまる。自分がまともに喋れる状態か不明なのだった。一度スマホで入力できるか試してみるが、もう問題なさそうだ。やっと話せる。
「ロナルドさん」
予想以上に弱々しい声が出た。
「私、別れたくないです……」
疑問の形で問うことすらできなくて、そう言うので精一杯だ。おろしたてのワンピースを握りしめる自分の両手が見えた。
「え、わかっ別れ、なんで……!?」
「嫌わないでくださいっ」
ダメだ、一度泣いたせいで涙腺がバカになってる。そんな泣き落としみたいなことしたいわけじゃないのに。
「嫌わない!嫌わないから!なんでそんなこと……やっぱり俺じゃダメか?愛想尽きちまった?」
沈んだロナルドさんの声に、俯けた顔をなんとか上げる。その拍子にぽたぽたと涙が頬を滑り落ちていった。
「うわーっ、泣かないで!ごめんほんと俺、何もできなくて。今日も全然ダメで」
慌てて立ち上がったせいでテーブルに足をぶつけながら、私のすぐ側までやってくる。痛そうな音がした。
「でも俺頑張るから、別れるとか言わないでくれ!」
跪いて、膝の上の私の両手を取った。思いの外、力強く握られる。いつもと違って低いところにある顔は、それこそ泣きそうな表情をしている。それを見てやっと、私は今から振られるわけではないのかもしれないと思い始めた。
「私のこと嫌いになってないんですか?」
瞬きの度に涙が零れるので、視界は朧気だけど、この距離なら表情まで確かに分かる。嘘も誤魔化しも感じない。
「なるわけないだろ、なんでそんな、あっもしかしてY談のあれ気にしてるのか?」
今ようやく私が泣いている理由に思い当たったらしい。少し余裕が出来たのか、痛いくらい握りしめられていた手を片方離して、涙を拭われる。温かい手が心地よかったので、私はされるがままだ。
「そりゃ驚いたが、むしろ嬉しかったというか。いやっその、俺けっこう好かれてるんだなと思ったという意味で!」
私の面倒をみながら焦るという、少々器用なことをロナルドさんはしている。
「じゃあ帰り道ぎこちなかったのは?」
「うぐっ!あー、だってあんなこと言われたら意識しちまうから」
申し訳なさそうに目を逸らし、そう言った。ちょっと気まずかっただけらしい。私の考えすぎだったのか。
「……別れない?」
念の為尋ねると、何度も頷いて必死に肯定されてしまった。
「そっか。よかった」
安心して、私は笑った。今度は自然に笑えたので、ロナルドさんもそれを見て気が抜けたようだ。
しかし、安心したらしたで泣けてきたので、依然涙は止まらず。笑ったままボロボロ泣いている私に、彼はまた慌て始める。
「うーん、涙腺壊れたまま戻らないのであやしてください」
両手を広げて抱き締めてくれとアピールすれば、困惑したまま胸元に抱き寄せてくれる。あやしてと言ったからか、寝かし付けるみたいに背を撫でるオプション付きだ。それが擽ったくててクスクスと笑いが零れた。
「今日は本当に悪かった。俺が近くにいながらエリのことちっとも守れなかった」
自責たっぷりの声が頭上から降ってくる。やはり、相当気にしているらしい。
「ロナルドさんが好きでいてくれるなら、私はそう気にしてないんですけどね。そうは言っても気にするんでしょ?」
見上げれば難しい顔をしている。やはり納得できないみたいだ。
「私がなにかお願いしますから、それ聞いてくれたら許します。ちゃんと罰則になるようなの考えておきますね」
ロナルドさんはそこまで言ってやっと頷く。このひとも中々に不器用だ。私が泣きっぱなしなので、余計に責任感じているのかもしれないけれど。
「今はまず私のこと泣き止ませてください」
熱い指が目元を擦った。
さて、私がなんとか泣き止む頃にはすっかり空気も弛緩していた。目元を抑えながら、これはさすがに明日腫れるかもしれないと思う。というか、化粧が大変なことになっているんじゃないか、これ。鏡見るの怖すぎるな。恋人の前でその顔を晒してるのはもっと怖い。
「どうした?」
突然両手で覆って顔を隠しはじめた私に、ロナルドさんが不思議そうにしている。その間も彼の片手は私の髪を梳いていた。
ちなみに私の現在地は膝の上だ。ソファに座ったロナルドさんの上に横向きに座って体を預けている。普段の彼なら絶対にこうも落ち着いてはいられなくなっているだろう密着度。恐らく、私を慰めている間に距離感が麻痺した。
「私、不細工になってません?すごく泣いてしまったので」
わりと切実に言ったのだが、ロナルドさんはそれに笑った。
「エリはいつだって可愛いよ」
よく出来た口説き文句のような言葉が、あまりにも自然に出てきて驚いた。思わず手を外し顔を見れば、ひどく穏やかな顔をしている。今度は驚き過ぎて頭が真っ白になった。
ところで「可愛い」とは「愛せる」と書く。由来など難しいことは置いておいて、そう読める字で出来ている言葉だ。つまりなんなのかって、ロナルドさんにそう言われたように感じたのだ。「いつだって愛してる」と。突飛な発想をしているのは分かっているけれど、私がそう思っても仕方ないような表情をしていた。
声にならない声を上げながら、散々泣きついた身体にぎゅっと抱き着く。顔が熱くてしかたなかった。
「わっ、なんだよ。そんなことしなくても本当に可愛いって」
どうやら私が泣き腫らした顔を隠したいからこうしたのだと思っているらしい。あんな顔をしておいてどうして自覚が無いのだ!
何も言えないまま頭を擦り付けると、ロナルドさんが擽ったそうに笑う。そして、宥めるようにまた頭を撫でるのだ。いつもの女慣れしていない彼はどこに行ったのか。顔が茹だったまま一向に戻らない。
「そういえば」
思い出した、というようにロナルドさんが呟く。
「……なんです?」
顔は上げないまま、お腹に向かって私は話す。まだちょっと無理なので。
「エリって俺の血吸いたいのか?」
「え゛っ」
思わず可愛くない声が出た。
このひと、それ私がY談しか話せなくなっているときに言ったことだって分かっているのか。つまり、その、そういうことだぞ。わりと。そんな軽い調子で出して良い話題ではないと思う。
「覚えてたんですか……」
「そりゃまぁ、忘れようもない無いというか」
確かにあそこまで印象的なことを忘れているというのは、希望的観測すぎた。話の内容がそもそも頭に入っていない可能性は少しあるかと思っていたのだが。
「うーん、その、正直なところかなり」
「そうなのか。言われたことないから、俺の血は欲しくないのかと思ってたぜ」
「欲しくないわけないじゃないですか!好きなひとの血ですよ。でも、人間にこういうこと言うと引かれるって聞くし……」
何これすごい恥ずかしい!しかも、ロナルドさんにそんなつもりは一切無いのが辛い。
「吸うか?」
はぁ!?この男!!ほんと!!もうっ!!なんでそういうこと言うの!!!
私が言葉を失っている間にロナルドさんがゴソゴソと動く。何だと窺えばシャツのボタンを外していたので、飛び上がって膝から落ちた。
「大丈夫か!?」
「なにしてるんですか!?」
「え、血を吸うのってこの辺からじゃねぇの?」
ロナルドさんが自身の首筋を指さしながら言う。
どうして私が頷く前に準備しているんだこのひと!いや、違う、そういう問題でもなくて。
でも、血は本当にすごく欲しい。これ、このまま頂いても良いのでは?私たちは確かに恋人なわけで、吸血にそういう意味が混じったって別に問題ない。
ロナルドさんが良いと言うなら、私に拒否する理由は全く無いのだ。ずっと欲しかった。気付かれないようにしていたけど、仕事で咬まれてくればその度に嫉妬で煮え立っていた。私の恋しいひとなのだ。私のものだ。それをどうして他所の吸血鬼なんかにやらなければならないのか。血の一滴まで譲りたくない。本当は彼のすべてが欲しい。
そういう激情を抑えて、怪我の多い職業の彼から血を貰うのはなと遠慮していた。引かれたくない、嫌われたくないというのも、もちろん本当だけれど。
「えっと、つまり、私が血を吸うのは構わないんですね?」
「おう、いいぜ!」
元気よくロナルドさんが答える。
私はなんだか腹が立ってきた。今までの我慢はなんだったのか。能天気に笑う彼に苛立つし、もう、シャツを着てるのもイライラする。いつも私服はTシャツが多いのに、どうして今日に限ってボタン止めの服を着ているのだ。
吸わせて貰おう。本人も言っているし、良いだろう。
「分かりました。じゃあお言葉に甘えます」
床から立ち上がって、膝の上に座り直す。けれど、今度は向かい合うように脚を跨いで座る。スカートだったので捲れて脚が覗いてしまっているが、まぁ些事だ。
「この体勢はちょっとやめない?」
ロナルドさんが控えめに提案してくるが、もちろん無視する。
無防備な筋肉質の首筋をなぞりながら、認識を訂正しにかかる。このまま軽い気持ちで言われてたんでは私が参ってしまう。
「その前に知っておいて欲しいんですけど」
「お、おう」
さすがに私の異変を感じたのか、ロナルドさんが気圧され気味だ。
「ロナルドさんの血が欲しいというのは、何も食欲だけで言ってるんじゃないんです。高等吸血鬼は、いや、他の
じっと目を合わせて、講義する。察するなんてのは期待すべきでないと私は学んだので、間違いのないように。
「そういう気持ちってのは……」
ロナルドさんが息を呑んで言う。わからず屋だなこのひとも。あ、いや、違うかな。目の奥に欲が揺らいでいる。
腰を上げて顔を寄せる。唇を軽く食んで、また膝の上に戻ってきた。
「こういうのです」
じわじわと赤くなる顔を見つめる。今更目を逸らすのは許さない、とそういう気持ちで。
「分かりました?」
「わかった、けど」
ここまで来て戸惑うらしい。そういうところなのだよな、好きだからいいけど。
「やめます?」
「いや、やめない。エリが欲しいって言うなら」
発破をかけるつもりで言ったことに、思わぬ返答が帰ってきた。
私は思わず微笑んで、首筋に唇を寄せた。
体温の高い体をひと舐めする。少ししょっぱい。ロナルドさんは思わず身じろいだが、それだけだった。
これだけ密着しているから、体が強ばっているのくらい分かる。心音が早いのも、いや、これは私の心臓かな。興奮と緊張と、その他色々ごちゃ混ぜで、私も冷静なんかではない。当たり前だ。
咬むのを少し戸惑っていると、ロナルドさんに背を撫でられた。これ、彼のことうっかり吸血鬼にしないよう気を付けないと。そんな大切なこと先走ってしまうのは絶対にダメだ。
愛しさ余ってやってしまわないよう心して、牙を突き立てる。傷口から血を吸って、舐める。今まで飲んだどんな血より甘美だと思うのは、きっと、ロナルドさんの血だからで、これが直接許された行為だからなのだろう。一滴も零さないよう、血が止まってしまうまで舐めとって、唇を離した。
頭がクラクラする。酩酊感が恐らく近くて、しかし、間近に見える顔はしっかり捉えられている。その熱っぽい昼空も。
「キスしたい」
呟いたまま実行しようとしたところを、ロナルドさんに口を抑えて引き止められた。
「待て、それはまずい!」
慌てている様子の彼に不服を示しながらも、一先ず膝の上に戻る。私の口を抑える鬱陶しい手は、ちょっと舐めると慌てて離れていった。
「じゃあ、ロナルドさんがキスしてください。3回」
「3回!?なんで!!」
「私のことまた『エリさん』って呼んだから」
オータム書店でのことである。私はあれもちゃんと数えているのだ。エリーちゃんは有言実行の女。いや、約束は私がキスするだったか。……誤差だな。
ロナルドさんはまだ折れない様子。
「あれ、使いましょう。さっきの。お願い聞いてくれるって言いましたよね?だから、キスしてください」
「他のことに使えよそれ!なにもこんなことに使わなくても」
こんなこと呼ばわりは、少々癪に障る。私には切実なことなのだから。
「嫌がっていることに使わないと罰則にならないでしょ」
「嫌なわけないだろ!」
「もー、何が不満なんですか」
「だから、その、止まれなくなるから」
「いいですよ」
「えっ」
「いいです。止めなくて」
ゴクリとロナルドさんの喉仏が動くのを目で追う。
もう一度顔を寄せて、至近距離で見つめ合う。だいたいそんな目してるくせに、おさまりが着くのか。私もそう変わらないんだろうけど。
「ね?お願い」
【エリー】これからロナルドの血を吸う度に健康的になっていっているのを感じるものだから、兄の顔が過ぎるのが悩みになる。
【ロナルド】機微まで分かっていないので、エリーが血を飲んでいるところを見るたびに微妙な顔をするようになる。これは、浮気?純然たる食事です。